千年の扉
翌朝。
一行は野営地を発ち、聖嶺山脈の山道を登りはじめた。
かつての巡礼路は荒れ果てていたが、かろうじて道の痕跡は残っていた。崩れた石段、倒れた道標、朽ちた休憩所の跡。千年前、この道を多くの巡礼者が歩いたのだろう。
理一郎は足元の石段を見つめながら歩いた。風化した石材には、かすかに文字らしきものが刻まれている。だが、それを読み取る余裕はなかった。
山道は次第に険しさを増していく。時折、崖沿いの細い道を進まなければならず、調査団の足取りは慎重になった。
「足元に気をつけてね」
アリアが振り返って声をかける。
今回のアリアは制服の上に、防刃・防寒・耐熱効果の付与された丈の長いケープを羽織り、同じく特殊効果の施されたロングタイツをスカートの下にはいている。さらにロングブーツに手袋と、ゲレフ未完遺跡の時よりも重装備だ。
彼女の足取りは軽やかだ。山歩きに慣れているのだろう。
「ああ」
理一郎は短く答えた。十七歳の体は元の四十二歳の体よりはるかに動くが、それでも険しい山道はこらえた。
登ること数時間。
ついに、一行は巨大な岩壁の前に到達した。
聖嶺山脈の断崖が、まるで天を支える壁のようにそびえ立っている。灰色の岩肌は千年の風雪に磨かれ、ところどころに苔や地衣類が張り付いていた。
その岩壁の中央に、それはあった。
巨大な石造りの入り口。
周囲の荒々しい自然とは明らかに異質な、人工の構造物だった。高さは十メートルほど、幅も五メートルはある。切り出された巨石を精密に組み上げた門構えは、千年の歳月を経てなお、一分の狂いもなく直立している。
扉の表面には、複雑な魔法陣が幾重にも刻まれていた。
同心円状に広がる紋様、それを貫く直線、交差する曲線――幾何学的でありながら、どこか有機的な印象を与える紋様が、扉全体を覆い尽くしている。その隙間を埋めるように、見たこともない古代文字が刻まれていた。象形文字のようでもあり、ルーン文字のようでもある。
門の左右には、風化した石像が立っていた。人の形をしているが、顔の造作は長い年月で削り取られ、判然としない。ただ、その姿勢だけが厳かに遺されている――両手を胸の前で組み、訪問者を見下ろすように佇む、門番の像。
理一郎は真っ先に駆け寄り、扉を見上げた。
「これが……オスタネス大迷宮の入り口……」
物理学者としての目が、その構造の異常さを捉えていた。これほどの巨石を、どうやってこの山中まで運び上げたのか。どうやって、ミリ単位の精度で組み上げたのか。元の世界の技術でも容易ではない。
だが、それ以上に気になるのは、扉から感じる圧迫感だった。
肌が粟立ち、胸の奥を押さえつけられるような、冷たく重い感覚。封印が周囲に何らかの作用を及ぼしていることだけは、理一郎にもわかった。
「こんなに濃密で、重くて、冷たい魔力は、初めて……」アリアがつぶやく。
千年の歳月を経てなお衰えぬ力が、侵入者を拒むように扉全体から放たれていた。
バルドリックが馬を降り、扉に近づく。
「我々宮廷魔導師団が二年かけても開けられなかった封印だ。アリア殿、頼めるか」
「はい」
アリアは深呼吸をしてバルドリックに続く。
「大丈夫か?」と理一郎。
「うん。でも、正直に言うと少し怖いな」
アリアは自分の手を見つめた。その手に、千年の封印を解く力が宿っているという。
「俺がそばにいる。なにかあったら、すぐに助ける」
「……ありがとう、理一郎くん」
アリアはかすかに笑い、扉へと歩み寄った。
調査団の全員が固唾を呑んで見守る中、アリアは扉に手を触れた。
瞬間、風化した石像の目と扉の魔法陣が、金色に輝いた。
光は脈動するようにアリアの手から扉全体へと広がり、刻まれた古代文字が次々と浮かび上がる。
だが――扉は開かなかった。
金色の光は脈動を続けているものの、扉そのものはびくともしない。アリアの額に汗が浮かぶ。
「どうした、アリア殿」バルドリックが声をかける。
「わかりません……封印は反応しているはずなのに……」
アリアは扉へ両手を当て、さらに魔力を注ぎ込む。だが、千年の扉は沈黙を守ったままだ。
その時、理一郎は浮かび上がった古代文字に目を凝らしていた。
不思議なことに、その文字が――読める。
見たこともない文字体系なのに、意味が頭の中に流れ込んでくる。
〈血の契約を継ぐ者よ。汝の意志を示せ〉
それは確かにアリアへの呼びかけだった。だが、その下に別の一節が続いている。
〈私欲なく理を追究する者よ。汝もまた手を添えよ。二つの鍵が揃いし時、封印は解かれん〉
――二重鍵の意味が違う?
