アリアの忠告
三叉の丘で憲兵団を追い返した二日後。
宵待亭は静かな昼下がりを迎えていた。
中年姿の理一郎が、カウンターに肘を突いて煙草をくゆらせている。
宵待亭は、〝少年〟から解放され、本来の自分として振る舞える唯一の場所だった。
グラスには大きな氷が琥珀色の液体に浮かんでいた。口の中に広がる香りと、喉を灼く熱さが心地よい。
とはいっても、宵待亭では、煙草も酒もメリッサの幻覚魔法が見せる幻だ。
だが、酔いも含めて、得られる感覚は現実そのものだった。脳がそう錯覚し、それに応じて体が反応するなら、現と幻の境はない。理一郎はそう思う。
「やっぱり、大人のあなたと呑むお酒は格別ね」
メリッサはカウンターの向こうから理一郎を見つめながら言った。
「例の侯爵は、本当に俺を諦めたのだろうか」
「安心して。今朝方、確かめてきたわ。命令は確かに撤回されていたわよ」
「そうか。世話をかけたな。ありがとう」
「どういたしまして」メリッサはにっこりと微笑んだ。「あなたのためなら、なんでもするって言ったでしょ」
彼女のピンク色の瞳が輝きを増す。
「で?」理一郎はグラスを置いて尋ねた。「王都の土産話があるってことだったな」
「ええ、もちろん」
メリッサはカウンターから出て、理一郎の隣に座った。膝が触れそうなほど寄り添い、熟成果酒の入ったグラスを傾ける。
その二人の間に割り込むように、リリスが現れた。
「新しい話か? 妾も聞きたいぞ」
老魔と妖猫はよほどの関心がない限り出てこないが、情報に目がないリリスは呼ばれもしないのによく現れる。
「では、特に面白かった話を一つ」
メリッサが、熟成果酒で唇を湿らせる。
「物部理一郎という人物のことが、どこまで広まっているか確かめるために、エルデニア王の寝室に忍び込んだ時の話」
「王の寝所ぢゃと? 謀るでないわ。いくらなんでも話を盛りすぎぢゃ」
「ほんとよ。ほら」
メリッサは、胸元から一枚の便せんを取り出した。上等な紙質で、レターヘッドにエルデニア王の紋章が印されていた。
「一枚、いただいてきちゃった」
理一郎にはその紙片の真贋はわからなかったが、リリスは「ふむ」と唸って黙り込んだ。どうやら本物と認めたようだ。
「寝言が面白かったのよ」
「ほう?」
メリッサが王の声でうめく。
「『……おのれ、ヴィクター、お前の野心は見え透いておるわ……』」
「なんとな。王は侯爵の忠義を疑っておるか」
「そうね。モンフォールはあなたのことを、王さまに報告していなかったわ。だから、あなたが異世界人だと知っているのは、まだごく一部に限られている。でもね、ちょっと厄介なのは――」メリッサが理一郎ににじり寄り、太ももを密着させた。「星教派もあなたに注目してること」
「そうなのか」
理一郎のグラスの氷がカランと鳴った。
「軍務卿の秘書官てね、二枚舌の風見鶏なの。昼間は主人に忠誠を誓いながら、夜は星教派の貴族に情報を売ってたわ。彼の頭をのぞいたら、星教派が事細かにあなたの行動を記録しているのがわかった。まるで――」
メリッサが理一郎の耳元でささやいた。
「あなたに監視をつけているみたい」
「俺に密偵が?」
「そう。誰かまでは調べる時間がなかったけど、気をつけたほうがいいわ」
理一郎の脳裏に一瞬マリエルの顔が浮かんだ。だが、まさか彼女がと、すぐにその思いを打ち消した。
「それとね。王都の冒険者組合で、あなたのことが話題になっているわ」
「そうなのか?」
「ええ、〝物理学魔法の少年冒険者〟だってね。一等魔獣の暴竜を倒した話が広まってるのよ」
「あれはカイラの手柄になっているはずだ」
