黙示の間
理一郎は守護巨像の胸部装甲板を真空遷移で消失させると、続けて露出した魔導炉を第二の対象領域に指定しようとした。
だが――。
そこでゾーン状態が解除されてしまった。
物理学魔法の連続使用、とりわけ真空遷移の演算が脳のグルコースを著しく消耗させたのだ。
急速に意識レベルが低下し、視界がぼやける。膝が崩れ、魔導炉に覆いかぶさってしまう。
「主よ、しっかりするのぢゃ。あと一歩ではないか」
リリスが耳元で叫ぶが、体に力が入らない。
それを機と感じたのか、守護巨像が咆哮を上げた。
声帯も口もない石像から発せられたとは思えない、耳をつんざくような金属音。
岩の拘束に、亀裂が走りはじめる。
そして、ついに右の第一腕が、黒曜石の拘束から抜け出す。巨像は理一郎を叩き潰そうと、その腕を振り上げた。
「リチロー!」飛び出そうとするカイラにアリアがしがみついた。
「わたしを理一郎くんの所に! お願い!」
一瞬戸惑ったカイラだったが、アリアの真剣な表情にうなずく。
「なにか考えがあるんだな! 行くぜ!」
カイラがアリアを抱えて跳躍する。
ひとっ飛びで理一郎のもとにアリアを届けると、二人をかばって守護巨像の腕を大剣で受けた。衝撃でカイラは吹き飛ばされたが、理一郎への一撃は、その身で食い止めた。
「アリア……なぜ来た」
アリアは理一郎の上体を抱き起こし、意識があるのを確かめてから、氷砂糖を口に含ませた。
甘さが舌に広がる。演算を再開できるほどではないが、遠のきかけた意識がわずかに戻った。「あの魔導炉……わたしが鍵なの。なぜだかわからないけど、そう直観したの」
アリアの目は、露出した魔導炉を見つめていた。
入り口の扉を開いた時と同じ感覚。アルタイルの血が、何かを感じ取っている。
「わたしなら、止められる!」
アリアが理一郎の肩越しに、魔導炉に手を伸ばす。はた目には二人が抱き合っているように見えた。
その時、巨像の拳が彼女を叩き潰そうと再び振り下ろされた。
カイラが止めに入ろうとするが、間に合わない。
拳がアリアに凄まじい勢いで迫る。
だが、その腕は――まるで見えない壁に阻まれたかのように、アリアの頭上で動きを止めた。
「やっぱり……!」アリアは確信した。「この守護者も、わたしは傷つけられないんだ!」
アリアの指先が、青白い光球に触れた。
「わたしは、オスタネスの血を継ぐ者! 止まりなさい!」
金色の光があふれ出した。
守護巨像の動きが――鈍くなった。
だが――止まらない。
残った腕はまだ動いている。岩の拘束を破ろうとする力が、まだ残っている。
「なぜ……!?」アリアの顔に困惑が浮かんだ。
その時、理一郎の脳裏に、入り口の警句がよみがえった。
――理を求めし者、理に滅ぶ。血の加護を忘るるなかれ。
巨像を力で破壊することが、審判の答えではなかった。
停止させるには、アルタイルの血と、理を追う者――二つの鍵が必要なのだ。
――そうか。これが、審判の意味か。
「アリア、手を離すな!」
理一郎は叫びながら、彼女の隣に並び、アリアの手に自分の手を重ねた。
「理一郎くん……!」
「二つの鍵だ。俺も、この迷宮の鍵のようだからな」
アリアの魔力と、理一郎の理力。
二つの異なる力が重なった瞬間、魔導炉が応えた。
アリアの手からあふれる金色の光に、魔導炉から放たれた青白い光が絡み合い、螺旋を描いて巨像の全身を駆け巡る。
守護巨像が、完全に静止した。
腕が力なく垂れ下がる。残っていた赤と青の眼から、光が消えていく。魔導炉の輝きも、ゆっくりと薄れていった。
静寂が戻った。
「……動かなくなった……」セリウスが呆然とつぶやいた。
「やった……のか?」カイラが大剣を下ろしながら言った。
「あなた……こういう場合、それは禁句よ」
メリッサがため息をつきながらつぶやいたが、すぐに言い添えた。
「でも今回は、大丈夫なようね」
理一郎とアリアは、巨像の胸部に手を重ねたまま、荒い息をついていた。
「アリア、けがはないか」
「うん……平気……」アリアは微笑んだ。「二人で、止められたね」
理一郎はゆっくりと手を離した。
「よくやったな!」カイラが二人の肩を抱いて豪快に笑った。