理一郎はもう一度碑文を読み直した。
間違いない。
この扉を開くには、アリアの血統だけでは不十分なのだ。
「バルドリック師団長」理一郎が声を上げた。「碑文が読める」
「なんですと?」バルドリックが振り返る。「物部殿、この古代文字をご存じか」
「初見だ。だが、なぜか読める」理一郎は扉に近づきながら説明した。「扉を解錠するには、『血の契約を継ぐ者』と『私欲なく理を追究する者』が必要だとある」
「古文書の解析結果とは異なりますな」
「解釈を誤ったのかもしれない。この碑文どおりなら、鍵を開けるには二人の人間が必要だ」
「二人……?」アリアが目を見開いた。
「アルタイル家の血統だけでは不十分だったということか」バルドリックが顎をなでる。
「血統は確かに鍵の一つ。だが、もう一つは魔力ではなく、別の資格を持つ者だ」
「『私欲なく理を追究する者』」マリエルが小さく繰り返した。
全員の視線が、理一郎に集まった。
理一郎自身も、その含意に気づいていた。
物理学者として、ただ世界の理を知りたい――そうした彼の今の在り様を、もっとも的確に言い当てている。少なくとも、この場でその条件に最も近いのは自分だろう。
「……試してみる価値はある」
理一郎は右手を伸ばし、扉に触れているアリアの手に、そっと自分の手を重ねた。
「理一郎くん……」
次の瞬間、二人の間で何かが共鳴した。
アリアの手からあふれる金色の光が強く脈打つ。
呼応するように、理一郎が触れた箇所から青白い光が立ち上がる。
二つの光は渦を巻くように絡み合い、扉の魔法陣全体へと広がっていった。さらに交互に脈動し、刻まれた古代文字が一斉に輝いた。
「なんだ、この光は……」セリウスが目を見張る。
「美しい……」マリエルが息を呑んだ。
二色の輝きが最高潮に達した瞬間、扉の奥で何かが解かれる音が響く。
千年の扉が、ゆっくりと開きはじめた。
冷たく湿った空気が、長い沈黙を破って外へと流れ出していく。扉の向こうには、深い闇が息を潜めていた。
「開いた……!」アリアが歓喜の声を上げる。「理一郎くん、開いたよ!」
「ああ……」
理一郎は自分の手を見つめた。今の現象はなんだったのか。なぜ自分の手がアリアの手と共鳴したのか。
そして、なぜ自分にだけ古代文字が読めるのか。
疑問は尽きないが、答えは見つからない。
「見事だ、物部殿」バルドリックが感嘆の声を漏らした。「古代文字を解読し、封印の仕組みを看破するとは。君がいなければ、この扉は永遠に閉ざされたままだっただろう」
「偶然だ。なぜ俺に読めるのか、自分でもわからない」
「謙遜することはない」バルドリックは目を細めた。「『私欲なく理を追究する者』――碑文がそう記しているのであれば、君はその条件を満たしているということだ。オスタネスは千年前から、君のような存在を想定していたのかもしれんな」
理一郎は答えなかった。
千年前から想定されていた? それは、千年前にも自分と同じような存在がいたということではないのか。
バルドリックが厳かに宣言した。
「これより、オスタネス大迷宮への探索を開始する。全員、いっそう気を引き締めるように」
調査団は、千年の時を経て再び開かれた扉の向こうへ、一歩を踏み出した。
理一郎は、入り口のすぐ内側を見上げた。
そこにも古代文字が刻まれている。
〈異界より来たりし者よ、心せよ。汝の求むる理は、汝が世界をも滅ぼし得る刃なり〉
その一文を読んだ瞬間、理一郎の足が止まった。
異界より来たりし者――それは、まさに自分のことではないのか。
理一郎はその不可解な警句を脳内で反芻しながら、迷宮へと足を踏み入れた。
全員が中に入り終えると、背後で低い駆動音が響いた。
振り返ると、千年の扉が、ひとりでにゆっくりと閉じはじめている。
外光が細く狭まり――やがて、重い音を残して、扉は完全に閉ざされた。
石の継ぎ目すら見分けられぬほど、ぴたりと。
「退路を確かめておこう」
バルドリックの求めに応じ、アリアと理一郎が、内側から扉へ手を触れた。
刻まれた魔法陣が、金色と青白い光を淡く帯びる。入るときと、同じ反応だった。
「内側からも開けられそうだ」と理一郎。
バルドリックが小さくうなずく。
「よし。ならば、閉じ込められる心配はない」
二人が手を離すと、光は静かに消えた。
辺りが、ふたたび漆黒の闇に包まれる。
「主よ」リリスが耳元でささやいた。「さっきぢゃ、後ろから視線を感じたぞ」
「……擬人族か」
「おそらくの。しかし、扉が閉じてしまっては奴らは追ってこれんぢゃろ」
理一郎はバルドリックへ近づき、声を落として報告した。
「団長。扉が閉まる直前、何者かがこちらを監視していたようだ。擬人族の可能性がある」
「承知した。帰路での待ち伏せもあり得る。警戒を怠らぬよう、全員へ伝えよう」
理一郎は黙ってうなずいた。
「明かりを」
バルドリックの指示で、宮廷魔導士たちが魔法の光球をともした。白い光が石壁に反射し、通路の先を照らし出す。
通路は真っ直ぐに伸び、ゆるやかに下っているようだった。
「では、行こう」
バルドリックが厳かに、しかし力強く号令した。




