奪還作戦会議
学都襲撃から三日が経過していた。
焼け落ちた建物の瓦礫はまだ片付けられておらず、煤けた壁や焦げた木材が街のあちこちに残されている。だが、学都の市民たちは懸命に日常を取り戻そうとしていた。
司政庁の地下、尋問室。
薄暗い部屋の中央に、意識を失った男が椅子に縛り付けられていた。銀髪は乱れ、かつての威厳は跡形もない。王立アカデミア魔法院の元院長、アハーブ・ギデオン。傷は治癒済みで、今は眠らされている。
その隣には、頭巾を被った人影がもう一つ。擬人族の捕虜だ。学都襲撃の際に捕縛された工作員の一人で、こちらも睡眠魔法をかけられている。
理一郎は壁際に立ち、静かにその光景を見つめていた。肩にはリリス、傍らにはラランドランドララと、警備局長の姿もある。
「それでは、始めようかの」
リリスが飛び立ち、ギデオンの頭上で羽ばたいた。
「まずは、こやつからぢゃ」
小さな手がギデオンの額に触れる。
リリスの瞳が紅く輝き、その光がギデオンの頭蓋を透過するかのように内部へと沈み込んでいった。
情報の悪魔による脳内探査。対象の記憶を直接読み取る、リリスが最も好む行為だ。今回は対価を求めるどころか、自ら役を買って出た。
数秒の沈黙の後、リリスが口を開く。
「ふむ……、なるほどのう」
「なにがわかった?」
理一郎が問う。
「こやつは『理の書』の所在を知らぬ。受け渡しの際に裏切られ、刺されて意識を失ったからの。ぢゃが、擬人族との十年来のつながりについては詳細に記憶しておるぞ」
リリスは楽しげに鼻を鳴らした。
「学都内部の防衛情報、巡回ルート、警備の穴……、すべてこやつが流しておったのぢゃ。地下トンネルの掘削拠点の一つとして、あの骨董屋を手配したのもこやつぢゃ」
ラランドランドララの表情が曇った。
「十年も前から……。私の目の前で、ずっと」
「お主を出し抜きたかったようぢゃな。千年以上を生きるエルダーエルフには永遠に勝てぬと悟り、禁忌に手を染めた。対魔法技術や外法の実験材料などと引き換えに、学都を売り渡しておったのぢゃ」
理一郎は黙ってギデオンの顔を見つめた。
嫉妬と絶望。それが一人の優秀な魔導士を破滅へと導いた。
理一郎には、他人事とは思えなかった。
「ギデオンからはこれ以上の情報は得られぬ」
リリスが手を離し、喜々として次の捕虜へと向かう。
「さてさて、こちらのほうが面白そうぢゃのう」
頭巾を被った擬人族の捕虜。意識を失っている今、擬態は解け、本来の姿に戻っている。
「人類とは異なる精神構造……。妾のような情報の大悪魔にとって、これほど知的好奇心をくすぐられる対象はそうそうおらぬ」
リリスの声には、隠しきれない興奮がにじんでいた。
紅い瞳が再び輝く。
今度は時間がかかった。リリスの表情が次第に険しくなり、時折眉をひそめる。
やがて、リリスは大きく息を吐いた。
「……なるほど。面白い構造をしておる。ヒトとは根本的に情報の格納方式が異なるのぢゃ」
「読み取れたのか?」
「無論ぢゃ。妾を誰だと思っておる」
リリスが理一郎の肩に戻り、報告を始めた。
「敵の拠点は『大地溝帯』の断崖に穿たれた地下要塞ぢゃ」
「大地溝帯?」
理一郎が聞き返す。
「この大陸を南北に貫く巨大な裂け目だよ」
ラランドランドララが説明を加えた。
「学都から東へ馬車で七日ぐらいの距離かな。広大な荒れ地を切り立った断崖が裂き、その深さは場所によっては千メートルを超える。その先もいちおう王国領だけど、住むには過酷すぎるから人はいない。事実上の国境だね。隠れ家には最適というわけだ」
「早馬なら三日半――。もう着いている頃か」
リリスが続けた。
「奴らは『前進基地』と呼んでおるぞ。正面には堅牢な対魔法防御が施されておる。通常の魔法攻撃では歯が立たぬぢゃろう」
「具体的な内部構造は?」
「この捕虜は下っ端の下っ端ぢゃな。詳細までは知らされておらぬ。ぢゃが、基地が断崖の内部に造られておることは確かぢゃ。地下深くまで掘り進められた、蟻の巣のような構造らしい」
理一郎はあごに手を当てて考え込んだ。
断崖に穿たれた地下要塞。正面からの攻撃は困難。内部構造は複雑。