そこにメリッサとマリエルがやってくる。
「すぐに治療します」
マリエルが金色の光で理一郎を包んだ。
メリッサは真空遷移を目撃した衝撃からか、普段よりも真剣な表情だ。
「あなた、ほんとにやったのね……。闇魔法を、物理学で再現するなんて……」
「原理さえわかれば、方程式に落とし込める」
「そう簡単に言うけど……。それにしても、あなたまで鍵だったなんて……。この迷宮は、あなたを待っていたのかしらね」
理一郎は答えなかった。
二つの鍵。
アルタイル家の血と、私欲なく理を追究する者。
千年前のオスタネスは、なぜそのような条件を設定したのか。
なぜ、異世界から来た自分が、迷宮の鍵として認められたのか。
答えは、あの扉の向こうにあるはずだった。
巨像の向こうで、あの巨大な扉がゆっくりと開きはじめていた。
「行こう」
理一郎は静かに言った。
* * *
巨大な扉をくぐる前に、理一郎は入り口のアーチに刻まれた古代文字に目を留めた。
他の広間と同じように、ここにも名称と警句が刻まれている。
〈黙示の間〉
そして、その下に――。
〈理は光。されど光強きほど、影また深し〉
理一郎は眉をひそめた。
これまでの警句とは、少し趣が異なる。侵入者への警告というより、真理の深淵を語っているようだった。
扉の向こうには、荘厳な空間が広がっている。
天井は審判の間よりもさらに高く、星空のような輝きが無数に散りばめられている。壁面は磨き上げられた白亜の石材で覆われ、そこに精緻な壁画が描かれていた。
理一郎の目は、まずその壁画に引きつけられた。
「これは……」
壁画は部屋全体を囲むように描かれていた。色彩は千年の歳月でやや褪せているものの、その内容は明確に読み取れる。
最初の場面には、太陽と二つの月が一列に並ぶ様子と、それらが重なり合って空が暗く染まる様子が描かれていた。
「三星蝕……」アリアが息を呑んだ。「これは三星蝕だよね……」
理一郎ももちろん覚えている。ほんの二カ月ほど前、自分がこの世界に召喚された夜の空。太陽と二つの月が重なり、世界が闇に包まれた。
次の場面には、光の柱が描かれていた。そして、その柱の中から現れる人の姿。
――まるで異世界召喚だ。
千年前にも、自分と同じように呼ばれた者がいた?
その人影は、ローブを纏った学者風の人物だった。手には書物を持ち、周囲の人々に何かを説いている。
続く場面では、その人物が魔法陣の前に立っている。複雑な幾何学模様が描かれた魔法陣。その中心で、彼は何かの儀式を行っているようだった。
そして――。
災厄が描かれていた。
最初は、大地をえぐる凄まじい爆発。閃光が地表を灼き、衝撃波が同心円状に広がっていく。木々が吹き飛び、大地が陥没し、巨大なクレーターが形成される様子が克明に描かれている。
だが、災厄はそれだけでは終わらなかった。
次の場面には、世界そのものが歪んでいく様子が描かれていた。空が裂け、大地がきしみ、あらゆるものが崩壊していく。人々の体が異形に変じ、建造物が溶けるように崩れ落ちる。まるで世界を支える法則そのものが狂ったかのような、理解を超えた破滅の光景――。
「廃都カエリア……」理一郎はつぶやいた。「あのクレーターと、異常領域を形成した災厄は、千年前に起きたのか」
壁画の最後には、一人の人物が書物を胸にいだき、この部屋に入っていく姿が描かれていた。そして、扉が閉ざされる。
封印。
千年前、誰かがこの書物をここに封じた。
理一郎は、入り口に刻まれていた警句を思い出した。
――理は光。されど光強きほど、影また深し。
その意味を、壁画は雄弁に物語っていた。
『理の書』という光を求めた者がいた。その光は強すぎた。そして、落とした影は――都市一つを消滅させるほど深かった。
「主よ」リリスがささやいた。「あの壁画に描かれた者……異世界から召喚された学者は、お主と同じような存在だったのかもしれんのう」
理一郎は無言でうなずいた。
同じ疑問が、頭の中で渦を巻いていた。
千年前、この世界に召喚された異世界人。『理の書』の知識を求め、何らかの実験を行い、そして大災厄を引き起こした。
――俺と、同じことをしようとしていたのか。
