ギデオンの末路
その日の夜。シトス農地の東端、丘陵との境に広がる雑木林。
一頭の馬が木立の手前で止まり、黒衣の男が鞍から降りた。
王立アカデミア魔法院院長、アハーブ・ギデオン。
その懐には、『理の書』がいだかれていた。
ギデオンは馬を木につなぎ、林の中へと足を踏み入れる。農民が薪を取る程度の小さな林だが、夜陰に紛れれば人目にはつかない。
背後では、学都の空がまだ赤く燃えていた。あの炎を引き起こしたのは自分だ。だが、そんなことはどうでもよかった。
重要なのは、この手の中にある書物だけ。
――ついに手に入れた。
ギデオンが、闇の中で歪んだ笑みを浮かべる。
――十年。
あの連中に情報を流し、浸透工作を支援し、汚れ仕事に手を貸し続けてきた。
落ち葉を踏みしめながら、ギデオンは林の奥へと進む。
欲しかったのは、不死とも思える寿命を持つあのエルダーエルフ、ラランドランドララを倒すための手段だった。
魔力で勝てないのなら、魔法そのものを無効化すればいい。擬人族が持つ対魔法技術。それさえあれば、千年以上生きる〝魔女〟を引きずり降ろすことも夢ではなかった。
だが、計画は変わった。
『理の書』の存在を知った時、ギデオンは悟った。
対魔法技術など、もはや必要ない。世界の理そのものを書き換える力があれば、ラランドランドララなど目にも入らない。
院長の地位も、十年かけて築いた名声も、すべては今夜のための布石だった。
――しょせん、擬人どもも踏み台にすぎない。用が済めば切り捨てるだけだ。
そう、自分に言い聞かせながら、ギデオンは約束の場所へと向かった。
* * *
林の奥に、小さな空き地があった。
月光に照らされたその場所に、頭巾を被った人影が待っていた。
「魔法院長殿、お待ちしておりました」
頭巾の人物が、抑揚のない声で言った。
擬人族の密使だ。これまで何度も情報をやり取りしてきた相手。十年の付き合いになる。
「予定通りだ」
ギデオンは懐から『理の書』を取り出し、月明かりにかざした。
古びた革表紙が、淡い光を受けて鈍く輝く。
「見事です。長年の悲願が、ついにかないますな」
密使の声には、隠しきれない喜びがあった。
「約束を忘れるなよ」
ギデオンは書物を胸にいだき直した。
「この書物は、私と貴殿らの共同研究に用いる。一方的に持ち去ることは許さん」
「もちろんです、院長殿。我々は約束を違えたりはしません」
密使が一歩、近づいた。
「では、まずは書物を確認させていただきたい。本物かどうか、鑑定する必要がありますので」
「……いいだろう」
ギデオンは警戒しながらも、書物を差し出した。
築いてきた協力関係がある。いまさら裏切るとは思えなかった。
それに、自分には利用価値がある。古代魔法理論の権威として、『理の書』の解読には自分の知識が不可欠なはずだ。
密使が書物を受け取る。
革表紙をなで、重さを確かめ、表紙に刻まれた魔法陣を検分する。
「間違いありません。これは『理の書』です」
密使は満足げにうなずいた。
その瞬間だった。
背後から、何かが迫る気配がした。
ギデオンが振り返ろうとした時には、すでに遅かった。
背中に、鈍い衝撃が走った。
一瞬遅れて、灼けるような痛みが、背から胸へと突き抜ける。
「――っ!」
声にならない悲鳴が、ギデオンの喉から漏れた。
冷たい刃が、背中を貫いていた。その切っ先が、胸の前に突き出ている。
息ができない。肺に空気が入らない。
振り返ることもできず、膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
視界の端に、もう一人の頭巾姿が見えた。いつの間に背後に回り込んでいたのか。まったく気配を感じなかった。
「な……なぜ……」
口から血があふれ、言葉が途切れる。
密使が、冷たい目でギデオンを見下ろした。
「き……さま……約束が……」
「約束?」
密使が静かに笑った。
「魔法院長殿。十年間、よく働いてくれました。だが、道具は使い終われば捨てるもの。それはあなた自身がよくご存じのはずだ」
ギデオンの目が見開かれた。
「知っていますよ、あなたが我々を使い捨ての道具と考えていたこと、そして『理の書』を独占するつもりだったことも」
密使は書物を懐にしまいながら、淡々と続けた。
ギデオンの視界が暗転しかけた。
見抜かれていた。最初から。
自分が彼らを〝使い捨ての道具〟と見なしていたように、彼らもまた自分を〝使い捨ての駒〟としか見ていなかったのだ。
