模擬魔法戦(前編)
「へー、思ったよりちゃんとしてるじゃん」セリウスが訓練場を見回しながらつぶやく。「もちろん、宮廷の訓練場には劣るけどね」
セリウスはそう憎まれ口をきくが、王立アカデミアの訓練場は彼の想像以上に本格的な施設だった。
地下に設けられた円形のアリーナは直径五十メートルほどあり、床には魔法陣が幾重にも刻まれている。観客席は階段状になっており、魔法戦闘を安全に観戦できるよう設計されていた。
「ほお、ずいぶんと立派になりましたな」バルドリックが懐かしそうに訓練場を見回す。「設備もだいぶ新しくなっておるようだ」
「君が卒業してから何度か改修したからね。最新の研究成果が応用されているんだよ」
ラランドランドララが小さく胸を張る。
理一郎とセリウスは、アリーナの両端に立って向かい合う。
セリウスはすでに魔導杖を手にしており、エメラルドグリーンの瞳が興奮で輝いていた。
それに対して理一郎は、構えもせずに立っている。その表情にはかすかな迷いが浮かんでいた。
先ほどまでは練習試合のようなものだと考えていた。だが、実際に面と向かうと、向こうにいるのは生身の人間だという当たり前の事実が、重くのしかかってきた。
「どうしたのだ、主よ」
理一郎の肩に、リリスが現れた。
「おい」理一郎が咎めると、「一番近くで観戦させてもらうのぢゃ」とすまし顔だ。
「邪魔も手出しもするなよ」
「わかっておるわ……それにしても主よ、主は人を傷つけることを恐れておるのか」リリスが小さく、しかし理一郎にだけ聞こえるようにつぶやく。「なんと脆弱な魂ぢゃの」
「黙れ。頭を勝手に読むな」理一郎が小さく返す。
「なるほど、これまでは魔物が相手だったからのう。だが今度は人間……しかも年端もいかぬ少年ぢゃ。良心が痛むというわけか」
リリスの指摘は的確だった。
理一郎の人生で、誰かを文字通り攻撃することなど一度もなかった。研究室にこもり、論文を読み、数式と向き合う――それが理一郎の世界のすべてだった。
――魔物なら躊躇なく攻撃できる。だが……。
結界のおかげで実際のダメージがないとわかってはいても、心理的な壁は高かった。平和な時代の日本で、暴力とは無縁の学者生活を送ってきた理一郎にとって、対人戦闘は、まったく経験のないものだったのだ。
「主よ、心せよ」リリスが理一郎の耳元でささやく。「この世界で生き残るためには、ときに他者を制する力が必要ぢゃ。それを示さねば、誰も主を認めはせん」
「理解は、している」理一郎が答える。「だが――」
「だが、なんなのぢゃ? 主は肝心なところで愚かぢゃの」
愚かと言われても、理一郎は反論できなかった。
研究を奪われ、裏切られ、追放された。人の悪意を見抜けない愚かさが招いた結果だった。
「それに――」リリスが続ける。「これは模擬戦ぢゃ。命の奪い合いではない」
「じゃあ、始めるよ」
ラランドランドララが手を高く掲げる。すると、対戦者の体全体が青白い光の膜に包まれた。同時に空気がわずかに震え、訓練場全体に魔法の威力を抑制する結界が展開された。
「制限時間は十分間。だけど、どちらかの防護結界が赤く光ったらそこで対戦終了だよ」
ラランドランドララの説明に、セリウスが自信満々に胸を張る。
「ふん、あっという間に終わりになるよ、もちろんオレ様の勝ちでね!」
「どちらも準備はいいね」
理一郎はうなずいた。いざセリウスと視線が合うと、やはり迷いが頭をもたげる。
それでも調査団に加わり、理の書へ近づくには、戦うしかない。
