大地溝帯
出発の朝は、穏やかな曇り空だった。
学都の東門前には、十数頭の飛竜が整列していた。輸送用の大型種が中心で、革の鞍と荷物を背負い、騎手を待つその姿は壮観だった。
騎竜攻撃隊はすでに出発していた。陽動作戦に備え、より機動性の高い戦闘種の飛竜で編成された精鋭部隊だった。
理一郎は輸送用飛竜を見上げ、改めてその大きさに息を呑んだ。翼をたたんだ状態でも、肩までの高さは馬の倍はある。鱗に覆われた体躯は筋肉質で、鋭い爪が地面を掻いていた。
「乗るのは初めてか?」
騎竜隊の隊長、グレイソンが声をかけてきた。四十代半ばの精悍な男だ。顔には古傷が走り、歴戦の空気をまとっている。攻撃隊は副長に任せて先行させており、より重要な輸送隊の指揮を彼自身が執っていた。
「ああ。馬には何度か乗せてもらったが、飛竜は初めてだ」
「なに、慣れれば馬より楽だ。こいつらは賢いからな。落とすようなヘマはしない」
グレイソンは自分の飛竜の首をなでた。飛竜は低く唸り、主人に頭を擦り寄せる。
「理一郎くん、こっち、こっち」
アリアが別の飛竜の上で手を振った。鞍は三座型で、先頭の操縦鞍にはすでに騎竜兵がまたがっていた。
「前進基地まで運んでくれるって。一緒の竜で行こう」
理一郎は鞍の後部によじ登り、アリアの後ろに座り、革ひもで体を固定する。
「飛竜を操るのは、すっごく難しいんだよ」アリアが振り返って言った。「騎竜隊の人たちは、何年も訓練を積んだ精鋭なんだって。空を任されるのは、選ばれた人だけなんだね」
周囲では、バルドリック率いる宮廷魔導師団の面々も、それぞれ騎竜兵の操る飛竜に乗り込んでいた。マリエルとメリッサ、カイラも、それぞれ別の飛竜に分乗した。
「しっかりつかまっててね」アリアが言った。
「了解した」
理一郎がアリアの腰に手を回す。少女は相変わらず華奢で、力を入れたら壊れてしまいそうだ。
すると、アリアが理一郎の白衣の袖口にそっと手を伸ばした。親指の腹で、見えない結び目を作るように、小さく複雑な円をなぞる。
「……よし。これで大丈夫」
「またそれか。俺の袖になにかついているのか?」
これまでにも何度か同じことをされた。理一郎が首をかしげると、隣の飛竜にまたがっていたメリッサが、くすくすと笑い声を漏らした。
「あらあら、かわいらしいこと」
「め、メリッサさん! 見ないでください!」
アリアは顔を真っ赤にして抗議するが、メリッサはわざとらしく艶っぽいため息をついてみせた。
「その結び目、ずいぶん固そうだわ」
「ち、ちがいます! これはただの安全祈願で……!」
理一郎は自分の袖を見下ろした。
「結び目? どこにも糸など出ていないが……」
「もうっ、理一郎くんは黙ってて!」
真顔で分析する理一郎に、アリアはさらに顔を赤くしてプイと前を向いてしまった。
「全員、準備はいいか!」
グレイソンの号令が響いた。
「離陸!」
二十頭を超える飛竜が一斉に翼を広げ、その翼に風をはらみ、大地を蹴った。
理一郎は一瞬、胃が浮くような感覚を覚えた。学都の街並みがみるみるうちに小さくなっていく。
城壁が、大時計塔が、アカデミアの尖塔が、瞬く間に遠ざかった。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
眼下に広がるのは、見渡す限りの田園風景だ。小麦畑の緑が風に揺れ、点在する村落が模型のように見える。
「乗り心地はどう?」
アリアが振り返った。風に明るい栗色の髪がなびいている。
「悪くない。ゆったり景色を楽しめる」
「じゃあ、ホウキで飛んだ時は?」
「あの時は、景色を楽しむ余裕がなかった」
