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物理学魔法で解く異世界方程式 ~物理最強だと勘違い召喚された天才物理学者の異世界冒険譚~  作者: 航太郎
第10章 オスタネス大迷宮Ⅰ

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貪欲の間

 魔導士の掲げる光球が、入り口付近の石壁を淡く照らしている。天井は高く、優に五メートルはあった。壁面はなめらかに磨かれた石材で覆われている。

 調査団は慎重に歩を進めた。

 やがて、通路は前方で三つに分岐していた。

「どの道を進めば良いのでしょうか」

 マリエルが不安げにつぶやいた。

 千年前の迷宮だ。アルタイル家の古文書にも地図はなかった。先遣隊も入り口の封印を解けなかったため、内部の調査は行われていない。

 バルドリックが顎をなでながら考え込む。

「セリウスよ、探索魔法を試みてみるか」

「了解」

 セリウスが杖を掲げ、詠唱を始めた。淡い青の光が杖先にともり、波紋のように広がっていく。

 だが、その光は通路の入り口で霧散してしまった。

「だめだ……なにかに阻まれてる」セリウスが首を振る。

「迷宮全体に探索妨害の結界が張られているようぢゃの」リリスがつぶやいた。

「あーあ、やっぱりしらみつぶしになるのか。一体何日かかるんだい」セリウスがぼやく。

 一行の装備は迷宮内での野営も含め、長期の探索に備えている。この事態は最初から覚悟の上だった。

 だがその時、アリアが小さく声を上げた。

「あ……あれ、見て」

 彼女が指さした先――左の通路の壁面に、淡い金色の光がともっていた。

 よく見ると、壁に埋め込まれた小さな水晶が発光している。親指ほどの大きさの透明な結晶が、まるでロウソクのように柔らかく輝いていた。

「水晶が……光ってる?」

 理一郎が近づいて観察する。中央と右の通路には、同じように水晶が埋め込まれているが、光ってはいない。

「アリア、少し離れてみてくれ」

 アリアが数歩下がると、水晶の光が弱まった。近づくと、再び輝きを増す。

「他の道はどうだろう?」

 だが、直進も右も、アリアが近づいても水晶は光らない。

「なるほど……」理一郎は納得した。「アリアの存在に反応している」

「うむ――」バルドリックが感嘆の声を漏らした。「オスタネスの血を引く者だけが正しい道をたどれるよう、導きの術式が組み込まれているのだろう。さすがは伝説の迷宮製作者だ」

「血の継承者以外には、永遠に出口のない迷路というわけか」理一郎がつぶやく。

「わたしが道標に……なるんですね」

 アリアは水晶を見つめ、静かにうなずいた。

「では、アリア殿を中心に隊列を組み直す。前衛にカイラ殿、後衛に宮廷魔導士。アリア殿と物部殿は中央、メリッサ殿とマリエル殿もそこに入ってくれ」

 バルドリックの指示で、調査団は新たな陣形を整えた。

 一行は、光る水晶に導かれるまま、左の通路へと足を踏み入れた。


       *   *   *


 壁面のところどころに、古代文字が刻まれていた。

 理一郎はそれを読みながら歩いた。大迷宮の門で感じたのと同じだ。見たこともない文字なのに、意味が頭に流れ込んでくる。

〈此処《ここ》は理(ことわり)を秘めし場所なり。資格無き者は退け〉

〈血の契約を継ぐ者と、その者に認められし私欲なく理(ことわり)を追究する者のみ、奥へ進むことを許される〉

「理一郎くん? どうしたの?」

 アリアが不思議そうに振り返った。

「君にはこの文字が読めるか?」

「ううん」アリアが首を振る。「似たような古代文字は見たことがあるけど……」

「そうか……なんでもない」

「主よ」リリスが耳元でささやいた。「この文字、お主以外には読めておらんようぢゃな」

 確かに、他の団員たちは壁の文字に特別な関心を示していない。バルドリックでさえ、古代文字を解読しようとはしていなかった。

 ――俺にだけ読めるのは、そして俺にだけ興味を持たせようとするのは、なぜだ?

