アジトへの潜入
夕暮れが迫る頃、理一郎たち四人は東市場の裏通りに身を潜めていた。
一区画先の角に、目指す店があった。埃まみれの窓や色あせたのれんからは、とうに店をたたんだかのような雰囲気が漂っている。
「あそこだな」
メリッサが、双眼鏡をのぞきながら答える。
「ええ、間違いないわ。かすれているけど『ヴェンテュラ骨董店』と読める」
今日のメリッサは、三叉の丘の時と同じ、全身のラインを強調する黒のボディスーツ姿だった。
「それにしても『Ventura』だなんて。運命、幸運、冒険……。『掘り出し物との運命的な出会い』とでもいうわけかしら」
店の前には二人の男が立っている。世間話に興じているようだが、その目は油断なく辺りを監視しているようにも見えた。
「見張りか」
「二人とも擬人よ。人払いの精神干渉波を発してるわ」
「リリス、連中の数と位置を把握したい」
「なんぢゃ、観測だけでよいのか。それでは対価をもらうほどの仕事にならんの」
リリスが理一郎の肩で目を閉じた。この情報の小悪魔は、微小な粒子の速度や位置を正確に観測できる。生体の熱や動きを感知することなど造作もない。
数秒後、リリスが目を開けた。瞳は紅く輝いている。
「ふむ……外の二人のほかに、店内に一人、二階に三人。地下には三人……合計九人ぢゃな。地下の坑道は思ったより長いのう。アリアとパニーナは奥の牢におる。まだ無事ぢゃ」
「裏口は?」
「誰もおらん。事前情報通りぢゃ」
「九人か」カイラが低く唸った。「オレ一人で十分だぜ――」
「人質の安全が最優先だと決めたはずだ」理一郎がたしなめる。「カイラはあくまでも奥の手として控えていてくれ」
「わかってるさ」
カイラは不満げだったが、理一郎の指示に従った。
「この状況なら、手はず通りで問題ない。メリッサは正面から店内に入ってくれ、俺たちは裏口で待機している」
「わかったわ」
メリッサが妖艶な笑みを浮かべ、紫色の髪をかき上げる。その髪をバサッと下ろすと、一瞬にして色がプラチナブロンドになり、服装も町娘が着る一般的なドレスに変わった。
それは、擬人族の擬態のように物理的に容姿を変えているのではなく、そう見えるようにターゲットの認知を操作する幻惑魔法だった。
精神干渉に耐性のある擬人族を幻惑するには、警戒されずにできるだけ近づけなければならない。だが昼間の街中、宵待亭での妖艶な装いではで目立ちすぎる。そのための人畜無害そうな街娘姿だった。理一郎たちまで幻惑するのは魔力のむだ遣いではあったが、その容姿を理一郎にも見てもらいたかったようだ。
メリッサには父親ゆずりの変身能力もある。だが、着ているものまでは変えられない。衣装を用意する間もない急な作戦では、幻惑のほうが合理的だった。
一方、理一郎は光学迷彩の準備に入る。
ポケットから氷砂糖の袋を取り出し、数粒を口に放り込んだ。
「なんだ、それ? まさか、おやつか?」
カイラがけげんな顔をする。
「魔力回復の水薬のようなものだ。物理学魔法を発動させるのは魔力ではなく、脳の演算が生み出す理力だ。その演算には、脳の燃料となるグルコースが大量に必要になる。供給が追いつかなければ思考が鈍り、最後には意識を失う」
「つまり、甘い物が燃料ってわけか」
「そういうことだ。前に一度、補給を怠って倒れた。今日は何度も使うことになる。今のうちに補給しておく」
理一郎はもう数粒を口に入れ、袋をポケットに戻した。
それからメガネのブリッジを押し上げ、ゾーンに入る。
理一郎の視界に、一つの方程式が浮かび上がった。