アリアが笑った。
「そうだったね。理一郎くん、しがみついてたもん」
飛竜の編隊は、学都を離れ、東へと向かった。
* * *
昼過ぎ、編隊は雑木林を流れる小さな川のほとりで休息を取った。
飛竜たちは疲れを知らないように見えたが、騎手と乗員たちには休憩が必要だった。特に理一郎は、振動と風圧で全身がこわばっていた。
「大丈夫ですか?」
マリエルが心配そうに近づいてきた。
「問題ない。ただ、筋肉が少し固まった」
「私が治癒魔法で――」
「いや、これは魔法で治すようなものではない。少し歩けば戻る」
理一郎は立ち上がり、周囲を見回した。
すでに風景は変わっていた。シトス農地の田園は遠くなり、雑木林が広がっている。さらに東には、原生林の深く濃い緑が見えた。
「ここからは魔物の領域に近づく」
バルドリックが地図を広げながら言った。
「人の住む場所ではない。警戒を怠るな」
カイラが鼻を鳴らした。
「へっ、ちょうどいい。体がなまってたところだ」
「威勢がいいのはけっこうだが、無駄な戦闘は避けるのだ。体力は温存するように」
「わかってるさ」
短い休憩の後、編隊は再び空へ舞い上がった。
* * *
日が傾きはじめた頃、編隊は峡谷地帯に入った。
丘陵地帯の原生林を越えると、風景は一変した。緑は消え、赤茶けた荒野が延々と広がり、そしてついにその荒地を刻まれた巨大な溝が見えてきた。まるで大地が引き裂かれたような光景だった。
「これが大地溝帯か……」
理一郎がつぶやく。
断崖は果てしなく続き、谷は底が見えないほど深い。
地殻の伸張によって正断層が生じ、その間の地盤が落ち込んでできた地形だろう。
「すごいね」
アリアが言った。
「この大陸を南北に走る巨大な裂け目なの。わたしも実際に見るのは初めて。裂け目の向こう側もいちおう王国領なんだけど、住むには過酷すぎて誰もいない。事実上、ここが擬人族の領域との境界になってる」
「まさに天然の要害だな」
「うん。秘密基地を造るにはもってこいの場所だね」
「ああ、ここに攻め込むのは難しい」
だが、今回の作戦は正面突破ではない。
理一郎はポケットの中の金貨に触れた。帰還の切り札だ。
飛竜隊は大地溝帯に沿って南下し、辺境騎士団との合流地点に向かう。
* * *
夕暮れ時、編隊は合流地点に到着した。
大地溝帯の縁に位置する岩場だ。周囲には低い灌木が生え、飛竜を隠すのにちょうどいい窪地がある。
先行していた騎竜攻撃隊の姿もあった。彼らはすでに野営の準備を進めており、斥候を出して周辺の偵察も終えていた。
「ご苦労、物部君」
バルドリックが笑顔で迎えた。
「順調な旅だったようだね。飛竜は初めてだったかな?」
「ああ。なかなか刺激的だった」
「ははは、そうだろうね。私も最初は酔ったものだよ」
騎竜隊の隊長が報告に来た。
「上空偵察の結果を報告します。敵基地の正面ゲート付近には哨戒の動きがありますが、崖上の地表には大規模な索敵施設は確認されませんでした。こちらの接近は気づかれていないと思われます」
「よし。それは朗報だ」
バルドリックがうなずいた。
理一郎は周囲を見回した。宮廷魔導師団と騎竜隊の姿はあるが、それ以外の部隊は見当たらない。
「辺境騎士団は?」
バルドリックの表情が曇った。
「まだ到着していない。連絡もない。問い合わせを送っているのだが、曖昧な返答しか来ないんだ」
理一郎の眉が動いた。
メリッサの言葉が脳裏によみがえる。『辺境騎士団の指揮系統は軍務卿の管轄よ。命令がちゃんと届くといいわね』
「……そうか」
小声でつぶやいた。
