廃都カエリア
調査団は三叉の丘周辺の丘陵地帯で野営を解き、夜明けとともに出発していた。
ミスマリアム礼拝所への分岐路までは、以前にも通った道だ。だが、あの時は夜で景色は見えなかった。
馬車が揺れるたびに、窓の外の風景が変わっていく。草原は次第にまばらになり、やがて荒涼とした岩場が目立ちはじめた。
昼が近づく頃、理一郎は馬車の幌を上げ、眼前に広がる光景に息を呑んだ。
まず目に飛び込んできたのは、遠くにそびえる山脈だった。
聖嶺山脈――その名の通り、神々しいまでに白く輝く峰々が、青空を背景に連なっている。
かつてはその山頂に、「神々の国に通じる門」があると信じられていたという。
だが、理一郎の視線は、すぐに別の物にくぎ付けになった。
廃都の手前に横たわる広大な窪地。
直径数百メートル、深さは数十メートルはあろうか。千年の歳月で草に覆われてはいるものの、その不自然な地形は明らかに人為的な物だった。周縁部は緩やかに盛り上がり、中心に向かってすり鉢状に沈み込んでいる。典型的な爆発痕の形状だ。
――まさか、核爆発のクレーター?
あり得ない。この世界に核兵器など存在しないはずだ。
だが、物理学者としての直感が告げている。あの窪地は、膨大なエネルギーが一点から放出された痕跡だと。
理一郎は窪地の規模を目測した。直径五百メートル、深さ五十メートルと仮定すれば、それを生み出すのに必要なエネルギーは、TNT火薬換算で数百キロトンから、メガトン級に達する可能性もある。
「どうしたのぢゃ、主よ。脳波が乱れておるぞ」
リリスが理一郎の肩に現れた。小さな悪魔は、主人の視線を追ってクレーターを見下ろす。
「あの窪地……」リリスは目を細めた。「妙ぢゃの。基底部付近のガラス化した岩石には塩素36が異常に多い。土壌には炭素14、ベリリウム10、アルミニウム26が通常より多いのう」
「放射線は?」
「問題ないレベルぢゃな」
「プルトニウム239やアメリシウム241は?」
「超ウラン元素を探しとるのか? 何も見当たらんぞ」
未反応の核燃料はないということだ。
「核分裂生成物はどうだ?」
「ヨウ素129もテクネチウム99もないのう」
理一郎は黙ってうなずいた。
通常の核分裂爆発を示す痕跡はない。
だが、塩素36は高濃度で残っている。それは、塩素が中性子を吸収して生じる同位体だ。クレーターとガラス化した岩石を併せて考えれば、ここで大規模なエネルギー放出が起きたことは間違いない。
――とすると核融合か、未知の核反応か、あるいは……。
E=mc^2――質量とエネルギーの等価性。
わずか数グラムの物質を完全にエネルギーに変換すれば、都市一つを壊滅させるほどの破壊力が得られる。もしこの世界の誰かがその原理を応用したとすれば、あのクレーターは説明がつく。
――まさかな……。
「理一郎くん、大丈夫?」
隣に座っているアリアが心配そうに声をかけてきた。
「ああ、問題ない」
理一郎は努めて平静を装った。今は推測を口にすべき時ではない。
クレーターがはるか後方に小さくなった頃、調査団長のバルドリックが馬上から一行を見回した。銀髪に銀縁メガネの宮廷魔導士は、五十代半ばとは思えぬ精悍な眼差しで号令を発する。
「これより廃都に入る。廃都では人体にさまざまな影響が出ると先遣隊が報告している。体調に異変を感じた者は、すぐに申し出ること」
一行は粛々と廃都へ向かった。
* * *
廃都――。
千年前、そこは『聖都カエリア』と呼ばれ、宗教と学問の中心地として大いに栄えた。
だが、ある時、一夜で滅び、以後、禁足地に指定され、許可された者以外は立ち入ることはできなかった。
その外縁が近づくにつれ、風景は一変した。
かつての城壁の遺構が姿を現す。巨大な石材が積み上げられた壁は、ところどころ崩れ落ちてはいるものの、往時の威容を偲ばせるに十分だった。
