地下牢の罠
理一郎が牢の錠前を破断させ、アリアのもとへ駆け寄る――その瞬間だった。
牢の床に仕込まれていた仕掛けが、侵入者の重みに反応して作動した。両脇の壁の小さな穴から、ごう、と音を立てて炎が噴き出してくる。
炎は、牢の中央へ――横たわるアリアとパニーナへと、舌のように襲いかかった。
二人は、昏睡したまま、避けることもできない。
理一郎には、ゾーンに入る間も、方程式を呼び出す間もなかった。
燃焼を止める術を組む、その一秒が、ない。
考えるより先に、体が動いていた。
理一郎は、自らの白衣を大きく広げ、その身ごと、二人の少女に覆いかぶさった。
炎が、白衣を舐める。
布越しに、灼けるような熱が背を打つ。理一郎は奥歯を噛みしめ、二人を抱え込むようにして、炎に耐えた。
強化された白衣が、かろうじて炎を遮っている。この世界に来てから、付与術士に防護を強化してもらった一着だ。ただの布なら、とうに燃え尽きていた。
数秒か。あるいは、もっと短い時間だったのか。
仕掛けの炎が、勢いを失い、やがて尽きた。
理一郎は、ゆっくりと身を起こした。
腕の中で、アリアとパニーナは、無事だった。煤ひとつ、ついていない。
だが、理一郎の白衣は――背の半ばから袖にかけて、無残に焼け焦げ、ぼろぼろに破れていた。布の端から、まだ細い煙が立ち上っている。脱いで足で踏み消した。
「主よ、無事か」姿を消していたリリスが、再び肩に現れた。「とっさに、よう動いたものぢゃ」
理一郎は答えず、焼けてしまった白衣を拾い上げた。
「リリス、時刻は?」
「五時半ぢゃ」
――そうか。
今日の午後五時半、おぬしは大事なものを失う――。
これが老魔の見た未来だったのだ。
長年、袖を通してきた白衣。元の世界から持ってきた、自分のアイデンティティの一つ。その大事な白衣を、炎にさらした。
そして、気づく。
自分の意志も、二人を庇うという選択も、そこに至る因果の一部だった。
自分がこう動くことまで含めて、未来はすでに一つの形へ収束していたのだ。
理一郎は、焼け焦げた布の端を、指でそっとつまんだ。
ラプラスの老魔。その未来視は絶対なのだろうか――。
「理一郎さん!」
マリエルの叫びが、理一郎の思考を中断させた。
「背中が……! 今手当します」
そう言われて、初めて理一郎は背中がひりひり痛むことに気づいた。
マリエルの回復魔法を受けながら、理一郎はアリアに声をかけた。
「アリア」
だが、目を覚まさない。
「マリエル、もういい。アリアたちを頼む」
「でも……」
「頼む。俺はもういい」
「わかりました」
マリエルが二人の脈や呼吸を確認する。
「どうだ?」
「薬で眠らされているだけのようです。外傷もありません」
「起こせるか?」
「解毒と覚醒の祈りを捧げてみます」マリエルが胸の前で手を組む。「慈悲深きソラリア様、どうかこの者たちを穢れより解き放ちたまえ」
マリエルの両手が金色に輝いた。神聖な光が、少女たちの体を包み込んでいく。
アリアの瞼がかすかに震え、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳が、やがて理一郎を捉える。
「……理一郎、くん?」
「ああ。安心しろ。迎えに来た」
アリアの目に、安堵の笑みが広がった。それから、彼女の視線が、理一郎が手にしている焼け焦げた白衣に止まる。
「それ……どうしたの……?」
「なんでもない」理一郎は、わずかに目を伏せた。「少し、焦がしただけだ」
「ボロボロだよ」
「そんなことより、大丈夫か」
「うん。わたし……なんか眠くなっちゃって……パニーナちゃんが……」
「パニーナも無事だ。今、マリエルが診ている」
「……よかった……」
その時、牢番のいた部屋の壁掛け遠話機が鳴った。連絡用遠話器が他にもあったのだ。
リリスが鋭く叫んだ。