――馬鹿な。私は……私は利用する側だったはずだ。
だが、血だまりの中に倒れているのは自分で、『理の書』を手にしているのは彼ら――。
この十年、自分は何をしてきたのか。
学都を裏切り、同胞を売り、禁忌の実験に手を染めてきた。すべては、あのエルダーエルフを超えるためだった。永遠の二番手から抜け出すためだった。
だが結局、自分もまた利用されていただけだった。
道具が道具に裏切られる。なんという皮肉だ。
「『理の書』は我々が有効に使いますよ。もちろん、ヒト族を根絶やしにするために」
密使が背を向けた。
「あなたの功績は……まあ、忘れないでおきましょう」
ギデオンは地面に倒れたまま、必死に手を伸ばした。だが、指先は虚しく土を掻くだけだった。
「撤収だ。追っ手が来る前に離れるぞ」背後の頭巾姿が、短く告げた。
「それは?」もう一人がギデオンをあごで差す。
「放っておけ。どうせ助からん」
二つの影が、夜の森に溶けていく。
後には、血だまりの中に倒れたギデオンだけが残された。
遠のいていく意識の中、視界の端に燃え上がる学都の空が見えた。
あの街で、自分は何十年も研究を続けてきた。学生を教え、論文を書き、学術的権威を築いてきた。
そのすべてを、自ら捨てた。
永遠の二番手という牢獄から抜け出すために。
――私は、間違っていたのか?
その問いに答える声は、もうどこにもなかった。
* * *
翌日未明。
司政庁の大会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
円卓を囲むのは、学都の要人たち。ラランドランドララを筆頭に、警備局長、総務局長、冒険者組合長のレオン、そして理一郎。
アリア、カイラ、マリエル、メリッサも同席を許され、ソフィアもラランドランドララの後ろに控えていた。
「被害状況の報告を」
ラランドランドララが静かに促した。
警備局長が立ち上がり、手元の書類に目を落とした。
「現時点で確認できているのは、死者二十三名、重傷者百四十七名。建物の損壊は二百二十棟を超えます」
会議室から一瞬、音が消えた。
千年の平穏を誇った学術都市が、一夜にしてこれほどの被害を受けたのだ。
「火災は夜明け前にほぼ鎮圧されました。工作員は八十七名を制圧、うち二十三名が死亡、残りは拘束中です。ただし、十名以上が逃走したと推測されます」
「地下道については?」
ソフィアが尋ねた。
「現在までに七本の地下道を発見しました。いずれも学都の外縁部に通じております。ただし……」
警備局長は苦い顔をした。
「未発見の地下道がまだあると推測されます。相当な年月をかけて掘られたようで、全容はまだ把握しきれておりません」
「復旧の見通しは?」
ラランドランドララが総務局長に視線を向けた。
「損壊した建物の応急処置には一週間。本格的な修繕には数ヶ月を要するでしょう。消防団と公共事業課が連携して作業を進めていますが、人手が足りません」
「長年にわたる浸透工作……」
ラランドランドララが小さくつぶやいた。その声には、苦いものが混じっていた。
「足元を掘られていることに、まったく気づかなかったなんてね。学都の治安体制を根本的に見直さないといけないね」
その時、扉が開き、伝令が駆け込んできた。
「報告します! シトス農地東端の林で、アハーブ・ギデオンを発見しました!」
会議室に緊張が走った。
「状況は?」
警備局長が身を乗り出して問う。
「発見時、彼は血だまりの中に倒れておりました。背中を深く刺され、瀕死の状態です。現在、治療班が応急処置を施しております」
理一郎が伝令に訊く。
「『理の書』は?」
「所持していませんでした」
やはり、という思いが理一郎の胸に広がった。
「とにかくギデオンを回復させて」
ラランドランドララが指示を出した。
「彼の証言は、擬人族の動向を知る上できわめて重要だよ。協力者なら相当の情報を持っているはずだからね。絶対に死なせないで」
「はっ!」
伝令が退出していく。
会議室を重い沈黙が支配した。
その静寂を破って、理一郎が口を開いた。
「『理の書』を取り戻さなければならない」
静かだが、確固たる意志を込めた声だった。
「そのためには、『理の書』の行方を突き止める必要があるね。なにか考えがあるのかな」
ラランドランドララが理一郎を見つめた。
「一つはギデオンの記憶だ。リリスなら探れるだろう」
理一郎が肩の辺りに話し掛けると、リリスが姿を現した。