そしてその向こうに、廃都の全景が広がっていた。
千年の眠りについた都市。
石造りの建物が密集し、崩れかけた尖塔が空を指している。大通りだったらしき道が、都市の中心に向かってまっすぐに伸びていた。その先には、ひときわ大きな廃墟が見える。かつての大神殿だろうか。
「ここは……」ふいにアリアがつぶやいた。「哀しい場所だね」
彼女は馬車の窓から廃墟を眺め、どこか遠い目をしている。
「哀しい?」
「うまく言えないんだけど……懐かしいような、切ないような。なぜだろう、胸が締め付けられるの」
理一郎はアリアの横顔を見つめた。アルタイル家は迷宮製作者オスタネスの末裔だ。もしこの廃都がオスタネスの故郷だったとすれば、アリアが理由のわからない感傷をいだくのも不思議ではないのかもしれない。
血に刻まれた記憶のなごり――そんな非科学的な言葉が脳裏をよぎった。
建物は風化し、屋根は落ち、壁は苔に覆われている。だが、倒壊した柱や壁の向きに、爆風を受けた痕跡は見られない。それらは、時の流れによる自然な崩壊だと考えられた。
「爆風は影響しとらんようぢゃの」リリスがつぶやいた。
理一郎は周囲を見回す。
草木はまばらにしか生えておらず、生えている物も形が歪んでいる。幹がねじれた木、異様に肥大した葉、本来あるはずのない方向に伸びた枝。鳥の鳴き声も聞こえない。
――生物が本能的に避ける場所……。
大通りを進むにつれて、理一郎の違和感は次第に強くなっていった。
道の両脇には、崩れ落ちた柱や瓦礫が散乱していた。
だが、その残り方がどこか不自然だった。
わずかな支点に載ったまま、崩れずに残っている石材。細い柱一本に支えられ、斜めに突き出したまま静止している梁の残骸。本来の重さがかかっていれば、とっくに支点が砕け、地面へ落ちているはずだ。
広場の中央には、古びた噴水があった。驚いたことに、千年の時を経てなお、彫刻の口から水が湧き出している。
だが、その水の軌跡がおかしい。
噴き上げられた水は放物線を描いている。方向が曲げられているわけではない。だが、落下するまでが明らかに遅い。水は不自然なほど長く宙にとどまり、通常より大きく緩やかな弧を描いて水盤へ落ちていく。
理一郎は足元の小石を拾い、肩の高さから落とした。
小石は真下へ落ちた。だが、地面に達するまでの時間が明らかに長い。
重力の方向は変わっていない。この一帯では、物体を地面に引く力が弱くなっている。
「まさか……重力定数が変わっているのか」
理一郎は小さくつぶやいた。
光もおかしい。
太陽はすでに高く、廃墟にも明るい光が差し込んでいるはずなのに、影の落ち方がどこかおかしい。輪郭がぼやけ、色合いが周囲の風景と微妙にずれている。空も、本来なら澄んだ青であるはずが、どこか濁ったような、くすんだ色をしていた。
「……なんだ、これは」理一郎は眉をひそめた。
その時、先頭を行く宮廷魔導士の一人が声を上げた。
「おかしいぞ……火がまともにつかない」
彼は松明に魔法で火をつけようとしていたのだが、その炎は通常の橙色ではなく、妙に青白い。燃焼効率も悪いようで、なかなか安定しない。
調査団に動揺が広がりはじめた。
「落ち着け」バルドリックが声を張る。「この場所では魔法が不安定になることはわかっていた。あわてるな」
体にも変調が訪れはじめた。
こめかみの奥に、鈍い圧迫感がある。頭痛というほどではないが、何かが神経を刺激しているような不快感。呼吸も心なしか浅くなっている気がした。
「主よ、妾も調子がおかしいぞ」
リリスが顔をしかめる。
「情報の読み取り精度が落ちておる。まるで……そうぢゃな、ノイズの多い環境で信号を拾おうとしているような感覚ぢゃ」
理一郎の脳裏に、一つの仮説が浮かんだ。
まさか――物理定数が変わっている?