「でも、カイラ自身が、あれはあなたのお陰だと公言しているのよ。暴竜よ? 本来なら複数の一級冒険者でようやく対処できる相手。それを四級の新人が手助けしたんだから、そりゃ話題にもなるわ」
「そんなことになっていたとはな……」
「悪いことばかりじゃないわ。あなたが有名人になれば、誰もうかつに手を出せなくなるもの」
「なるほど。そういう解もあるか」
メリッサがさらににじり寄ってくる。その二人の間をリリスが割り込んだ。
「ボヨヨン女、いい加減にせい。主よ、そろそろ帰らんとうまくないのではないか」
「ボヨヨン……?」メリッサが目を丸くした。
「見たまんまぢゃ」リリスがメリッサの胸元をちらりと見て鼻を鳴らした。
理一郎はカウンターの時計を見た。
「まずい。この時間だと、アリアが戻っているはずだ」
メリッサが残念そうな顔をした。
「もう帰るの?」
「ああ。最近外泊が続いていたからな。そろそろ不審に思われる」
理一郎は立ち上がり、外套を手に取った。
「ここでは常に本来の姿でいられるのがありがたい。感謝するよ、メリッサ」
「いつでも待ってるわ」
メリッサは理一郎の頬に軽くキスをした。次の瞬間、理一郎の姿が変化し、十七歳の少年の姿に戻る。
「帰ったら、アリアにはなんと説明するのぢゃ?」リリスが尋ねた。
「それが……難しいところだな」
理一郎は困ったように頭をかいた。
* * *
「理一郎くん、最近夜に出歩いたり、外泊したりすることが多くない?」
夕食を終えたアルタイル家の食堂。アリアが真剣な表情で問いかけてきた。
理一郎は食後の珈琲の入ったカップを置き、軽く咳払いをした。
「そうだったかな」
「そうよ。火曜日は明け方に帰ってきたでしょ。水曜日は一晩中帰ってこなかったし、昨日も夕方から出かけたまま。わたし、心配してたんだよ」
アリアの瞳が非難の色を帯びている。理一郎は内心で冷や汗を流した。アリアには憲兵団のことも、軍務卿の件も、ましてやメリッサのことも話していなかった。
「すまない。研究に没頭していた」
「ほんとに?」アリアの眉が怪しげに上がる。「先生、最近は理一郎くんを見てないって言ってたわ」
理一郎は視線をそらした。
「実は……新しい魔法のテストをしていたんだ。場所を変えながら」
「それってなんの魔法?」
「えっと……量子のトンネル効果の……その……」
言葉に詰まる理一郎の背後で、リリスがクスクスと笑っていた。
「リリス、黙っていてくれないか」理一郎がささやく。
「わたしには見えないけど、リリスちゃん、そこにいるの?」アリアが尋ねる。
「ああ、おるぞ」小悪魔が姿を現した。
「リリスちゃん、理一郎くんがなにしてたか知ってるなら、教えて」
リリスが理一郎の耳元でささやいた。
「主よ、もう隠しきれんぞ。本当のことを話したほうが良いのではないかのう」
理一郎は深いため息をついた。
「アリア、実は……」
理一郎は軍務卿が自分を捕まえるために憲兵団を派遣したこと、それを回避するために情報商人と策を練って三叉の丘で追い返したことを、かいつまんで説明した。
話を聞き終わったアリアは立ち上がり、固く握った拳を震わせた。
「なんで黙ってたの! そんな危険なこと……一人で抱え込むなんて……」
理一郎は眉間にしわを寄せ、視線を窓の外にそらした。
「君まで命を狙われる可能性があった。相手は軍を束ねる高位貴族だ。この世界ではとてつもない権力者なのだろう? そんな奴に睨まれたら、君はこの先まともには暮らしていけない」
アリアは肩を落とし、小さく首を横に振りながら、長いため息をつく。
「まったく、頭はいいのに考えが足りないんだから」
彼女にしては手厳しい。さらに堰を切ったように、言葉を連ねた。
