偽りの託宣
「理一郎さん?」
訓練場からの帰路、まだ戦いの熱が冷め切らないままキャンパス内を歩いていると、後から声をかけられた。
振り返ると、マリエルだった。
今日は修道女服ではなく、淡いベージュ色のワンピースを着ている。私服だと印象がずいぶん変わり、年相応の少女に見える。髪も普段のようにベールに隠れておらず、肩にかかるほどの長さで自然に流れていた。
理一郎の肩にリリスが現れた。
「ほう、胸が実りすぎた娘ではないか。修道服を脱ぐとますます無駄肉が目立つの」
もともとリリスは毒舌だが、マリエルに対しては特に厳しい。
「こんな所で何用ぢゃ?」
マリエルは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに慣れた様子で微笑んだ。
「こんにちは、リリスさん。理一郎さんとはいつもご一緒なのですね」
「当然ぢゃ。妾は主の観察者ぢゃからな」リリスが胸を張る。「それより、そんな格好でどこに行くつもりぢゃ?」
「はい。神秘院に用事がありまして」マリエルは微笑むが、唇にわずかな緊張がある。「理一郎さん、お一人ですか?」
「ああ」
「そうですか……」マリエルはちょっとためらったが、意を決したように口を開いた。「あの……少しお時間をいただけますか?」
「どうした?」
「実は、シトス農地以来、あなたがこの世界に召喚された意味について、勝手ながらずっと考えていたんです。三星蝕という特別な夜に、なぜあなたが招かれたのか……」
「魔力解放の誘因以外に、あの天体現象に意味があったというのか?」
理一郎の瞳に興味の灯がともったのを見て、マリエルはさらにたたみかけた。
「私には、そこに星の意図があるように思えるのです」
「星の意図とは?」
「私は浅学ですので詳しい説明はできませんが、星の配置は神の意志の表れだとされています。その配置から意図を読み取るのが占星術です」
「星占いか」
理一郎が少し眉をひそめる。科学者として、占いの類いには懐疑的だった。
「はい。ちょうど知り合いの占星術師様に会うために、神秘院に向かっているところだったんです」
リリスが割り込んだ。
「占星術なんぞ、当てにならん戯れ言ぢゃ。老魔が聞いたら鼻で嗤うわい」
「ラプラス?」マリエルが首をかしげる。
「過去も未来も見通す、因果の悪魔ぢゃ。占いなど児戯に等しいと言っておったわ」
理一郎は少し考えた。あるいはこの世界での占星術は、元の世界とは違い、合理的な発展を遂げているのかもしれない。
「その占星術師は、天体と人の運命の関係を深く理解されています。あの時の星がなにを意味していたのか、見てもらいませんか? あなたの真の使命や、もしお望みなら故郷への道筋が見えるかもしれません」
リリスが理一郎の耳元で小さく言った。
「主よ、妾はあまり気が進まぬ。あの娘、なにか隠しておるぞ」
「隠している?」
「表情の微細な変化や瞳の動きから判断するに、何らかの後ろめたさを抱えておる。完全に嘘をついているわけではないが、すべてを話していないのは確かぢゃ」
理一郎はマリエルを見つめた。確かに、いつもより緊張しているような気がする。だが、それが何を意味するのかはわからなかった。
それに、たとえ無駄足になったとしても、セリウスとの戦いの後の興奮を、マリエルとの時間が鎮めてくれそうな気もした。
「いいだろう。話を聞いてみよう。ただし、俺が異世界人だということは明かさないでくれ」
「わかりました」
マリエルは安堵すると同時に、良心の呵責にもさいなまれた。
神秘院の研究棟は、魔法院のそれと比べるとかなり小ぶりだった。古い石造りの建物で、窓は小さく、全体的に薄暗い印象を与える。
「なんとも陰気ぢゃな」リリスが感想を漏らす。「妾はこういう場所は好まん」
「なぜだ?」理一郎が小声で尋ねる。
「主の言うところのΨ場が乱れておる。妾のような純粋な情報体にとっては耳障りでならん」
マリエルが振り返った。
「なにかおっしゃいましたか?」
「いや、なんでもない」