ばかな。物理定数は宇宙のどこでも同じはずだ。だが、もしこの世界の『理』を書き換える力があるなら。
微細構造定数、重力定数――電磁相互作用と重力相互作用の強さを決める根本的な定数。もしそれらが局所的に変わっているとすれば……。
微細構造定数がわずかにでも変化すれば、電子遷移のエネルギー準位が変わり、燃焼時の発光スペクトルはシフトする。それが炎の色の異常を説明できる。神経伝達物質に関わる化学反応の速度や平衡が変化すれば、頭痛や倦怠感も説明がつく。重力定数の変化は、あの噴水の水の軌跡を説明する。
「理一郎くん? 顔色が悪いよ」
アリアが心配そうにのぞき込んできた。
「ああ……少し頭が重い。この場所は、長居しないほうがいい」
「わたしも、なんだか体がだるい」
アリアだけではなかった。調査団の面々も、程度の差こそあれ不調を訴えはじめていた。
「うえぇ……気持ち悪い……」
金髪の少年――セリウスが、馬車の縁にもたれかかっていた。顔色は青白く、いつもの自信満々な態度は影を潜めている。
「情けねえな」カイラが呆れたように言った。「お前、最年少で宮廷魔導士になったって吹聴してた奴だろ?」
「う、うるさい……これはオレ様のせいじゃない……」
「先を急ぎましょう」
バルドリックが一行を促す。調査団は足早に廃都を通り抜け、聖嶺山脈へと続く古い巡礼路へ向かった。
* * *
廃都を抜けた一行は、巡礼路をしばらく進んだ所で野営の準備を始めた。
日は西に傾き、聖嶺山脈の峰々が茜色に染まっている。廃都から十分に距離を取った場所だったが、それでも皆の顔には疲労の色が濃かった。
「はあ……やっと一息つけるぜ」
カイラが大きく伸びをした。虎人族の女戦士は、焚き火の準備をしながら理一郎に声をかける。
「リチロー、大丈夫だったか? あの廃都、相当ヤバかったな」
「今は平気だ」理一郎は答えた。「それにしても、あんな所をソフィアと探索するつもりだったのか?」
理一郎は屋外召喚実験場でのカイラとソフィアのやり取りを覚えていた。
「あんな場所とは知らなかったからな。廃都の情報はほとんど公開されていないんだ」
「君でもおかしくなったか」
「うまく言えねえが、変な感じだったぜ。セリウスの坊主なんか、まだぐったりしてやがる」
焚き火の向こうで、セリウスが毛布にくるまって座り込んでいた。
「だ、大丈夫だし……ちょっと休めば復活するし……」
「無理すんなよ、坊主」カイラが笑う。「天才も体調には勝てねえってことだ」
「う、うるさいっ……」
マリエルが回復魔法をかけながら、一人一人の様子を確認していた。
「皆さん、軽い頭痛と倦怠感が出ているようです。おそらく一晩休めば回復すると思いますが」
「マリエルさん、ありがとうございます」アリアが微笑む。「おかげで楽になりました」
「いえいえ。女神様のご加護です」
メリッサが優雅な仕草で髪をかき上げながら言った。
「それにしても、あの廃都……不気味な場所だったわね。絶対に長居したくないわ」
「メリッサ殿も影響を受けるのか」バルドリックが興味深そうに尋ねる。
「ええ。魔力の流れがおかしいの。あそこにいると、自分の力がうまく制御できなくなる感覚があったわ」
理一郎は焚き火の炎を見つめていた。ここでは火の色は正常だ。橙色の炎が、夜の闇を照らしている。
廃都を離れれば、物理現象は正常に戻る。あの異常は、廃都を中心とした局所的なものなのだ。
「理一郎くん」
アリアが隣に座った。
「なにを考えてるの?」
「あの廃都のことだ」理一郎は正直に答えた。「あそこで起きていることは、俺の知る物理法則では説明できない。いや、説明できるとすれば……物理定数そのものが変わっているとしか考えられない」
「物理定数?」
「この世界の根本を支配する数値だ。それが変われば、炎の色も、水の流れ方も、生き物の体調も、すべてが狂う」
アリアは黙って聞いていた。
「千年前、あの一帯で何かが起きた。クレーターを作った力と、物理定数を書き換えた力。少なくとも二つの災厄に襲われた」
「……怖いね」アリアが小さく言った。「そんな力が、この世界に存在するなんて」
「ああ。だからこそ、『理の書』には興味がある。あの書物には、そうした力の秘密が記されているのかもしれない」
二人の会話を聞いていたセリウスが、毛布から顔を出した。
「おい、物部」
「なんだ」
「お前さ、なんかわかったっぽいじゃん。オレ様にも教えろよ」
「君には理解できない」
「なっ……! バカにすんな! オレ様だって頭いいんだからね!」
理一郎はため息をつきながら口を開いた。
「物理定数の一つに微細構造定数αがあるのは知ってるか?」
理一郎はセリウスの返事も待たずに続けた。
「電磁相互作用の結合定数で、その値は約一/一三七だ。もしもこの定数が変化すると、電子軌道の半径が変わり、化学結合のエネルギーが変化する。結果として、燃焼反応の発光スペクトルがシフトし、炎の色が変わる。また、神経伝達物質の合成・分解に関わる酵素反応の活性化エネルギーも変化するため、神経系に異常をきたし――」