背中に冷たいものが走った。
「理一郎くん」
アリアが理一郎の前に回り込み、まっすぐにその目を見つめた。
「理一郎くんは、この人とは違う。同じ過ちは、繰り返さない」
その声には、強い確信がこもっていた。
理一郎は答えに窮した。
彼女の信頼がまぶしかった。
だが、それに応えられるという確信が、今の自分にはなかった。壁画に描かれた学者も、きっと悪意があったわけではないのだろう。それでも、結果はあの災厄だった――。
「……同じ方程式でも、境界条件が違えば、解は変わる」
自分自身に言い聞かせるように、そう言葉を絞り出した。
それから、部屋の中央に目を向ける。
厄災を引き起こしたかもしれないものが、そこにある。
石の祭壇。その上に鎮座する、古びた書物。
「『理の書』……」
理一郎は息を呑んだ。
千年の時を経てなお、それは厳かな存在感を放っていた。
重厚な革装の表紙は深い褐色で、経年による傷や擦れがところどころに見られる。
その風化は書物の威厳を損なうどころか、むしろ歴史の重みを感じさせた。
表紙の中央には、古代文字で『理の書』と刻まれている。
その周囲を取り囲むように、精緻な魔法陣が革の表面に焼き付けられていた。幾何学的な紋様が幾重にも重なり、複雑な構造を成している。迷宮の入り口や各広間で見た魔法陣とは、構成が異なっているようだった。
背表紙には金属の留め具が施され、角には真鍮の装飾がはめ込まれている。
ページの断面は歳月で黄ばんでいるものの、何らかの保護魔法が施されているのか、紙自体は驚くほど良好な状態を保っているようだった。
だが、理一郎の第一印象は「思ったより薄い」だった。もっと分厚い書物だと思っていたのだ。
バルドリックが祭壇に近づき、書物に手を伸ばそうとした。
だが、その指先は、何もない空間に阻まれた。
「ここにも結界か――」
バルドリックが目を細める。祭壇の上、書物を取り囲むように、かすかに光る膜が見えた。透明に近いが、注意深く見れば、空気のゆらぎのような歪みがある。
「物部殿、アリア殿、二人で解除を試みてくれ」
理一郎とアリアはうなずくと祭壇の前に立ち、一緒に手を伸ばした。
二人の指先が結界に触れた瞬間、光が弾け、結界が音もなく消滅した。
「解けた……」
アリアの声には、安堵と驚きが混じっていた。
理一郎が『理の書』に手を伸ばす。
革の表紙は、見た目の古さに反して意外なほどなめらかだった。
理一郎は書物を持ち上げ、表紙を開こうとする。
だが――開かない。
接着でもされているかのように、何か強固な力が働いている。無理に開こうとすると、指先に痺れが走った。
「主よ」リリスが警告する。「表紙の魔法陣が、中身を閉ざしておる。結界とは別の封印ぢゃ」
「オスタネスの封印……」メリッサが眉をひそめた。「その本にも封印を施したのね」
理一郎はアリアと手を重ねて試してみたが、ページは開かなかった。
「二重鍵とはまた別の体系で封じられている」
理一郎は表紙を注視した。
魔法陣の傍らに、小さな古代文字が刻まれている。理一郎には、その意味が読み取れた。
『理を証す者のみ、この書を開かん』
「なんだ、開けないのか……」セリウスが落胆した声を上げた。
「オスタネスの封印魔法陣なのだな」バルドリックが顎をなでる。「ここまでたどり着いても、書物自体にはさらに別の封印が施されているとは。なんと厳重な」
「この封印にも条件があるはずだ。理を証す者なら開けられると刻まれている」
だが、今は開けない。
何かが、まだ足りないのだ。
「ひとまず、学都へ持ち帰ろう」バルドリックが言った。「腰を落ち着ければ、手がかりが見つかるかもしれん」
理一郎はうなずき、『理の書』をバルドリックに手渡した。
団長は書物を耐魔布で包み、携行用の施錠箱へ収めた。
* * *
帰路は、来た時とはうって変わって平穏だった。
守護者たちは沈黙している。まるで眠りについたかのように、一切の反応を示さない。
「『理の書』が持ち出されたことで、存在意義を失ったのね」メリッサが推測を口にした。
「……お役目を終えても、ずっとここに在り続けるのですね」マリエルが、ぽつりと言う。