 警告の意味は、まだわからない。だが、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。

 廃都のクレーター。物理定数の異常。そして、この警告。

 バルドリックは言った。オスタネスは千年前から自分のような存在を想定していたかもしれない、と。

 点と点が何かを描こうとしているが、まだつながらない。それがひどくもどかしかった。


       *   *   *


 いくつかの分岐を水晶の指示通りに進むと、大きな広間の入り口に着いた。

 その入り口の上部、アーチ状の石組みに、古代文字が刻まれている。

 理一郎だけが読めるその文字は、こう告げていた。

〈貪欲の間〉

 その下には、警句が一回り小さな文字で刻まれている。

 理一郎は眉をひそめた。この迷宮は、単なる防衛機構ではない。侵入者の資質を試す場として設計されているように思えた。

「どうした、物部殿」バルドリックが声をかける。

「この広間の名称が刻まれている。『貪欲の間』と。そして『貪欲なる者は己の欲に喰われん』とある」

「ふうむ……」バルドリックが顎をなでる。「何らかの試練を予感させる警句だ。全員、警戒を怠るな」

 一行は慎重に広間へと足を踏み入れた。

 天井は見上げるほどの高さがあり、星明かりのような無数の輝きできらめいている。

 巨大な石柱が林立し、その表面には精緻な浮き彫りが施され、神話の場面らしき図像が描かれていた。

「見事です……」マリエルが息を呑んだ。「これほどの技術が、千年前に……」

 だが、その感嘆は長く続かなかった。

 天井の無数の光点が、突如降り注いできたのだ。

「あれは……文献にあった『灯蛾(ルキモス)』」

 バルドリックがつぶやいた。

 光点の正体は、手のひらほどの大きさの蛾だった。

 半透明の翅が燐光を放ち、光り輝く鱗粉をまき散らす。数十匹の群れがまるで踊るように一行の周りを舞う光景は、幻想的な美しさすら感じさせる。

「なんと……まるで宝石のようだ……」

 光球を掲げた宮廷魔導士の一人が、思わず光の群れに手を伸ばす。

「一つでも持ち帰れば……一財産に……」

 釣られるように、数人が灯蛾の燐光を追いかける。

「だめよ!」

 メリッサは、その光に幻惑作用のあることを感じ、鋭く制止した。

 だが遅かった。

 灯蛾たちは釣られた魔導士たちを取り囲むように舞いはじめ、ゆるやかに広間の奥へと誘導していく。魔導士たちは夢遊病者のように、ふらふらとその後を追う。

「待て! 戻れ! 『迷宮の守護者』の一種だ」

 彼らにはバルドリックの叫びも届かない。

 理一郎は入り口の警句を思い出した。

 ――貪欲なる者は己の欲に喰われん。

 その意味を考えれば、灯蛾は人の欲に反応するのだろう。つまり――。

「あの燐光には精神干渉の効果がある。欲望を刺激し、増幅させているんだ」

 理一郎は叫んだ。

 灯蛾の燐光は、ただの光ではない。見る者の欲を刺激し、理性を麻痺させる。そして欲に駆られた者を、罠へと誘い込む。

 まさに警句通りだ。

 だが、分析している暇はなかった。

 広間の奥で、誘導されていた魔導士の一人が繭に包まれようとしている。

 魔導士に降り注いだ灯蛾の鱗粉が繭の糸に変化しているのだ。

「なんだ、それは!」

 カイラが助けに向かおうとしたが、灯蛾の群れがその前に立ちはだかった。

 集まった燐光がカイラの目を捉える。

「なっ……これは……」

 カイラの動きが止まった。目が虚ろになり、大剣を握る手が緩む。

「カイラ殿!」バルドリックが叫ぶ。

 灯蛾はカイラだけでなく、次々と調査団員を虜(とりこ)にしていく。抵抗力の弱い者から順に、欲望の幻影に囚われていった。

「くそっ、オレ様は……オレ様はもっと強く……」セリウスがつぶやきながら膝をつく。

「いけない! このままでは全員が……!」アリアが叫ぶ。

 理一郎は考えた。

 灯蛾の燐光は精神干渉の媒介だ。その燐光さえ無効化できれば、幻惑効果を断ち切れる。

 理一郎はメガネを押し上げ、ゾーンに入った。

 視界に方程式が浮かぶ。


 λ = c/f

挿絵(By みてみん)