「まさか物理学魔法でなんでも解決できるなんて思ってないよね? 権力には権力よ。学都には先生だって、組合長だって、頼っていい大人がいるじゃない。わたしだって大賢者の孫なんだし、それなりに王都での伝手もあるのよ」
理一郎は申し訳なさそうに口元を引き締め、テーブルに置いた手をぎゅっと握る。
「アリアを危険なことに巻き込みたくなかったんだ」
「でも……」アリアがうつむき、長い前髪で表情を隠す。「困ったことがあるのに、相談もしてくれないなんて……」
声が次第に小さくなっていく。
「わたしは、理一郎くんをただの間借り人じゃなくて、友達……ううん、それ以上の……つまり、家族みたいな存在だと感じはじめていた」
理一郎は言葉に詰まった。アリアの言葉は、彼の心に深く響いていた。
「すまない。考えが足りなかったようだ」
そう言うのが精一杯だった。
「同じようなことがあったら、次は絶対に相談してね」
アリアは背筋を伸ばし、きっぱりとした声で言った。その瞳はまっすぐに理一郎の目を捉えている。
「約束して」
右手の小指を立てて差し出す。
――この世界にも〝指切り〟はあるのか。
「ああ、確約する」
理一郎は照れくささを隠しながら、小指を絡ませた。
理一郎の答えを聞いて、ようやくアリアが表情をゆるめた。安堵の吐息とともに椅子に座る。
「ところで――」
今度はリリスが理一郎の肩から身を乗り出し、尾を揺らしながらアリアに訊く。
「このところお嬢ちゃんも帰りが遅かったり、外泊したりしておったようぢゃのう。なにをしておったのぢゃ?」
「それは……」
今度はアリアが言葉に詰まる番だった。彼女は頬を赤らめ、指先で髪をいじりながら小さな声で答えた。
「アカデミアで〝大魔法祭〟の準備をしてるの。あと一カ月で開催されるから、みんなで夜遅くまで準備してるの。先生のお家やリヴィアの所に泊まることもあったわ。書き置きでもしとけばよかったんだけど、理一郎くんはいつ帰ってくるかわからないし、なんかちょっと投げやりな気持ちになっちゃって……」
それから申し訳なさそうに肩をすくめて「ごめんなさい」と頭を下げた。
「大魔法祭ぢゃと?」
リリスが興味深そうに小さな体を前に乗り出す。
「一年に一度、学生が魔法の研究成果を発表するの。わたし、急にリヴィアたちの魔法少女会で合同発表することになって。だからみんなで夜遅くまで練習してたの」
説明しながら、アリアの目が次第に輝きを取り戻していく。
「そうか。どんな発表になるのか、実に興味深い」
理一郎は本気でそう思った。
「でも、それと理一郎くんが捕まりそうになってたことは別問題だからね!」
アリアが人差し指を立てて再び語気を強める。瞳に厳しさが戻った。
理一郎は両手を上げて降参のポーズをし、あわてて答えた。
「もちろんだ。君の指摘は全面的に肯定している。まず君の先生に相談してみよう」
アリアは満足したように小さくうなずいた。
まだ話していないことがある。情報屋がメリッサという名のサキュバスであること、普段は食堂のおばさんに化けていること、宵待亭では自分が中年男の姿に戻り、精気をメリッサに与えていること……。
姿が違うせいか、宵待亭の自分とここにいる自分は、どこか連続していないように感じられる。宵待亭の自分が〝実〟で、こちらは〝虚〟なのかもしれないとさえ思う。
だが、そうやって切り分けるのは、誰に対しても不誠実だ。そう思うと、胸の奥が痛んだ。
理一郎は力なく背もたれに身を預け、テーブルの珈琲に口を付けた。
珈琲はすっかり冷め、酸味と苦みが強くなっていた。
その後味がいつまでも舌に残った。