理一郎は無言で歩いていた。
壁画の光景が、頭から離れなかった。
三星蝕。異世界からの召喚。大災厄。そして、封印。
点と点が、少しずつ線になりつつある。だが、まだ全体像は見えない。
迷宮を出た時、すでに日は傾いていた。
廃都カエリアを抜け、野営地に戻る頃には、空は茜色に染まっていた。
その時、リリスが耳元でささやいた。
「主よ。また気配がある。迷宮に入る前に感じた連中ぢゃ。どうやら、妾たちが出てくるのを待っておったらしい」
理一郎は振り返らなかった。
迷宮の外で待ち伏せていたのだろう。中には入れなかったようだ。
「複数おるな。距離を取って監視しておる」
理一郎はバルドリックに小声で伝えた。
「監視されている。外で待ち伏せていたようだ」
バルドリックは表情を変えず、感知魔法を使う。
「数は十あまり。今のところ、襲撃の気配はない。仕掛けてこないのは、我々の戦力を警戒しているのだろう」バルドリックは淡々と言った。「物部殿と宮廷魔導師団の精鋭がそろっている。正面からぶつかれば奴らも無傷では済まない」
理一郎は小さくうなずいた。
「ならば、今は『理の書』の誤送を優先しよう」バルドリックが言った。「下手に刺激すれば、向こうも動かざるを得なくなる」
「迷宮攻略で皆疲れておるからの」リリスが耳元でささやく。
バルドリックは調査団員たちに視線を送った。
「全員に警戒態勢をとらせる。だが、気づいていないふりをしよう。夜営中の襲撃に備えて、見張りは増やす」
理一郎はうなずいた。
一行は何食わぬ顔で野営地へと向かった。
だが、その足取りには、目に見えない緊張がにじんでいた。
* * *
ところどころに掲げられたかがり火が、野営地を照らしていた。
調査団員たちは、思い思いに休息を取っている。激しい戦闘の連続で、誰もが疲弊していた。
理一郎はかがり火から少し離れた岩に腰を下ろし、夜空を見上げていた。
「理一郎くん」
アリアが近づいてきた。手には温かい飲み物を二つ持っている。
「ありがとう」
理一郎はカップを受け取った。香草茶の香りが、鼻腔をくすぐる。
アリアは理一郎の隣に座った。しばらく、二人は無言で星空を眺めていた。
「ねえ、理一郎くん」
アリアが口を開いた。
「あの壁画のこと、考えてるんでしょ」
「ああ」
理一郎は正直に答えた。
「千年前、俺と同じように異世界から召喚された者がいた。その者は『理の書』の知識に基づいて何かの実験を行い、大災厄を引き起こした」
理一郎は言葉を選びながら続けた。
「俺は、世界の根本法則を知りたいと思っている。この世界の物理法則と魔法がどうつながっているのか。もしそれを完全に理解できれば……世界を支配している方程式を導き出せるかもしれない」
それは、元の世界で追い求めていた夢の延長だった。
「だが、世界の根本を操作できる知識は、使い方を誤れば世界そのものを壊しかねない。千年前に召喚された者も、同じ知識を求めていたのかもしれない。そして、その知識を得た結果が……あの廃墟だとしたら……」
アリアは黙って聞いていた。
「もし俺が同じ道をたどれば、同じ結果になるかもしれない。そう考えると……」
理一郎は言葉を切った。
アリアが、理一郎の手に自分の手を重ねた。
「壁画の所でも言ったけど、理一郎くんはちがうよ」
静かだが、確信に満ちた声だった。
「わたし、理一郎くんのこと、ずっと見てきた。理一郎くんは、知識を追い求めているけど、それだけじゃない。いつも周りのことを考えてる。困っている人がいれば助けようとするし、仲間のことを大切にしてる」
アリアは理一郎の目をまっすぐに見つめた。
「千年前の人がどんな人だったか、わたしにはわからない。でも、理一郎くんは『私欲なく理を追究する者』として、この迷宮に認められた。それって、すごいことだと思う」
アリアの言葉が、理一郎の心の奥に染み込んでいく。
「それに」アリアは微笑んだ。「理一郎くんには、わたしたちがいるよ。一人じゃない。なにかあったら、みんなで止める。だから、怖がらなくていいの」
理一郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう、アリア」
