学都審判所
ミスマリアム礼拝所での事件から二日後、学都審判所――。
イグナティウス大司教に対する予備聴聞が、小さな聴取室で行われていた。
部屋には魔法封じの結界が張られ、証言台には大司教が立たされている。
かつての威厳はすでになく、黒い法衣も汚れ、髭も整えられていない。だが落ちくぼんだ目の奥には、憤怒の炎が燃えている。
証言台正面の天井近くの壁には『審の双神』のレリーフが彫り込まれ、イグナティウスを見下ろしていた。左が事実を司るファクトゥス、右が真実を司るヴェリタス。二柱の神は手に石版と水晶を掲げている。その眼差しは、この場で語られるすべてを見透かすように鋭かった。
証言台と向かい合う審判長席には、ラランドランドララが学都司政長の立場で座っている。いつもの気さくな雰囲気は微塵もなく、千年以上生きた賢者としての威厳が、全身からにじみ出ている。
ラランドランドララのすぐ後にはソフィアが控え、審判員席には学都司政庁の高官たちが顔をそろえていた。
証言台の後には傍聴席が設けられ、すでに聴取を終えていた理一郎とマリエルが座っている。王立アカデミア魔法院院長のギデオン・ヴァルサスの姿も、隅のほうにあった。魔法院の生徒であるアリアが関係していることから、審問内容を一切口外しないことを誓約し、傍聴を許されていた。
また、聴取室の上階には、室内を見下ろせる隠し傍聴室があり、深いフードを被った二人の男が、聴取の様子をうかがっている。
二人の存在を、イグナティウスは知らない。彼は、この調査は学都司政庁による事情聴取であるとだけ伝えられていた。だがラランドランドララは教団に傍聴人としての同席を要請していたのだ。
ラランドランドララが静かに口を開く。
「では、聴取を始めるよ。セルゲイ・イグナティウス君、これは学都司政庁による予備調査だ。君の行いが学都の法に触れるかどうかを確認するためのものでね。正直に答えてくれれば、それが君のためにもなるだろう。ちなみに証言を拒否した場合は、審問内容を事実だと認めたことになるからね」
ラランドランドララは、イグナティウスの前に置かれた真偽判定用の魔道具を指さした。魔法封じの結界の中でも、直接触れていれば機能するよう設計されている。
「水晶球に手を置いて。知ってると思うけど、嘘をつくと赤く光るからね」
正式な審判であれば、審問が終わるまで手を離すことは許されない。手を離せば、その時点で罪を認めたとされる。しかも、その魔道具には隠しておきたいことも話してしまう自白効果が付与されていた。
「枷は着けたままか」
イグナティウスが不機嫌そうに水晶球に手を置く。それを確認してから、ラランドランドララが審問を始めた。
「まず訊くけど、君は自由市民であり、王立アカデミアの研究生でもある物部理一郎君を欺き、ミスマリアム礼拝所に連れ出し、精神干渉魔法を用いて洗脳を試みた。この事実に間違いはないかい?」
「いいや、間違いだ」イグナティウスは堂々と答えた。水晶球は透明なままだ。「洗脳ではない。調伏だ。身に余る力を持った者を、正しき道に導こうとしたのだ」
水晶球はやはり透明なまま――彼は自分の行為を本気で正当だと信じている。
ラランドランドララの瞳が冷たく光る。
「君の言う〝正しき道〟とはなにかな?」
「アストレリア様の御心に従うことだ」イグナティウスは迷いなく答える。教団関係者の傍聴を知らないので、その口調には遠慮がない。「星の女神こそが至高の存在であり、他の神々はその眷属に過ぎん。統一教団は、偽りの統合。神々の序列を歪めている」
水晶球は透明なまま。それは彼の本心だった。
隠し部屋では、監察官マティアスが何かを書き留めている。その隣で、審問官レオナルドは鋭い視線をイグナティウスに向け続けていた。
イグナティウスの声には、狂信者特有の確信が満ちている。
「統一教団は妥協の産物にすぎない。宗教戦争を恐れた愚者どもが作り上げた、歪んだ秩序だ。我々星教派こそが、真の信仰を守護する者たちだ。いずれは教団を内部から正し、星神様を頂点とする正しい序列を取り戻す――それが我が使命だ」
