エクリプス神殿
【お知らせ】本作は、以前この「小説家になろう」に掲載していた同名作品を全面的に改稿したものです。最終話まで書き上げたうえで、毎日更新でお届けします。以前お読みくださった方も、初めての方も、あらためて楽しんでいただけましたら幸いです。
死が、迫っていた。
巨大な暗緑色の魔物が宙を舞い、鋭い爪を振り下ろそうとしていた。
逃げ場はない。あと一瞬で、物部理一郎の命は刈り取られる。
だが、その刻――。
世界が、変わった。
理一郎の脳内の情報処理速度が爆発的に加速し、主観時間が飛躍的に引き延ばされる。
魔物の動きがスローモーションのようになったと思うと同時に、突然、光る文字が視界に浮かび、魔物の姿に重なった。
x(t)=x₀+vt
等速直線運動の式。
物体が一定の速度で直線上を運動する場合の、時間と移動距離の関係を表す数式モデルだ。
速度を表すパラメーターvが明滅している。
まるで、操作を促すかのように。
理一郎は直感した。理由はない。
ただ、そのパラメーターを書き換えられると確信した。
vをゼロに変更する。
同時に、無意識に言葉が口を突いた。
「その理に、従え!」
次の瞬間――。
奇跡が起きた。
何の障害物もないのに、魔物は空中で完全に静止した。慣性がその場で断ち切られ、見えない壁に縫い止められたかのようだった。
今度は違う数式が視界に現れた。
F=ma
ニュートンの第二法則。
物体に働く力と質量、加速度の関係を表す物理学の基礎方程式だ。
今度は加速度aが明滅していた。
それをゼロに書き換え、再び唱えた。
「その理に、従え!」
魔物は完全に動けなくなった。
四肢はもがくように震えている。だが、重心の位置だけが、空間に縫い止められたように一ミリも動かない。
物理法則そのものを書き換えられたその一点では、魔物の運動は世界に許されていなかった。
周囲から驚嘆の声が上がる。
(なに!?)
(信じられない!)
(あれは一体、何魔法なの!?)
彼にとって、それは魔法ではない。
今まで研究してきた物理学の一部だった。
――観測できるものは、記述できるはずだ。
それが理一郎の信じてきた万物の理だった。
この世界は、彼にとっては異世界だ。
その異世界の理を、方程式によって支配する――そんな力が自分に宿っている。
そのことに一番驚いているのは、理一郎本人だった。
* * *
その前日。
理一郎は、わずかな私物を詰めた段ボール箱を抱えてキャンパスをふらふらと歩いていた。
ぼさぼさの白髪頭を、盛夏の陽光が容赦なく灼く。
彼は、長年勤めた大学の助教職を、ついさっき解雇された。
この世のすべてを記述可能な世界方程式――その完成まであと一歩だった。先端的かつ独創的なその理論は、完成すれば現代物理学最大の課題を解決するはずだった。
だが、一番の理解者だと信じていた理学部長に、研究を丸ごと奪われた。
理一郎の痕跡をすべて消した上で自らの名でプレプリントを公開し、理一郎を大学から追放したのだ。
すべてを理学部長任せにしていた理一郎には、学会にも界隈にも何の人脈もない。四十二歳の研究しか能のない男にとっては、物理学者としての生命を絶たれたも同然だった。
何をどうしていれば、こうならずに済んだのだろう。
この世をうまく生きられる方程式。そんなものはあるのだろうか。そして、その方程式には解はあるのだろうか。
そんなことをぼんやり想っていた時、突然、閃光に包まれた。
あまりのまぶしさに、思わず目を閉じた。
* * *
同じ頃、異世界の空。
太陽が二つの月に両側から食まれていた。
千年に一度の特殊な皆既日食――『三星蝕』だ。