単純な力押しでは攻略できない。別のアプローチが必要だ。
「『理の書』の保管場所は? 奴らは封印を解く方法を知っているのか?」
「どっちも不明ぢゃ」
理一郎は小さく舌打ちした。
肝心の情報が得られない。だが、拠点の位置が判明しただけでも大きな前進だと思うことにした。
「じいさんを使うか?」
リリスが問う。
因果の悪魔であるラプラスの老魔は、過去から未来までを見通す力を持っている。その力を使えば、『理の書』の正確な所在がわかるだろう。
だが、理一郎は首を振った。
「じいさんに頼るには相応の対価が必要だ。いざという時まで使うつもりはない」
「賢明ぢゃな」
「だが、急がなければ。奴らが封印を解く可能性はゼロではない」
ラランドランドララがうなずいた。
「とりあえず、これで作戦立案に必要な情報はそろったね。会議室に移動しよう」
* * *
司政庁の会議室。
大きなテーブルの上座にはラランドランドララ。その左右に、警備局長マルクス・グラディウスと、宮廷魔導師団長バルドリックが座っている。
バルドリックは、王都からの増援として一個中隊の宮廷魔導士を率いて学都に到着していた。
テーブルの反対側には理一郎、アリア、カイラ、マリエル、メリッサがいる。
「では、作戦を立てよう」
ラランドランドララが地図を広げた。
大陸の東部、学都から東へ延びる街道の先に、南北に走る巨大な裂け目が描かれている。大地溝帯だ。
マルクスの指が、その一点で止まる。
「敵の拠点はここだ。守備側に利のある立地だな。正面突破は、時間と犠牲に見合わん」
そこから先、マルクスの手際は速かった。誰をどこに置き、どの順で動かし、どこから増援を引くか。指が地図の上を滑るたび、方針が一つずつ形になっていく。
陽動と潜入の二段構え。宮廷魔導師団と学都騎士団の騎竜隊が正面から攻めかかり、その隙に少人数の班が側面から入る。対魔法防御が上空にも及んでいる恐れがあるため、飛竜は低空へ降りず、射程外からの攻撃に徹する。地上戦力には辺境騎士団を充てる。国境警備を任務とするこの部隊は大地溝帯に近い南方高地に駐屯しており、王都から本隊を待つより遥かに早いという。
「出動要請は、私の名を出してね」
ラランドランドララが言った。
「軍務卿もむげにはできないはずだよ」
マルクスがうなずき、それから理一郎に目を向けた。
「問題は潜入だ。基地側面の断崖は厚い岩盤で、通常の手段では突破できん。物部殿、あなたの魔法ならば通過できると聞いたが」
「可能だ」
理一郎は短く答えた。
「詳しい原理は省くが、俺の物理学魔法で岩盤を通り抜けることができる。ただし、相当な集中力を要する。通過中に妨害を受ければ全員死ぬ」
「おいおい、どうにも物騒だな」呆れたように首を掻きながら、カイラが突っ込んだ。「なあ、もっと楽な手はねえのか。こう……パッと移動する魔法とかよ」
「転移魔法のこと?」
総長の横に控えていたソフィアが答えた。
「あれは転移元と転移先の両方に設備が要るのよ。まさか前進基地には設置できないでしょう」
「総長は時空魔法が使えたよな」
「小規模な瞬間移動ならね。でも、五人もの大規模転移は手に余るよ」
ラランドランドララが肩をすくめる。
「それに――」理一郎が冷静に推論した。「対魔法防御がある限り、魔法では侵入できない可能性が高い」
「ニャア〈ボクなら、キミたちの位置を記述する波動関数を操作して、基地の中に現れる結果を選べるニャ〉」
唐突に、理一郎の目の前に青紫色の毛並みの猫が現れた。
たしかに、この妖猫なら可能だろう。通常なら無視できるほど小さな可能性でも、ゼロでさえなければ、こいつは結果として選び取れる。対魔法防御の干渉も受けない規格外の能力だ。
だが、理一郎は即座に首を横に振った。
「却下だ。お前の力は使わない」
「なぜだ? リチローの従魔なんだろ」
カイラが尋ねる。
「こいつの対価は、俺自身の生死だ。これだけ大きな結果を選ばせれば、代わりに俺が死ぬ可能性も高くなる。基地に入れても、そこで俺が死んだら作戦は失敗だ」
理一郎の説明に、その場の全員が息をのんだ。