研究棟の廊下には、古い絵画や天体図が掛けられていた。足音が石の床に響く。
「この建物、いつ頃の建築だ?」理一郎が尋ねる。
「確か二百年ほど前と聞いています。元は貴族の私邸だったものを、アカデミアが買い取って研究棟にしたそうです」
リリスが周囲を観察している。
「主よ、この建物には複数の魔法陣が仕込まれておる。結界の類いぢゃろうが、用途が不明ぢゃ」
「結界?」
「外部からの干渉を防ぐためのものか、それとも内部の何かを封じ込めるためのものか……妾には判断がつかん」
理一郎たちは『占星学研究室』の札の掛けられた部屋の前に到着した。
マリエルが胸元のペンダントにそっと指を伸ばし、金細工の小さな日輪に触れる。それは、不安を感じている時に無意識に出てしまう癖だった。
「あの……」マリエルがリリスを見て言いよどんだ。「リリスさんは、こちらの世界ではかなり異質の従魔です。そこから理一郎さんの正体を怪しまれてしまう恐れがあります。ですので……」
マリエルは申し訳なさそうに理一郎を見上げた。
「そういうことなら仕方ないな」理一郎はリリスに向き直った。「今回は席を外してくれ」
「なんぢゃ、つまらん」リリスは不満そうに眉をひそめた。「妾の観察力があれば、その占い師の正体ぐらいすぐに見抜けようものを」
「俺の素性はできるだけ秘密にしたい」
リリスはしばらく考え込んだが、やがて諦めたように息を吐いた。
「仕方ないのう。では、妾は近くを散策しておる。なにかあったら呼ぶがよい」
「理解した」
リリスは理一郎の肩から飛び立ち、神秘院の外に消えていった。
「ありがとうございます」
マリエルは理一郎に軽く頭を下げると、研究室のドアをノックする。
「どうぞ」
若い女性の声に招かれて中に入る。
薄暗い部屋だ。
青と紫の布が天井から垂れ下がり、星形の小さな魔法の明かりが宙を漂っている。中央には丸いテーブルがあり、ベールとマスクで顔を覆った、全身黒ずくめの女性が座っている。
「いらっしゃい、マリエルさん。あら、男性と一緒とは珍しいですね」彼女は柔らかい声で言った。「知りたいのは、お二人の恋の行く末ですか?」
「え? ち、違いますよ」マリエルが顔を赤らめて首を振る。「いつもの託宣をいただきにきたのです」
「では、そちらの方は?」
「物部理一郎さんです。遠国から留学されている学者様です」
マリエルに紹介された理一郎は軽くうなずくと、無遠慮に辺りを見回しながら訊いた。
「ここが研究室なのか? どんな研究をしている?」
「星の在り様から、人の運命を知る方法です」
「どうやって知るんだ?」
「人の一生は星の位置で定まります。お生まれになった時の星の位置、現在の星の位置、そして未来の星の位置……、私たちはそれらから運命を読み解き、お伝えします」
老魔が聞けば鼻で嗤いそうな話だなと、理一郎は思う。
「つまり、天文現象と人間の運命に相関があると言うのか? この世界でなら、天体の配置がΨ場に何らかの影響を及ぼす可能性は、否定できないだろう。だが、それが個人の運命と結びつくとなると、話は別だ。相関を立証するには、膨大な観測記録の蓄積がいる。とても、たやすく確かめられるものではないな」
「すべては星神と星のお導きです」占い師は天を指さした。
「難しいことはわかりませんが、理一郎さん、とにかく観てもらいませんか」とマリエル。
もともと運勢だの占いだの御神籤だのは一切信じていない理一郎だが、この世界では何があっても不思議ではない。
「実験あるのみ、か」
占い師は二人を丸椅子に座らせると、テーブルに刻まれた平面天体儀に軽く触れた。
リーン。
澄んだ共鳴音が小さく聞こえた。音は、ゆっくり振れるメトロノームのように、一定の間隔で部屋の中に響く。
「では、物部様、お手を」
占い師は理一郎の手を取り、テーブルの中央に乗せる。すると、天体儀が淡く光りはじめた。
「あら……」占い師の声色が変わった。「あなたは、とても遠い国からいらしたのですね」
理一郎の体が思わず硬くなる。
――彼女の能力は本物なのか?