太陽は左右から少しずつ欠け、辺りは次第に暗くなり、大気が冷えていく。
深い森の奥、苔むした古代神殿の中央。
白いフードとローブを纏った教会魔導士たちが、巨大な魔法陣をぐるりと囲み、低い声で呪文を唱和している。
少し離れた祭壇では、五十代の男二人が儀式を見守っていた。
一人は、背が高く痩せぎすの高位聖職者。
もう一人は、小太りの短躯を豪奢な軍礼服に押し込んだ貴族。
やがて二つの月が重なり、太陽を完全に覆う。
神殿が闇に呑まれる。
同時に、魔法陣に刻まれた文字と線が、青白い光を帯びはじめた。
その輝きは文様をなぞるように走り、明るさを増しながら中心へと収束していく。
そして、すべての光が一点に重なった瞬間――魔法陣の中心が爆発的に煌めいた。
烈しい光の放射に、その場の誰もが顔を覆う。
輝きが収まっても、魔法陣は燠火のように仄かに明るんでいた。
そこに、よれよれの白衣を着て段ボール箱を抱えた男――物部理一郎が、呆然とたたずんでいた。
教会魔導士たちの低いどよめきが、静寂を破った。
* * *
理一郎が目を開けると、風景が一変していた。
なにしろ暗い。
光を感じて空を見上げると、太陽がおかしな具合に欠けている。初めて見る天体現象だった。
足元では、石の床に刻まれた紋様がぼんやり光っている。
着衣は変わらず、段ボール箱もちゃんと抱えている。主観時間は連続しているが、時空的には連続していない。
目が暗さに慣れると、反射的に全身の筋肉が硬直した。異様な風体の集団に、ぐるりと周りを取り囲まれていたのだ。
その輪を割って、二人の男が近づいてきた。
その一人、高位聖職者らしき壮麗な法衣姿の男がにこやかに微笑み、手を差し出す。
「異世界の勇者殿よ。聖なる星神アストレリア様の統べる世界へ、ようこそ参られた。どうか汝に与えられし使命を全うされよ」
言語は理解できたが、意味がさっぱりわからない。
「ここは、どこだ?」
理一郎は差し出された手を無視し、二人に一歩詰め寄った。
ほぼ同時に、軍人の後に控えていた護衛騎士が抜刀して飛び出し、理一郎を制する。
「控えよ! この方は高貴なるヴィクター・フォン・モンフォール侯爵閣下! エルデニア王国が軍務卿であらせられるぞ!」
聖職者の従者も口をそろえる。
「無礼は改めなさい! こちらは統一教団内でも優勢を誇るアストレリア教会の教主、星神の僕、イグナティウス大司教様です!」
周りを囲む教会魔導士たちが、一斉に杖を理一郎に向けた。
だが、それはただのポーズだろうと理一郎は推論した。わざわざ召喚した相手を、状況確認もせずに殺すとは考えにくい。
「俺を拉致しておいて無礼とは非論理的だな」
軍務卿が騎士を下げさせ、演説めいた説明を始めた。
「今、我が王国は未曾有の危機を迎えておる! 蛮族の擬人どもが、こともあろうに魔法攻撃の無効化に成功したのだ――」
演説めいた説明は長々と続いたが、要するにヒト族と敵対する『擬人族』なる知的生命体が、魔法の無効化技術を開発しつつあり、魔導兵中心の王国軍の優位が危うい。そこで、対抗戦力として〝物理最強の勇者〟を召喚した、ということだった。
――魔法?
〝物理最強の勇者〟にも引っかかったが、それ以上に〝魔法〟にインパクトがあった。
どうやらここはいわゆる異世界で、しかも魔法が実在するらしい。
「実に興味深い理だ」
思わずつぶやいた言葉の意味を、軍務卿は勘違いした。
「そうであろう! 貴公は〝物理最強の勇者〟として、擬人族どもを蹂躙するのだ! そして、貴公の身体能力を最大化するため、肉体を最良時の状態に――貴公の場合は十七歳の時であるな――復元して召喚した」
――復元? 若返ったということか?