水晶球は依然として透明だ。彼は心からそう信じている。水晶球の自白効果の影響で、自分に不利なことを話している自覚は、今のイグナティウスにはなかった。
ラランドランドララは表情を変えずに続ける。
「つまり、君は統一教団の設立理念そのものを否定するんだね」
「当然だ」イグナティウスが言い切る。「すべての神を平等に扱うなど、アストレリア神の神威を否定する冒涜だ。星々は我らの運命を握る。その星々を司る女神こそが最高位に在るべきなのだ。それこそがこの世界の真理に他ならない」
隠し部屋の審問官は、監察官と目を合わせて大きくうなずいた。イグナティウスの言葉は、言い逃れようもなく反教団思想を示している。
そうとは知らず、イグナティウスは続ける。
「君がアストレリア神を至高と考えていることは、よくわかったよ」
ラランドランドララは、救いようがないねと言いたげに大きくため息をついた。
「さて、時をもっとさかのぼろうか。君は三星蝕の日にエクリプス神殿で、モンフォール軍務卿と共謀して勇者召喚の儀式を執り行った。もちろん、君はその儀式が禁忌だとわかっていたはずだよね」
「禁忌?」イグナティウスが嘲笑う。「しょせん、人の決めた戒めにすぎん。星々の配置が完璧にそろう瞬間、異世界との経路がつながる。単にその現象を利用しただけのことよ」
「神殿の魔力を私事に使ったことは事実だよね。それだけでも重大な王国法違反だ。しかも異世界からの勇者召喚という禁忌も犯している。なぜそれが禁忌なのか、君は知っているのかい?」
「ふん。非人道的だとでも言いたいのか? 神の御前にあって人の都合など些事にすぎん」
水晶球は透明なままだ。彼は本気でそう信じている。
「異世界召喚は、世界そのものの均衡を崩しかねない。だから禁忌とされたんだよ。いずれにしても、君が王国の法を犯したことは、事実というわけだ」
「人の定めし法など、神にとっては塵芥に等しい。ましてや王国などという俗世の権力が、神の威光に介入できるとでも思っているのか?」
イグナティウスの傲慢な態度に、司政庁の高官たちが顔をしかめる。だが、ラランドランドララは表情を変えずに続けた。
「禁忌まで犯して召喚した理一郎君なのに、君たちは手放したんだよね? なぜ今になってまた必要になったんだい?」
「あの時は期待外れだったのだ。軍務卿も頭に血を上らせていたしな。だが――」
イグナティウスの顔が晴れ晴れと明るむ。彼は傍聴席の理一郎を指さしながら叫んだ。
「私にはわかっていた! その者が大きな力を秘めていることが! だから生かしておいてやったのだ。見よ! 私の予見通り、その者はやはり特別な力を持っていたではないか。その力をアストレリア様に捧げることこそ、その者の魂の救済にもつながろうぞ」
「本人の意思も確認せずにかい。それは傲慢にすぎるのではないかい?」
「もとより根無し草であろう。なんの問題がある」
「理一郎君は〝正式〟な自由市民証を持っているよ。立派な王国民だね」
ラランドランドララがイグナティウスたちの策謀を逆手に取った。さすがのイグナティウスも言葉に詰まる。
「しかも、君は星界の秘儀を騙って理一郎君をおびき寄せた。調べてみると、あの夜の星は、秘儀が行える配置ではないことがわかった」
「あそこで行ったのは、星界の秘儀ではない」
「つまり、正式な儀典と偽って、王国法で禁じられている洗脳の外法を行ったということなんだね」
「洗脳ではない!」イグナティウスが声を荒らげる。「その者の魂を浄化し、より高い次元へ導いてやろうとしたのだ! この世界の理から外れている物部理一郎とやらは、非常に危険な存在だ。管理されなければ、この世界を破滅に導きかねない。無能な輩には、それが理解できんのだ」
激高するイグナティウスとは対照的に、ラランドランドララの態度は変わらない。彼女は隠し部屋の二人に向けて手を上げた。審問内容を変えることを伝える合図だった。
「ところで、君は星界の秘儀と『理の書』の関連について、どの程度理解しているんだい?」
予想もしていなかった角度からの質問に、イグナティウスの顔が一瞬こわばった。
「なぜ、そのことを……」
「君の教座室をいろいろ調べさせてもらったんだよ。興味深いことが記された文書がたくさんあったね。星界の秘儀は『理の書』に記された知識を応用しているんだよね?」
