奪われた書
時は少しさかのぼる。
学都各所で爆発が起きた頃、アハーブ・ギデオンは魔法院の院長室にいた。
窓の外に黒煙が立ち上るのが見える。彼は、十年間この時を待っていた。
ふと脳裏に浮かぶのは、数週間前に行われた「公開討論」の光景だ。
あの日、あの場所で、ギデオンの築き上げてきた権威に、取り返しのつかない亀裂が走った。
――あれは、屈辱以外の何物でもなかった。
* * *
王立アカデミア魔法院の第一講堂。
普段の三倍近い聴衆で埋め尽くされた会場を、ギデオンは講師席から見渡していた。
教授陣の紺のローブ、学生たちの制服、自分の豪奢な院長服。
その中にただ一人、場違いな白衣を着た少年がいる。
魔法院では誰も着ていない衣をまとい、この世界では誰も知らない魔法を語ろうとしている。
ギデオンは、物部理一郎が研究発表を行うと聞き、「建設的な学術議論の場としたい」と申し出た。表向きは学術的な意見交換。だが、真の目的は別にある。
――あの若造を、この場で叩き潰す。
自分の理解を超えた『物理学魔法』とやらを振りかざし、しかもラランドランドララの寵愛まで受けている忌々しい存在――。
その理一郎が演台の上から話しはじめた。
「俺は、この世界の魔法を、次のような仕組みだと仮定している」
理一郎は、目には見えない未知の場――Ψ場の仮説から説き起こした。空間に重なるように広がるその場が、魔法現象の基盤となること。術者の魔力が直接、炎や水に変わるのではなく、魔力に励起された未発見の微小な粒子――魔導子がΨ場へ働きかけ、その局所的な状態を変えることで現象が生まれること。
聞き慣れない言葉が示されるたび、聴衆のざわめきは大きくなっていった。
理一郎は、魔導石版にその流れを記した。
魔力――魔導子――Ψ場の変化――魔法現象。
そして、その下にもう一つの流れを書き加えた。
数理演算――理力――物理法則への干渉――物理現象。
「これに対して、物理学魔法はΨ場を経由しない。高度な数理演算によって生じる別の力――〝理力〟を使い、物理現象を記述する方程式へ直接作用する。魔力とは、力の生まれ方も、作用する仕組みも異なる。これが、現時点での俺の仮説だ」
(理力……)聴衆の一人が、初めて聞く言葉を繰り返した。
理一郎は演台に置かれた魔導石版に、一つの方程式を書いた。すると、その式が空中へ投影された。
W = mg
「これは、重力場における物体の重量を表す式だ。Wは重量、mは質量、gは重力加速度の大きさを示している。我々が『重い』『軽い』と感じるもの。その正体は、質量と重力加速度の積だ」
聴衆席がざわめく。それは、従来とはまったく異なる魔法へのアプローチだった。
「では、この重力加速度gを、書き換えてみよう」
理一郎はメガネを押し上げ、ゾーンに入った。
演台に置かれた水差しに意識を集中する。投影された式の中で、gの値が、ゼロへと近づいていく。
「その理に、従え」
静かに唱えると、水差しの中の水が、ひとりでに口からあふれ出した。
だが、こぼれ落ちない。
水は、宙へと立ち昇り、支えもなく空中に留まった。重力を失った水は、表面張力に導かれ、いくつもの透明な球となって、ゆっくりと漂う。
「これは水魔法ではない。重力加速度の書き換えによる現象の改変だ」
会場からどよめきが起こった。
理一郎は宙に浮かぶ水球に作用しているgを再び書き換え、水を水差しに戻した。
学生たちは、今、目の当たりにした物理学魔法に目を見張り、教授陣は複雑な表情を浮かべている。
――Ψ場? 魔導子? なにを言っている。
ギデオンには、理一郎の語るまったく新しい概念を受け入れることなど、到底できなかった。
理一郎が席に戻るのを待ち、講師台に向かう。
「興味深い発表だった。だが、いくつかの重要な疑問を呈させてもらおう」
ギデオンは火焔魔法を発動し、炎を手のひらに宿した。
