開かない書
『理の書』が学都ミレトスに持ち帰られてから十日。
書物は王立アカデミアの禁書保管庫に厳重に保管されていた。
三重の魔法障壁と物理的な金庫、そして二十四時間態勢の警備が敷かれ、学都で最も厳重な場所となった。
理一郎は、ここ数日間、その隣に急造された研究室に泊まり込んで、封印の解読に没頭していた。
机の上には、封印魔法陣を模写した羊皮紙が何十枚も散乱している。その傍らには、古代語の辞書や参考文献が山積みになっていた。
「主よ、また徹夜かの?」
リリスが、理一郎の肩の上に現れた。
「あと少しだ。この魔法陣の構造に、規則性が見えてきた」
理一郎はメガネフレームを指でつかみ、羊皮紙に書かれた複雑な図形をにらみ付けた。
オスタネスの封印は、単純な魔法陣ではなかった。
数十の円と数百の線が絡み合い、それぞれの交点に古代文字が刻まれている。一見すると混沌としているが、理一郎の目には、そこに数学的な美しさが見えていた。
――これは、ある種の制約条件を解く問題だ。
交点に刻まれた古代文字が一つずつ条件を示し、通る線の組み合わせによって封印の状態が変わる。無数に見える経路のうち、すべての条件を満たすものだけが解除へつながっているようだ。
「千年前の魔法師は、とてつもない知性の持ち主だったようだな」
理一郎は独りごちた。
この封印を設計したオスタネスという人物は、間違いなく天才だ。物理学と魔法の境界を自在に行き来する、自分と同じ類の研究者だったのかもしれない。
黙示の間の壁画には、召喚された人影が描かれていた。
千年前にも、自分と同じように異世界から呼ばれた者がいた。その者は『理の書』の知識を用いて何かを成し遂げようとし、大災厄を引き起こした。
――俺が、その轍を踏まないという保証はない。
理一郎は、その思考を振り払うように首を振った。
今は、封印を解くことに集中すべきだ。
研究室の扉をノックする音が響いた。
「理一郎くん、入るよ」
アリアの声とともに、扉が開く。彼女の手には、湯気の立つマグカップと紙袋が握られていた。
「また朝ごはん食べてないんでしょ。パニーナちゃんのとこで焼きたてを買ってきたよ」
「……すまないな」
理一郎は素直に礼を言い、差し出されたパンを受け取った。
ここ数日、アリアは毎朝こうして食事を届けてくれている。研究に没頭すると食事を忘れる理一郎の性格を、彼女はすでに熟知していた。
「進展はあった?」
アリアが隣の椅子に腰を下ろす。
「ああ。魔法陣の構造は、ほぼ解明できた」
理一郎はパンをかじりながら、羊皮紙を指さした。
「問題は、この封印が単なる施錠ではないということだ。封印を施した者の判断基準まで組み込まれている。オスタネスは、『理を証す者のみ、この書を開かん』という条件を設定した」
「理を証す者……」
「おそらく、単に知識があるだけでは不十分だ。この魔法陣は、解く者が書を託すに足るかどうかまで問うているようだ」
理一郎は、自分の言葉に苦笑した。
「まるで試問だな。答えだけでなく、答える者まで審査される」
「理一郎くんなら、大丈夫だよ」
アリアがまっすぐに理一郎を見つめた。
「だって、理一郎くんは純粋に世界の理を知りたいと思っている。それは、わたしが誰よりも知ってる」
その言葉に、理一郎は少しだけ表情を緩めた。
野営地で握った手の感触が、今も残っている。アリアとのつながりは、間違いなく自分を支えていると実感する。
「……ありがとう」
理一郎が静かに言った時、研究室のドアが軽く叩かれた。
返事を待たずに開いたドアから、紫色の髪が覗く。
「おはよう、二人とも。お邪魔だったかしら?」
メリッサだった。
彼女は戸口にしなだれかかるように立ち、妖艶な笑みを浮かべている。だが、その目には普段の余裕がなかった。
「メリッサさん、どうしたの? こんな朝早くに」
アリアが驚いて立ち上がる。
「理一郎、大事な話があるの。あなたにも聞いてもらいたいわ、アリア」
メリッサの声は低く、緊張を帯びていた。
「学都の中で、擬人族の気配が急増しているの」
メリッサの報告は、不穏なものだった。
「総長にはもう報告してきたけど、この一週間で、呪力による精神感応らしき反応が三倍以上に増えているの。発生地点も、学都の各区に散らばっているわ」
「三倍……?」
理一郎は眉をひそめた。
「それだけの数が、どうやって入り込んだ? 城門には感知魔法が設置されているはずだ」
「それが問題なのよ。彼らは外から入ってきたのではないわ。もともと中にいたの」
メリッサの言葉に、アリアの顔が青ざめた。
「中にいた……?」
「擬態している擬人族は、外見だけではヒト族と見分けがつかない。何年も、何十年もかけて、少しずつ学都へ入り込んできたのでしょう。私が感知できるのは、彼らが呪力による精神感応を試みた時だけ。普段は、普通のヒト族と区別がつかないわ」