イグナティウスは数秒沈黙した後、観念したように口を開いた。水晶球に触れている以上、嘘はつけない。
「……そうだ。遥か昔、アストレリア教会は『理の書』の一部を入手し、教典にも取り入れた。星界の秘儀は、その理の一端であり、世界の深奥へと通じるための儀式だ」
「君たちは、『理の書』がオスタネス大迷宮にあることも隠していたね。あれは王国の最重要文化財に指定され、所在を明らかにするための探索が公に行われている。発見につながる情報を秘匿することも、王国法に触れるんだけど」
「だから――」イグナティウスが苛立つ。「人の法がなんだというのだ。あの書に記された理は誰もが知ってよいものではない。迷宮奥深くに封印されてしかるべき知識だ。お前たちもようやく大迷宮まではたどり着いたようだが、扉を開けあぐねているのだろう?」
ラランドランドララの目が細められる。
「君は物知りだねえ」
イグナティウスが勝ち誇ったように言う。
「我が教会にも情報部門はある。お前たちがどれだけ足りない頭を寄せ集めても、迷宮の封印は解けまいよ」
「まるで自分は知っていると言わんばかりだね」
「ふむ」彼の顔に、人を見下す下卑た笑みが浮かんだ。「もちろん、知っているとも」
「では教えてもらおうか」
「愚か者め、誰が教えるものか――」
反射的に言い返したが、イグナティウスの中で不思議な衝動が湧き上がってくる。話したくて話したくてたまらないのだ。水晶球の自白効果だった。つい答えを口走ってしまう。
「迷宮の封印を解く鍵となってきた名門魔導士の家系があるのだよ!」
ラランドランドララの顔がほんの少しだけこわばる。
そのわずかな変化を見逃さなかったイグナティウスは高笑いを上げ、勝ち誇ったように言い放った。
「アルタイル家だよ!」
その瞬間、聴取室の空気が凍りついた。
理一郎も思わず身を固くする。
「かの血筋は、オスタネスに限らず迷宮製作者と因縁がある。その子孫は、迷宮への扉を開く力を持つ」
イグナティウスは、ラランドランドララを見据えて言った。
「ラランドランドララよ、鍵となる人物がすぐ身近にいるというのに、気づかなかったのか。お前のまな弟子、アリア・アルタイルこそが、その鍵なのだ」
ラランドランドララの瞳が鋭く光る。
「君はなにを根拠に、そう言っているんだい」
「我が教会にはアルタイル家に関する古文書が伝わっている。そこには、かの家の当主が迷宮の封印と深く関わってきたことを示す記録がある。そして、現在の血筋で最も純粋な魔力を持つ者――それがアリア・アルタイルだ」
水晶球は透明なまま。嘘はついていない。
ラランドランドララは表情を変えずに応じた。
「なるほどね。君の告白はとても参考になったよ。後でもっと詳しいことを聞くことになるだろうね」
「ラランドランドララよ、お前もアルタイルの血ゆえに、あの娘を手元に置いているのだとばかり思っていたぞ。千年を超えて生きる知恵者といっても、その程度か」
イグナティウスがまた高笑いを上げる。
ラランドランドララは、イグナティウスの目をまっすぐに見つめた。
「私がアリア君を教え子にしているのは、ただただ彼女が優秀だからだよ。こう見えても忙しくてね、君のようにくだらない打算に費やす時間はないんだ」
このやり取りの間に、傍聴席からギデオン・ヴァルサスの姿が消えた。彼は音もなく立ち上がり、誰にも気づかれず聴取室を後にした。
「さて、とりあえず私のほうは、ここまでにしておこうかな」
ラランドランドララが、隠し部屋に合図を送る。
すると、隠し扉が開き、深いフードを被った監察官と審問官が現れた。二人はゆっくりと階段を降り、審判長席に向かう。その足音が、静まり返った聴取室に響いた。
イグナティウスが、二人に気づいた。
「誰だ……?」
二人はラランドランドララの後ろに立つと、フードを取った。
一人は中年の男性で、鋭い眼光が印象的だった。もう一人は老齢の男性で、白い髭を蓄えている。二人とも、統一教団の高位聖職者を示す紋章を胸につけていた。
「統一教団巡察庁監察局、監察官マティアス・ヴェリタスです」