「それでは――」バルドリックが手を上げる。「始め!」
合図と同時に、セリウスが動いた。
「炎よ、灼き尽くせ!」
セリウスの杖の先端から、拳大の火の玉が連続で放たれる。一発、二発、三発――次々と理一郎に向かって飛んでいく火炎弾は、本来なら石壁を溶かすほどの高熱を帯びていた。
一方、理一郎は、セリウスが杖を振ると同時に、メガネを押し上げてゾーンに入った。
その瞬間、理一郎の脳の情報処理速度が一気に加速する。
周囲の動きのすべてがスローモーションのように見えはじめ、飛来する火炎弾の軌道が、くっきりとした放物線を描いて視界に浮かんだ。軌道を読み、最小の動きで火炎弾を回避する。
「やはり回避に専念しておるな」リリスが理一郎の肩で腕を組む。「だが、それでは勝てんぞ」
「避けるだけで精一杯だね?」セリウスが挑発的に嗤う。
「なら、これはどうかな。氷よ、刺し通せ!」
今度は水属性魔法。空中の水分が急速に凝結し、凍りついて槍状の氷塊となる。
理一郎の時間感覚はまだ加速状態にあった。氷柱の軌道を正確に予測し、これも最小限の動きで回避を試みる。だが、避けきれず、一本が頬を覆う防護膜をかすめた。青白い光が散る。
「ほらほら当たった!」セリウスが得意げに叫ぶ。「次はもっと派手に行くよ!」
セリウスの魔導杖が金色に輝く。彼の周囲に風が巻き起こり、髪が舞い上がった。
「風よ、切り裂け!」
風属性の攻撃魔法、空気を圧縮した〝風の刃〟が、理一郎を四方八方から襲う。
理一郎は加速した時間感覚の中で、すべての風刃の軌道を把握した。だが、すべての攻撃をかわすためには、急な回避運動を繰り返さなければならない。それは、運動とは無縁の学者の筋肉や関節に、大きな負荷をかけた。
理一郎は限界を顧みず、身をひねり、跳び、転がり――。
そして、左脚の太ももに激痛が走った。片膝をつき、脚を押さえる。
「うっ!」
「やった!」セリウスが拳を上げる。「オレ様の風からは逃げられないのさ!」
観客席からもどよめきが上がる。セリウスの魔法によって負傷したように見えたのだ。
だが、実際には、肉離れだった。
ゾーンによって動き始めるのは早くなっても、筋肉そのものが強くなったわけではない。慣れない急回避を繰り返した結果、筋肉が悲鳴を上げたのだ。
「主よ、もう身をかわし続けるのは限界ぢゃ」リリスが理一郎に告げる。「脳のエネルギーも枯渇しかけとるぢゃろ。長時間は維持できまい」
「理解している」理一郎が歯を食いしばって答える。
――これは単純な二択問題だ。
勝てば調査団に加われる。負ければ加われない。それだけの話だった。
人を傷つけることへの忌避感は根深い。だが、理一郎は決断した。
――今は戦うべき時。
「主よ、ようやく覚悟を決めたか」リリスが満足そうに微笑む。「そうでなくては面白くない」
少なくとも、この模擬戦で取るべき行動は決まった。
理一郎は落ち着いてゆっくりと立ち上がる。
「問題ない。データは十分に取れた」
「データ? ってなんだよ?」セリウスが眉をひそめる。「この状況でまだ余裕ぶってるの?」
実際、戦況はセリウスが圧倒的に有利に見えた。理一郎は脚を負傷し、これ以上の身体的な回避は困難だ。一方、セリウスは攻撃の手数、威力、バリエーション、すべてにおいて上回っている。
「どうしたの? 『物理学魔法』とやらはまだなのかい?」セリウスが煽る。「それとも、オレ様が強すぎてなにもできないとか?」
観客席の宮廷魔導士たちもざわめきはじめている。
(彼は、なぜ反撃しないのだろうか?)
