執着の間
階段を下りると、景色が一変した。
壁から天井にかけて、青白く輝く透明な結晶が一面を覆い、通路全体を幻想的な光で満たしていた。天然の鍾乳洞のようだが、結晶の配置には、どこか人工的な規則性が感じられた。
「きれい……」アリアがつぶやく。
アリアだけでなく、誰もが息を呑むほど美しい光景だった。
ここの入り口にも古代文字が刻まれていた。
――また警句だ。
理一郎が読み上げる。
「執着の回廊:執着を断てぬ者は永劫に縛られん」
「貪欲の次は執着……」バルドリックが顎をなでる。「この迷宮は、階層ごとに我々の心を試しているようだな」
調査団は慎重に回廊へと足を踏み入れた。
結晶の美しさには誰もが魅了されていた。もちろん、誰も結晶に触れようとはしない。灯蛾の一件が、全員の警戒心を高めていた。
だが、見えない罠は、すでに張り巡らされていた。
光をほとんど散乱しない、髪の毛よりも細い透明な糸が、回廊のあちこちに張り巡らされていたのだ。
最初に気づいたのは、先頭を歩いていた宮廷魔導士だった。
「……ん?」
彼は足を止め、虚ろな目で宙を見つめはじめた。
「どうした」バルドリックが声をかける。
返事はなかった。魔導士はそのまま、立ち尽くしている。
「おい、しっかりしろ!」
カイラが肩を揺すろうとした瞬間、カイラ自身の動きも止まった。目から光が消え、大剣を握る手が緩む。
「カイラ殿!?」
次々と、調査団員たちが動きを止めていく。セリウスが、バルドリックが、マリエルが。まるで時間が凍りついたかのように、その場に立ち尽くす。
「なにが起きてるの!?」アリアが叫んだ。
「細く透明な糸ぢゃ。回廊中に張り巡らされておるぞ」
リリスの目が紅く光っている。力を使っているのだ。
理一郎は周囲を注意深く見回した。目を凝らすと結晶の淡い光が、きわめて細い何かに反射して、かすかにきらめいているのが見えた。
髪の毛よりもはるかに細く、肉眼で捉えることはほぼ不可能な糸が、結晶の光をわずかに反射して、その存在を示していた。だが、よほど注意深く観察しなければ、まず見つけられない。
その糸に触れた者の頭上に、結晶でできた蜘蛛型の魔物が姿を現した。子犬ほどの大きさがある。
「『執着の守護者』……!」
アルタイル家の古文書に、その名があった。
――対処法は記されていただろうか。
その時、理一郎は頬にかすかな違和感を覚えた。
糸だ。
気づいた時には、もう遅かった。
「理一郎くん!」
アリアの声が聞こえた。だが、その声は急速に遠ざかっていく。
視界が白く染まり、意識が深い闇へと沈んでいった。
* * *
気がつくと、理一郎は見慣れた場所に立っていた。
白い壁、蛍光灯の光、並んだ机と椅子。黒板には数式が書き殴られ、窓の外には東京の街並みが広がっている。
――ここは……。
大学の研究室だった。
理一郎が二十年以上を過ごした、物理学研究室。
「物部先生」
声に振り返ると、若い男が立っていた。白衣を着た大学院生。理一郎の教え子だった者だ。
「先生の論文、学会で大絶賛でしたよ。世界方程式の完成、おめでとうございます」
――世界方程式の、完成?
理一郎は自分の手を見た。しわのある、四十二歳の手。若返る前、元の世界での手だ。
「先生の名は物理学、いや科学全体の歴史に、永遠に刻まれますね。ニュートンやマクスウェル、アインシュタインを超える物理学者として」
教え子の言葉が、耳に心地よく響く。
机の上には、分厚い論文が置かれている。
表紙には『統一場理論の完全解――世界方程式の導出』と印刷されていた。
著者名は『物部理一郎』。
理一郎は論文をめくる。確かに、自分の字で数式が書かれている。長年追い求めてきた世界方程式が、そこにあった。
「先生、理学部長がお見えです」
ドアが開き、男が入ってきた。
理一郎の研究を奪い、彼を大学から追放した男。権威主義の権化。理一郎が最も憎んだ人間。
だが、夢の中の理学部長は、卑屈な笑みを浮かべていた。
「物部君、いや、物部先生。このたびは誠におめでとうございます。あなたを正当に評価できなかった過去の私を、どうかお許しください」
理学部長が深々と頭を下げる。
あれほど憎んだ男が、自分に頭を下げている。
奪われた研究が自分のもとに戻り、名誉が回復され、世界中から賞賛される。
これこそが、理一郎が求めていたものではなかったか。
「先生、ノーベル委員会から連絡がありました」
教え子が興奮した声で言う。
「おめでとうございます! 今年のノーベル物理学賞、先生に決まったそうです!」
歓声が上がる。同僚たちが駆け寄り、理一郎の手を握り、背中を叩く。
栄光。名誉。承認。
奪われたすべてが、今ここにある。
理一郎は目を閉じた。
――これが、俺の求めていたものだ。
長年の苦労が報われる。裏切り者が罰せられる。世界が自分の正しさを認める。
これ以上、何を望む必要がある?
