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物理学魔法で解く異世界方程式 ~物理最強だと勘違い召喚された天才物理学者の異世界冒険譚~  作者: 航太郎
第7章 三叉の丘の奇蹟

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軍務卿の悪夢

 憲兵団潰走の数日前。

 深夜、ヴィクター・フォン・モンフォール軍務卿の寝室。

 広々とした部屋に、月明かりが窓から差し込んでいた。

 その中央に置かれた豪奢な寝台で、軍務卿が深い眠りについている。

 夜の帳(とばり)が最も深く降りる頃、部屋の扉が音もなく開き、空気がかすかに揺らめいた。

 揺らめきは次第に人の形を成し、やがてボディスーツ姿のメリッサとなる。

 警備の厳重な侯爵邸でさえ、彼女の前では、無人の館も同然だった。

 メリッサは静かに寝台に上り、軍務卿の傍らに片膝を突いた。

「では、始めましょうね」軍務卿の額に人差し指を突き立て、魔力を流し込みはじめた。「逝ってらっしゃい、黄泉へ」

 途端に軍務卿の表情が苦しげに歪む。



 ――こ、ここは?

 軍務卿は、突然、上下左右もわからないような漆黒の闇に放り出された。

 何の刺激もなく、時間の感覚もない。奈落の底に堕とされてしまったような、言い知れぬ恐怖が体の芯から湧き出してくる。

 この状態が永遠に続くのかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。

 息苦しいが、呼吸はできている。彼は正気を保つため、自分の息を数えはじめた。

 いくつまで数えたかおぼつかなくなった頃、彼方にかすかな光の点がともった。

 それは一瞬、希望の光に映った。だが、すぐに絶望への入り口だと悟ることになる。

 光は急速に広がり、その中から知の双神が現れた。

 書物を抱える、知識の神サイエンティウス。

 三叉の杖を握る、知恵の神サピエンティオス。

 二柱の神は軍務卿の左右に立ち、同時に言葉を発した。



 メリッサの声が、軍務卿の頭の中では知の双神の声として響き渡る。

〈汝よ、知の探究に身を捧げし者の自由を束縛せんとする愚かな魂よ――〉

 その響きは軍務卿の心を畏怖で縛り付けた。顔に脂汗を浮かべ、苦しげに呻きはじめる。

 メリッサが再びささやく。

〈我らが選びし徒、物部理一郎の前途を閉ざさんとする不見識は、万の罪の中にて最も重き裁きに値するものなり。されば、その愚行を悔いるまで苦悶を与えん――〉

 メリッサがピアノを弾くように指を動かすと、軍務卿の顔が大きく歪み、体が痙攣しはじめた。



 軍務卿は全身の皮膚を引き剥がされる激痛の中にいた。

 無数の鎖が体中を貫き、耐えがたい痛みとともに血液が噴き出す。

 光も音も奪われ、意識のすべてが痛覚に集中する。痛みは数十倍にも増幅された。

 だが意識を失うことも、死ぬこともできない。

 双神はさらに告げた。

〈物部理一郎への干渉を止めぬ限り、その苦しみは永遠に続く。逃れる術なし――〉

「さて、仕上げね」

 メリッサはそうつぶやくと、軍務卿の胸に手をかざす。皮膚に小さな印が刻まれた。

〈この印は汝の魂の深部に刻まれたり。再び理一郎に手を伸ばさば、この印、発動して汝の魂を冥府の闇へと引きずり込まん。我らの言葉、心に留め置くがよい――〉

 理一郎の捕縛を中止するまで同じ悪夢を見るよう暗示がかけられ、あの痛みへの恐怖が軍務卿の心に植え付けられた。

 メリッサはベッドの上に仁王立ちになって、軍務卿を見下ろす。

「二度とあの人に手を出そうなんてしないことね。考えを改めるまで、その悪夢は続くわ」



 メリッサの姿がフッとかき消えた瞬間、軍務卿は目覚めた。

 寝間着が汗で重くなっている。

 ――夢、か?