「店主からぢゃ。おそらく違和感を覚えたのぢゃろう。擬人相手ではサキュバスの魔法も威力半減のようぢゃな」
「私が出てみるわ」
メリッサが受話器を取り、牢番の一人の声音で応える。
「――ああ、異常はない――ああ、大丈夫だ――なに?――合い言葉?――」
メリッサが受話器を持ったまま、肩をすくめた。
「ごめんなさい。見破られてしまったわ」
「合い言葉か。古典的な確認方法も案外有用なのだな」と理一郎。「リリス、連中の動きは?」
「降りてきよる。全部で五人。二階の三人と外の二人のようぢゃ」
リリスの言葉通り、階段のほうから複数の足音が響いてきた。
* * *
「ここからは第二案でいく。カイラ、君が頼りだ」
「うれしい言葉だぜ」
「狭いが、問題ないか?」
大剣使いにとって、地下道のように狭隘な場所での戦闘は不利だ。
だが、カイラはこともなげに答えた。
「これだけ広けりゃ十分だ、なにも問題ないぜ」
「援護は必要か?」
「いらないよ。まあ、見てなって」
カイラの全身から闘気が噴き出す。
金褐色の髪が虎柄に変化し、顔以外の全身が硬い虎毛に覆われていく。虎人族の戦闘形態だ。
「待ってたぜ、この瞬間をな!」
正面から擬人族が駆け込んできた。工作員装束の者が三人。二階にいた連中だろう。外を見張っていた二人も続いている。
計五人。
だが、断面五メートル四方の坑道では、剣を振るいながら同時に攻められるのはせいぜい二人か三人だ。数の優位を活かしきれない。
もちろん、カイラはひるむどころか、獰猛な笑みを浮かべている。
「オレが相手をしてやるんだ。光栄に思いな!」
先頭の擬人族が剣を振り下ろした。
カイラは大剣の腹でそれを受け流し、そのまま柄で相手のみぞおちを突いた。さらに、うめき声を上げて膝をつく工作員の頭を、右足で蹴り飛ばした。
「次!」
続いて二人が同時に斬りかかってきた。狭い通路では、これが限界だ。残りは仲間の背後で順番を待つしかない。
開けた場所での戦い方とは異なり、カイラは大剣を振り回さない。腕をコンパクトにたたんで、大きな剣を器用に扱っている。
一人の剣を弾いて返す刀で肩口を打ち砕き、もう一人の刃を避けながら腹に蹴りをたたき込んだ。工作員たちは壁に打ち付けられて動かなくなる。
「次!」
倒れた者を踏み越えて、残りの二人が襲いかかる。だが、通路の狭さが彼らの連携を阻んでいた。
虎人族の反射神経と膂力が、一対多の不利を覆していく。
大剣が閃くたびに敵の武器が弾かれ、拳が、蹴りが、的確に急所を捕らえた。
その間に、理一郎たちは脱出の準備を進める。
「アリア、歩けるか」
「うん……なんとか……」
アリアはまだ足元がおぼつかないが、理一郎に支えられて立ち上がった。パニーナはマリエルが背負った。まだ意識は戻っていないが、呼吸は安定している。
カイラが四人目を壁に叩きつけた時、最後の一人が後退した。
懐から何かを取り出し、両腕を振った。
投げナイフだ。
だが、工作員が狙ったのはカイラではなかった。
二本の刃は、その背後でアリアを支える理一郎へ向かって飛んだ。
「危ねえ!」
メリッサが叫んだ瞬間、アリアの両手が光った。
「わたしは、拒む!」
青白く淡い光の膜が、理一郎たちを包み込んだ。
投げナイフが結界に触れた瞬間、甲高い音を立てて弾かれた。二本とも床に落ちて転がる。
「!」
敵が驚愕した隙に、カイラが踏み込んだ。
「お前の相手はオレだ!」
大剣の腹に側頭部をしたたかに打たれ、最後の一人が崩れ落ちた。
あっという間に、五人とも完全に無力化されている。全員、本来の灰色の容姿を晒し、ぴくりとも動かない。改めて縛り上げる必要はなさそうだった。
「ナイスだ、お嬢ちゃん!」カイラが振り返って笑った。「いい結界だったぜ」
アリアは荒い息をつきながらも、弱々しく微笑んだ。
「うん……役に立てて、よかった……」
