軍務卿の悪夢
憲兵団潰走の数日前。
深夜、ヴィクター・フォン・モンフォール軍務卿の寝室。
広々とした部屋に、月明かりが窓から差し込んでいた。
その中央に置かれた豪奢な寝台で、軍務卿が深い眠りについている。
夜の帳が最も深く降りる頃、部屋の扉が音もなく開き、空気がかすかに揺らめいた。
揺らめきは次第に人の形を成し、やがてボディスーツ姿のメリッサとなる。
警備の厳重な侯爵邸でさえ、彼女の前では、無人の館も同然だった。
メリッサは静かに寝台に上り、軍務卿の傍らに片膝を突いた。
「では、始めましょうね」軍務卿の額に人差し指を突き立て、魔力を流し込みはじめた。「逝ってらっしゃい、黄泉へ」
途端に軍務卿の表情が苦しげに歪む。
――こ、ここは?
軍務卿は、突然、上下左右もわからないような漆黒の闇に放り出された。
何の刺激もなく、時間の感覚もない。奈落の底に堕とされてしまったような、言い知れぬ恐怖が体の芯から湧き出してくる。
この状態が永遠に続くのかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。
息苦しいが、呼吸はできている。彼は正気を保つため、自分の息を数えはじめた。
いくつまで数えたかおぼつかなくなった頃、彼方にかすかな光の点がともった。
それは一瞬、希望の光に映った。だが、すぐに絶望への入り口だと悟ることになる。
光は急速に広がり、その中から知の双神が現れた。
書物を抱える、知識の神サイエンティウス。
三叉の杖を握る、知恵の神サピエンティオス。
二柱の神は軍務卿の左右に立ち、同時に言葉を発した。
メリッサの声が、軍務卿の頭の中では知の双神の声として響き渡る。
〈汝よ、知の探究に身を捧げし者の自由を束縛せんとする愚かな魂よ――〉
その響きは軍務卿の心を畏怖で縛り付けた。顔に脂汗を浮かべ、苦しげに呻きはじめる。
メリッサが再びささやく。
〈我らが選びし徒、物部理一郎の前途を閉ざさんとする不見識は、万の罪の中にて最も重き裁きに値するものなり。されば、その愚行を悔いるまで苦悶を与えん――〉
メリッサがピアノを弾くように指を動かすと、軍務卿の顔が大きく歪み、体が痙攣しはじめた。
軍務卿は全身の皮膚を引き剥がされる激痛の中にいた。
無数の鎖が体中を貫き、耐えがたい痛みとともに血液が噴き出す。
光も音も奪われ、意識のすべてが痛覚に集中する。痛みは数十倍にも増幅された。
だが意識を失うことも、死ぬこともできない。
双神はさらに告げた。
〈物部理一郎への干渉を止めぬ限り、その苦しみは永遠に続く。逃れる術なし――〉
「さて、仕上げね」
メリッサはそうつぶやくと、軍務卿の胸に手をかざす。皮膚に小さな印が刻まれた。
〈この印は汝の魂の深部に刻まれたり。再び理一郎に手を伸ばさば、この印、発動して汝の魂を冥府の闇へと引きずり込まん。我らの言葉、心に留め置くがよい――〉
理一郎の捕縛を中止するまで同じ悪夢を見るよう暗示がかけられ、あの痛みへの恐怖が軍務卿の心に植え付けられた。
メリッサはベッドの上に仁王立ちになって、軍務卿を見下ろす。
「二度とあの人に手を出そうなんてしないことね。考えを改めるまで、その悪夢は続くわ」
メリッサの姿がフッとかき消えた瞬間、軍務卿は目覚めた。
寝間着が汗で重くなっている。
――夢、か?
