三叉の丘の奇蹟
夜明け間近。
『三叉の丘』の頂付近に、理一郎とメリッサが潜んでいた。
今日のメリッサは黒のボディスーツに身を包んでいる。情報屋として活動するときの服装だ。肌の露出はないが体の線があらわになるので、ドレスより扇情的とも言えた。
そのメリッサは「寒いわ」と言い訳をして、理一郎に後から抱きついている。理一郎は、背中に押しつけられた二つのやわらかな膨らみを意識の外へ追いやり、憲兵団を見つけることに集中しようと努めた。
三叉の丘は、学都から約三〇キロ、馬で三時間弱の距離に位置する小高い丘だ。
丘には、こんな伝承がある。
“
神々と人々との距離が近かった古の時代、
知の双神――〝知識を司る神〟サイエンティウスと
〝知恵を司る神〟サピエンティオス――が、ある丘に降り立った。
サイエンティウスが丘の麓を指し示し、
サピエンティオスがそこに三叉の杖を突き立てた、
すると泉が湧いた。
泉の水は真理の追究を妨げるあらゆる迷いを洗い流し、
学究に一身を捧げるための境地を授けた。
さらに杖は三つの巨岩に姿を変えて丘の頂上に鎮座し、
知の三要素が『観察』『思考』『創造』であることを人々に示した。
”
以来、この小高い丘は、古代の知の力が宿る神聖な場所だと語り継がれている。
周囲には古代の石碑が点在し、神々から授かった古代の知識や知恵の一部が、未解読の神代文字で刻まれているとも伝えられていた。
また、この丘の麓には三叉路がある。
王都と学都をつなぐバルタ街道は、右の道だ。
左の道は、かつて〝聖都〟と呼ばれた古い宗教都市に通じている。今は廃都となったため訪れる人もなく、道はすっかり荒れているが、かつてこの三叉路は交通の要衝でもあった。それも地名の由来の一つだとされている。
二人は四つの理由から、ここを待ち伏せ場所に選んだ。
一つめは、バルタ街道を見下ろせる地形であること。
二つめは、知の双神ゆかりの史跡であること。
三つめは、この時期の夜明けの太陽がちょうど巨岩の間から昇ること。
そして四つめは、泉の水温と冷え込んだ朝の空気との温度差で、霧が出ることだった。
すでに霧は丘の裾野を白い絨毯のように覆い、バルタ街道にも立ち込めていた。
東の地平線にオレンジ色がにじみ、空が白みはじめた頃、メリッサが理一郎の耳元でささやいた。
「夜が明けるわ」
朝一番で学都に入る計画の憲兵団は、ちょうど夜明け頃に三叉の丘を通りかかる。
「そろそろか。じいさん――」
呼びかけられたラプラスの老魔が、うたた寝から目を覚ました。
「お試しだからといって、手は抜かなかったようだな」
「当然である。儂の見る未来は絶対よ」
そう答えると、老魔はまた船をこぎはじめた。
「この四次元座標は、演出としては最適解というわけだ」
ラプラスの老魔は、宇宙の全粒子の位置と速度を知ることにより、未来を完璧に予測する能力を持つ。その能力を〝初回お試しサービス〟で使わせることに成功し、理一郎は霧の影を現出させるための最適な場所と時間を得ていた。
「でも、この時間帯にここを通るようお膳立てするのは、けっこう大変だったのよ。もっと褒めて」
メリッサが不満をこぼすと、老魔は薄目を開けて「それも決まっとったことである」とつぶやいた。
理一郎は手を後ろに回し、甘えた声を出すメリッサの頭をなでてやると、メリッサはさらに体を押し付けてきた。
「これが終わったら、もっとちゃんとご褒美が欲しいわ」
理一郎の腹に回したメリッサの手が下がろうとする。今の理一郎は身も心も少年なので、すでに下半身は反応してしまっている。メリッサの手を理性で払い、理一郎はバルタ街道に目を凝らした。
「事象はまだ確定していない。集中してくれ」
作戦開始のタイミングが刻々と迫る。