「まず第一に、整合性の問題だ。我々が千年以上にわたって積み重ねてきた魔法理論は、実践と検証を重ねた堅固な体系だ。魔力の流れ、魔法陣による制御、術者の意志との調和――これらの相互作用は極めて複雑で、単純な数式で記述できるものではない。君の理論は、あまりにも現実を単純化しすぎているのではないか?」
会場にざわめきが広がる。
「第二に、順序の問題だ。君は遠い異郷の出身だと聞いている。我々の魔法理論を十分に理解もせずに、いきなり新たな体系を提唱するのは時期尚早ではないか? 学問には順序というものがある」
――そう。お前はよそ者だ。
「第三に、本質の問題だ。魔法とは本来、術者の心と魔力との交感によって成り立つものだ。それを冷たい数式に還元することで、魔法の深遠さや神秘性が見失われるのではないだろうか?」
ギデオンは炎を消し、理一郎を見据えた。
「君の研究姿勢自体は評価する。だが、基礎を飛ばして応用に走るのは、学問的に不誠実だと思わざるを得ない」
会場はギデオンの論調に引き込まれていた。理一郎への視線が厳しいものに変わりつつある。
――勝った。
ギデオンが席に戻ると、会場から拍手が起こった。
だが、理一郎は動じなかった。
「それらの指摘は、既存の学問体系を重視する慎重な姿勢として理解するが、いくつかの点で見解が異なる」
静かだが、確信に満ちた声だった。
「まず、整合性について。俺の物理学魔法は、既存の魔法理論と矛盾しない。むしろ、それらがなぜ機能するのかを説明する基盤理論として働く。院長の火焔魔法を例に取ろう。魔法陣は、Ψ場に特定のパターンの歪みを生じさせる装置。詠唱は、術者の意識を通じて魔導子の振動周波数を調整する手段。そう仮定すると、魔力の流れも、術者の意志も、すべてΨ場における相互作用として数学的に記述できる」
理一郎は伝統的な火焔魔法の魔法陣を描きながら、同時にその背後で働く法則を数式で示していく。
――なんだと?
ギデオンは目を見張った。理一郎の解釈は、確かに伝統的な魔法の原理を説明していた。
「第二に、学問の順序について。確かに、俺は遠い異郷の出身だ。だが、新しい視点こそが既存理論に新たな光を当てることがある。そうして学問が発展してきたことは、歴史の教訓だ」
会場が再びざわめく。
今度のざわめきは、ギデオンに向けられたものではなかった。
「第三に、数式の〝冷たさ〟について。院長は神秘性を重視されているが、数学的記述によってこそ、見えてくる美しさがあるのではないか?」
理一郎は再び魔導石版へ向かい、新たな式を書いた。式は淡い光を放ちながら、講堂の空中へ投影された。
F=q(E+v×B)
ローレンツ力の式。電荷を持つ粒子が、電場と磁場から受ける力を表す。
理一郎は、演台の下から透明な実験球を取り出した。内部には、ごく薄い気体が封じられている。
球の中に電場が生じ、電離した気体から飛び出した電子が加速する。電子が分子へ衝突するたび、その通り道に淡い光が灯った。
さらに磁場を重ねる。磁場は電子の進む向きを、速度に対して垂直な方向へ曲げていく。
電場に押されながら磁力線の周囲を旋回する電子の流れが、透明な球の中に、数学的に整った光の螺旋を描き出した。見る者の心を打つ美しさがある。
「方程式に込められた宇宙の調和――それは神秘性を損なうのではなく、より深い神秘を明らかにする。魔法陣の幾何学的美しさと数学的厳密性は矛盾しない。むしろ、なぜその形が美しく感じられるのかを説明できるのだ」
――なにを言っているのか、まったくわからない。
だが、自分の権威が挑戦を受けていることだけは、はっきりとわかる。ギデオンは冷静さを保とうとしたが、苛立ちを抑えきれなかった。
――ここで引き下がるわけにはいかない。
ギデオンは再び立ち上がった。