|∇S(x, y, z)|^2 = n(x, y, z)^2
アイコナール方程式。
光が、屈折率の異なる空間をどのような経路で進むかを記述する、幾何光学の基本方程式だ。
S(x)は、位置xにおける光の位相、あるいは光学的な距離を表すアイコナール関数。∇Sは、その値が空間内でどの方向へ変化しているかを示す勾配であり、光線の進行方向に対応する。
xは空間上の位置。そしてn(x)は、その場所における屈折率。
理一郎が操作するのは、屈折率n(x)の空間分布だ。
見張りの目から見れば、理一郎たちの身体は、その背後から届く光を遮る障害物となる。
そこで、背後の風景から見張りの目へ向かう光線が、理一郎たちの身体を避けて周囲を迂回し、本来と同じ角度で見張りの目へ届くよう、周囲の屈折率を組み替える。
見張りに届くのは、理一郎たちの姿ではなく、その背後にある風景の光だ。
本来なら、あらゆる方向から姿を隠すために、周囲を通過するすべての光線を計算し続けなければならない。
だが、敵の位置はリリスの観測によって判明している。
今回は、見張りのいる観測点へ届く光線だけを制御すればいい。理一郎たち自身の目へ入る光は操作対象から外せるため、周囲を見ることもできる。
それでも、移動に合わせて屈折率分布を更新し続けるには、膨大な演算が必要だ。
情報処理速度をこの状態で維持できるのは、もって五分。それを超えれば、理一郎の脳が限界を迎える。
「リリス、見張りの位置と入射光を追跡してくれ。光路計算と、移動中の屈折率分布の更新も頼む」
「そこまで妾に働かせるのであれば、対価はいただくぞ」
「後でまとめて払う」
リリスから、見張りたちの正確な位置と、周囲を通過する光線の情報が流れ込んでくる。
理一郎はその値をもとに、見張りのいる観測点ごとに、屈折率n(x)の分布を構築していった。
演算は完了した。
「リリス、その理を、操れ!」
「任せよ」
理一郎たちの周囲で、光の経路がわずかに歪んだ。
次の瞬間、見張りたちの目から、三人の姿が消える。
完全に透明になったわけではない。
指定した観測点へ向かう光だけを身体の周囲へ迂回させ、背後の風景を見張りの目へ届けているのだ。
見張りとは異なる位置から目を凝らせば、空間に生じたかすかな歪みに気づくかもしれない。
理一郎が二人へ合図した。
「では、作戦開始だ」
* * *
メリッサは路地を出て、何気ない足取りで店の前へと歩いていく。
見張りの男たちはすぐに彼女に気づいた。二人とも、どこから見ても人間に見える。
一人が前に出て、愛想笑いを浮かべる。
「お嬢さん、この店は今日は休みでね。他を当たってくれないか」
「あら、そうなの? 残念だわ」
メリッサは二人の目を順に捉えた。その瞳が、淡いピンク色に輝く。
二人の男が一瞬、動きを止めた。
「でもね、追い返しちゃっていいのかしら? 私は入ってもいいはずなのに?」
その声は甘く、聞き心地がよく、蠱惑的だった。
メリッサは、声と視線を媒介に、相手の知覚と認識へ直接介入する。
「あれ?……そうか……お前は入ってもいいのか……なら通れ」
男たちの目が虚ろになった。
擬人族は精神干渉系の魔法に耐性がある。しかし、メリッサの幻惑魔法はその耐性の壁を越えて知覚そのものを上書きする。擬人族とヒト族の脳の機能や構造はほぼ同じなので、完全には防ぐことは難しい。
「ありがとうね」
メリッサが男たちにウインクしながら店に入っていく。
薄暗い店内には、古びた家具や食器、正体不明の骨董品が雑然と積み上げられていた。カウンターの向こうに、痩せた中年の男が座っている。一見すると普通の店主だが、その瞳の奥にはヒト種とは異なる冷たい光が宿っている。
