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物理学魔法で解く異世界方程式 ~物理最強だと勘違い召喚された天才物理学者の異世界冒険譚~  作者: 航太郎
第11章 オスタネス大迷宮Ⅱ

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縛蛇の奇襲

 水は思ったよりも冷たく、深かった。

 闇に包まれた地下河川。上下左右の感覚すら曖昧になる。

 水流に翻弄されながら、理一郎は必死に意識を保った。

 ――マリエルは? メリッサは?

 水面を探して手を伸ばす。指先が何かに触れた。石壁だ。

 壁づたいに上へと泳ぐ。肺が焼けたように痛む。もう限界だ。

 次の瞬間、顔が水面を突き破った。

「ぷはっ……!」

 理一郎は激しく咳き込みながら、必死に空気を吸い込んだ。周囲を見回す。

 かすかな光が見えた。結晶の光だ。青白く輝く結晶が、水面をぼんやりと照らしている。

「マリエル! メリッサ!」

 理一郎が叫ぶと、少し離れた場所から返事が返ってきた。

「理一郎さん! こちらです!」

 マリエルの声だ。理一郎は声のするほうへ向かう。

 水際の岩場に、マリエルとメリッサが這い上がっていた。二人とも全身ずぶ濡れで、息を切らせている。

「無事か……!」

「はい……なんとか……」マリエルが弱々しく微笑んだ。「メリッサさんが私の手を引いてくださって……」

「私もぎりぎりだったわ」

 メリッサが髪から水を絞りながら言った。

「ここは……どこかしら」

「地下河川だろう。崩落した床の下を流れていたようだ」

 理一郎は周囲を観察した。

 川岸は、人一人が歩ける程度の幅しかない危うい岩場だった。

 川幅は約十メートル。頭上三メートルほどの天井や壁面には発光結晶が点在し、空間を淡く浮かび上がらせている。

 この狭い岩場を下流へ伝っていけば、その先に口を開けた洞窟へ辿り着けそうだった。

「あそこから行けるかもしれない。だが……」

 水を吸った白衣は重く肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。

 メリッサも、マリエルも寒さに震えている。

「まずは服を乾かさねば」

「あら、火でも焚いて、裸で暖め合うのかしら? 私は大歓迎よ」

 緊張を和らげるためか、メリッサが軽口めいた口調で言う。

 マリエルはうつむいて、胸のペンダントを握った。

「その必要はない」

 理一郎は中指でメガネのブリッジを押し上げた。

 視界に、一つの式が浮かび上がる。

 

 ΔG_vap = ΔH_vap − TΔS_vap

挿絵(By みてみん)


 物質の相変化が自発的に進むかどうかを表す、ギブズ自由エネルギーの式だ。

 ΔG_vapは、蒸発に伴う自由エネルギーの変化。ΔH_vapは、水を液体から気体へ変えるために必要なエネルギー。Tは絶対温度、ΔS_vapは、蒸発によって増加するエントロピーを表している。

 液体が気体になれば、分子はより自由に動けるようになる。そのため、ΔS_vapは正の値を取る。

 明滅しているのは、蒸発に必要なエネルギーを表すΔH_vap。

 この値をゼロに書き換えれば、ΔG_vapは負となり、水は周囲から熱を奪うことなく自発的に蒸発していく。

 ただし、人体に含まれる水分まで気化させるわけにはいかない。理一郎は対象を、三人の衣服と髪、皮膚の表面に付着した水だけに絞った。

「その理(ことわり)に、従え!」

 理一郎が唱えた瞬間、三人の衣服と髪から白い霧が一気に立ち昇った。

 熱はまったく感じなかった。ずぶ濡れで重くなっていた白衣も、マリエルの修道女服も、メリッサのボディスーツも、まるで最初から濡れていなかったかのようにカラリと乾いていく。