このまま、ここにいればいい。この夢の中で、永遠に――。
「――理一郎」
声が聞こえた。
遠くから、かすかに。
若い女の声だ。
「これは夢よ、理一郎。目を覚まして」
メリッサだった。
理一郎は目を開けた。
研究室の風景は変わらない。
同僚たちが笑い、理学部長が頭を下げ、教え子が祝福の言葉を述べている。
だが、メリッサの声は、確かに聞こえた。
――夢?
理一郎は周囲を見回す。
そう。確かに、これは夢だ。
そんなことはわかっている。
だが、わかっていても、この場所を離れたくない。
ここには、理一郎が失ったすべてがある。
研究、名誉、承認。二十年以上を捧げた人生の集大成が、ここにある。
これを手放せと言うのか。
また、すべてを失えと言うのか。
「理一郎くん……」
今度は別の声が聞こえた。
少女の声。アリアの声だ。
「戻ってきて……お願い……」
アリアの声は、泣いているようだった。
理一郎は立ち尽くしたまま、夢の研究室を見渡した。
ノーベル賞の知らせに沸く同僚たち。頭を下げる理学部長。積み上げられた論文。窓の外の東京の街並み。
これらすべてが、理一郎の執着だった。
奪われた研究を取り戻したい。裏切り者を見返したい。世界に自分の正しさを認めさせたい。
四十二年の人生で積み上げてきた、怨念と渇望。
だが――。
理一郎は、ふと気づいた。
この夢の中で、自分は何も研究していない。
論文は完成している。世界方程式は導出されている。あとは栄光を受け取るだけだ。
だが、それは本当に理一郎が求めていたものだろうか。
名誉か。承認か。復讐か。
違う。
理一郎が求めていたのは、そんなものではない。
百万の言葉を並べるよりも雄弁に、この世の理を明解に語る方程式。
その美しさを目にした時の、背筋が震えるような感動。
未知の法則を解き明かした瞬間の、純粋な喜び。
それこそが、理一郎の求めていたものだ。
名誉も承認も、その副産物にすぎない。
理一郎は夢の中の論文を見つめた。
確かに、世界方程式がそこにある。
だが、それは、理一郎の求めた未来ではない。
奪われたものを取り戻したいという怨念。
裏切り者を見返したいという復讐心。
世界に認められたいという虚栄心。
それらは確かに、理一郎の中にあった。
四十二年の人生で、澱のように積み重なってきた暗い感情だ。
だが、それは理一郎の本質ではない。
理一郎の本質は、純粋な探究心だ。
世界の理を知りたい。宇宙を支配する法則を解き明かしたい。
その想いは、汚れていない。
「……俺が求めているのは」
理一郎は静かに言った。
「奪われた研究を取り戻すことじゃない」
夢の研究室が、かすかに揺らいだ。
「復讐でも、名誉でも、承認でもない」
同僚たちの姿がぼやけはじめる。理学部長の顔がかすんでいく。
「こんなものは執着ですらない」
理一郎は目を閉じた。
「俺が真に執着しているのは、真理そのものだ」
夢が、砕け散った。
* * *
理一郎は目を開けた。
青白い結晶の光が視界に飛び込んでくる。
頭の上で、結晶蜘蛛がカチカチと顎を鳴らしていた。獲物が目覚めたことに気づき、あわてたように脚を動かしている。
「理一郎くん!」
アリアの声が聞こえた。涙で濡れた顔が、すぐそばにあった。
「目を覚ましたのね!」
メリッサも傍らにいた。額に汗を浮かべ、疲労の色が濃い。精神干渉で理一郎に声を届けるために、相当な力を使ったようだ。
理一郎は頭上の蜘蛛をにらみ付けた。
周囲には、まだ夢の中にいる調査団員たちが立ち尽くしている。バルドリック、セリウス、カイラ、マリエル、宮廷魔導士たち。全員の頭上に結晶蜘蛛が取り付き、夢を見せ続けている。
「みんなを助けないと……!」アリアが叫ぶ。
だが、アリアの力では結晶蜘蛛を倒せない。メリッサの精神干渉も、全員を同時に目覚めさせることはできない。