「教義庁異端審問所、審問官レオナルド・サンクティウスです」
イグナティウスの顔から、血の気が引いた。
「な……なぜ教団の者が……! これは学都の予備調査のはず……!」
ラランドランドララが静かに微笑んだ。
「確かに学都の調査だよ。でも、君の行為は教団の問題でもあるからね。傍聴してもらっていたんだ。最初から、ね」
「そんな……聞いていないぞ……!」
「なにも問題ないよね? 君はずっと真偽判定の魔道具に触れながら、本当のことを話してくれていたんだからね」
イグナティウスは、自分が何を語ってきたのか、あわてて思い返した。統一教団への批判、教団を乗っ取る計画、すべての神を平等に扱う理念への否定――。なぜそんなことまでペラペラ話してしまったのか。
「まさか……全部……」
「もう遅い」監察官が冷たい声で断言した。「あなたの発言は、すべて記録した」
ラランドランドララがイグナティウスに最後の言葉をかけた。
「セルゲイ・イグナティウス君。司政長として、また王立アカデミア総長として、君には誘拐、魔法による傷害、職権濫用、そして禁忌魔法の使用の容疑があると判断する。本来なら学都で裁きたいが、教団側からまず宗教裁判に付したいとの申し入れがあってね。残念だが君を教団に引き渡すことにしたよ」
ラランドランドララは監察官に念を押した。
「くれぐれもよろしくね」
監察官はラランドランドララに恭しく頭を下げると、イグナティウスに厳かに告げた。
「統一教団巡察庁の名において、セルゲイ・イグナティウス、あなたを反教団思想と異端の疑いで拘束する」
イグナティウスの枷に、教団の紋章を刻んだ魔法封じの拘束具が重ねて取り付けられた。
「あなたは星教派を率い、統一教団の乗っ取りを企てていた。これは教団に対する明白な反逆行為だ。星教派の幹部たちについても、同様の措置を講ずる」
「反逆、だと?」イグナティウスの声が震える。「我々は正統なる信仰を取り戻そうとしているだけだ!」
その言葉が、決定的な証拠となった。
審問官レオナルドが重々しく口を開く。
「あなたは統一教団の理念を真っ向から否定し、一神教への回帰を企てた。聖職者にあるまじき背教だ。私は教義局の審問官として、あなたを異端審問に付すことを正式に宣告する」
イグナティウスの顔が蒼白になる。
異端審問――それは、聖職者の間でさえ口にすることを憚られる、教団最奥の裁きだった。
「待て、私は大司教だぞ。そのような――」
「あなたの階位は、正式な審問が終わるまで停止する」監察官が冷たく告げる。
審問官はさらに続けた。
「あなたの審問に先立って、物部理一郎殿とマリエル・ファレラ修道女への聴取も行われた。証言書がここにある。今日のあなたの発言とともに、異端審問の証拠と認定する」
イグナティウスは傍聴席のマリエルに向かって叫んだ。
「裏切り者め! お前も星神様に背いたか!」
「私は統一教団の理念に従っています」マリエルがはっきりと答える。「そして私は日女神様のご加護で人々を癒やし、救うことを誓っています。あなたがなさったことは、私の心に反する行いです」
監察官マティアスが傍聴席のマリエルに近づいた。
「マリエル・ファレラ修道女、あなたの勇気ある告発に感謝します」
そして、声を落として、マリエルだけに聞こえるようにささやいた。
「非公式ですが……あなたに罪はないと、私は考えています。最後に正しい選択をした。それが何より重要です。詳しくは後日、正式な調査が終わってからお伝えしますが、おそらく咎めなしに、現在の職務も続けられるでしょう」
マリエルは小さく息をつき、肩の力を抜いた。
それから監察官は理一郎に深々と頭を下げると、審判所の衛士に引き立てられるイグナティウスの後を追った。
* * *
審判所から出ると、理一郎は大きく伸びをした。
降り注ぐ午後の陽ざしが、さっきまで窓一つない密室で緊張していた心身を、ゆるやかにほぐしてくれるようだった。
――エクリプス神殿以来の厄介事が、ようやく一つ片付いた。
そう考えると、理一郎の心は軽くなる。
だが、それは、ほんのつかの間の安堵にすぎなかった。
理一郎たちのもとに、警備局の若い伝令が、息を切らして駆け寄ってきたのだ。