確かに歯も腰も痛くない。声にも張りがある。試しにメガネを外してみると、矯正しなくてもよく見える。レンズはいつの間にかなくなっていた。
あわてて段ボールに手を突っ込み、スマホを掴む。電源の入っていない黒い画面に映っていたのは、紛れもなく高校生の頃の自分だった。髪はボサボサだが、黒くてふさふさしている。
この頃のことは思い出したくない。高校生活は嫌なことばかりだった。
だが、健康になったのはありがたい。幸い四十二年間の記憶と知識は失われていない。であれば、四半世紀分の時間が人生に加算されたことは僥倖かもしれない。
自分の知る理論では説明できない数々の事象が、この世界では現実になっている。
「説明を求める。俺をどうやってここに転移させた? 使用した技術体系は? 可逆性は――つまり帰還は可能なのか?」
イグナティウス大司教が、大げさに肩をすくめて首を振った。いかにも申し訳ないと思っている風のアピールをしてるのが見え見えだ。
「ああ、勇者よ、星神の深遠なる摂理により、我らはここに厳粛なる真実を告げ知らせよう。汝を元の世界へと送還することは、もはや我らの力の及ばぬところなり――」
聖職者は長広舌を振るいはじめた。
要するに、三星蝕という千年に一度の特別な天体現象がトリガーとなり、この神殿が千年かけて蓄えた膨大な魔力が解放され、召喚が行われた。送還も理論的には可能だが、次に同じ条件がそろうのは千年先だということだった。
魔力とは、エネルギーの一種だと推論できた。確かに、多元世界間を移動するには、時空の大規模構造に影響を与えなければならない。必要なエネルギーは、人類の科学技術レベルでは到底賄うことができないほど膨大だろう。
――帰還は不可能か。
考え込む理一郎を見て、軍務卿の従卒が勇者としての破格の待遇を得々と並べ立てる。
そんなものはどうでもよかったが、魔法が存在し、別の世界から人を呼ぶ技術まで実用化されているこの世界に、興味が湧いてきた。
理一郎の心の天秤は、次第に提案を受け入れるほうに傾きつつあった。
――戻ったとしても、どうせ、もう何もない。
* * *
三星蝕が終わりに近づき、太陽が輝きを取り戻すと、魔法陣の上に立つ理一郎の姿が明らかになった。同時に、周りを囲む者たちがざわめきはじめた。
(ずいぶん脆弱そうな体だ)
(とても精強には見えないぞ)
(あれは本当に勇者なのだろうか?)
それは理一郎自身の疑問でもあった。
大司教に問う。
「『物理最強の勇者』とは、どう定義される存在だ?」
「拳の一撃で敵の防壁を砕き、邪悪なる存在を殲滅する者。あらゆる物理的攻撃の頂点に立つ者。我らの希望の光となりて、暗黒を払う剣たる者――」
理一郎は額に手を当てながら、大司教の言葉を遮る。
「待て。前提が誤っている。誤った前提に、正しい結論は宿らない。それがこの世の理だ」
大司教の眉間に深いしわが寄った。
「俺は物理学者であり、暴力装置ではない。運動は不得手で、身体能力は統計的に平均以下だ」
軍務卿は内心の動揺を押し隠すようにまくし立てた。
「も、問題なかろう。異世界人の能力は、我らの世界では数十倍に増幅されると、古代の文書に書かれておるのだ」
大司教は、従者が差し出した簡易鑑定板を理一郎にかざす。
表示されたのは王国の平均的な成人男性よりも少し多い程度の数値。
増幅されてさえそれでは、元はどれほど虚弱だったかが知れる。
「大司教、どういうことであるか!」
モンフォール軍務卿が狼狽をあらわにした。
だが、大司教は鑑定結果の中に一つ、気になるものを見つけていた。この世界には存在しない能力値のためか能力名が文字化けしているが、その数値は七桁に近い。この世界ではどのステータスであろうと、四桁を超えることはない。