バルドリックが怪訝そうな顔をしたが、理一郎は首を振った。今ここで疑惑を口にしても、証拠はない。混乱を招くだけだ。
「作戦を延期する余裕はない。予定通り、夜明け前に作戦を開始しよう」
バルドリックが決断した。
「辺境騎士団なしでは陽動戦力としては心もとないが、我々だけでもやるしかない。潜入チームの支援に全力を尽くす」
「感謝する」
「礼には及ばないよ。これは王国の命運がかかった作戦だ。全員が同じ目的のために動いている」
バルドリックは理一郎の肩を叩いた。
「さあ、今夜は休め。明日に備えよう」
* * *
その夜。
野営地には焚き火がいくつか燃えていた。炎の揺らめきが岩肌を照らし、不思議な陰影を作り出している。
理一郎は仲間たちとともに、焚き火を囲んでいた。アリア、カイラ、メリッサが傍らにいる。
そこへ、マリエルが湯気の立つ椀をいくつも載せた盆を持って近づいてきた。
「スープを作りました。よければどうぞ」
「おう、悪いな」
カイラが椀を受け取り、一口すすった。
「美味い! 修道女ってのは料理も得意なのか」
「巡回の途中で自炊もしますし、いろいろな村を訪れますから、そこで教わることも多いです」
理一郎も椀を受け取った。野菜と干し肉の素朴なスープだが、冷えた体に染み渡る。
「ありがとう、マリエル。助かる」
「いえ、お役に立てれば」
マリエルは全員に椀を配り終えると、理一郎の傍らに腰を下ろした。
「理一郎さんは、怖くないですか?」
「なにがだ?」
「明日の戦いです。敵の拠点に乗り込むんですよ」
理一郎は率直に言った。
「怖い。だが――」
「だが?」
「取り戻さなければ、この世界そのものが危うくなるかもしれない」
「使命感、ですか?」
理一郎は首を振る。
「それだけじゃない。俺はどうしてもあの書物を読んでみたい。利己的だと言われても、この衝動は止められない」
マリエルが胸のペンダントを触る。
「むしろ、そのほうが人間的かもしれませんね」
カイラは鼻を鳴らした。
「ふん。利己的な理由でいいじゃねえか。オレはあいつらに借りがある。昨日今日の話じゃない。ずっと昔からの因縁だ」
理一郎はカイラの横顔を見た。その目に、一瞬だけ暗い影がよぎった。
「……とにかく、借りを返す機会は絶対に逃がさねえ」
虎人族の女戦士は、普段は陽気で単純に見える。だが、その胸の奥底には何か深いものを抱えているようだった。
「詳しい話はまたいつかな」
カイラが理一郎を見て、にやりと笑う。
理一郎はただうなずいた。
その時、向かいに座っていたメリッサが理一郎を手招きした。
理一郎が席を立つと、マリエルが静かにつぶやいた。
「借りですか……。たぶん違う意味でしょうが、私は理一郎さんに借りがあります」
「ほう?」とカイラ。
「星界の秘儀の件、とても償いきれるものではありません。でも、せめてもの罪ほろぼしなんです。理一郎さんを最後までお手伝いします」
カイラは椀を置き、マリエルの顔を見た。
「お前、見かけによらず肝が据わってるな」
「そうでしょうか」
「ああ。いい顔してるぜ」
カイラは再び椀を手に取った。
「明日は頼むぜ。お前の回復魔法がなけりゃ、オレたちは――特にリチローは持たねえ」
「はい。全力を尽くします」
「どうした?」
呼ばれた理一郎が、メリッサの隣に腰を下ろす。
「ねえ、理一郎。辺境騎士団のことだけど……」
メリッサの声が低くなる。
「やっぱり、軍務卿が絡んでると思う?」
「確証はない。だが、お前の勘は当たることが多い」
「勘じゃないわ。情報よ」
メリッサは髪を指に絡めた。
「あの男の周りには、きな臭い噂が絶えないの」
「証拠が必要だな」