理一郎は立ち上がった。
まだ体は重い。精神操作された影響が残っている。だが、動けないほどではない。
「主よ!」リリスが現れて叫んだ。「あれらは結晶体ぢゃ!」
結晶蜘蛛のような、形と弾性を持つ結晶体には、材質や大きさ、形状によって決まる固有振動数がある。その周波数で外部から振動を加えれば、共鳴現象によって振幅が急激に増大し、内部から崩壊する。
「固有振動数を教えてほしいか?」
理一郎は考えた。
オスタネス大迷宮の〝守護者〟たちは、人造魔法生物だ。おそらくすべての結晶蜘蛛は、工業製品のように、同じ材質、同じ構造で画一的に作られているだろう。つまり固有振動数も同一のはずだ。
「動的に変化しないパラメーターなら俺にも観測できる」理一郎は答えた。
「ふん。好きにせよ」
理一郎はメガネを押し上げてゾーンに入り、結晶蜘蛛の一匹に意識を集中した。
蜘蛛の結晶の特性、そして構造、密度、剛性――さまざまなデータが脳裏に流れ込んでくる。固有振動数が特定できた。
視界に方程式が浮かぶ。
mẍ + γẋ + kx = F₀cos(ωt)
周期的な外力を受ける物体の振動を記述する、強制振動方程式だ。
mは振動する部分の質量、γは振動を弱める減衰、kは構造の硬さ、xは変位。そして右辺のF_0cos(ωt)は、外部から加えられる周期的な力を表している。
点滅しているのは、外力の角周波数ω。
これを物体の固有振動数に近づけると、振動は次第に増幅する。共振だ。振動が最も大きくなる周波数を、共振周波数という。
理一郎は、特定した固有振動数から共振周波数を算出し、ωをその値に合わせた。
「その理に、従え!」
回廊の空気が、かすかに震えはじめた。
結晶蜘蛛の表面にかかる圧力が、一定の周期で変動しはじめた。
一度ごとの力は微弱にすぎない。だが、共振によって振動は一周期ごとに増幅していく。
結晶蜘蛛たちの身体が一斉に震えはじめたかと思うと、脚の付け根に青白い亀裂が走った。
カチ、カチ、と乾いた音が連なり、亀裂は胴体へ広がっていく。
やがて結晶蜘蛛たちは、青白い小片と細かな粉となって崩れ落ちた。
舞い上がった結晶の粉が、回廊の光を受けて、ダイヤモンドダストのようにきらめいた。 結晶蜘蛛が消えると、それぞれの執着に囚われていた調査団員たちが、次々と意識を取り戻しはじめた。
「……っ!」
セリウスが膝をついた。顔面蒼白で、全身が震えている。
「オレ様は……オレ様は……」
何かを言いかけて、口をつぐんだ。彼が何の夢を見ていたのか、理一郎にはわからない。だが、相当に深い執着を見せられたのだろう。
カイラは無言で拳を握りしめていた。普段の豪快さは影を潜め、苦渋の表情を浮かべている。
バルドリックは静かに目を閉じたまま、深い息を吐いた。
「……皆、無事か」
その声は、いつもより低く、重かった。
マリエルは涙を浮かべていた。何を見たのか、胸元の太陽神のペンダントを強く握りしめている。
誰も、自分が見た夢について語ろうとはしなかった。
それぞれが、心の奥底に隠していた執着を、あの夢の中で突きつけられたのだ。
だが、全員が目を覚ました。
それを確かめると、理一郎は膝をついた。
物理学魔法の連続使用と、蜘蛛の精神干渉から抜け出した反動が重なり、脳が限界を訴えている。他の団員たちは魔力の消耗を回復魔法や水薬で補えるが、理一郎の消耗は脳そのものにかかる負荷だ。回復魔法では癒やせない。
「理一郎くん!」
アリアが駆け寄り、氷砂糖を差し出した。
「ありがとう……」
甘さが脳に染み渡る。少しずつ、意識が明瞭になっていった。
メリッサが理一郎の隣にしゃがみ込んだ。
「あなた、夢の中でなにを見たの?」
「……元の世界での研究生活だ」
理一郎は静かに答えた。
「奪われた研究が認められ、裏切り者が俺に屈し、世界中から賞賛された」