「俺が使おうと思っている物理学魔法にも危険はある。だが、それは俺自身が計算し、制御できる危険だ。こいつの対価はそうじゃない」
「……つまり」カイラが、ゆっくりと言った。「ネコを頼るのは、運任せ。だが、お前の魔法は、お前がしくじらなきゃなんとかなるってことか」
「大ざっぱには、そういうことだ。同じ危険なら、自分で制御できるほうを選ぶ」
「リチローらしいな」
カイラがにやりと笑った。
「わかったぜ。お前を信じるさ」
「では、岩盤を抜けた後は?」マルクスが問うた。「敵の目を、どうかいくぐる?」
「不可視化はできる。アリアの救出でも使った。だが、俺の物理学魔法には連続使用の限界がある。もって五分だ」
理一郎は淡々と続けた。
「内部の地図もなく、敵の巡回も、警備の配置もわからない。そんな敵地を五分で抜けられるはずがない。もっと単純に、擬人兵に変装するのはどうだろう」
マルクスがあごに手を当てた。
「捕虜からの情報では、基地兵はフードと面覆いで目元以外を隠しておる。装備はこちらで用意できる。拠点での押収品があるし、足りない分は模して作らせよう。魔法に頼るより、確実だ」
「でも――」メリッサが表情を引き締める。「精神感応を向けられたらまずいことになる。できるだけ接触は避けたいわね」
残る問題は、あの広大な基地のどこに『理の書』があるかだった。
「あの――」アリアが遠慮がちに手を挙げた。「わたしには、わかる気がするんです。あの本とわたしのあいだに、経路がつながっているように感じて……。封印がまだ解かれていないことも、なんとなくわかるんです」
「オスタネスの血脈に備わる力かもしれないね」ラランドランドララがうなずく。
「しかし、不確定要素であることも確かですな」とバルドリック。
「基地内の擬人を捕まえて吐かせるって手もあるぜ」
カイラの提案に、ラランドランドララもうなずいた。
「危険はあるけど、そのほうが確実かもしれないね。どうだろう、理一郎君?」
「ほかに方法はなさそうだ。それで行こう」
「なら解決だな。ところでよ――」
カイラが当然の疑問を投げた。
「撤退はどうするんだ? 行きよりも帰りのほうが厄介そうだが、潜入と同じ手が使えるのか?」
「説明する」
理一郎がポケットから金貨を取り出した。
「帰還にはワームホール魔法を使う。時空間を歪めて二点間をつなぐ魔法だ」
カイラが腕を組んだ。
「わあむほおる? なんだそりゃ?」
「リンゴを想像してくれ。皮に虫が居たとする。その虫が反対側に行くには、リンゴの皮の上を歩いていかなければならない。だが、果肉を食い破ってまっすぐ貫通すれば、距離は大幅に縮まる。時空間に穴を開けて、二つの地点を直接つなぐ――それがワームホールだ。時空貫通路と言ってもいい」
「なるほど、虫食い穴ね。そんな便利なもんがあんなら、行きも使えばいいじゃねえか?」
「不可能だ。出口側に『量子もつれ状態の錨』がないと、どこにつながるかわからない。最悪、岩盤の中や深海底、真空の宇宙空間とつながって全員即死だ」
カイラが顔をしかめた。
「それは……確かにうまくねえな」
理一郎はアリアに向き直った。
「アリア、あの〝お守り金貨〟を見せてくれないか」
「え?」
アリアは首元に手を当てた。制服の下の鎖を引き出すと、古い金貨のペンダントが姿を現した。すり減ってはいるが、表には天秤の紋章、裏には古代文字が刻まれている。祖父の形見で、アリアが肌身離さず身につけているお守り金貨の片割れだ。
「この金貨は二枚で一対だ。もう一枚は、俺が持っている」
理一郎は全員に向けて続けた。
「二枚には何らかの古い魔術が施されていて、どれだけ離れていても相関し続ける。量子もつれに近い状態だ。この相関を利用して、特設研究室への帰還ルートを開く」
理一郎はアリアを見た。
「アリア、君の金貨をここに残していってほしい。俺の金貨は基地に持っていく。そうすれば、どれだけ離れていても帰ってこられる」
アリアはペンダントの金貨を握りしめた。祖父が遺してくれた形見。離れていても互いを見つけ合うと、祖父が教えてくれた宝物。