「そうね。今回の潜入作戦でなにかつかめるかもしれない」
メリッサは理一郎を見つめた。
「ねえ、理一郎。あなた、私がなぜこんな危険な任務に付き合ってるか、考えたことある?」
「情報か?」
メリッサは身を寄せ、理一郎の首筋に顔を近づけた。
「もちろん、情報屋としての興味もあるわ。でもね、理由はあなたよ」
「俺?」
「あなたはサキュバスの私をおかしくする……」
メリッサの瞳がピンク色に輝いた。
「あなたの精気は、これまでに感じたことのない波動なの。とにかく、たまらないのよ」
理一郎は少し身を引いた。
「……それは俺が異世界人だからじゃないのか?」
「わからない。そうかもしれない。でも、理由なんかどうでもいいの。あなたのそばにいると、ただそれだけで満たされる。情報を集めるのも、危険な任務に付き合うのも、全部あなたの精気が欲しいから」
メリッサが微笑む。
「サキュバスの本能が、あなたを手放したくないって叫んでるの」
「非合理的な理由だな。俺にはよくわからない」
「いいのよ、わからなくても。でも、あなただって、私が欲しくなるときがあるでしょ? 理屈とか理論とかじゃないのよ」
メリッサは理一郎の耳元にそっとささやいた。
「だから、全部片付けたら宵待亭に来てよ。とびきりのご褒美、もらわなきゃ割に合わない」
「……あそこでは、くたびれた中年姿だぞ」
「それがいいのよ。私、おじさんの見た目のほうが好き。なんなら今から私の天幕で前払いしてくれてもいいのよ」
メリッサは、ボディスーツが描く曲線を理一郎の視線に焼きつけるように、ことさらゆっくりと立ち上がった。それから肩越しに艶やかに微笑むと、夜の闇の中に消えていった。
メリッサがいなくなると、理一郎は夜空を見上げた。
二つの月が輝いている。片方は地球の月によく似た銀色、もう片方は見かけの大きさはほぼ同じだが、青みがかった光を放っている。
この世界に来て、何度も見た光景だ。だが、明日を前にして、妙に目に焼き付いた。
アリアが隣に座り、しばらく黙って月を見ていた。それから口を開く。
「ねえ、理一郎くん」
「ああ?」
「『理の書』を取り戻したら、どうするの?」
理一郎は即答した。
「研究を続ける。この世界の理を解き明かすために」
「そうだよね……」
アリアは膝を抱えた。
「わたしも、手伝えるかな」
理一郎は率直に答えた。
「君の結界魔法に着想を得て俺は新しい物理学魔法を使うことができた。君の魔法や古代魔法に関する知識を比較研究することで、この世界の魔法体系をより深く理解できるはずだ」
「……そういう意味じゃなくて……」
アリアの声が小さくなった。
「いや、うん、そういう意味でもいいんだけど……」
理一郎はアリアの横顔を見た。
焚き火の炎に照らされて、その輪郭が柔らかく浮かび上がっている。明るい栗色の髪が、夜風に揺れていた。
「君がいなければ、俺はこの世界で生きていけなかった」
「え?」
「馬車の中で目を覚ました時、俺が最初に見たのは君の顔だ。あの時、俺は混乱していた。なにが起きたのかわからず、この世界の常識も知らなかった。君がいてくれなければ、俺はとっくに死んでいただろう」
アリアは顔を伏せた。
「そんな……わたしは、ただ……」
「君の力が必要だというのは、研究のためだけではない」
理一郎は視線を月に戻した。
「俺がこの世界で生きていくために、君がいてくれることが必要だ」
しばらくの沈黙が流れた。
理一郎はさんざん迷った末に、アリアの手に自分の手をそっと重ねた。
アリアの手が返り、理一郎の手を握ってきた。温かく、やわらかく、優しい感触――。
アリアの頬が、炎の色とは別の理由で赤くなっているように見えた。