 だが、悪夢から覚めた安堵はなかった。あの苦痛はとても夢とは思えない。

 そう考えた途端、胸の辺りがうずいた。

 ハッとして寝間着をはだけると、そこに奇妙な痣(あざ)が浮き出ていた。

 それはメリッサが付けたものだったが、軍務卿にとっては双神の烙印以外の何物でもなかった。

 軍務卿はその日から眠るたびに同じ悪夢に悩まされ、はた目にもわかるほどやつれていった。


       *   *   *


 それから三日目の午後。

 モンフォール軍務卿は執務室で、三叉の丘で潰走した憲兵団の早馬から報告を受けていた。

「……さらに知の双神は、なお進もうとする我らの武具のみを破壊し……」

 伝令の口から語られる内容は、まさに神々の顕現と奇蹟を示していた。

 軍務卿は報告を聞きながら、無意識に胸の痣に手を当てていた。

「もうよい――」

 軍務卿は突然立ち上がり、窓際に歩み寄った。

「命令を撤回する。物部理一郎の捕縛は……中止だ。関係各所に伝えろ」

 伝令は自分の耳を疑ったが、普段は赤ら顔の軍務卿があまりにも青ざめていたため、それ以上は質問できなかった。一礼し、執務室を出ていく。

 部屋に一人残った軍務卿は、深いため息をついた。

 彼は理一郎が星教派の庇護下にある可能性を考えた。

「あの場所、三叉の丘は知の双神が降臨したという伝説の地。まさかイグナティウスが……」

 毎夜現れる神々の姿と神聖な警告……。知の双神は星神アストレリアとは系譜の違う神だ。だが、教団が無関係とは言い切れない。自分の知らない秘儀があるかもしれない。

 軍務卿は自分の描いた計画に綻びが生じていることを感じた。

 理一郎を擬人族への切り札とし、宮廷での地位を高める――その目論見は崩れつつある。

 しかも、今やその少年は近づいてはならない存在になっていた。

 ――やはり、物部とやらは危険だ。

 軍務卿は窓から王都の景色を見つめながら、今後は表だった行動は避け、別の方法で対処することに思いを巡らせた。それは例えば……。

 ――捕縛ではなく……抹殺。

 だが、そう考えた瞬間、胸の痣に激痛が走り、思わず膝をついてしまった。

 悪夢によって植え付けられた恐怖は、すでにトラウマとなっている。動悸が激しくなり、脂汗がにじむ。

「神々の警告……か」

 直接手を下すのは断念せざるを得ない。

 ――であれば、もう一度、イグナティウスと手を組むことを考えるべきか、

 だが本当の黒幕はイグナティウスではないのか……。その疑念がどうしても拭いきれない。

 それだけは確かめなければならなかった。


       *   *   *


 その夜。

 月のない暗い夜だった。

 モンフォール軍務卿は、王都から馬車で一時間ほどの廃教会にいた。

「遅いではないか」苛立ちを込めてつぶやく。待ち人が来ないのだ。

 その時、教会の古びた扉が静かに開いた。黒い法衣に身を包んだイグナティウス大司教が、夜の闇を背負うように現れる。

「お待たせいたしました、軍務卿閣下」

 大司教は祭壇の前まで進むと、振り返ることなく言った。

「イグナティウス」軍務卿が低い声で呼びかける。「今回の件、どう説明してくれるのだ」

「はて、なんのことでしょうか?」

「とぼけるな!」軍務卿の声が響く。「物部理一郎の捕縛を神が邪魔したのだ! 我が輩の憲兵団が学都目前で恥をかかされた!」

「それは残念でしたね」イグナティウスの声はあくまでも冷静だった。「知の双神のお話でしたら、我々とは関わりのないことですぞ。我らの神はアストレリア様ただ一柱。あなた方の作戦には関与しておりません」

 軍務卿の太った顔が怒りで紅潮する。

「関与していない?」軍務卿が一歩前に出た。「では、なぜあの異世界人の力について、我が輩になにも知らせなかった? 聞けば彼奴(あやつ)めは学都で大活躍だと言うではないか。あれの真の力を、貴様は知っておったのであろう!」

 イグナティウス大司教はきっぱりと首を振った。

「あの時は気づきませんでしたな。物部殿はそもそも優秀だったのでしょう。それとも成長されたのではないですかな」

「成長だと?」軍務卿が一歩前に出る。「あれが自然な成長に見えるか? 三叉の丘でなにがあった? 貴様らが関与しておったのではないか?」

 イグナティウスがゆっくりと振り返った。その瞳には、冷たい光が宿っている。

「奇跡は、神の啓示です」

「誰が信じるか!」軍務卿が吠える。「すべて貴様らが仕組んだことであろう!」

「証拠がおありですか?」

「証拠など必要ない」軍務卿が大司教を指さす。「我が輩はもう騙されんぞ。最初から物部を自分のものにするつもりだったのであろう」

 イグナティウスは答えなかった。その沈黙が、軍務卿の疑念を確信に変えた。

「やはりそうか」軍務卿が苦々しく笑う。「我が輩はまんまと踊らされたのだな」

「ヴィクター・フォン・モンフォール軍務卿閣下」イグナティウスが静かに言う。「なぜ今日、私をお呼びになったのですか?」

「決まっておるではないか」軍務卿が息を荒くする。「宮廷から手が伸びてきておるのだ。三星蝕の日の、エクリプス神殿に関する調査の手だ。このままでは立場が危うい。我が輩も、貴様もだ。再び手を組んで物部を排除するのだ」