「いい夢じゃない」
「だが、それは俺の本当の望みじゃない」
メリッサは少し驚いたような顔をした。
「あなた……強いのね」
「そうでもない。君とアリアの声がなければ、あのまま夢に溺れていたかもしれない」
理一郎はアリアを見た。アリアは泣き笑いの表情で、理一郎の手を握っていた。
* * *
結晶の通路を抜けると、大きな広間に出た。
天井は高く、壁面には精緻な装飾が施されている。中央には枯れた噴水があり、その周囲に休憩できそうな石段が設けられていた。
「みな消耗が激しい。ここで少し休もう」バルドリックが言った。その声には、いつもの威厳が戻りつつあった。
調査団は広間に散らばり、各自が休息を取りはじめた。
誰もが無言だった。あの夢の余韻が、まだ心に残っているのだろう。
マリエルと宮廷魔導士団の回復術士が、黙々と負傷者の治療を続けている。
理一郎は壁にもたれかかりながら、広間の壁面を見つめていた。
そこにも、古代文字が刻まれている。
理一郎だけが読めるその文字は、こう告げていた。
〈試練を越えし者よ。汝らの絆は真なるか〉
〈血の鍵のみにては、扉は開かれず〉
〈二つの鍵がそろいし時、千年の封印は解かれん〉
入り口の碑文と同じだ。アリアの血だけでは、最奥の扉は開かない。もう一つの鍵が必要なのだ。
「理一郎くん?」
アリアが隣に座った。
「どうしたの? また碑文?」
「ああ……」理一郎は少し迷ってから、碑文の内容を伝えた。
「二つの鍵……」アリアは眉をひそめた。「入り口の扉では、わたしと理一郎くんが一緒に触れて開いた。つまり理一郎くんがもう一つの鍵だよね?」
「そう考えるのが合理的だ」
理一郎は自分の手を見つめた。
オスタネスが求めていたのは、「私欲なく理を追究する者」。
それが、「鍵」としての資格なのだ。
さっきの夢を思い出す。あの夢で、理一郎は自分の中のエゴ――恨み、復讐心、虚栄心――を理解した。こちらの世界になじむにつれ、忘れていったものだ。
「理一郎くんは、古代文字が読めるよね」アリアが言った。「わたしにも、バルドリック団長にも読めない文字が」
「ああ」
「それって、すごく不思議なことだと思う。理一郎くんは異世界から来たのに、この世界の古代文字が読める。まるで……」
アリアは言葉を探すように、少し黙った。
「まるで、理一郎くんがこの世界に来ることを、オスタネスは知っていたみたい」
理一郎は答えられなかった。
同じことを、自分も考えていたからだ。
「……この先に、答えがあるかもしれない」
理一郎は静かに言った。
「理の書には、この世界の法則が記されているはずだ。もしかしたら、俺が古代文字を読める理由も、二つの鍵の意味も、そこに書かれているかもしれない」
「うん」アリアは微笑んだ。「一緒に見つけよう、理一郎くん。わたしたち二人で」
理一郎は小さくうなずいた。
小休止が終わり、調査団は再び陣形を整えた。
「先を進むぞ」バルドリックが言った。「この先に第二層への通路があるはずだ」
* * *
アリアが近づくと光る水晶に導かれ、一行は迷宮の奥へと進んでいく。
しばらくは何事もなかった。
だが、第一層の奥で、災厄は突然訪れた。
通路の床が、何の前触れもなく崩落したのだ。
「危ない!」
カイラがとっさにアリアを抱えて跳躍した。バルドリックやセリウス、他の魔導士たちも、なんとか壁際に飛びのく。
だが、理一郎とマリエル、メリッサは避けきれなかった。三人は崩れる床とともに闇の中へ落下していく。
「理一郎くん!」
アリアの悲鳴が、急速に遠ざかっていく。
落下しながら、理一郎は必死に状況を把握しようとした。
暗闇の中、風が顔を打つ。落下速度が加速していく。
――水の音が聞こえる。地下水脈か。
「マリエル! メリッサ! 息を溜めろ!」
叫んだ直後、三人は冷たい水の中に叩き込まれた。