――血筋と肩書きばかりの愚鈍にわざわざ教えてやる必要はないな。
大司教はその異常なステータスについては触れず、その場に理一郎を残し、祭壇に軍務卿を連れていった。
* * *
祭壇ではとんでもない相談が始まっていた。
そもそもこの召喚は、軍務卿と大司教の独断だった。
軍務卿は血統と政治工作だけで地位を得た凡庸な侯爵で、対擬人戦の切り札を手に入れることで宮廷での地位を高めたかった。
大司教はアストレリア神の主神化を図る一派を率いており、奇蹟を起こして教団内の主導権を握りたかった。それは教団の理念に反する行いだった。
二人の思惑が一致して、宮廷にも教団にも秘密裏に召喚が行われたのだ。
従者が可能性を述べた。
「『物理的に最も秀でた者』を表す式が、『物理学に最も秀でた者』と誤訳されてしまったのかもしれません」
軍務卿の顔が真っ赤になった。
「明らかに教会の落ち度ではないか! 宮廷には無断で神殿の魔力を解放したのだぞ。公になればどれだけの咎を受けることになるか――」
大司教はこともなげに言った。
「なかったことにすればよろしい」
「なに?!」
「我々はここにはいなかった。この神殿の魔力は三星蝕がきっかけで勝手に解放されてしまった。あの者は我々とは無関係」
「であれば、あの役立たずは始末せねばなるまい」
彼らの立場からしてみれば、当然あるいは必然の結論だろう。
だが、大司教は理一郎の謎のステータスを思い浮かべていた。
「我らの都合で呼びつけた者を我らの都合で殺めたとあれば、さすがにアストレリア神もお許しになりますまい。学者だと言うなら、言い含めて学都ミレトスにでも放逐しては?」
「あやつが口を割らぬとは限らぬではないか」
「召喚に関わるすべての記憶を消してしまえばよろしい」
軍務卿はしぶしぶながらも承知した。
* * *
大司教は理一郎の前に戻ると、にこやかに切り出した。
「誠に残念なことだが――」
口調が変わった。その変化に嫌な予感がする。
「星神の御心とは齟齬があった。汝は『物理学に優れた学者』であり、我らが求めた勇者ではないのだ。学都ミレトスこそが、汝の才を活かせる地であろう」
「待て。俺を呼んだのは君らだ。ここが因果律の存在する世界なら、俺を保護する責任は君らにある」
「すべては星神アストレリアの御心のまま。我らは汝の旅立ちを見送るのみ」
「非論理的だ――」
「黙らんか!」
なお食い下がる理一郎を軍務卿が遮り、護衛が腕をひねり上げてひざまずかせた。
まったく身動きできない。この世界に来て初めて命の危険を感じた。
――そうか。ここは日本ではない。
「生きていたいなら、ここでのことはすべて忘れるのだ。もしも口外したことが我が耳に入った時には、最も残虐な刑に処してやろう」
さすがに四十二年も生きていれば、うなずく以外に解がないことはわかる。
抗議する間もなく、従者の一人に手をかざされ、ほぼ同時に意識を失った。
こうして理一郎は睡眠魔法をかけられた後、記憶消去の『呪い』と、ミレトスに行けという暗示を与えられ、わずかな支度を持たされて馬車に押し込められた。
その馬車を見送りながらイグナティウス大司教が従者にささやく。
「あの者は魔力に似た未知の力を膨大に備えている。うまく我らに取り込めれば、何かの役に立つかもしれない。監視を付けよ」
「保護もいたしますか?」
「せずともよい。生き延びられないのであれば、それもまた星神様の定めであろうよ」
* * *
睡眠魔法の深い睡りの中、理一郎は馬車に揺られていることすら気づかない。
奪われた研究、異世界への勘違い召喚、そして理不尽な追放……。
すべてを奪われた天才物理学者はまだ知らない。
失ったはずの世界の先に、まだ記述されていない理が待っていることを。