「〝わし鼻〟の頭の中を覗くなどたやすいことぢゃ」
「だが、ギデオンが詳細を知らされていないことも考えられる。その時は、ラプラスの老魔を使う」
因果の悪魔であるラプラスの老魔は、過去から未来までのすべてを見通す力を持っている。
「でも!」アリアが立ち上がった。「対価が危険すぎるよ。あの従魔の見た未来を受け入れなければならないんでしょ!?」
「死を予見される可能性もあるということだよね」ラランドランドララが静かに言った。
「いずれにしても、『理の書』の所在が判明したら、奪還作戦を実行することになる。その準備も並行して進めておく必要があるね」
警備局長が手を挙げて、立ち上がった。
「擬人族の拠点に対する作戦となれば、対外軍事行動です。学都だけで対処できる規模の話ではありません」
「その通り。『理の書』は国家的な重要文献でもあるからね。王都に上申して、王国軍との連携体制を整えておこう」
ラランドランドララは続けた。
「ただし――」
彼女は理一郎に向き直った。
「最終的な潜入任務には、理一郎君たちが最適だと思うよ」
「彼らが?」
警備局長が戸惑いを見せる。
「大部隊で乗り込めば、敵に察知される可能性が高いよね。少数精鋭のほうが隠密行動に向いていると思わない?」
ラランドランドララは説明した。
「それに、理一郎君の物理学魔法は、一般魔法とは仕組みが違う。擬人族の対魔法技術が同じように通用するとは限らない。今のところ、対抗できる可能性が最も高いのは理一郎君だよ」
理一郎は黙って聞いていた。
「つまり」ラランドランドララが微笑んだ。「王国軍には陽動や包囲を担ってもらい、最後の仕上げは理一郎君に任せる。そういう作戦だよ」
「司政長のご判断であれば従いましょう」
警備局長が着席する。
それと入れ替わりに、アリアが立ち上がった。
「わたしも行きます」
声は震えていたが、その目には確かな決意が宿っていた。
「オスタネスの血がなにかの役に立つかもしれません」
「オレも行くぜ」
カイラも獰猛な笑みを浮かべながら立ち上がる。
「リチローだけに任せておけるかよ。それに、擬人どもには借りがある。きっちり返してやらねえとな」
「私も同行させてください」
マリエルも立ち上がり、静かに、しかし毅然と言った。
「回復魔法が必要になる場面が必ずあるはずです。それに……」
彼女は理一郎を見た。
「理一郎さんを、最後まで見届けたいのです」
「私もよ」
メリッサもすっと立ち上がる。
「情報収集なら任せて。それに、あの連中の薄汚い精神感応に対抗するには、私のほうが相性がいいかもしれないしね」
理一郎は仲間たちの顔を見回した。
大迷宮を共に踏破した仲間たち。それぞれが、それぞれの理由で、この戦いに参加しようとしている。
「……ありがとう」
理一郎は静かに言った。
ラランドランドララが満足げにうなずいた。
「では、方針は決まりだね。まずはギデオンの尋問で情報を集める。同時に王都に上申して、王国軍との連携体制を整える。そして『理の書』の所在が判明次第、奪還作戦を実行する。理一郎君たちには、その中核を担ってもらうよ」
理一郎は深くうなずいた。
『理の書』――この世界の根源に関わる知識が記された書。その知識があれば、この世界の理を解き明かせると言われている。
長年追究してきた世界方程式完成のきっかけになるかもしれない。
ようやく手がかりを掴んだのだ。ここで諦めるわけにはいかない。
「必ず取り戻す」
理一郎は静かに、しかし揺るぎない声で言った。
「あの書物に記された知識を知りたい」
ラランドランドララが微笑んだ。
「焦る気持ちはわかるけれど、少し落ち着いたほうがいいね」
「だが、一刻も早く――」
「『理の書』の封印は、そう簡単には解けないよ」
ラランドランドララは穏やかに、しかし確信を持って言った。
「それは君自身が一番よく知ってるんじゃないかな」
そう言われて、理一郎は肩の力を少し抜いた。
自分があれほどの時間をかけても解けなかったのだ。擬人族が簡単に解けるはずがない。
「……そうだな」
「少なくとも、数日や数週間でどうにかなるものではないよ。だから、焦って無謀な行動に出る必要はない。しっかり準備を整えてから動こう」
窓の外では、朝日が昇りはじめていた。
一夜の炎に焼かれた学都は、今、新たな一日を迎えようとしている。
傷は深く、失われたものは大きい。
だが、決着はまだついていない。