「君の理論が正しいという独立した証拠はあるのか? 既存の現象を後付けで説明することは誰にでもできる。だが、新たな予測を立て、それを検証してこそ真の理論と言える」
この逆襲に、理一郎は冷静にうなずいた。
「その通りだ。では、この場で予測し、検証しよう」
理一郎は、演台の脇に用意していた振り子を持ち上げた。細い糸の先に、小さな金属球が取り付けられている。
魔導石版に、新たな式を書いた。
T=2π√(L/g)
「振り子が一往復する時間を表す式だ。Tは周期、Lは糸の長さ、gは重力加速度の大きさを示している」
理一郎は糸の長さを測り、石版の上で計算を進めた。
「この振り子が十往復するのに必要な時間は、これだけになる」
計算結果を空中へ投影する。
「測ってくれ」
助手の学生が計時用の魔道具を構えた。理一郎が金属球を静かに放す。
振り子が、一定の周期で左右に揺れはじめた。
十往復したところで、学生が声を上げる。
「一致しています。誤差は、ほとんどありません」
講堂がざわめいた。
「ここまでは、自然に起きる現象を式によって予測しただけだ。次に、物理学魔法を使う」
理一郎は空中に浮かぶ式の、gを指した。
「この金属球に作用する重力加速度を、四分の一にする。式が正しければ、振り子の周期は二倍になる」
理一郎は、結果を先に石版へ記した。
「その理に、従え」
再び金属球を放す。
振り子は、先ほどより明らかにゆっくりと揺れはじめた。学生が時間を測り、目を見開く。
「二倍です。予測された値と一致しています」
講堂から、抑えきれないどよめきが上がった。
理一郎はギデオンへ向き直った。
「俺は結果が出る前に、なにが起きるかを数値で示した。そして、その通りになることを実験で確かめた。これが予測であり、検証だ。後付けではない」
ギデオンは絶句した。
――馬鹿な。
そんな魔法など聞いたことがない。だが、目の前で現に起きている。それがどういう原理で成り立っているのか、ギデオンにはまったく理解できなかった。
「物部君――」声に苛立ちが混じる。「一つの特殊な現象を示したからといって、それが魔法学全体の新たな体系として認められるとでも思っているのか? 君のような若い研究者が陥りがちな過ちは、一時的な成果に慢心することだ」
理一郎は、その人格攻撃も冷静に受け流した。
「俺は魔法学を破壊しようとしているのではない。より豊かにしたいのだ。物理学魔法という新たな研究分野が加わることで、魔法学全体がより深化し、発展することを願っている」
会場は静まり返っていた。多くの学生たちの目には、新しい可能性への期待と知的興奮が宿っている。
ラランドランドララが中立を装った総括を述べたが、ギデオンにはわかっていた。
――完敗だ。
討論が終わると、ギデオンは険しい表情で会場を去った。
論破されたというより、理一郎の言っていることが理解できなかったこと。それこそが最大の屈辱だった。伝統魔法理論の最高権威を自任してきた自分が、あの若造の理論を理解できない。Ψ場だの魔導子だの理力だの、聞いたこともない概念を並べ立てられ、反論すらできなかった。
それは、ラランドランドララに対していだいてきた感情と似ていた。千年以上を生きるエルダーエルフの知識と魔力に、人間であるギデオンは決して追いつけない。その絶望を、今また別の形で味わわされている。
廊下を歩きながら、ギデオンは奥歯を噛みしめた。
――物部理一郎。この屈辱は、決して忘れない。
いつか必ず、この借りは返す。
* * *
そして今、その時が来た。
「始まったか」
扉がノックされる。
「院長、お迎えにあがりました」
入ってきたのは、警備員の制服を着た三人の男だった。
見た目は完璧に人間だ。だが、その目の奥には、ヒトにはない冷たい光が宿っている。
「予定通りだな」
ギデオンは口元をゆがめて笑みを浮かべた。