「さあ、出るぞ! 店主がまだいるはずだ」
一行は倒れた工作員たちを後に、階段を駆け上がった。
* * *
カイラが床扉を開けると、店主が戸棚から予備の遠話器を取り出しているところだった。地下との連絡が途絶えたため、外部へ知らせようとしているのだろう。
カイラたちの姿を見て、地下で何が起きたかを察し、店主の顔が凍りついた。
「くそっ……!」
店主は遠話器を投げ捨て、表口へ走った。
だが、カイラのほうが速かった。
虎毛に覆われたままのカイラが一瞬で店主の背後に飛びかかり、腕で襟首を掴んだ。
「どこに行く気だ?」
「離せ! 離せ!」
店主がもがくが、虎人族の力には敵わない。カイラは店主を床に押さえつけ、両腕を背中にねじ上げた。
「メリッサ、縄」
「はいはい」
メリッサが懐から拘束用の細縄を取り出し、手際よく店主の両手を縛り上げる。
「さて、これで全員か」
カイラが立ち上がる。店主は床に転がったまま、悔しげに歯がみしていた。
「行こう」
理一郎の言葉に、一行は表口へ向かった。
* * *
アリアとパニーナが通りに出ると、どこに潜んでいたのか、衛士隊の隊員たちが姿を現した。
部隊長が駆け寄ってくる。
「人質は無事のようだな」
「二人とも無事だ」
「工作員は?」
「全員無力化してある」
「そうか。たいしたものだな」
彼は理一郎の肩を軽く叩き、それから隊員たちに号令した。
「よし、制圧しろ!」
部隊長の合図で、衛士たちが店内に突入していった。
「後日、事情を聞かせてもらいたいが、今日はゆっくり休んでほしい」
そう言い残し、彼は隊員たちに続いて店内に入っていった。
理一郎はアリアを支えながら、仲間たちを見回す。
「みんな、助かった」
カイラは大剣を肩に担ぎ、満足げな笑みを浮かべた。
「いい運動になったぜ」
「メリッサ、君の幻惑がなければ、ここまでうまくはいかなかった」
「あら、褒めてくれてうれしいわ」
メリッサは髪をかき上げ、妖艶に微笑んだ。
「マリエル、危険を顧みず手伝ってくれてありがとう」
「いえ、お役に立てて何よりです。私はこの子を家まで送り届けます」
マリエルは穏やかに微笑み、背負ったパニーナの様子を確かめた。
アリアが理一郎の腕に支えられながら、疲れた顔で微笑んだ。
「……ありがとう、理一郎くん。みんなも……助けに来てくれて」
「無事でよかった」
夕陽に染まる空を見上げながら、理一郎は静かに息を吐いた。
マリエルがパニーナを背負って先に歩き出し、メリッサがアリアに肩を貸して続いた。
カイラだけが、理一郎の隣に残っていた。
「なあ、リチロー」
「なんだ」
「さっき、リリスに言ってただろ。対価は後でまとめて払うって」
理一郎は黙った。
「お前がどんな記憶を差し出すのか、オレにはわからん。だが――」
カイラは大剣の柄を軽く叩いた。
「お前がなにを忘れても、お前がどんなやつかはオレが覚えていてやる」
理一郎は横を向いた。夕日に照らされたカイラの横顔は、いつもの軽口を叩くときとは違う、まっすぐな表情だった。
「……ああ。ぜひ頼む」
* * *
真夜中。理一郎は夢を見ていた。
それはリリスが対価として理一郎の中から引っ張り出している記憶だった。
冬。息が白い。幼い自分が、誰かに手を引かれて夜道を歩いている。
大きな手だった。ごつごつして、少し煙草の匂いがする。
「ほら、あれがオリオンだ」
太い指が夜空を指した。
「三つ並んだ星が腰のベルト。左上の赤い星がベテルギウス。右下の青い星がリゲル。そこから線を引いてみろ、人の形になるだろ」
幼い理一郎は、言われるままに空を見上げる。冬の夜空は澄んでいて、星が近かった。
「すごい。ほんとだ」
父はこの夜だけ酔っていなかった。しらふの父は、驚くほど静かで、そして優しかった。
父の大きな手が、理一郎の肩を引き寄せた。並んで同じ空を見上げている。その近さは、この夜だけの特別なものだった。