「わかった」アリアは鎖を首から外し、机の上に置いた。
「ありがとう。ただ、時空を歪めるには膨大な理力を使う。一度きりの切り札だと思ってくれ」
「つまり、撤退手段は確保されておるわけだな」
マルクスが、少し考え込む。
「これ以上の策は、私にも出せんな」
「……危険すぎやせんかな」バルドリックがアリアたちを気遣うように口を開いた。「敵の本拠地に、彼らだけで乗り込むなど」
「大丈夫だよ」ラランドランドララが理一郎たちを見渡して答えた。「この五人なら、どんな状況でも対応できる」
「妾も加えよ」
リリスが割り込んだ。
「こんな面白そうなこと、主らだけでやるつもりではあるまいな」
理一郎は小さく笑った。
「お前はついて来るなと言っても聞かないだろ」
マルクスは席を立ち、テーブルを回って理一郎の前に立った。
「ラランドランドララ殿のお墨付きもある。潜入班は、物部殿に任せる」
それからバルドリックに向かって言う。
「作戦終了まで、正面を押さえ続けてもらわねばならん。その点はお願いできるか」
「承知した」バルドリックが立ち上がった。「私の部隊と辺境騎士団で、敵に後を振り向く暇を与えぬようにしよう」
移動は空路と決まった。街道を東へ行けば深い森が待ち、抜けた先は道なき荒れ地だが、飛竜ならば大地溝帯まで一日で足りる。学都騎士団の騎竜隊をフル稼働させ、潜入班も魔導師団もすべて空から運ぶ。
ラランドランドララが手を叩いた。
「では、方針は決まりだね。出発は三日後の明け方。それまでに必要な準備を整えよう」
全員がうなずいた。
その時、メリッサが何かを思い出したように顔を上げた。
「辺境騎士団の指揮系統はどうなってるの? 現地の判断で動けるの、それとも王都の承認が必要?」
マルクスが、なぜそんなことをと言いたげに眉をひそめた。
「軍務卿の管轄だ。作戦行動には王都からの命令が必要になる」
「そう」
メリッサは微笑んだ。
「……命令が、ちゃんと届くといいのだけど」
その一言に、バルドリックがわずかに眉を上げた。だが、メリッサはそれ以上何も言わず、髪を指に絡めて視線を窓の外に向けた。
理一郎はその横顔に目を留めたが、追及はしなかった。メリッサの勘は、往々にして当たる。
軍務卿の管轄下にある辺境騎士団――そこに不確定要素がある。そのことは、頭の片隅に置いておくべきだろう。
* * *
その夜。アルタイル邸の食堂。
夕食の片付けを終えたアリアが、いつになく口数を少なくして、テーブルの向かいに座る理一郎をじっと見つめていた。
理一郎は広げた作戦図面から顔を上げ、彼女の視線を受け止めた。
「どうした、アリア。会議の後から、ずっと様子がおかしいが」
「……あのね、理一郎くん」
アリアは膝の上で手をぎゅっと握りしめ、ためらいがちに口を開いた。
「今日の会議で言ってた、ワームホール魔法のことなんだけど……」
「ああ。時空間を折り畳み、二点を直接接続する魔法だ」
「あの魔法を使えば……理一郎くんは、元の世界にも帰れちゃうの?」
アリアの声はかすかに震えていた。
時空を超えてどこへでも行ける魔法。それならば、この異世界から彼が元いた世界へ帰る扉を開くこともできるのではないか。アリアがそう不安に思うのも当然だった。
理一郎はペンを置き、静かに答えた。
「……俺も、その可能性は検証した」
アリアの肩が、びくりと跳ねた。
「だが、会議でも少し話したが、結論から言えば不可能だ。理由は二つある」
理一郎は淡々と、しかし丁寧に説明を始めた。
「一つは、俺が元の世界に『量子もつれ状態の錨』を置いてきていないことだ。出口の座標を確定する錨がなければ、どこにつながるか、まったく制御できない」
「もう一つは?」
「エネルギーの絶対量だ。今の俺の理力では、干渉できる時空間は基地から学都まで程度にすぎない。多元宇宙の壁を越えるとなれば、俺が召喚された時のように、神殿が千年かけて蓄えた魔力と三星蝕のような天体現象が必要になる。今の俺には到底入手できない規模だ」
理一郎の論理的な説明を聞いて、アリアは少し安心したように、小さく息を吐いた。