 軍務卿の熱弁を、大司教は冷徹に切り捨てた。

「それはできません」

「なに?」

「物部理一郎殿は、今や星教派(われら)にとって、きわめて重要な存在になりつつあります。彼の力が必要なのです」

 軍務卿の顔が青ざめた。

「貴様……」

「物部殿には――」イグナティウスが微笑む。「我らの理想に協力していただくつもりです」

「どうやって? 奴が素直に協力するとは思えんが」

「それは我らの問題です」大司教の瞳が異様に輝いた。「適切な方法があります」

「召喚儀式の件が明るみに出れば、貴様とて一蓮托生なのだぞ」

「あなたに従わされたとでも言い訳しましょうか。それとも手を伸ばしてくる者たちを改心させましょうか。私のほうにはいくらでも手はありますぞ」

 改心とは洗脳するということか、あるいは亡き者にするということか……。

「狂っておるな、貴様は」

「狂っているのはあなたのほうでしょう」大司教の声が鋭くなる。「物部殿のような天才を排除しようなど、愚の骨頂です」

 軍務卿が拳を握りしめる。

「どうやら我が輩は用済みと言いたいようだな」

「そうは申し上げません」イグナティウスが祭壇の上に掲げられた五芒星を見上げる。「ただ、道は分かれました」

 軍務卿の頭の中で、すべてのピースがつながった。この男は最初から理一郎を自分のものにし、用が済めば自分を切り捨てるつもりだったのだ。

「貴様……まさか、あの追放の時から企んでおったのか」

「お互いさまでしょう」イグナティウスが肩をすくめる。「あなたも我らを利用しようとしていたのですから」

 軍務卿の怒りが頂点に達した。

「ふざけるな! 最初から我が輩を騙すつもりだったのであろう!」

「約束など、最初からありませんでしたぞ」大司教が冷笑する。「あったのは一時的な利害の一致だけ」

 こうなっては、もう一度協力関係を結ぶことなど論外だった。

「わかった」軍務卿が大司教に背を向ける。「もはや話すことはない」

「同感です」イグナティウスが同意する。

 月のない夜、二つの野心が完全にたもとを分かった瞬間だった。

 廃教会の出口に向かった軍務卿が、扉の前で立ち止まる。

「イグナティウスよ」

「なんでしょうか?」

「貴様の計画、そううまくいくと思うな」軍務卿が振り返らずに続けた。「もしも三叉の丘での出来事と貴様が無関係であるなら、彼奴(あやつ)にはお前たちとは別の神の加護がある」

「だからどうだと言うのです。我らがアストレリア様こそ至高神。他の神は従うのみ」

「それは統一教団の教義ではあるまい」軍務卿が扉を開ける。「大司教自らが異端となるか」

 そう言い残して、軍務卿は闇の中に消えていった。



 廃教会を後にした軍務卿は、馬車の中で一人考え込んでいた。

 ――もはやイグナティウスとの協力は不可能だ。それどころか、奴は敵に回った。

 だが、このままでは自分の立場が危うい。宮廷の調査が進めば、すべてが露見する。かといって理一郎を亡き者にして証拠を隠滅することもできない。

 ――胸の痣が……知の双神の呪いが、我が輩を縛っている。

 軍務卿は苦悩した。

 ――だが、まだ手はある。最後の手段が。

「擬人族……」軍務卿が小さくつぶやく。

 これまで戦ってきた王国の敵。だが、状況が変われば、彼らとの取引も可能なはずだ。

 ――我が輩が王国の情報を提供する代わりに、理一郎の排除と我が輩の保護を約束させる。

 胸の痣が、ずきりと疼いた。

 だが、軍務卿は自らに言い聞かせた。

 ――我が輩が手を下すのではない。

 擬人族が彼らの敵を排除するだけのこと。

 ――それならば、呪いも発動すまい。そして戦後、我が輩は擬人族を後ろ盾として王国を統治する……。

「謀反……か」軍務卿が自嘲する。「だが、背に腹は代えられん」

 軍務卿は心を決めた。明日にでも、密かに擬人族との接触を開始しよう。

 王国への忠誠など、もはやどうでもいい。重要なのは自分の身だ。



 一方、廃教会のイグナティウスは、祭壇の前で深く息をついた。

「愚かな男だ」大司教がつぶやく。「しょせんは俗物か」

 ――まあ、どうでもいい。重要なのは物部理一郎の確保だ。

 イグナティウスは内ポケットから一通の手紙を取り出す。

 ミスマリアム礼拝所からの報告書だ。『星魂浄化の儀《アストラル・プルガトリオ》』の準備は整った、とある。

 星教の古い秘儀。心を操る禁断の儀式。王国建国以前から伝わる、恐るべき洗脳技術。

 一度この秘儀を受ければ、どんな強固な意志を持つ者でも、術者の意のままになる。

 大司教が満足げにうなずいた。

「物部理一郎よ」

 イグナティウスが祭壇の上を見上げる。そこには、五芒星を象った星教のシンボルが掲げられていた。

「お前の力は、神の国の建設のために使われるのだ」

 だが、問題は一つ。どうやって理一郎をミスマリアム礼拝所に誘い込むかだ。

 無理に連れていけば警戒される。自然に、彼自身の意志で来させなければならない。

「かの娘に働いてもらうか……」

 大司教は暗闇に向かってつぶやき、口元を歪めた。それは聖職者とは思えない程、邪悪な笑みだった。


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