「わ、わかったわかった! わかんないけどわかったからもういい!」
セリウスが両手を振った。
「金モジャよ。お前は知恵も知識もまるで足りとらんのぢゃ、よく心得よ」リリスが笑う。
「くそっ……いつか絶対、お前の鼻を明かしてやるからな……」
――負けっぱなしでたまるか。
悔しそうに口を閉じたセリウスだが、手元の革手帳に何かを書き付けていた。理一郎の説明をメモしているのだ。
カイラが豪快に笑った。
「ハハハ! セリウス、お前はまだまだだな。リチローに勝ちたきゃ、まず体力をつけろ!」
「そういう問題じゃないじゃん!」
にぎやかな声が、山あいの野営地に響いた。
笑い声がひとしきり収まると、カイラが理一郎の隣にどかりと腰を下ろした。
「なあリチロー、明日の迷宮はお前の知恵が頼りだぜ」
そう言いながら、筋肉質の腕を理一郎の肩に回す。戦士仲間に対するような、何の屈託もない仕草だった。虎人族は体温が高く、焚き火の横では少し暑い。
「近いぞ、カイラ」
「ん? ああ、悪い悪い」
カイラは腕をほどいたが、離れる気配はない。肩と肩が触れたまま、焚き火の炎を眺めている。カイラにとっては信頼の表現なのだろう。だが十七歳の理一郎は、若い女性にこの距離で触れられれば、平静ではいられない。
* * *
夜が更け、焚き火の炎が小さくなった頃――。
理一郎は一人、岩に腰かけて星空を眺めていた。
この世界の星空は、不思議なことに元の世界と同じだった。同じ星座が、同じ配置で輝いている。
宵の口に見えていた春の星座――しし座やおとめ座――が西の空へ傾き、代わって東の空高くには『夏の大三角』が昇ってきていた。南の低い空には、さそり座の赤い星アンタレスが静かに瞬いている。見慣れた星々が、異世界の夜空にも存在していた。
あの星々の輝きは核融合反応によるものだ。水素がヘリウムに変わり、その過程で放出されるエネルギーが光となって宇宙を渡る。その物理法則は、この世界でも変わらないはずだった。
だが、あの廃都では物理法則そのものが歪んでいた……。
「眠れませんか」
マリエルがそっと近づいてきた。
修道服の上に毛布を羽織り、温かい飲み物を二つ持っている。
「よければ、これを」
「ありがとう」理一郎はカップを受け取った。
マリエルが差し出したカップから湯気が立ち上り、その向こうに彼女の顔があった。
星明かりの下、ふっくらした唇で飲み物を吹いて冷ましている。
「君こそ、休まなくていいのか」
「巡回修道女は、どこでも眠れるように訓練されていますから」マリエルは微笑んだ。「それに、皆さんの様子が気になって」
二人は並んで星空を見上げた。
「理一郎さん、あの廃都のこと……教団では『神の怒りによって滅んだ都』と伝えられています」
「神の怒り、か」
「禁忌に触れた者たちが神罰を受けたと。でも……」マリエルは言葉を選ぶように続けた。「私には、『神に見捨てられた場所』というより、『神が不在の場所』のように感じました」
理一郎は少し驚いてマリエルを見た。
「そういう考え方もあるのだな」
「ただの感想です。でも、理一郎さんの話を聞いて、少しわかった気がします。物理定数が変わっている、というのは……世界の根本が壊れている、ということですよね」
「そうだ。神の怒りではなく、人の過ちだと俺は考えている」
マリエルは静かにうなずいた。
「明日は、いよいよ大迷宮ですね。どうか、無理はなさらないでください」
「ああ。君もな」
* * *
マリエルが幕舎へ戻った後も、理一郎はしばらく星空を見上げていた。
気が張っているのか、なかなか眠くならなかった。
「まだ寝ないの?」
振り返ると、今度はアリアだった。蜂蜜色の瞳に、焚き火のなごりのような光が映っている。
「明日のことを考えるとな……」
「うん……わたしも」
アリアが隣の岩に腰を下ろした。二人の視線が同じ夜空に向かう。
夜もかなり更け、東の地平から上った夏の大三角が、今では高い位置にある。
理一郎は、三つの星のうち、南寄りに輝く明るい星を指さした。
「元の世界では、あの星をアルタイルと呼んだ」
「わたしの家の名と同じ?」
「不思議な共時性だな。わし座という星座の主星で、夏の夜空のもっとも目立つ星のひとつだ。鷲を意味する古い言葉に由来する」
「鷲……」
アリアが小さく繰り返した。
「君の家がアルタイルと名乗ってきた理由は、ご家族から伝えられているか」
「ううん。ただ……『古くから続く家だ』としか」
アリアの視線は、ずっとアルタイルに注がれている。
「あの星と、わたしの家。何か関係があるのかな」
「今はわからない。だが、いずれにしても、俺はあの星を見るたびに、君を思い出すだろう」
アリアが小さくうなずき、うつむいた。
「……うれしい」
星明かりの下で、彼女の長い睫毛がかすかに震えていた。
「そろそろ眠る努力をしよう。明日は早い」
「うん」
そう言葉を交わしながらも、二人はまだしばらく、無言で星空を見上げていた。