理一郎は黙って考え込んだ。
以前、アリアとパニーナがさらわれた時のことを思い出す。あの骨董屋の地下には、長い坑道が掘られていた。あれも、擬人族の浸透工作の一部だったのだろうか。
「つまり、学都は内側から蝕まれていたということか」
「そうよ。そして、この一週間で活動が活発になっている。なにか大きな作戦が動きはじめている兆候だわ」
メリッサの目が、理一郎をまっすぐに見つめた。
「彼らの狙いは、間違いなく『理の書』よ」
* * *
同じ頃、学都の外れにある古い倉庫で、密談が行われていた。
薄暗い室内に、二つの人影がある。
一人は、銀髪を丁寧に整えた長身の男。王立アカデミア魔法院の院長、アハーブ・ギデオン。
もう一人は、頭巾で顔を隠した人物。姿は完全に人間のものだったが、擬人族の工作員だ。
「物部は封印の解読を進めている。このままでは、数日以内に開封される可能性がある」
ギデオンの声には、焦りがにじんでいた。
「それは困りますな」
頭巾の人物が、抑揚のない声で答えた。
「『理の書』は、我々に渡される約束だったはず。あなたがそれを確保できないのであれば、我々としても対策を講じなければなりません」
「待て、まさか私を切り捨てるわけではないだろうな。私は十年も前からお前たちに協力してきた」
ギデオンの声が高くなる。
「学都内部の情報を流し、防衛体制の穴や巡回経路を教え、浸透工作を支援してきた。あの骨董屋のアジトも、地下道を掘るための拠点として私が手配したものだ」
「ええ、存じております」
頭巾の人物が、静かにうなずいた。
「我々もまた、約束を守ってきたはずです。あなたが求めた『対魔法技術』のデータは、できるかぎり提供しています。総長に対抗するための、魔法無効化技術は完成したのですかな? あなたが望んだ禁忌魔法の被験体も、実験の場も我々が調達してきた」
ギデオンの顔がこわばった。
十年前、四十二歳の時。魔導士として脂の乗り切った時期に、彼は「越えられない壁」に直面した。
千年以上生きるエルダーエルフ、ラランドランドララ。彼女は圧倒的な魔力と知識を備えている。人間である自分がどれほど努力しても、不老不死に近い天才には永遠に勝てない。組織のトップの座が回ってくることも、永遠にない。
その絶望が、彼を禁忌へと駆り立てた。
「お互いさまだ」ギデオンは低く言った。「私は情報を、お前たちは技術を。対等な取引だったはずだ」
「その通り。そして、この十年で我々の関係は深まりました」
頭巾の人物が、含み笑いを漏らした。
「あなたは我々に小規模な襲撃を起こさせ、それを自ら鮮やかに解決してみせた。『有能な指導者』としての名声を築き、院長としての地位を盤石にした。見事な自作自演でしたな」
「……なにが言いたい」
「切り捨てる気など毛頭ありません、魔法院院長殿。ただ、状況が変わったのです」
頭巾の人物の声が、わずかに鋭くなった。
「物部理一郎という予想外の要素が現れた。あの男の物理学魔法は、我々の対魔法戦術を無効化しかねない。そして何より――」
「なにより?」
「あの男は、総長のお気に入りだ。あなたが十年かけても得られなかったものを、わずか数ヶ月で手に入れた」
ギデオンの拳が、白くなるほど握りしめられた。
――物部理一郎。
異世界から来たという、あの若い物理学者。ラランドランドララが惜しみなく知識を与え、共同研究までしている相手――。
「だからこそ、奴が封印を解く前に、書を奪う必要があるのだ」
「その通りです。だから、我々は計画を前倒しすることにしました」
頭巾の人物が、懐から一枚の地図を取り出した。
学都ミレトスの詳細な地図。その上には、赤い印が無数に記されている。
「十年かけて準備した浸透工作。学都全域に潜伏した工作員。そして、あなたが手配した拠点から掘り進めた地下道網」
ギデオンの目が見開かれた。
「まさか……一斉蜂起を?」
「ご名答。数刻後、すべてが動き出します」
頭巾の人物は立ち上がり、ギデオンに背を向けた。
「あなたの役目は、混乱に乗じて『理の書』を確保すること。院長権限があれば、禁書保管庫への立ち入りは容易でしょう?」
ギデオンの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
――十年だ。十年も待った。
あのエルダーエルフの下で、永遠の二番手として屈辱に耐えてきた。だが、それも明日で終わる。
「任せておけ。『理の書』は必ず私が手に入れる」
ギデオンの青い瞳には、暗い炎が宿っていた。
* * *
その日の午後、理一郎は研究室で封印の解析を続けていた。
メリッサの警告を受け、アリアとメリッサは交代で保管庫の周辺を見張っている。理一郎自身も警戒を怠らなかったが、研究を中断するわけにはいかなかった。
一刻も早く封印を解き、『理の書』の内容を確認する必要がある。
