模擬魔法戦(後編)
だが、皆の心配は杞憂だった。
理一郎は静かにメガネを押し上げる。
「見事な魔法だ」
その口から、率直な賞賛がこぼれた。
「それでも、物理法則は絶対だ」
理一郎の脳裏で、幾何障壁を構成する二つの方程式に、新たな演算子が組み込まれた。
R^μ_ν = δ^μ_ν − 2n^μ n_ν
反射演算子――物体やエネルギーの進行方向を、鏡像のように反転させるための式。
式に含まれるnは、障壁の表面に対して垂直な方向を表す法線ベクトルだ。わかりやすくいえば、その場所の反射面が、どちらを向いているかを示す値だった。
鏡に光が当たれば、鏡へ向かっていた成分だけが折り返され、入射した角度のまま跳ね返る。
この演算子が行うのも、それと同じことだ。障壁面へ向かう進行成分だけを、裏返す。
だが、単純に跳ね返すだけでは、七属性の攻撃はばらばらの方向へ散ってしまう。
理一郎が操作するのは、反射演算子そのものではない。式に含まれる法線ベクトルnだ。
ゾーンによって引き延ばされた時間感覚の中で、理一郎は七属性の奔流を構成する一つ一つの攻撃について、入射する角度と進行方向を読み取った。
さらに、反射後の軌道がすべてセリウスの位置へ向かうよう、幾何障壁の表面を無数の微小な領域に分け、それぞれの法線ベクトルnを算出していく。
半球状の外見は変わらない。
だが、その実効的な表面は今、すべてがセリウスへ向けられた無数の鏡へと組み替えられていた。
理一郎は、算出した法線ベクトルnを反射演算子へ代入し、障壁表面の微小な領域ごとに反射方向を定めた。
そして、その反射演算を、物理攻撃の運動量と、場を介して流れ込むエネルギーの双方へ適用する。
通常の幾何障壁は、質量や運動量を伴う攻撃は周囲へ迂回させ、場のエネルギーは広い範囲へ分散する。
だが今は、そのどちらも散らさない。
物体の進む道も、エネルギーの流れる道も、すべてセリウスへ戻るように、幾何を組み替えた。
「その理に、従え!」
七属性の奔流が、幾何障壁へ達する。
その瞬間、奔流に混在していた運動量と場のエネルギーが選り分けられ、そのひとつひとつに反射演算子が適用される。
幾何障壁の表面を走っていた青白い光が、一斉にセリウスの方向を向いた。
火、水、風、土、雷、光、闇――。
七属性の奔流は、幾何障壁に打ち消されることも、吸収されて消えることもなかった。
その威力と構造を保ったまま、進行方向だけを反転させられたのだ。
「まさか……!」
セリウスが目を見開く。
「君の魔法を、そのまま返そう」
次の瞬間、七属性の奔流が幾何障壁から放たれ、セリウスへ向かって殺到した。
「うわあああああ!」
セリウスは残った魔力をかき集め、あわてて防御魔法を展開したが、自分自身の最大奥義を防ぎきることはできなかった。
轟音とともに爆発が起きる。煙が立ち込める中で――。
セリウスの防護結界が真っ赤に光った。警告音が訓練場に響き渡る。
「勝負あり!」バルドリックが宣言する。「勝者、物部理一郎殿」
観客席では拍手が沸き起こる。全員、総立ちだった。
セリウスは訓練場の床にしゃがみ込んでいた。防護結界のおかげで無傷であるが、明らかにうろたえ、戦意を失っている。
「う、嘘だ……オレ様が……負けた?」
セリウスの声は震えていた。生まれて初めての敗北。それも、自分の魔法を跳ね返されるという屈辱的な負け方だった。だが、プライドが邪魔をして、敗北を素直に受け入れることができない。
「オレ様は……まだやれる」セリウスがつぶやく。「まだだ、まだ終わってない……」
だが、体が言うことを聞かなかった。魔力を使い果たしていたのだ。
「負けを認めるのだ、セリウス」バルドリックが優しく声をかける。「これも勉強だ」
「団長……」
セリウスの瞳に、悔し涙が浮かんだ。
理一郎はセリウスを見下ろした。少年は拳を握りしめ、唇を噛んでいる。
「セリウス」理一郎が声をかける。「君の魔法は確かに素晴らしい。威力、精度、発動速度、どれをとっても一流だ」
「嫌みか……」セリウスが歯ぎしりする。
「だが、君は自分の魔法が、なぜその現象を起こすのかを理解していない。なぜ炎が生まれるのか、なぜ氷ができるのか、なぜ風が起こるのか――それを考えたことはあるか?」
セリウスの動きが止まった。
「君は天才なのだろう。だから感覚で魔法を使えてしまう。だが、それは同時に君の限界でもある」
セリウスは反論しようとした。だが、言葉が出てこなかった。
――オレ様は、本当に魔法のことをわかっていたのか?