「それに――」そのアリアの瞳をまっすぐに見ながら、理一郎が言う。「仮に条件がそろっていたとしても、俺は帰らない」
「え……」
理一郎は立って窓辺に行き、学都の夜空を見上げた。
「俺が解き明かすべき方程式は、今はこの世界にある。それに、俺を信じてくれる仲間がいる。俺の世界は、ここだ」
そのはっきりとした決意の言葉に、アリアの瞳からすっと不安の色が消え去った。
「……うん」
アリアは花が咲いたように微笑み、それから少し照れくさそうに立ち上がった。
「よかった。わたし、ずっとザワザワしちゃってて……。もう一杯、お茶淹れるね! 理一郎くんも飲むでしょ?」
「ああ、頼む」
軽やかな足取りでキッチンへ向かうアリアの背中を見送りながら、理一郎は小さく息を吐いた。
肩の上にふわりと現れたリリスが、呆れたようにささやく。
「主よ、罪作りな男ぢゃのう。あの小娘の心臓をどれだけ振り回せば気が済むのぢゃ」
「事実と推論を述べただけだ」
「ふん、理屈っぽいのは相変わらずぢゃが、まあ良い答えぢゃったぞ」
理一郎は少しだけ口元をゆるめ、再び作戦図面に目を落とした。
* * *
会議の次の日。王都。
軍務卿モンフォールの執務室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
窓の外には王都の街並みが広がっているが、モンフォールの目にはそれが映っていなかった。彼の意識は、机上に広げられた書類に向けられていた。
――学都からの辺境騎士団出動要請書。
ラランドランドララの署名が入った正式な文書だ。ご丁寧に王立アカデミア総長と学都司政長の両方の肩書きが記されている。大地溝帯の敵拠点攻略のため、国境付近に駐屯する辺境騎士団の出動を求めていた。
出動要請書には、宮廷魔導師団長から提出された機密作戦概要が添えられていた。
辺境騎士団と魔導師団が正面から陽動を行い、その隙に少人数の潜入班が基地側面から侵入する――。
モンフォールは書類を手に取り、しばらく眺めた後、冷笑を浮かべた。
「ふん……」
彼は新しい羊皮紙を取り出し、羽ペンを走らせた。
辺境騎士団への命令書。内容は、出動要請の承認――ただし、内容の一部を変更した。
――これで十分だ。
モンフォールは薄笑いを浮かべながら命令書に封蝋を施した。
辺境騎士団が連携しなければ、陽動部隊は孤立する。潜入チームが敵基地の奥深くに入り込んだところで外からの支援が途絶えれば、待っているのは全滅だ。
だが、もう一手が必要だった。
モンフォールは机の引き出しを開けた。そこには、小さな鳥型の魔道具が入っていた。擬人族との連絡用に密かに入手した伝言鳩だ。
ギデオンが裏切り者として捕縛されたことは、すでに耳に入っている。あの愚か者は、自分の野心に目がくらんで失敗した。だが、自分は違う。もっと慎重に、もっと狡猾に立ち回る。
――知の双神の呪い。
あの日、三叉の丘で理一郎に直接害をなそうとした瞬間、全身を貫いた激痛。それは今も鮮明に記憶に刻まれている。神の呪いか、何らかの魔法的契約か。いずれにせよ、理一郎に直接手を出せば、自分は苦痛を受ける。それだけは確かだ。
――だが、間接的に排除する方法なら、どうか。
モンフォールは魔道具を手に取り、小さく呪文を唱えた。鳥が目を開け、羽ばたいた。
「伝えろ」
モンフォールは低い声でささやいた。
「学都少人数の潜入班を送り込む。正面攻撃に合わせ、基地の側面から侵入する予定だ。正確な日時と経路は追って知らせる」
伝言鳩は窓から飛び立ち、夜空へと消えていった。
直接手を下さず、敵に始末させる。それなら呪いは発動しないはずだ。
モンフォールは醜い笑みを浮かべた。
あの異世界人は、自分の出世の邪魔になる。王都でも学都でも、物部理一郎の名声は日に日に高まっている。このままでは、宮廷における自分の地位が脅かされかねない。
そもそも、あの男は危険なのだ。既存の魔法体系に収まらない、異質な力を持っている。そのような存在を野放しにしておくわけにはいかない。
保身と野心のために、軍務卿も祖国を裏切る道を選んだ。
窓の外では、月が雲に隠れようとしていた。