ここから先は文字通り神威を借りることになる。
知の双神に無断では、神罰を受けかねない。そんなメリッサの忠告に従い、理一郎たちは事前にこの丘の頂上にある双神の祠を訪れ、許しを請う祈りを捧げていた。供物はこれまでの物理学魔法の記録と考察をまとめたノートだ。
そのノートは、祈り終わった後、青白い光に包まれた。中身を確認してみると、すべて白紙に戻っていた。
それを見たメリッサは、知の双神が捧げ物を受け入れ、祈りを聞き入れてくれたと言った。
理一郎は、祈りは半ば儀礼的な行為であり、自分自身の気持ちを平らかにするために行うものだと考えていた。
だが、目の前で起きた出来事にこの世界での神の実在を感じざるをえず、思わずつぶやいていた。
「貴神らの教えに従い、知識と知恵の探求を続けることを誓います」
* * *
遠くの霧の中に明かりが揺らめいた気がした。
「あれは――松明か」
メリッサが理一郎の肩越しに目を細める。
「そうね。間違いないわ」
霧の中、松明の明かりが揺らめきながら近づいてくる。それは一定の図形を保ちながら移動する、複数の光の点だった。
「来たな」
理一郎がつぶやく。
丘の上からの視点で見下ろす憲兵団は、まるで盤上の駒のように微小に見える。
霧の中での整然とした行軍は幻想的ですらあった。時折吹く風で霧が流れると、憲兵団の姿が断片的に現れては消える。黒い隊服を着た兵士たちの姿は、きわめて不吉な存在に見えた。
まだ遠いながらも、装備がこすり合う金属音や馬のいななきがかすかに聞こえはじめる。
憲兵団が三叉路の手前数十メートルまで迫った時、丘の上に朝日が昇った。
金色の光が差し込んで、頂上の岩を輝かせる。
「今だ! メリッサ、頼む!」
メリッサは姿を隠蔽すると、翼を広げて丘から飛び立っていった。
理一郎がメガネに手をかけてゾーンに入る。
一つの方程式が現れる。
理一郎はリリスの力を借りながら、その式に含まれるパラメーターの一つを操作し、唱えた。
「リリス、その理を、操れ!」
すると、街道の霧が不思議な動きを見せはじめた。風もないのに渦を巻き、まるで理一郎の思考に反応するかのように形を変える。そして、徐々に丘と憲兵団との間に濃く集まりはじめた。
憲兵団はまだ気づいていない。
彼らにとって、前方の三叉の丘も、その周辺の霧も、ただの地形と気象にすぎない。
しかし、まもなく彼らは理解する。
ここは通過点ではなく、運命の分かれ道であることを――。
* * *
バルタ街道を整然と進む十六騎の憲兵団。その前方に、白い霧の壁が広がっている。
「隊長、前方の霧が濃くなってきました」
先頭を行く兵士が後を振り向き、角飾りのあるヘルメットを被った隊長に告げた。
「問題ない。そのまま進め」
霧は春先のこの地域では珍しくない。三叉の丘に近づくにつれて霧が深くなっていくとは言え、移動に支障が出るほどではない。隊長は特に気にすることなく、馬を進めさせた。
「行軍は予定通りか?」
「はい。もうすぐ三叉の丘、ちょうど日の出の頃に通過します。遅滞ありません」
東の空が明るみはじめ、小高い丘がシルエットとなって見えている。
「うむ。これであれば、学都の開門と同時に到着できるな」
隊長は夕べ届いた王都からの急報を思い出していた。
『学都西門を騒動なしに通れるよう、こちらの息のかかった者を朝一番の門衛当番に就かせた。円滑な作戦遂行のため、時間を厳守すること』
行軍は時間通り。遅れはない。
隊長は満足げにうなずいた。
だが、その時――。
どこからともなく声が聞こえてきた。
〈我は、サイエンティウス――〉
〈我は、サピエンティオス――〉
憲兵団の兵士たちは思わず馬の足を緩め、互いの顔を見合わせた。
(なんだ今の声は?)