(いや、セリウスが上手すぎて手を出す暇がないんだ)
(さすがに相手が悪かったようだな……)
だが、ラランドランドララとバルドリックだけは違った。
「いや……理一郎君は、そもそもまだ戦ってないよ」ラランドランドララが小さくつぶやく。「セリウス君の魔法を観察し、分析しているんだ」
「そうですな。そして……」バルドリックが続けた。「初めての対人戦に迷っていましたな。それこそが彼の越えるべき壁」
立ち上がった理一郎を見て、セリウスが杖を振る。
「もう終わり? もう少し遊ぼうよ! 岩よ、押しつぶせ!」
今度は訓練場のところどころに用意された巨大な石塊が浮き上がり、理一郎に向かって無数に飛んできた。脚を負傷した理一郎には避けきれない、物理的な飽和攻撃だ。
だが、その瞬間――。
理一郎の脳裏に、二つの複雑な方程式が浮かび上がった。
G_μν = (8πG/c^4)(T_μν + T^(Φ)_μν)
∇^μ F^(Φ)_μν = J^(attack)_ν
第一式は、一般相対性理論のアインシュタイン場方程式を、この世界のΨ場を含む形へ拡張したものだ。
一般相対性理論では、物質やエネルギーが時空を曲げ、物体はその曲がりに沿って進む。地球が太陽の周囲を回るのも、太陽によって曲げられた時空の中を進んでいるからだ。
理一郎が新たに加えたT^(Φ)_μνは、Ψ場への干渉によって展開する特殊な場――幾何障壁場を表している。
そのエネルギー密度や圧力の分布を書き換えれば、理一郎の周囲だけ、物体の進路を決める時空の曲がり方を、思いのままに変えられる。
ここでいう〝幾何〟とは、単なる図形のことではない。
物体が空間の中を、どのような道筋で進むか。それを決める構造そのものだ。
迫る石塊を、力で押し返すのではない。理一郎へまっすぐ向かっていた進路を、彼の周囲をなめらかに迂回する軌道へと、曲げてしまう。
第二式は、熱や雷撃のように、場を介して届く攻撃に対処する。エネルギーの流れを障壁場へ導き、行き場を変えてやるのだ。
二つの式が同時に働き、理一郎の周囲だけ、物体とエネルギーの進み方が、まるごと組み替えられていく。
硬い壁で攻撃を受け止めるのではない。
攻撃そのものが、もはや理一郎にたどり着けない。そんな空間を、彼は自らの周囲につくり出そうとしていた。
「その理に、従え!」
理一郎が右手を上げる。
その周囲に、透明な半球状の障壁が現れた。表面には、空間そのものがわずかに揺らいでいるような、青白い光の筋が走っている。
無数の石塊が迫る。
だが、障壁へ衝突することはなかった。
石塊は理一郎の手前で次々と軌道を曲げ、半球の表面を滑るように左右へ分かれていく。まるで川の流れが、中州を避けて二つに分かれるようだった。
石塊は、彼の両脇をすり抜けて背後の床に砕けた。
「え?」
セリウスが目を丸くする。
「なにそれ?」
「幾何障壁だ」
「きか……? なんだよ、それ?」
「周囲の空間の曲がり方を変え、物理攻撃が俺を避けるようにしている」
セリウスの顔に困惑が浮かんだ。だが、攻撃の手は緩めない。
「わけわからないけど、岩がだめなら、これはどうだ? 雷よ、貫け!」
今度は雷属性の電撃魔法だ。
稲妻がセリウスの杖から迸り、理一郎へ向かってくる。
石塊のような物理攻撃なら、第一式によって空間を曲げ、軌道を外へそらせばいい。
だが、雷撃は違う。
電気や熱は、固い物体として飛んでくるのではない。場を介して、エネルギーそのものが伝わってくる。
そこで働くのが、第二式だった。
左辺のF^(Φ)_{μν}は、幾何障壁場の状態を表す。左辺全体は、その場が外部からのエネルギーにどう応答するか、つまり流れ込んできたエネルギーをどう受け止め、どう動かすかを記述している。
右辺のJ^(attack)_νは、その引き金となる源項だ。源項とは、その場に外部からどのような作用が加わっているかを表すもので、この場合は、どんな攻撃が、どれほどの強さで、どの方向から流れ込んでくるかを示している。
この世界の属性魔法は、魔導子がΨ場を励起することで現象を生み出す。
氷や岩のように物質となった攻撃は、第一式が引き受ける。一方、火炎の熱、雷撃、光、通常の闇属性魔法など、場を介して伝わるエネルギーは、第二式の領分だった。
流れ込むエネルギーを障壁場へ導き、広い範囲へ薄く引き延ばす。エネルギーそのものは消えなくとも、害を及ぼせない密度まで散らしてしまえる。
雷撃が幾何障壁へ達した瞬間、無数の光の枝となって、半球状の表面を走った。
一点に集中していた電気エネルギーが、障壁場全体へ移されていく。青白い光は半球いっぱいに広がり、やがて淡い光とわずかな熱となって、周囲へ溶けるように散っていった。
その雷撃は、理一郎の髪一本すら焦がさなかった。
「嘘でしょ!」
セリウスが驚愕する。
「オレ様の雷撃が効かないなんて! どんなズルをしてるんだよ!」
「これも幾何障壁の機能だ。物理攻撃は、周囲の空間を曲げて外へそらす。場を介して届く攻撃は、いったん障壁場へ移し、広い範囲へ薄く散らす」
「だから、それがズルだって言ってるんだよ!」
観客席もざわめいている。
「防ぐのは物理攻撃だけではないようですな」
バルドリックが顎ひげをひねる。
「攻撃を止めるのではなく、物部君へ到達するまでの過程そのものを変えている……。これが物理学魔法ですか」
「なかなかやるでしょ、理一郎君は」
ラランドランドララが自慢げに応えた。
いまだ不敵な笑みを絶やさないセリウスだったが、その心中は乱れに乱れていた。
――なんだよ、こいつ!