「ん? なんだお前は。今日は店じまいだと言われなかったのか」
店主は立ち上がり、カウンターの下にある警報装置のボタンに指をかけた。
「あら、お願いしたら、通してくれたわよ」
メリッサは店内をゆっくりと歩きながら、店主との距離を詰めていった。
「くそ、役立たずどもめ。今日はもう閉店だ。出てってくれ」
メリッサの瞳が再び妖しく輝き、声が甘くなる。
「珍しい掘り出し物を探しているの。いてもいいでしょう?」
「ああ……そうだな……いてもいいだろう……」
「あなた、疲れているみたい。少し休んだほうがいいわね」
「ああ……そうだな……少し……休もう」
店主はそうつぶやくとカウンターに突っ伏した。
メリッサは店主の寝息を確かめてから、裏口の鍵を外し、待機していた理一郎たちを招き入れた。
「どこにいるの? 全然わからないわ」
「大丈夫だ、ここにいる」
そう言うと、理一郎はメリッサの手を握った。同時に不可視化を解く。
「それにしてもすごい魔法ね。それがあれば私の仕事もはかどるわ」
「淫魔よ、無駄口はよしてさっさと案内せい。それなりに疲れる魔法なのぢゃ」
「あら、ごめんなさいね。でも、小悪魔さん。〝淫魔〟というのは誤解よ。私は誰でもいいわけじゃないの」
それはリリスにというよりも、カイラやマリエル、そして理一郎への言葉のようだった。
「無駄口はやめて、長距離遠話器を探してくれ」と理一郎。
擬人は念話のような遠距離連絡魔法を持たない。ヒト族の大部分と同じように離れた場所とのコミュニケーションには遠話器を使う。
「これですね」
マリエルがカウンターの引き出しで端末を見つけた。
「よくやった。持っててくれ」
マリエルは端末を懐に収める。
外部との連絡手段を奪うと、四人は床の隠し扉を開けて地下へと向かった。
* * *
階段を下りると松明の掲げられた長い坑道が続いていた。
坑道の断面は五メートル四方程度だろうか、大人四人が余裕で並んで歩けるほどだった。天井も高い。とても急ごしらえのものとは思えない。
「思ったより広いのね」とメリッサ。
「こんなもんを地下に掘ってやがったとはな」カイラが応える。
空気は湿っぽく、かび臭かった。途中に分岐もあったが、老魔が見せた映像通りの道を辿る。
やがて、正面に扉が現れた。
「ここだ。メリッサ、頼む」
「わかったわ」
理一郎が再びアイコナール方程式で不可視化状態になると、メリッサは幻惑で店主の姿をまとい、正面の扉を叩く。
のぞき窓が開き、牢番の一人が顔を見せた。
「どうした?」
「予定が変わった。段取りを説明する」メリッサが平然と答える。
「入れ」
扉が開く。三人の武装した牢番の奥に、鉄格子と分厚い鉄の扉が見えた。
メリッサがゆっくりと小部屋に入る隙に、不可視状態の理一郎たちも侵入する。
「ずいぶん急だな」牢番の一人が疑わしげに店の主人を見る。
「衛士隊の動きが想定以上に速い。これを見てくれ」
メリッサが牢番たちを壁際の小机に集め、学都の地図を広げた。
そのタイミングで理一郎がリリスに念話する。
〈地下にはこの三人だけだな〉
〈間違いない。ほかにはおらん〉
――ならば、今だ。
理一郎が合図した。
「カイラ!」
「おうよ!」
理一郎がカイラの不可視化を解く。
だが、擬人族の牢番たちがカイラの姿を見ることはなかった。
動きが速すぎて、振り返る暇もなかったのだ。
虎人族の全身のバネが一気に弾ける。
床を蹴る音すら置き去りにして、カイラは三人の背後を一直線に駆け抜けた。