胸の中に渦巻く悔しさの底に、これまで抱いたことのない問いが残った。
――今度は絶対に負けない。絶対に……。
「見事でしたよ、理一郎君」バルドリックが満足そうにうなずく。「これほど見事な戦術的勝利は久しく見ておりません」
「ありがとう」
「懸念材料はありますが、君ならきっと乗り越えられるでしょう。オスタネス大迷宮調査団への参加、正式に認めさせていただきます」
バルドリックの言葉に、理一郎は小さく頭を下げた。
「理一郎君」ラランドランドララが小走りに駆け寄ってくる。
「なかなかだったね。物理学魔法の可能性を十分に示せたと思うよ」
「課題は多いがな……」
そうつぶやいた瞬間、理一郎の身体に異変が起きた。
急激にめまいが襲い、膝がガクガクと震えはじめる。視界がぼやけ、立っているのがやっとの状態になり、片膝を突く。
「理一郎君!」ラランドランドララがあわてて支える。
「大丈夫か?」バルドリックも心配そうに手を貸した。
理一郎は額に大量の汗をかき、顔面蒼白になっていた。戦闘開始からずっと情報処理速度を高速化し続けていたため、脳が極度のエネルギー不足に陥っていたのだ。
「すまない……ちょっと……糖分を……」
理一郎の声はかすれ、まともな会話にならない。まさにハンガーノック状態だった。
「白衣のポケットに氷砂糖がある。それを口に入れてやるのぢゃ」
リリスの言葉を聞いて、ラランドランドララが小さな氷砂糖を取り出した。
「これでいいのかい?」
理一郎は震える手で氷砂糖を受け取ると、口に放り込んだ。強烈な甘さが口の中に広がり、しばらくすると意識がはっきりしてくる。
「もう一つ……」
ラランドランドララが追加の氷砂糖を渡すと、理一郎は貪るようにそれも口に入れた。
数分後、ようやく理一郎の顔に血色が戻ってきた。思考が明晰になり、手足の震えも収まった。
「すまない。情けない姿を……」
「いや、これは……」バルドリックが顎ひげをひねる。「物理学魔法の副作用ですかな?」
「ああ。脳の情報処理速度を高速化すると、グルコースの消費量が異常に増加する。長時間の使用で脳が燃料切れになる」
「魔力の枯渇ではなく?」バルドリックが確認する。
「俺にはそもそも魔力がない。この世界の魔法使いとは、力の源が根本的に違う」
「君から魔力を感じられないのは、そういうことでしたか。だが、君には別の大きな力があるようだ……」
――魔力ではない別の力。
方程式の意味を理解し、世界を書き換える値を定義したとき、その演算活動が何らかの干渉信号へ変わる。それが、物理学魔法を駆動しているのではないか。
以前、ふと頭に浮かんだ言葉がよみがえった。
――理力。
あの時は思いつきにすぎなかった言葉が、今は以前よりも確かな輪郭を帯びていた。
――連続使用は、もって五分か。
理一郎は自分の身体の限界を改めて思い知らされた。
「使い様の工夫はいくらでもできそうですな。物部理一郎君。よければ明日からでも魔法師団に来てはいかがかな。君であれば隊長格でお迎えしよう」
「こらこら、バルドリック君。理一郎君は私の大事な共同研究者なんだよ。ちょっかいは出さないでもらいたいね」
「これは申し訳ありませんでした、ララ先生。それでは物部理一郎君、大迷宮調査の日程は追って連絡するよ。また会うのを楽しみにしている」
まだ泣きじゃくっているセリウスを、同僚たちが抱えるように連れ出していった。
* * *
別邸で少し休んだほうがいいというラランドランドララの提案を丁重に断り、理一郎は訓練場を後にした。
「主よ、よくやった」リリスが理一郎の肩で満足そうに腕を組む。「これで調査団に参加できるのう」
「ああ。だが……」
理一郎の心の中には、ほかにもまだ解決されない問題が残っていた。
――懸念材料か……。
理一郎は自分に問いかける。
もしもこれが実戦だったら? 本当に相手を傷つけ、殺すかもしれない状況で、攻撃魔法を使えるだろうか……?
今回の模擬戦で、理一郎は対人戦闘に勝った。だが、それは安全が保証された状況でのことだった。本当の戦いで、相手の命を奪う可能性がある攻撃を躊躇なく放てるだろうか。
幾何障壁は防御には有効だが、長時間は持たないし、積極的な攻撃手段ではない。いざという時、自分はどうするのだろう――。常に合理的な判断を冷静に下してきたつもりだったが、そうできない事象があることに、理一郎は気づかされたのだ。
「主よ、なにを悩んでおる?」リリスが理一郎の複雑な表情を読み取る。「勝利したではないか」
「ああ、勝った。だが……」理一郎が小さくつぶやく。「俺は本当に人を傷つけることができるのだろうか?」
「それがなんだと言うのぢゃ?」
「この世界では、ときに相手の命を奪わなければならない状況もあるだろう。その時、俺は躊躇なく攻撃できるだろうか」
リリスは理一郎の肩で小さく笑った。
「主よ、それは杞憂ぢゃ」
「なぜそう言える?」
「なぜなら、主はすでにそれを証明しておる」
「どういうことだ?」
「暴竜との戦いを思い出すとよい。あの時、主は躊躇したか?」
確かに迷いはなかった。
「だが、あれは魔物だった」
「そうぢゃ。ぢゃが、重要なのは、主がみなを守るために戦ったということよ。東市場の火災でも、主は自分の記憶を代償にしてまで人々を救った」
理一郎の表情が少し和らぐ。
「それが主の本質である限り、どんな状況でも主は必要な行動を取るよ」
「リリス……」
「主はそういった類いの情報構成体ぢゃ。良くも悪くものう」
「ふん、小悪魔風情が知った風なことを」と理一郎。
リリスが目を丸くする。
「なんぢゃ、それは?」
「お前の真似だ」
理一郎がリリスの頭を人差し指でなでる。
「よせ、気色悪い」
「この世界で、俺は俺の道を歩む。理の書を見つけ、この世界の真理を解明する。そのためなら――」
「そのためなら?」
「必要なことは実行する」
理一郎の声に、迷いはなかった。
「そうぢゃよ。そうでなければ面白うない」
リリスが満足げにほくそ笑む。