「行くぞ」
院長のローブを翻し、部屋を出た。
廊下では学生や教員が慌ただしく行き交っている。爆発音に驚き、騒然としていた。
「院長! なにが起きたのですか!?」
若い教員が駆け寄ってくる。偽警備員たちを見ても、怪しむそぶりはない。本物の警備員にしか見えないのだから、当然だ。
「わからん。私は禁書保管庫の安全を確認してくる。君たちは学生の避難誘導を」
「はっ、承知しました!」
教員は疑いもせず走り去った。
四人は人目を避けながら、裏階段を下りていった。禁書保管庫は、アカデミア本館の地下深くにある。
保管庫の前には、本物の警備員が二人、立っていた。
「院長! この騒ぎは一体……」
「退け! 念のため保管庫の中を確認する」
「は! どうぞ」
院長には保管庫に立ち入る権限がある。警備員たちは当然のように道を空けた。
ギデオンが扉に手をかける。
その瞬間、背後で偽警備員たちが動いた。
音もなく、一瞬の出来事だった。
* * *
メリッサとアリアは、その光景を、廊下に設置された魔道具『遠見水晶球』で見ていた。
爆発音を聞いてしばらく後、禁書保管庫へ向かう四人の姿が、水晶球に映ったのだ。
一人はギデオン。残る三人は、警備員の制服を着ている。
一行が特設研究室の前を通りかかった時、メリッサは三人の精神に奇妙な空虚さを感じた。意識も感情もあるのに、その中心だけが抜け落ちている。
――まさか。
だが、違和感だけでは断定できない。
次の瞬間、三人の間を冷たい呪力の脈動が走った。声なき精神感応。その奥にも、同じ空虚さがある。
――擬人族。
普段は人間と見分けがつかない。だが、彼らが精神感応を試みた時だけ、メリッサはその正体を確信できる。
メリッサは素早く隠蔽魔法を発動し、アリアに状況を説明して、二人で息を潜めた。
そして今、目の前で――。
偽警備員の一人が、背後から本物の警備員を刺した。
音もなく、一瞬の出来事だった。もう一人の警備員も、同時に別の偽警備員に刺されて崩れ落ちた。
「!」
アリアが息を呑んだ。メリッサはとっさにアリアの口を手でふさいだ。
「声を出しちゃだめよ」
小声でアリアに伝える。
ギデオンは振り返りもせず、保管庫の扉を開いた。
魔法院院長の魔力に反応し、第一の障壁が解除される。
偽警備員たちは、倒れた二人から警備印章を奪い、扉の左右に設けられた認証板へ押し当てる。二つの印章がそろい、第二の障壁が消えた。
最後に、ギデオンが院長印章を中央の認証板へ重ね、解除式を唱える。
三つの印章が同時に認証され、禁書保管庫の入り口が開いた。
メリッサの胸に、冷たい確信が広がった。
これは、内部からの裏切りだ。院長自身が、『理の書』を盗もうとしている。
〈理一郎、聞こえる?〉
メリッサは念話を飛ばし、状況を伝えた。
――あの人が戻ってくるまで、なんとか動きを抑えたい。でも……。
メリッサは唇を噛んだ。理一郎の判断は正しい。目の前の命を見捨てるような男なら、最初から魅力を感じなかっただろう。
だが、時間がない。
ギデオンは保管庫の中に入っていった。偽警備員たちは、その入り口を守るように立っている。
「メリッサさん……どうしよう……?」
アリアが小声で尋ねる。
「……阻止しないと」
メリッサは状況を計算した。
偽警備員は三人。全員が擬人族だとすれば、メリッサの精神干渉魔法は効果が薄い。アリアは結界魔法が使えるが、攻撃魔法は持っていない。
二対三。しかも、相手は戦闘訓練を受けた工作員。
正面からの戦闘は無謀だ。
「私たちだけじゃ無理ね……監視を続けましょう」
メリッサはアリアの手を握り、隠蔽魔法を維持したまま、研究室の扉をそっと開ける。
せめて、何が起きているかを見届けなければ。
だが、偽警備員の一人が、メリッサたちのほうを向いた。
「……そこにいるな」
メリッサは息を呑んだ。