――最初から動き出しが早くて、全然当たらなかった!
――オレ様の風刃でやっと脚を止めたと思ったら、今度は変な障壁!?
――岩も雷も、無効化されてる!
――これじゃあ、オレ様が弱いみたいじゃないか!
焦ったセリウスは、ごり押しで決着をつけようと、さらに攻撃の手数を増やした。
「だったら、これはどうかな?」
セリウスは腰から予備の魔導杖を取り出すと、両手に一本ずつ構えた。二つの魔法を同時に制御する、宮廷魔導師ならではの高等技術だった。
「『火炎弾』と『氷柱』の同時攻撃だ!」
右手から火炎弾、左手から氷柱が同時に放たれる。
火炎弾は幾何障壁へ達する直前、その流れを左右へ曲げられた。高温の気体は半球の表面に沿って二つに分かれ、残った熱も障壁場へ移されて、淡い光となって散っていく。
氷柱も理一郎へは届かない。
曲げられた空間に沿って軌道を変え、障壁の両脇を通り抜けた。
「ありえない!」
セリウスが叫ぶ。
「なんでオレ様の魔法が全部……!」
「主よ、そろそろ反撃の時ではないか?」
リリスが理一郎に進言する。
「主の脳のエネルギーが枯渇しかけておる。ゾーンの維持も限界に近いぞ」
確かに、これほど長く時間感覚の加速を続けたことはない。さらに今は、二つの高度な方程式を並列処理し、危険な攻撃だけを選別して無力化し続けている。
脳への負荷は、限界へ近づいていた。
一方、セリウスも息を切らしはじめていた。連続して魔法を使い続けたため、魔力が底を突きそうになっている。
「くそっ! なんなんだよ、その魔法は!」
セリウスが悲鳴に近い声を上げる。
「オレ様の魔法が全然効かないじゃないか!」
理一郎は障壁を維持したまま口を開いた。
「分析は完了している。君の魔法の特性は把握した」
「特性ってなにだよ!」
「最初の時間感覚加速で、君の魔法を詳細に観測した。火炎弾は高温の気体と熱、氷柱と土石弾は質量と運動量、風刃は空気の圧力、雷撃は電磁エネルギーだ」
理一郎は幾何障壁の表面へ視線を向けた。
「この障壁は、友人の防護結界から着想を得た。攻撃を硬い壁で受け止めるのではなく、俺の周囲で、物体とエネルギーの進み方を決める幾何そのものを変えている」
「うるさい! 理屈なんてどうでもいいんだよ!」
セリウスが魔力を最大出力まで高めた。彼の全身が光に包まれ、訓練場の空気が震える。
「これで終わりだ! すべての根源よ、ひとつになれ!」
セリウスの周囲に、七つの属性すべての魔法陣が同時に浮かび上がる。
火、水、風、土、雷、光、闇――。
それらが一つに融合し、巨大な奔流となって理一郎へ向かった。
観客席から悲鳴に近い声が上がる。
(あれは危険すぎるのでは!)
(結界が持つでしょうか!)
バルドリックもあわてて杖を構え、いつでも割り込めるよう準備していた。