 波長λと光速度cと周波数fの関係式だ。明滅しているのは、周波数f。

 灯蛾の燐光は可視光線の特定の波長帯域で精神干渉を起こしている。周波数fを上げて波長を人間の可視域外――紫外線領域まで短くすれば、幻惑効果は消える。

「その理(ことわり)に従え!」

 理一郎が唱えた瞬間、広間を満たしていた燐光の色が変わった。

 淡い金色だった光が、急速に青みを帯び、そして――消えた。

 正確には消えたわけではない。紫外線に改変されたことで、人間の目には見えなくなったのだ。

 幻惑の光が消えた瞬間、調査団員たちの動きが止まった。だが、まだ完全には正気に戻っていない。すでに植え付けられた幻覚が、彼らの心を蝕(むしば)んでいる。

「メリッサ!」理一郎が叫んだ。「まずカイラの幻惑を解け!」

「わかったわ!」

 メリッサは即座に動いた。

 繭に包まれたカイラに駆け寄り、その額に手を当てる。

「目を覚まして……あなたの心に、私の声を届ける……」

 金色の光がメリッサの目にともる。精神干渉魔法で、灯蛾が植え付けた幻覚を剥がしていく。

「すまねえ……助かったぜ」

 カイラが正気に戻った。すぐさま虎人化して繭から脱出する。

 だが、灯蛾たちは諦めていなかった。

 燐光による幻惑が効かなくなったことを感知したのか、今度は直接攻撃を仕掛けてきた。群れが一斉に調査団員たちへ襲いかかる。鱗粉が肌に触れた者は、再び欲望の幻影に囚われはじめた。