隠蔽魔法を見破られた? いや、違う。呪力による精神感応の冷たい感触が、隠蔽魔法の内側にいるメリッサの意識をかすめた。姿や音を隠せても、精神そのものまでは消せない。
「出てこい。気配は感じている」
偽警備員が剣を抜いた。
メリッサは覚悟を決めた。
「アリア、結界を」
隠蔽魔法を解き、メリッサはアリアをかばうように前に出た。
偽警備員たちが、三人同時に動いた。
「わたしは、拒む!」
アリアが両手を掲げ、青白い光の結界で自分たちを包み込む。
剣が結界で防がれ、甲高い音を立てて弾かれる。
「結界魔法か」
偽警備員の一人が、冷たい声で言った。
「だが、長くは持つまい」
三人が同時に結界を攻撃しはじめた。剣が、拳が、蹴りが、容赦なく結界を叩く。
激しい衝撃のたび、半球の障壁に青白い波紋が走り、光の粒子が弾け飛んだ。
アリアの顔が苦痛に歪んだ。
「アリア……!」
「大丈夫……まだ、耐えられる……!」
だが、結界に亀裂が入りはじめていた。
メリッサは必死に幻惑魔法を試みたが、擬人族の精神への干渉は、やはり効果が薄い。わずかに動きを鈍らせるのが精一杯だった。
結界が、音を立ててきしんでいく。
「もう限界……!」
アリアが膝をついた瞬間だった。
保管庫の扉が開き、ギデオンが姿を現した。
その手には、古びた革表紙の書物が握られていた。
『理の書』だ。
「行くぞ! 撤収だ!」
ギデオンは偽警備員たちに告げると、冷たい目でメリッサとアリアを見た。
「……アルタイル家の娘と、情報屋のサキュバスか。かまわん。どうせなにもできん」
「承知しました」
偽警備員のリーダーが手を振る。
次の瞬間、廊下全体が閃光に包まれた。
目くらましだ。
メリッサとアリアはとっさに目をかばう。
視界が回復した時には、ギデオンも偽警備員たちも、消えていた。
廊下には、倒れた本物の警備員だけが残されていた。
「……逃げられた」
メリッサの唇から、押し殺した声が漏れた。
「『理の書』……盗まれちゃった……」
アリアが呆然とつぶやく。
* * *
工作員たちは、徐々に鎮圧されつつあった。
彼らは呪力を用いた精神操作でヒトを操る術には長けていたが、学都側の数的優位には対抗できなかった。衛士隊、騎士団、冒険者、そして学院の魔導士たち。地下から次々と現れる工作員たちに苦戦しつつも、学都は総力を挙げて彼らを追い詰めていった。
工作員の数は百名程度。学都を陥落させるには、あまりにも少なすぎる数。
しかも、その寡兵を分散させ、複数拠点で蜂起した。拙い戦術のようだが、それこそが敵の狙いだった。
学都の各所で混乱を引き起こし、学都の戦力を分散させ、その隙に本命を狙う。
すべては、『理の書』を手に入れるための作戦だったのだ。
禁書保管庫に駆けつけた理一郎は、アリアとメリッサの表情を見て悟った。
「……遅かったか」
「ごめんなさい……私たちだけじゃ、止められなかった」
メリッサが唇を噛んだ。
アリアはうつむいたまま、小さく首を横に振った。
「魔法院長が……ギデオン魔法院長が、『理の書』を……」
「ギデオンが?」
理一郎の顔色が変わった。
「やはり裏切り者だったの。最初から、擬人族と通じていた」
メリッサが、見たことをすべて話す。
理一郎は黙って聞いていたが、胸の内は後悔でいっぱいだった。
――ここでも後れをとっていたか。
アリアの誘拐事件の後、ギデオンの身辺調査は進んでいた。だが、確かな証拠が見つかっていなかったのだ。
三人は、禁書保管庫の中を確認する。
三重の魔法障壁は解除され、金庫の扉が開いている。
そして、その中にあるはずの『理の書』は、影も形もなかった。
「……」
理一郎は、空の金庫を見つめたまま動けなかった。
千年の時を超えて守られてきた知識が、今、敵の手に渡ってしまった。
学都の空には、まだ黒煙が立ち上っていた。