「……ありがとう」
小さな声が聞こえた。
「明日、頑張ろうね」
「ああ」
* * *
翌朝、夜明け前。
編隊は再び空へ舞い上がった。
大地溝帯は、すでに目と鼻の先だ。赤茶けた大地が、延々と切り裂かれている。
その裂け目の向こうに、敵の基地がある。
飛竜たちが高度を下げはじめた。
最終降下地点は、大地溝帯の縁にある岩陰だ。敵の基地からは死角になっており、飛竜を隠すのに十分な広さがある。
だが、上空から周囲を見回した理一郎は、眉をひそめた。
やはり、辺境騎士団がいない。
降下後、そのことを告げると、バルドリックが険しい表情でうなずいた。
「結局、連絡は来なかった」
「待つか?」と理一郎。
「いや」
グレイソンが首を振った。
「これ以上待てば、夜が明けて敵に気づかれる。辺境騎士団なしでも、陽動は可能だ。我々だけで作戦を開始するべきだろう」
理一郎は小さく舌打ちした。
メリッサの懸念は正しかった。少なくとも、辺境騎士団は作戦開始には間に合わない。
だが、いまさら引き返すわけにはいかなかった。
理一郎は仲間たちを見回した。
アリア、カイラ、マリエル、メリッサ。そして肩に乗るリリス。
全員、擬人兵の軍服に着替えていた。暗い色の外套に、顔を覆うフードとマスク。学都で押収された装備を模して、急ぎ仕立てさせたものだ。
カイラは軍装に動きが妨げられるのが気になるのか、しきりに肩を回している。マリエルは胸のあたりを窮屈そうに押さえていた。ともあれ、この完成度なら外見は問題なさそうだった。
「予定通り、潜入を開始する」
全員が、静かにうなずいた。
「陽動部隊は三十分後に攻撃を開始する」
バルドリックが言った。
「グレイソン隊長が騎竜攻撃隊を率いて正面から敵を引きつける。その間に、君たちは側面の亀裂から内部に侵入してくれ」
「亀裂までどうやって行く? 断崖絶壁だぞ」
カイラが腕を組んだ。
「飛竜で側面に回り込む」
グレイソンが答えた。
「断崖の中腹に、自然にできた岩棚がある。幅は狭いが、人が歩ける程度はある。そこに降ろしてやる」
「見張りに見つからないのか?」
「正面から見れば死角になる位置だ。それに、陽動が始まれば敵の目は正面にくぎ付けになる。その隙を突け」
理一郎はうなずいた。
「了解した。降下後、飛竜はすぐに離脱して陽動部隊に合流してくれ」
「心得ている」
グレイソンが輸送用飛竜の一頭を呼び寄せた。兵站輸送用の大型種だ。
「こいつに全員乗れ。俺が直接操縦する」
「隊長自らか?」
「岩棚への降下は難しい。経験のある者でなければ危険だ」
理一郎たちは、大型飛竜に据え付けられた荷台部分に乗り込む。
「しっかりつかまっていろ。揺れるぞ」
グレイソンの合図で、飛竜が静かに舞い上がった。
高度を上げず、断崖の縁に沿って低空飛行する。岩肌すれすれを飛ぶ飛竜の翼が、乾いた風を切った。
やがて、断崖の中腹に細い岩棚が見えてきた。幅は一メートル半ほど。その先に、暗い亀裂が口を開けている。
「あそこだ」
グレイソンが飛竜を岩棚に寄せた。断崖に張り付くような危険な姿勢だが、飛竜は見事にホバリングを維持している。
「降りろ! 長くは持たん!」
カイラが真っ先に飛び降り、続いてマリエルとメリッサが降りた。理一郎はアリアの手を取り、二人で岩棚に着地する。
「武運を祈る!」
グレイソンが叫び、飛竜は身を翻して離脱していった。
理一郎たちは岩棚に身を伏せ、飛竜が遠ざかるのを見送った。
眼下には、赤茶けた大地溝帯が広がっている。ここからの深さは数百メートル。落ちればもちろん即死だ。
「ここからは徒歩だ」