 体の芯にはまだ冷えが残っていたが、これ以上、濡れた衣服に体温を奪われる心配はなくなかった。

「えっ……一瞬で……? これも物理学のおかげなのですか?」

  マリエルは信じられない様子で自分の袖を確かめた。

「こんな実用的な魔法も使えるのね。洗濯屋に商売替えしようかしら」

 妖しく微笑みながら、メリッサが理一郎の肩に手を置いた。

「でも暖め合えなかったのは、残念だわ」 

「んんっ」

 マリエルが咳払いをする。

「アリアさんたちは大丈夫でしょうか」

「無事だろう。カイラがいる」

「そうですね」

 理一郎が念のため氷砂糖を一つ口に入れる。

「さあ、行こう」

 三人は地下河川の下流に向かって歩きはじめた。


       *   *   *


 川岸から続く洞窟を進んでいくと、やがて石壁の通路に出た。

 通路は一本道だったが、先に行くと壁面の様子ががらりと変わった。

 石壁に精緻な彫刻が施されている。獣、鳥、植物――さまざまなモチーフの彫刻が壁面を飾っていた。

「すごい……」マリエルが立ち止まって壁を見上げた。「こんなに細かい細工が……」

 彫刻は見事に写実的だった。まるで生きているかのような躍動感がある。

 特に目を惹くのは、壁面に彫られた大蛇の彫刻だ。全長十メートル以上はあろうかという巨大な蛇が、壁に這うように刻まれている。

「装飾にしては、妙に威圧感があるわね」

 メリッサが眉をひそめる。

「まさか、動き出しませんよね……?」

 マリエルは胸のペンダントを握りしめていた。

「おいおい〝聖女様〟よ、それは口にしてはいかん言葉ぢゃぞ」リリスがちゃかす。

 だが理一郎も同じことを感じていた。

「気をつけろ。この迷宮に無意味な装飾があるとは思えない」

 三人は警戒しながら前進した。

 だが、蛇の彫刻に近づいた瞬間――。

 石のきしむ音が響いた。

 蛇の彫刻の目が、赤く光った。

「まずい!」

 理一郎が叫んだ時にはすでに遅かった。

 壁面から、大蛇の彫刻が剥がれ落ちてきた。

 いや、〝剥がれた〟のではない。壁から〝這い出してきた〟のだ。

 全長十メートルを超える石造りの大蛇。鱗の一枚一枚に小さな魔法陣が刻まれ、淡く発光している。

「下がれ!」

 三人はとっさに後ろに跳んだ。

 大蛇は、凄まじい地響きをたてて落下すると、石でできているとは思えないなめらかな動きで体を起こし、赤い眼で理一郎たちを見据えた。

「迷宮の守護者……『迷宮の縛蛇(アンギクストス)』か!」

 それが全身をくねらせ、凄まじいスピードで迫ってきた。

 理一郎がとっさに前に出る。

 メガネを押し上げ、ゾーンに入る。視界に方程式が浮かんだ。

 

 x(t)=x₀+vt

挿絵(By みてみん)


 理一郎が一番初めに使った物理学魔法、等速直線運動の式だ。

 明滅しているのは速度v。その値をゼロに書き換える。

「その理(ことわり)に、従え!」

 大蛇の速度をゼロに書き換え、動きを止めようとした。

 だが、大蛇は止まらなかった。

 わずかに減速しただけで、そのまま突進を続けてくる。

 ――なぜだ!?

 理一郎は愕然とした。

 式は間違っていない。速度vも、確かにゼロへ書き換えた。それにもかかわらず、効果が大蛇の運動へ完全には反映されていない。

 大蛇の尾が理一郎に迫る。

 ゾーンに入った理一郎の目が、大蛇の鱗に刻まれた魔法陣を捉えた。とっさに構造を解析する。

 ――まさか、幾何障壁?