女占い師は理一郎の目をじっとのぞき込んだ。
「星の巡りも違うような場所? とても特別な存在?」
占い師の声は次第に低く、リズミカルになっていった。
「そしてあなたには、特別な力がある。それは……この世界の理を知る力。だけどまだそれは解放されていない」
共鳴音の響きが短く速くなっていく。
「解放する機会がごく近い未来に訪れます。あなたの身近な人が、あなたに選択肢を示します。ある儀式への誘いです」
――「訪れるでしょう」ではなく、「訪れます」なのだな。
そんなことをぼんやり考えているうちに、占い師の瞳が宇宙を湛えているように見えはじめ、なぜかその瞳から目を離せなくなっていた。次第に霞がかかったように頭がぼんやりとし、彼女の声が意識に染み込んでくる。
「儀式……」理一郎は無自覚に繰り返した。
「そう、儀式です。あなたの真の力を解き放つための儀式です。誘うのはマリエルさんです。あなたは『はい』と答え、儀式に参加しなければなりません。それがあなたの未来を開く鍵となるからです」
理一郎は、頭がまったく働いていないことは自覚していた。警戒すべき状況であるにもかかわらず、占い師の声と共鳴音を聞いているうちに、問題が起きているとすら思わなくなっていった。
「……マリエルから……儀式に……」ただ、それだけを繰り返した。
マリエルは、そんな理一郎を胸が締め付けられるような想いで眺めていた。できれば今すぐ止めさせたかったが、教団宣教庁からの指令には従うしかなかった。
無意識のうちに、彼女の指がまた胸元のペンダントを探っていた。日輪の縁を指の腹でなぞる。金属のひんやりとした感触が、揺らぐ心をかろうじて支えていた。
女占い師は神秘院占星学課程の学生だったが、同時に星教派の上級信者でもあった。理一郎をある儀式に参加させる暗示をかけるため、星教派がわざわざ大がかりな芝居を打ったのだ。
マリエルは理一郎が教団の法に背く〝魔人〟になりかねないので、その前に救済してやらなければならないと諭され、任務に就いた。だが、実際に理一郎に接してみると、決して悪い魂の持ち主ではなく、むしろ真摯に知識を求める求道者ではないかという想いを強くしていった。
今、眼前で行われているのは、天体儀に似せた魔道具による暗示魔法だ。そのことに、マリエルの胸は痛んだ。
いつもは理知的な顔つきの理一郎が、今は目の輝きを失い、呆けたように占い師の言葉を繰り返す。
マリエルは胸元のペンダントを、ぎゅっと握りしめた。
――もう、暗示は効いているはず。これ以上は見ていられない。
「理一郎さん、そろそろ時間ですよ」マリエルは急に立ち上がって言った。
「え? ああ……そうだな」
理一郎は少しぼんやりとした表情で立ち上がった。
「……君の用は……済んだのだったか?」
「はい、大丈夫です」
マリエルの予定外の行動に驚いたように、占い師の目がわずかに見開かれる。それでも、「また機会があれば」と微笑みは絶やさず理一郎に言った。
理一郎はうなずき、出口に向かうため背を向ける。
その瞬間――占い師の目から温度が消えた。彼女は冷たい視線でマリエルを見て言った。
「あなたも運命を忘れないことです」
マリエルは無言で理一郎を連れて外に出た。
神秘院研究棟の外に出ると、小さな影が理一郎の肩に飛び移った。リリスだった。
「主よ。どうぢゃった?」
「リリス?」理一郎は少し混乱したような表情を見せる。「君はなぜここに?」
リリスは理一郎の様子の異変にすぐ気づいた。いつもの鋭い知性が薄れ、目の焦点も定まっていない。
「なんぢゃ、この状態は? まるで魂が抜けたようではないか」
「あの部屋、少し変じゃありませんでしたか」マリエルが慎重に尋ねる。
「そうか? 特に違和感はなかったが」
理一郎は何事もなかったかのように答えた。
暗示は確かに効いている。マリエルの胸が罪悪感で痛む。
リリスは、理一郎の頭を小さな手でぺたぺた触る。
「主よ。あの部屋で、何を言われた?」
「何を……?」
理一郎は眉を寄せた。
「占い師から、何か重要なことを聞いたのであろう?」
「ああ。ぼんやりとはしているが、何かやらなければならないことがあるらしい」
「何をやるのぢゃ?」
「それは……」
暗示の効果で、理一郎の記憶は曖昧になっている。
リリスの紅い瞳が細くなった。
「何かせねばならぬことは覚えておるのに、何をするのかは思い出せぬのか。……妙ぢゃの」
マリエルは驚いて振り返った。悪魔には暗示が見抜けるのか。
「占星術の託宣は、象徴的な言葉で伝えられることが多いのです」
マリエルは、できるだけ平静を装って答えた。
「初めて占いを受けた方は、その意味をすぐには整理できないことがあります。時間がたてば、自然と思い出されるでしょう」
「ふむ……」
リリスは疑わしそうにマリエルを睨んだ。
「ならば、思い出すまで妾が見張っておこう。主が妙なことを始めぬようにな」
「そこまで心配する必要はないだろう」と、理一郎が歩き始める。
リリスはなおもマリエルを睨みながら、理一郎の肩へ飛び乗った。
マリエルは、遠ざかっていく理一郎の後ろ姿を見送りながら、胸のペンダントに触れた。
だが、心の痛みは、少しも和らがなかった。