だが、悪夢から覚めた安堵はなかった。あの苦痛はとても夢とは思えない。
そう考えた途端、胸の辺りがうずいた。
ハッとして寝間着をはだけると、そこに奇妙な痣が浮き出ていた。
それはメリッサが付けたものだったが、軍務卿にとっては双神の烙印以外の何物でもなかった。
軍務卿はその日から眠るたびに同じ悪夢に悩まされ、はた目にもわかるほどやつれていった。
* * *
それから三日目の午後。
モンフォール軍務卿は執務室で、三叉の丘で潰走した憲兵団の早馬から報告を受けていた。
「……さらに知の双神は、なお進もうとする我らの武具のみを破壊し……」
伝令の口から語られる内容は、まさに神々の顕現と奇蹟を示していた。
軍務卿は報告を聞きながら、無意識に胸の痣に手を当てていた。
「もうよい――」
軍務卿は突然立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「命令を撤回する。物部理一郎の捕縛は……中止だ。関係各所に伝えろ」
伝令は自分の耳を疑ったが、普段は赤ら顔の軍務卿があまりにも青ざめていたため、それ以上は質問できなかった。一礼し、執務室を出ていく。
部屋に一人残った軍務卿は、深いため息をついた。
彼は理一郎が星教派の庇護下にある可能性を考えた。
「あの場所、三叉の丘は知の双神が降臨したという伝説の地。まさかイグナティウスが……」
毎夜現れる神々の姿と神聖な警告……。知の双神は星神アストレリアとは系譜の違う神だ。だが、教団が無関係とは言い切れない。自分の知らない秘儀があるかもしれない。
軍務卿は自分の描いた計画に綻びが生じていることを感じた。
理一郎を擬人族への切り札とし、宮廷での地位を高める――その目論見は崩れつつある。
しかも、今やその少年は近づいてはならない存在になっていた。
――やはり、物部とやらは危険だ。
軍務卿は窓から王都の景色を見つめながら、今後は表だった行動は避け、別の方法で対処することに思いを巡らせた。それは例えば……。
――捕縛ではなく……抹殺。
だが、そう考えた瞬間、胸の痣に激痛が走り、思わず膝をついてしまった。
悪夢によって植え付けられた恐怖は、すでにトラウマとなっている。動悸が激しくなり、脂汗がにじむ。
「神々の警告……か」
直接手を下すのは断念せざるを得ない。
――であれば、もう一度、イグナティウスと手を組むことを考えるべきか、
だが本当の黒幕はイグナティウスではないのか……。その疑念がどうしても拭いきれない。
それだけは確かめなければならなかった。
* * *
その夜。
月のない暗い夜だった。
モンフォール軍務卿は、王都から馬車で一時間ほどの廃教会にいた。
「遅いではないか」苛立ちを込めてつぶやく。待ち人が来ないのだ。
その時、教会の古びた扉が静かに開いた。黒い法衣に身を包んだイグナティウス大司教が、夜の闇を背負うように現れる。
「お待たせいたしました、軍務卿閣下」
大司教は祭壇の前まで進むと、振り返ることなく言った。
「イグナティウス」軍務卿が低い声で呼びかける。「今回の件、どう説明してくれるのだ」
「はて、なんのことでしょうか?」
「とぼけるな!」軍務卿の声が響く。「物部理一郎の捕縛を神が邪魔したのだ! 我が輩の憲兵団が学都目前で恥をかかされた!」
「それは残念でしたね」イグナティウスの声はあくまでも冷静だった。「知の双神のお話でしたら、我々とは関わりのないことですぞ。我らの神はアストレリア様ただ一柱。あなた方の作戦には関与しておりません」
軍務卿の太った顔が怒りで紅潮する。
「関与していない?」軍務卿が一歩前に出た。「では、なぜあの異世界人の力について、我が輩になにも知らせなかった? 聞けば彼奴めは学都で大活躍だと言うではないか。あれの真の力を、貴様は知っておったのであろう!」
イグナティウス大司教はきっぱりと首を振った。
「あの時は気づきませんでしたな。物部殿はそもそも優秀だったのでしょう。それとも成長されたのではないですかな」
「成長だと?」軍務卿が一歩前に出る。「あれが自然な成長に見えるか? 三叉の丘でなにがあった? 貴様らが関与しておったのではないか?」
イグナティウスがゆっくりと振り返った。その瞳には、冷たい光が宿っている。
「奇跡は、神の啓示です」
「誰が信じるか!」軍務卿が吠える。「すべて貴様らが仕組んだことであろう!」
「証拠がおありですか?」
「証拠など必要ない」軍務卿が大司教を指さす。「我が輩はもう騙されんぞ。最初から物部を自分のものにするつもりだったのであろう」
イグナティウスは答えなかった。その沈黙が、軍務卿の疑念を確信に変えた。
「やはりそうか」軍務卿が苦々しく笑う。「我が輩はまんまと踊らされたのだな」
「ヴィクター・フォン・モンフォール軍務卿閣下」イグナティウスが静かに言う。「なぜ今日、私をお呼びになったのですか?」
「決まっておるではないか」軍務卿が息を荒くする。「宮廷から手が伸びてきておるのだ。三星蝕の日の、エクリプス神殿に関する調査の手だ。このままでは立場が危うい。我が輩も、貴様もだ。再び手を組んで物部を排除するのだ」