 理一郎がセリウスとの模擬戦で使った物理学魔法に似ている。空間の曲率を局所的に操作して物体の軌道を逸らし、火炎や冷気、雷撃などのエネルギー攻撃は障壁場へ移して、その表面に沿って分散させる。

 そして、空間の対応が変われば、外部から指定した物理学魔法の干渉領域も、障壁内部の対象へそのままでは接続できない。

 理一郎が速度vをゼロに書き換えたのは、障壁の外側から捉えた大蛇の運動だった。だが、その座標は障壁面でずらされ、大蛇本体の運動へ正確には届かなかったのだ。

 式が成立しなかったのではない。

 書き換えるべき対象を、正しく指定できなかった。

 ――千年前のオスタネスは、物理法則への直接干渉まで想定していたのか。

 だが、大蛇はわずかに減速している。完全に遮断されたわけではない。

 ならば、障壁が与えられる曲率と、その作用する距離は有限だ。運動量があまりに大きければ、短い距離の中で軌道を逸らしきれないはず。

 ――強力な物理攻撃なら、通る。

 どの程度の一撃なら、障壁の処理限界を超えられる――。

 だが、その分析を終える前に、大蛇の尾が理一郎を薙ぎ払った。

 体が宙に浮き、壁に叩きつけられる。背中に激痛が走る。肺から空気が押し出され、呼吸ができない。

「理一郎さん!」

 マリエルが駆け寄ろうとしたが、大蛇が二人の間に割って入った。

「下がって、マリエル!」

 メリッサがマリエルの腕を掴んで止める。

 縛蛇が二人を睨む。

 メリッサがとっさに唱えた。

「闇よ、覆え!」

 二人の姿が闇に溶けるように消えた。隠蔽魔法だ。

 彼女たちを見失った大蛇は、再び理一郎のほうへ、ゆっくりと動き出した。獲物が弱っているので、急ぐつもりはないらしい。

「効いてるみたいだわ……でも、この魔法は私と接触していないとだめなの。理一郎はどうしよう……」

「取り急ぎ遠隔治療してみます」

 マリエルが両手を胸の前で組む。

「女神様よ、ご慈悲を! どうか、かの者を癒やしたまえ!」

 マリエルの黒い修道女服が金色の光に包まれ、その光が理一郎へと向かい、包み込む。

 メリッサが隠蔽魔法をかけているので、何もない空間から光が放たれたようにしか見えない。

 光に包まれた理一郎の顔に、血色が戻る。

「二人とも、そのまま動くな」

 理一郎が叫びながら、彼女たちとは逆の方向に走りだした。

 全力を出すが、大蛇の俊敏さは、その石造りの巨躯からは想像もつかないほどだった。狭い通路の壁や床を削り、凄まじい轟音を響かせながら迫ってくる。しかも早々に息が切れ、たいして距離を稼ぐ間もなく追いつかれてしまった。