「星ってなにでできてるの?」
「さあな。でっかい火の玉じゃないか」
「火の玉がなんで燃え続けられるの?」
「……お前、難しいこと訊くんだな」
父は少し困ったように笑い、理一郎の頭をくしゃりとなでた。
「大きくなったら、自分で調べてみろ」
――ああ。だから俺は科学を――。
理一郎はふと目を覚ました。
今見た夢が急速に輪郭を失っていく。
誰かの大きな手。煙草の匂い。夜空を指す太い指……。
それらが砂のように指の間からこぼれ落ちて、つかめない。
自分が何を失ったのか、いや、何かを失ったことすら覚えていない。いつもそうだ。
傍らではリリスが満足げな顔で寝ている。
――そういうことか……。
窓からは静謐な星明かりが差し込んでいた。
理一郎は起き上がり、バルコニーに出る。
空には満天の星が瞬いていた。それを見上げながら、ふと思った。
――俺は、いつ星が好きになったんだろう。
なぜだか理由は分からなかったが、大きなため息が出た。
「理一郎くん?」
後ろでアリアの声がした。
振り向くと寝間着にガウンを羽織ったアリアがいた。
「眠れないの?」
「ああ。体は大丈夫なのか?」
「うん。もう薬の影響もないよ」
理一郎はうなずくと、ぽつりと呟いた。
「なにか夢を見ていた。内容は忘れたが、温かい夢だった……」
「リリスちゃんに対価を渡したのね。前の世界の大切な想い出が、少しずつなくなっていくんでしょう?」
「……ああ。だが、記憶など終わったことだ。支障はない」
「そうかもしれないけど……」
アリアは髪を指で触りながら、言葉を探す。
「……そうだよね。前の世界の想い出がなくなっても、こっちの世界で、新しくつくればいいよね。わたしや、みんなと一緒に、たくさん、たくさん」
それは、アリアなりにまっすぐな言葉だった。
そしてそれは、理一郎にとって、あまりにまぶしい言葉だった。
「……ああ」
それだけ言うのが精一杯だった。
「そうだ! ちょっと待ってて」
アリアが急いで自室に戻る。
しばらく後、息を切らして戻ってきたアリアは、小さな革袋を差し出した。
「これ、おじいちゃんの形見なの。ずっと机の引き出しにしまってあったんだけど」
革袋の中には、古い金貨が二枚入っていた。表には天秤の紋章、裏には理一郎には読めない古代文字が刻まれている。
「古代の金貨で、二枚で一対なの。この二枚はどれだけ離れても互いを見つけ合うんだって。片方がどこにあるか、もう片方が必ず知っているって、おじいちゃんが言ってた」
「量子もつれ……ではないな。距離に依存しない相関、か」
「え?」
「いや……独り言だ」
アリアは、金貨の一枚を理一郎の手に握らせた。
「これは?」
アリアは少しうつむいた。
「……さらわれた時、すごく怖かった。時々目が覚めたんだけど、回りは暗くて、誰にも見つけてもらえないんじゃないかって。でも理一郎くんたちが来てくれた」
顔を上げた時、アリアの目は潤んでいた。
「だから、もう離ればなれになっても大丈夫なように。一枚はわたしが持ってる。もう一枚は、理一郎くんに持っててほしいの」
「大切な形見だろう。いいのか」
「おじいちゃんなら、きっといいよって言うと思う」
アリアがうつむいた。
「三年前、お父さんが遺跡調査に出かける朝、わたし、これを持っていってって言ったの」
声が少し小さくなった。
「でも、お父さんは受け取ってくれなかった。そんな大げさな探索じゃないからって、笑って」
理一郎は金貨を手のひらの上で転がした。不思議な温もりがある。アリアが長く持っていたせいか、それとも別の何かのせいか。
「……では、預かっておく」
「お守り代わりだよ。わたしも身につけることにするから、理一郎くんもいつも持っててね」
理一郎がうなずくと、アリアは顔を上げ、安心したような笑顔を見せた。