「アリア!」理一郎が叫ぶ。「結界を!」

「わたしは、拒む!」

 アリアが両手を広げた。金色の光が広がり、調査団全体を包み込む結界が形成される。

 灯蛾たちは結界に阻まれ、その外側で旋回するしかなくなった。鱗粉も結界を通過できない。

 その間に、メリッサは残る団員たちの幻惑を順に解いていった。カイラは正気を取り戻した者の繭を破って救出する。

 セリウス、バルドリック、他の魔導士たち――二人の連携によって、やがて全員が正気を取り戻した。

「しかし、これでは先に進めないわね」メリッサが額の汗を拭いながら言った。「結界を解けばまた襲ってくる」

 確かに、灯蛾たちは結界の外で旋回し続けている。獲物を諦める気配はない。

 その時、アリアが小さく声を上げた。

「あの蛾はわたしの所には来なかった」

 言われてみれば、確かにそうだった。

 灯蛾は最初からアリアには寄ってこなかった。

 まるで見えない壁に阻まれているかのように、一定の距離で旋回するだけだった。

「オスタネスの血……」理一郎がつぶやいた。「守護者は、血の継承者を敵と認識しないよう設計されているのかもしれない」

「なるほど」バルドリックがうなずいた。「アリア殿を中心に密集すれば、結界を解いても安全ということか」

 アリアが試しに結界を解いてみる。

 すぐに灯蛾たちが殺到してくる。だが、アリアの周囲数メートル以内には近づけなかった。

 調査団は、アリアを囲むような陣形で広間を抜けていった。


       *   *   *


 広間を抜けた先の通路で、メリッサが足を止めた。

「待って。……なにか、視線を感じる。隠蔽魔法の気配があるわ」

 彼女の目が鋭く壁面を見つめる。

 理一郎も目を凝らすが、ただの石壁にしか見えない。

「壁の中に……なにかが潜んでいる」メリッサが低く告げた。「私たちを監視している」

「『石壁の監視者(ガルゴラピス)』か」バルドリックがつぶやいた。「文献に記述があった。壁に埋め込まれた監視装置だ。破壊すると警報を発し、他の守護者を呼び寄せる」

「どこだ? 俺にはなにも見えないが」

 宮廷魔導士の一人――ガレスが壁に近づき、手を伸ばした。

「いかん!」

 バルドリックの制止は間に合わなかった。

 ガレスの指先が壁面に触れた瞬間、石壁の一部がかすかに発光し、目を模した紋様が浮き上がった。人の顔ほどの大きさがある。それが、ゆっくりと開いていく。

 血のように赤い光が、ガレスの目を貫いた。

「ぐ……あ、ああああっ!」

 ガレスが頭を抱えて絶叫した。膝から崩れ落ち、床を転げ回る。

「敵だ! 侵入者だ! 殺せ、殺せ、殺せ!」

 彼は虚空に向かってやみくもに魔法を放ちはじめた。炎が壁を焦がし、氷のつぶてが天井を削る。

「ガレス! 正気に戻れ!」バルドリックが叫ぶ。

 だが、彼の目は焦点が合っていない。監視者の精神干渉によって、仲間が敵に見えているのだ。

「わたしは、拒む!」

 アリアが急いで結界を張り、ガレスの魔法を防ぐ。

「私がやるわ!」

 メリッサが素早く駆け寄り、ガレスの額に手を当てた。彼女の目が金色に輝く。

「静まりなさい……あなたの心に、私の声を届ける……」

 精神干渉魔法の応酬。メリッサの意識がガレスの精神に入り込み、監視者が植え付けた幻覚を剥がしていく。

 数秒後、ガレスの体から力が抜けた。

「あ……俺は……なにを……」

「大丈夫、もう終わったわ」メリッサが額の汗を拭う。「監視者の精神干渉よ。覚醒すると、侵入者に幻覚を見せて同士討ちを誘発するみたい」

 ガレスは青ざめた顔で自分の手を見つめた。

「俺は……仲間を攻撃しようとしていたのか……」

「けが人は?」バルドリックが周囲を見回す。

 幸い、アリアのおかげでガレスの魔法は誰にも当たっていなかった。だが、壁のあちこちで、新たな『目』が開きはじめている。赤い光が、通路全体を不気味に照らしていた。

「まずいわね。一つが目覚めると、次々に覚醒するみたい」

 メリッサの声に焦りがにじむ。このままでは、精神干渉を受ける者が増えてしまう。

「私の治癒魔法では、あの精神干渉には対処できません」マリエルが不安げに言った。

「さっきの灯蛾(ルキモス)もそうだけど、この迷宮にいるのは初めて見る魔物ばかりだわ」

 情報の売買を生業(なりわい)としているメリッサも、オスタネス大迷宮の人造魔法生物については何も知らなかった。

「私と理一郎だけなら、私の隠蔽魔法で切り抜けられるんだけど……」メリッサが理一郎を見る。「古文書にあれの対策は書いてあったの?」

 理一郎は首を振る。

「迷宮守護のためにオスタネスが製作したとは記されていたが……」

 だが、すぐに何かを思いついたように、メガネフレームを指でつかむ。

「迷宮防衛機構として創られたものなら、基本的な行動原理の存在を仮定できる。例えば、アリアには反応しないかもしれない、灯蛾のように」

「なるほど――」バルドリックがアリアを見る。「アリア殿、結界を維持したまま、数歩だけ前へ出てもらえるだろうか。我々が後ろから援護する」

 アリアは一瞬おびえた表情を浮かべた。壁の至る所で赤い光が点滅し、今にも襲いかかってきそうな気配だ。

 だが、彼女はすぐに表情を引き締めた。

「……わかりました」

 アリアは結界を張ったまま、慎重に数歩前へ出た。

 すると、開きかけていた『目』が次々と閉じていく。

 体の震えを抑え、勇気を振り絞って隊列の前に出る。

 赤い光が消え、壁面は再びただの石壁に戻っていった。

 石壁の監視者(ガルゴラピス)たちの防衛機能は、オスタネスの血を引く者に対しては働かないようだった。

「……私たちを味方と認識したみたい」メリッサが安堵の息を漏らす。

 調査団は、アリアを先頭にゆっくりと通路を進んだ。

 壁の『目』は依然として存在していたが、アリアが近づくと光を失い、まるで眠りについたかのように沈黙した。

「アリア殿がいなければ、この迷宮の攻略は不可能だったのだな」

 バルドリックが感嘆の声を漏らした。

 やがて、先のほうに下に降りる階段が見えてきた。

「あの先が第二層への入り口だろう」バルドリックが言った。「ガレス、体調はどうだ」

「……大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」

 ガレスは顔色こそ悪かったが、なんとか立ち上がっていた。精神干渉の後遺症は残っているようだが、歩けないほどではない。

「では、先を急ごう」

 一行は階段へと向かった。

 その降り口の上部に、また古代文字が刻まれている。理一郎にだけ読めるその一文は、こう告げていた。

〈手放せぬ者、己の握るものに囚われん〉

 理一郎は、まだ見ぬ第二層を見下ろした。階段の闇は深く、その底はうかがえない。

 この迷宮は、侵入者の心の弱さを、一つずつ暴いていくつもりらしい。


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