 床を這う轟音がすぐ後に迫る。

「主(ぬし)よ、左に避けよ!」 

 後ろを見ていたリリスの指示に従って、理一郎が跳ぶ。

 だが、大蛇の牙が理一郎の肩をかすめた。

「ぐっ……!」

 牙は、革鎧並みに耐久度強化されている白衣を裂き、皮膚を切った。白衣に血がにじむ。

「理一郎さん!」

「理一郎!」

 マリエルとメリッサが隠蔽魔法から飛び出そうとした。

「来るな!」

 理一郎は壁に追い詰められながらも、二人を制した。

 だが、次の攻撃を防げる自信はない。傷は浅いが、痛みで集中力が削がれている。

 大蛇が再び襲いかかってこようとした、その時――。

 怒声が響いた。

「退け! 彫刻の分際で!」

 通路の向こうから、金色の影が飛び込んできた。

 カイラだ。

 大剣を振りかぶり、大蛇の頭部めがけて斬りかかる。

「くたばれっ!」

 金属と石材が激突する音が響いた。大蛇の頭部に深い傷が刻まれ、石の破片が飛び散る。

 大蛇が苦しげに体をくねらせた。

 カイラが理一郎の前に立ちはだかる。

「リチロー、無事か!」

「ああ……助かった……」

 理一郎は安堵の息を漏らした。だが、立っているのがやっとだ。

「遅くなってすまん。アリアたちもすぐに来る!」

 カイラの言葉通り、次々と仲間たちが通路に駆け込んできた。

 アリア、バルドリック、セリウス、宮廷魔導士たち。

「理一郎くん!」

 アリアが理一郎のもとに駆け寄ってきた。血で染まった肩を見て、顔色を失う。

「大丈夫……浅い傷だ……」

「嘘……こんなに血が……」

 バルドリックが大蛇をにらみ付けた。

「『迷宮の縛蛇(アンギクストス)』か! 全員、警戒を怠るな!」

 宮廷魔導士たちが一斉に詠唱を開始した。炎、氷、雷――さまざまな属性の魔法が大蛇に降り注ぐ。

 だが、大蛇を覆う幾何障壁が、運動エネルギー以外の攻撃を完全に無効化している。ダメージはない。

「魔法が効かないぞ!」セリウスが困惑する。

「幾何障壁だ!」理一郎が叫ぶ。「だが、強力な物理攻撃は有効だ!」

 それを聞いたバルドリックが号令を下す。

「物理攻撃に切り替えろ!」

 団長の指示で、氷魔法を使える者は氷塊を、土魔法を使える者は岩塊を放つ。

 だが、大蛇へのダメージは軽微だ。

「カイラだ。あの障壁では、カイラの斬撃ほど大きな運動量は逸らしきれない」

「ふむ。では、一斉攻撃で縛蛇の気をそらす。カイラ殿、その隙に頼む」

「任せろ! リチローのお墨付きなら、やるだけさ!」

 バルドリックが杖を構え、全員に号令した。

「一斉攻撃をかける! タイミングを合わせよ!」

 魔導士たちの魔法による物理攻撃が同時に放たれた。

 凄まじい轟音と土煙が大蛇を包む。

 そこにカイラが一条の黄金の矢となって跳躍する。

 次の瞬間、振りかざした大剣が大蛇の頭に叩き込まれた。

 そこから深い亀裂が走り、頭部が砕け散る。

 巨体が崩れ落ち、床を揺らす。

 そして、魔法陣の青い輝きが失われると同時に、縛蛇は動かなくなった。

 静寂が戻った。

「……終わった、か」

 理一郎は壁にもたれかかったまま、深く息をついた。全身が痛む。

「すぐに治療します……」

 マリエルが駆け寄り、治癒魔法を施してくれた。温かい光が傷を癒やしていく。肩の傷が塞がり、肋骨の痛みも和らいでいった。

「ありがとう」

 理一郎は礼を言いながら、大蛇の残骸を見つめた。

 厄介な相手だった。まさか千年前に幾何障壁が開発され、実装されていたとは。

「物部殿」バルドリックが近づいてきた。「無事でよかった」

「助けに来てくれて感謝する」

「それにしても縛蛇には驚きましたな。オスタネスがあのような防護魔法を実用化していたとは……」

 理一郎はうなずいた。

 ――オスタネスは、どこまで理(ことわり)に近づいていたのだろう。

 その時、アリアが理一郎の腕を掴んだ。

「理一郎くん、もう大丈夫?」

「ああ。マリエルのおかげで、すっかり治った」

「よかった……」アリアはほっとした表情を浮かべた。

 バルドリックが通路の先を見据えた。

「探索を再開しましょう。元の通路の先に第三層への階段があるはずです」

 一行は再び陣形を整え、出発した。

 理一郎は歩きながら考える。

 ――この迷宮は、侵入者を選別し、試し、ふるいにかける。

 千年前、オスタネスが何を守ろうとしたのか。

 その答えは、最奥に待つ『理の書』にあるはずだ。


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