その言葉は、自然に口から出ていた。
四十二年の人生で、こんなふうに誰かに支えられた経験は、ほとんどなかった。
だが、今は違う。
この世界には、自分を信じてくれる仲間がいる。
「理一郎くん」
アリアが、少し頬を赤らめながら言った。
「あのね、今日、守護巨像を止めた時……理一郎くんと手を重ねた時、すごく不思議な感覚があったの」
「不思議な感覚?」
「なんて言うか……つながってるみたいな感覚。理一郎くんの心が、わかるような……」
アリアは言葉を探すように、少し黙った。
「……変なこと言ってるよね。ごめんね」
「いや、変じゃない」
理一郎は首を振った。
「二つの鍵が共鳴したのかもしれない。血の鍵と、理の鍵。この迷宮を開くために、俺たち二人が必要だった。そのつながりが、あの瞬間に顕在化したのだろう」
「つながり……」
アリアは、理一郎の手に自分の手を重ねた。
「わたし、うれしかった。理一郎くんと、特別につながったことが」
理一郎は、アリアの顔を見た。
かがり火の明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか大人びて見えた。十六歳の少女とは思えない、深い眼差し。
ふいに、胸の奥が温かくなった。
四十二年を生きてきて、恋愛の経験がないわけではない。
だが、これは恋愛感情なのだろうか。
理一郎には、まだわからなかった。
ただ、手のひらを裏返して、アリアの手を握る。
アリアは恥ずかしそうにうつむくが、すぐに顔を上げ、理一郎の手を握り返す。
二人はしばらく、無言で星空を眺めていた。
星々の光が、二人を静かに照らしていた。
* * *
翌日、調査団は学都ミレトスへの帰路についた。
帰りの馬車の中で、理一郎はバルドリックから渡された『理の書』を眺めていた。
「封印を解く手がかりを見つけてほしい」
団長はそう言って、書物を理一郎に託した。『理の鍵』として認められた者ならば、何か気づくことがあるかもしれない、と。
理一郎は、表紙に刻まれた古代文字と魔法陣を指でなぞる。
――おそらくこの魔法陣が鍵だ。
この書物には、この世界の根本法則が記されているはずだ。物理法則と魔法の関係。世界を構成する原理。そして、もしかしたら、異世界転移の秘密も。
だが、今はそれらを知ることはできない。
オスタネスの封印を解く方法を、見つけなければならない。
「物部殿」
バルドリックが声をかけてきた。
「帰還後、王都への報告が必要となる。『理の書』の発見は、王国にとっても重大な出来事だ。しばらくは、さまざまな方面から問い合わせがあるだろう」
「覚悟している」
「それと……」バルドリックは少し言葉を選ぶように間を置いた。「貴殿が『理の鍵』であったこと。これは、ある種の者たちにとっては、非常に興味深い情報となる。注意してほしい」
理一郎はうなずいた。
『理の書』を狙う者たちの標的になる可能性は高い。
すでに、監視者の気配もあった。
平穏な日々は、もう少し先になりそうだった。
* * *
学都ミレトスの城門が見えてきた頃、理一郎はふと空を見上げた。
青い空に、白い雲が流れている。
この数日で、多くのことがあった。
二重鍵の解明、大迷宮探索、守護者たちとの戦闘、千年前の災厄の真実、『理の書』の発見。
謎も、多く残っている。
三星蝕と『理の書』の封印の関連、千年前の異世界人の正体と行動、自分が『理の鍵』である理由、古代文字を自分だけが読める理由。そして――『理の書』の封印を解く方法。
だが、真実に、確実に近づいている。
理一郎は、膝の上に置いた『理の書』に触れた。
重みを感じる。
知識の重み。そして、可能性の重み。
この書物を開くことができれば、世界方程式の完成にも大きく近づける。
――必ず、封印を解いてみせる。
千年前の悲劇を繰り返さないために。自分を信じてくれる仲間たちのために。そして、世界の理を解き明かすために。
馬車が城門をくぐる。学都の喧噪が、理一郎を迎える。
胸の奥が熱い。
元の世界で研究に没頭していた頃以来の、あの高揚感に、理一郎は包まれていた。