理一郎は亀裂の奥を見た。岩棚は細いが、慎重に進めば歩ける。距離は百メートルほどか。
「メリッサ、見張りはいるか?」
「……感じないわ。こっちには配置していないみたいね」
「よし。陽動が始まるまでは待機しよう」
* * *
同じ頃――大地溝帯の断崖に構築された前進基地の正面ゲート。
バルドリック率いる陽動部隊が攻撃を開始した。
騎竜攻撃隊のグレイソンが編隊を率いて上空から火球を撃ち込み、宮廷魔導師団が地上から結界を張りながら前進する。
基地側の反撃は激しい。
固定砲台が次々と火を噴き、飛竜の編隊を散らす。地上では対魔法障壁が展開され、宮廷魔導師団の攻撃魔法が次々と減衰させられていた。
「魔法が効きません! 攻撃が吸い込まれるように消えます!」
若い魔導士が叫んだ。
「魔法阻害装置だ」バルドリックが冷静に応じた。「あわてるな。出力を上げれば飽和させられるやもしれん。阻害の限界を検証する好機と捉えよ!」
バルドリックの指揮のもと、魔導師団は攻撃の手を緩めない。派手な砲撃と結界の応酬が、大地溝帯の断崖に轟音を響かせ続ける。
その最前線で、セリウスが歯を食いしばっていた。
岩陰に身を潜め、詠唱を重ねる。放った火炎弾が城壁に着弾するが、対魔法障壁に阻まれて威力が半減する。
「くそっ……! 全然効いてない……!」
セリウスの魔法は、宮廷魔導士の中でも強力なほうだ。だが、ここでは通用しない。自分の全力が、壁に吸い込まれて消えていく。
――物部なら、どうするだろう?
その考えが浮かんだ瞬間、セリウスは自分の唇を噛んだ。
――今、あいつのことを考えてどうする。
「セリウス!」
バルドリックの声が飛んだ。
「左に障壁が薄い箇所がある! あそこに集中砲火をかけろ!」
セリウスは顔を上げた。なるほど、左端の砲台だけ、障壁の光がかすかに揺らいでいる。阻害装置の出力が不均一らしい。魔導師団長の観察眼は、戦場でも健在だった。
「了解!」
セリウスは全魔力を左端に叩き込んだ。他の魔導士たちも続く。
集中砲火が障壁の薄い一点を穿ち、ついに断崖面の一部が崩れ落ちた。爆煙の中から、砲台が傾いて沈黙する。
「やった……!」
「よし、次だ! 隣の砲台に移れ!」
バルドリックの号令が飛ぶ。
派手な戦果ではない。砲台の一つを崩しただけだ。
――だが、それでいい。
自分たちの仕事は、あいつらが中で動く時間を稼ぐことだ。
とはいえ、戦況は楽観できなかった。
本来なら、この正面には辺境騎士団の重装部隊が並び、地上から圧力をかけ続けるはずだった。だが、彼らはついに姿を見せなかった。地上戦力を欠いたまま、宮廷魔導師団と騎竜隊だけで敵を引きつけ続けるのは、想定よりはるかに重い負担だった。
すでに、騎竜が二頭、固定砲台の攻撃を受けて戦線を離脱していた。地上でも、結界の維持に回る魔導士が増え、攻撃の手数は目に見えて落ちている。じりじりと、削られている。
それでも、退くわけにはいかなかった。
ここで圧力を緩めれば、潜入したあいつらが危険にさらされる。
――持ちこたえろ。あいつらが戻るまで。
セリウスは煤で汚れた顔を袖で拭い、次の詠唱を始めた。
* * *
断崖の中腹で待機する理一郎たちに、轟音が響いた。
陽動部隊が攻撃を開始したのだ。
「今だ!」
五人は岩棚を伝い、断崖に沿って慎重に移動を開始する。
やがて、亀裂の入り口に到達した。暗い裂け目が、断崖の奥へと続いている。
「ここからが本番だ」
理一郎は深呼吸をした。
アリア、カイラ、マリエル、メリッサ。全員が、静かにうなずいた。
「行くぞ」
潜入チームは、亀裂の闇の中へと足を踏み入れた。