右の手刀が一人目の延髄を打つ。
左の裏拳が二人目の後頭部を捕らえる。
そして駆け抜けざまの後ろ回し蹴りが、三人目のこめかみを刈り取った。
三つの打撃音は、ほとんど同時だった。
彼らは何が起きたかを理解する間もなく、声を上げる者は一人もいなかった。
カイラが牢の前で止まる。その背後で、三つの体が床に倒れ込んだ。
「……速いな」
理一郎は素直に感嘆した。ゾーン状態でかろうじて視認できる動きだった。
「この程度、準備運動にすらならねえさ」
カイラは涼しい顔で言いながら牢番たちを縛り上げた。息一つ乱れていない。
その時、理一郎は奇妙なものを見た。
拘束された牢番たちの輪郭が、ゆらりと揺らいだ。意識を失った男の顔――その人間らしい造作が、まるで水面の像が乱れるように崩れていく。なめらかだった肌は灰褐色にくすみ、頬骨が不自然に張り出し、目尻がつり上がっていった。整っていたはずの三人の顔が、見る間にヒューマノイド型の醜悪な化け物のそれへと変わり果てていく。
「これは……」
「擬態が解けたのぢゃな」リリスが理一郎の肩で言った。「気を失えば、こうなる。おそらく死んでもぢゃ」
擬態は、本人の呪力によって絶えず維持される能動的な現象なのだろう。意識を失えば、呪力の供給が断たれる。擬人族にとって、ヒト族の姿は力を注ぎ続けてはじめて保たれる仮面なのだ。
「……なるほど。気絶させれば、正体があらわになるわけか」
理一郎は倒れた三人を見下ろしながら、その法則を頭に刻んだ。今後、擬人族を見分ける手がかりになる。
理一郎は、自分とマリエルの不可視化も解いた。ほぼ同時にメリッサも店主の姿から元に戻る。
* * *
薄暗い牢の中に、二人の少女が横たわっている。
アリアとパニーナだ。二人とも眠らされているようで、意識はない。しかし、呼吸は安定しており、外傷もないようだった。
――まだ無事か。
理一郎の脳裏に予言が浮かぶ。
――おぬしは大事なものを失う。
はやる気を抑えて牢の錠前を確認する。頑丈な鉄製で、鍵がなければ開けられそうにない。
「鍵は牢番が持っているはずだが……」
気絶した三人や部屋の中を検めるが、鍵は見つからなかった。
「ちっ、どこに隠してやがる」
「リリス、今何時だ?」理一郎が訊く。
「五時二十八分ぢゃ」
老魔の告げた時刻は五時半。
「時間がない。壊す」
三叉の丘で憲兵団の武具に使った物理学魔法が有効なはずだ。
理一郎はメガネを押し上げてゾーンに入る。
脳裏に方程式が浮かび上がった。
K_I = Yσ√(πa) >= K_IC
線形破壊力学における、亀裂進展の条件式だ。
K_Iは、亀裂先端に集中する応力の強さを表す応力拡大係数。Yは物体や亀裂の形状によって決まる補正係数、σは材料に加わる応力、aは亀裂の大きさ。
点滅しているのは、破壊靱性K_IC。材料が亀裂の進展に耐えられる限界を示すパラメーターだ。
理一郎は、扉を引くわずかな力だけで錠前内部の微小な亀裂が一気に広がるよう、K_ICをK_Iより極端に低い数値に書き換えた。
「その理に、従え!」
理一郎は牢の扉の取っ手をつかみ、軽く引いた。
錠前の内部で、ぱきり、と乾いた音が響く。
微細な亀裂が施錠機構を支える金属部品に一気に広がり、部品を破断させた。
理一郎がもう一度引くと、牢の扉はあっけなく開いた。
「ふん。破壊靱性を下げたか。なかなか応用が効いて便利ぢゃな」
「永遠に変わらぬ物などない。それが世界の理だ」
理一郎は牢の中へ入り、アリアのもとへ駆け寄る。
その時、リリスが叫んだ。
「主よ! 罠ぢゃ!」