軍務卿の熱弁を、大司教は冷徹に切り捨てた。
「それはできません」
「なに?」
「物部理一郎殿は、今や星教派にとって、きわめて重要な存在になりつつあります。彼の力が必要なのです」
軍務卿の顔が青ざめた。
「貴様……」
「物部殿には――」イグナティウスが微笑む。「我らの理想に協力していただくつもりです」
「どうやって? 奴が素直に協力するとは思えんが」
「それは我らの問題です」大司教の瞳が異様に輝いた。「適切な方法があります」
「召喚儀式の件が明るみに出れば、貴様とて一蓮托生なのだぞ」
「あなたに従わされたとでも言い訳しましょうか。それとも手を伸ばしてくる者たちを改心させましょうか。私のほうにはいくらでも手はありますぞ」
改心とは洗脳するということか、あるいは亡き者にするということか……。
「狂っておるな、貴様は」
「狂っているのはあなたのほうでしょう」大司教の声が鋭くなる。「物部殿のような天才を排除しようなど、愚の骨頂です」
軍務卿が拳を握りしめる。
「どうやら我が輩は用済みと言いたいようだな」
「そうは申し上げません」イグナティウスが祭壇の上に掲げられた五芒星を見上げる。「ただ、道は分かれました」
軍務卿の頭の中で、すべてのピースがつながった。この男は最初から理一郎を自分のものにし、用が済めば自分を切り捨てるつもりだったのだ。
「貴様……まさか、あの追放の時から企んでおったのか」
「お互いさまでしょう」イグナティウスが肩をすくめる。「あなたも我らを利用しようとしていたのですから」
軍務卿の怒りが頂点に達した。
「ふざけるな! 最初から我が輩を騙すつもりだったのであろう!」
「約束など、最初からありませんでしたぞ」大司教が冷笑する。「あったのは一時的な利害の一致だけ」
こうなっては、もう一度協力関係を結ぶことなど論外だった。
「わかった」軍務卿が大司教に背を向ける。「もはや話すことはない」
「同感です」イグナティウスが同意する。
月のない夜、二つの野心が完全にたもとを分かった瞬間だった。
廃教会の出口に向かった軍務卿が、扉の前で立ち止まる。
「イグナティウスよ」
「なんでしょうか?」
「貴様の計画、そううまくいくと思うな」軍務卿が振り返らずに続けた。「もしも三叉の丘での出来事と貴様が無関係であるなら、彼奴にはお前たちとは別の神の加護がある」
「だからどうだと言うのです。我らがアストレリア様こそ至高神。他の神は従うのみ」
「それは統一教団の教義ではあるまい」軍務卿が扉を開ける。「大司教自らが異端となるか」
そう言い残して、軍務卿は闇の中に消えていった。
廃教会を後にした軍務卿は、馬車の中で一人考え込んでいた。
――もはやイグナティウスとの協力は不可能だ。それどころか、奴は敵に回った。
だが、このままでは自分の立場が危うい。宮廷の調査が進めば、すべてが露見する。かといって理一郎を亡き者にして証拠を隠滅することもできない。
――胸の痣が……知の双神の呪いが、我が輩を縛っている。
軍務卿は苦悩した。
――だが、まだ手はある。最後の手段が。
「擬人族……」軍務卿が小さくつぶやく。
これまで戦ってきた王国の敵。だが、状況が変われば、彼らとの取引も可能なはずだ。
――我が輩が王国の情報を提供する代わりに、理一郎の排除と我が輩の保護を約束させる。
胸の痣が、ずきりと疼いた。
だが、軍務卿は自らに言い聞かせた。
――我が輩が手を下すのではない。
擬人族が彼らの敵を排除するだけのこと。
――それならば、呪いも発動すまい。そして戦後、我が輩は擬人族を後ろ盾として王国を統治する……。
「謀反……か」軍務卿が自嘲する。「だが、背に腹は代えられん」
軍務卿は心を決めた。明日にでも、密かに擬人族との接触を開始しよう。
王国への忠誠など、もはやどうでもいい。重要なのは自分の身だ。
一方、廃教会のイグナティウスは、祭壇の前で深く息をついた。
「愚かな男だ」大司教がつぶやく。「しょせんは俗物か」
――まあ、どうでもいい。重要なのは物部理一郎の確保だ。
イグナティウスは内ポケットから一通の手紙を取り出す。
ミスマリアム礼拝所からの報告書だ。『星魂浄化の儀』の準備は整った、とある。
星教の古い秘儀。心を操る禁断の儀式。王国建国以前から伝わる、恐るべき洗脳技術。
一度この秘儀を受ければ、どんな強固な意志を持つ者でも、術者の意のままになる。
大司教が満足げにうなずいた。
「物部理一郎よ」
イグナティウスが祭壇の上を見上げる。そこには、五芒星を象った星教のシンボルが掲げられていた。
「お前の力は、神の国の建設のために使われるのだ」
だが、問題は一つ。どうやって理一郎をミスマリアム礼拝所に誘い込むかだ。
無理に連れていけば警戒される。自然に、彼自身の意志で来させなければならない。
「かの娘に働いてもらうか……」
大司教は暗闇に向かってつぶやき、口元を歪めた。それは聖職者とは思えない程、邪悪な笑みだった。