千年前の災厄の真実。そして、それを防ぐ手段が、この書物の中にあるかもしれないのだから。
そんな理一郎の前に、息を切らせたマリエルが駆け込んできた。
「理一郎さん! 大変です!」
理一郎は顔を上げた。マリエルの頬は紅潮し、巡回用の鞄を肩にかけたままだ。
「どうした、マリエル」
「東市場で大規模な火災が発生しました! 建物が崩れて、大勢の人が下敷きになっているんです! 救助の手が足りなくて……」
マリエルの目には、切実な懇願の色があった。
「お願いします、理一郎さん。理一郎さんの物理学魔法があれば、瓦礫を除去できるかもしれません」
理一郎は一瞬、迷った。
メリッサの警告が頭をよぎる。擬人族の活動が活発化している。これが罠である可能性もある。
だが、目の前のマリエルの表情に、嘘はなかった。
彼女は純粋に、人々を救いたいと思っている。
――人命優先だ。
「わかった。行こう」
理一郎は立ち上がり、隣室の禁書保管庫に向かった。
重厚な扉の前で、アリアとメリッサが警備に就いていた。
「理一郎くん? どうしたの?」
「東市場で大規模火災だ。俺はマリエルと救助に向かう。君たちはここで待機していてくれ」
「わかった。気をつけてね」アリアがうなずいた。
「任せて」メリッサも安心させるように微笑む。「私たちは研究室の中から、魔道具で廊下を監視しておくわ。本物の警備員もいるし、異変があればすぐに念話を飛ばすわ。あなたは存分に人助けをしてきて」
「もし敵が現れても、絶対に戦うな。すぐに念話で知らせるだけでいい。頼むぞ」
理一郎はマリエルとともに、アカデミアを後にした。
その背後、窓の外で一瞬、影がよぎる。
だが、理一郎はそれに気づかなかった。
* * *
東市場は、炎と煙に包まれていた。
消防団と衛士隊が懸命に消火活動を行っていたが、火の勢いは収まる気配がない。
「ひどい……」
マリエルがうめいた。
市場の一角にあった二階建ての商館が崩壊していた。周囲の建物にも延焼が広がりつつある。
瓦礫の下からは、助けを求める声が聞こえてきた。
「理一郎さん、あそこに!」
マリエルが指さした先に、崩れた壁の下敷きになった人影が見えた。
「俺が瓦礫を除去する。マリエル、治療の準備を」
「はい!」
理一郎は中指でメガネのブリッジを押し上げ、ゾーンに入った。
脳の情報処理速度が加速する。視界に瓦礫を構成する石材の輪郭と、それぞれに働く重力が浮かび上がった。理一郎は下敷きになった男性を除外し、その真上を塞いでいる瓦礫だけを干渉対象に指定した。
W = mg
物体に働く重量の大きさを表す式だ。
Wは重量、mは質量、gは重力加速度の大きさ。通常、この世界の地表では、物体に鉛直下向き約九・八メートル毎秒毎秒の加速度が働いている。
だが、重力加速度には大きさだけでなく、向きもある。
理一郎が書き換えるのは、周囲の重力場全体ではない。指定した瓦礫にだけ作用する、有効重力加速度だ。
明滅しているのは、g。
理一郎はその向きを上へ反転させ、大きさを毎秒毎秒〇・五メートルに抑えた。
「その理に、従え!」
数トンに及ぶ瓦礫が軋みを上げ、風船のようにゆっくりと持ち上がった。
理一郎は瓦礫の位置と速度を見ながら、有効重力加速度を連続的に調整する。救助に必要な高さへ近づくと、その向きを弱い下向きへ切り替え、上昇速度を削っていく。
速度がゼロになった瞬間、有効重力加速度もゼロにした。
瓦礫が空中で静止する。
「マリエル、今だ!」
「はい!」
マリエルは消防団員とともに駆け寄り、男性を慎重に運び出した。
救出を確認すると、理一郎は有効重力加速度をゆっくりと下向きへ戻した。瓦礫を地面へ降ろし終えてから、gを元に戻した。
「まだ息があります!」
マリエルの両手から金色の光が放たれ、男性の身体を包み込む。
「大丈夫です。命は取り留めました!」
この物理学魔法が一度に操作できるのは、被災者一人を覆う程度の狭い範囲だけ。持続時間も一分に満たない。一人ずつ、地道に救い出すしかなかった。
理一郎は氷砂糖を一つ口に放り込み、次の瓦礫に取りかかる。
一人、また一人と、埋もれた人々を救い出していく。
その時だった。
学都の反対側から、轟音が響いた。
続いて、別の方角からも爆発音。
さらに、また別の場所から。
理一郎は動きを止め、空を見上げた。
学都のあちこちから、黒煙が立ち上っている。
「……なんだ、これは」
リリスが耳元で叫んだ。
「主よ! 学都全域で同時多発的に爆発が起きておる! これは――」
「破壊活動か」
理一郎の顔から血の気が引いた。
「東市場も含め、おそらく陽動ぢゃ。主を保管庫から引き離すための囮ぢゃ」
――そういうことか。
理一郎は拳を握りしめた。
学都の空が、炎の色に染まっていく。
千年の平穏を誇った学術都市が、今、燃え上がろうとしていた。