(頭の中で聞こえた?)
(神を名乗ったのか?)
隊長は混乱する部下たちに、厳しい口調で命じた。
「うろたえるな! 幻聴だ。進軍を続けろ」
叱責された兵士たちが再び前進しはじめる。
しかし、霧の中を進むにつれ、奇妙な感覚が憲兵団を包み込んだ。何か違う、普通の霧ではないという落ち着かない感覚だった。
「おかしい……」
先導役が不安げにつぶやいた。霧の濃さが急速に増している。しかも、まるで意志を持つかのように霧が形を変え、宙に昇っていく。
「隊形を維持しろ。警戒態勢だ」
隊長が命じる。しかし、その声が終わらないうちに、さらに奇妙な現象が始まった。
宙に昇った霧が、ある形をなしつつあったのだ。
最初はぼんやりとした暗がりだったが、徐々にはっきりとした形を成しはじめる。
そして、丘の上に太陽が昇った瞬間、霧の中に巨大な二つの影が浮かび上がった。
影の一つは書物を広げ、もう一つは三叉の杖を手にしている。
「前方に――!」
先導役の声が途切れた。
隊長は逆光のまぶしさに手で目を覆いながら、行く手を凝視する。
「なんだと……」
隊長の言葉も喉の奥で止まる。
(な、なんだあれは!?)
(知の双神じゃないか!)
(まさか、そんなことが!)
(奇蹟が起きているのか?)
団員たちが畏怖の声を上げた。
巨大な影は、憲兵団にのしかかるように、徐々に大きくなっていく。
隊長は震える手で剣を抜きかけたが、その時、宙から声が降ってきた。
〈我らは知の双神なり――〉
声は頭の中に直接響いているようでもあった。
〈汝らが捕らえんとする物部理一郎は、我らの加護を受けし若き学究の徒――〉
二柱の神の声がユニゾンとなって響き渡り、憲兵団全員を凍りつかせる。
〈知を求める者の自由を奪わんとするは、我らへの不敬であり、許し難し――〉
声は、訓練された兵士の心をも押しつぶそうとするほどの威厳に満ちていた。
〈即刻退かねば、神慮の裁きを免れざるべし――〉
その瞬間、雷鳴のような轟音とともに、影の輪郭が輝いた。
(神々が顕現された……)
(そういえば、あの丘は……)
(知の双神が降臨された聖跡……)
憲兵団に畏怖のささやきが広がっていく。
隊長は決断を迫られていた。
目の前で起きていることは、彼の理解を超えた超自然的な現象だった。知の双神が本当に顕現したというなら、その意志に逆らうことは愚行だ。だが、このまま引き下がっては憲兵団の威信を損なう。
――それに物部理一郎とやらは、不思議な魔法を使うと聞いた。
「あれは魔法だろう?」
隊長は魔法兵に問う。
だが、魔法兵は首を振る。
「あの影からは魔力が感じられません」
その言葉に、もう一人の魔法兵もうなずく。
――魔法でないとも言い切れない、ということでもあるわけだ。
隊長は考える。知の双神はナトゥーラ神話体系の主要十二柱ではないし、ましてや自分の主神でもない。
だからといって軽んじていいわけではないが、もしも捕縛計画が漏れていたとしたら? その魔法使いが幻術の類いに通じていたとすれば? これがそうでないと言い切れるだろうか?
「いや! 幻覚だ! 惑わされるな! 前進せよ!」
隊長は抜刀し、剣を振りかざしながら馬に拍車を入れた。
彼の命令に従い、一部の兵士たちが進みはじめようとした。
だが、その最中、さらなる〝奇蹟〟が憲兵団の目の前で起きた。
* * *
その数分前、三叉の丘に日が昇る直前。
タイミングを見計らって、理一郎はゾーンに入った。
I(x, y) = I₀ exp[−σN(x, y)L]
現れたのはベールの法則の式。光の減衰を制御する基本式だ。
σは霧粒子一つあたりの散乱断面積。N(x,y)は位置(x,y)における粒子数密度。Lは光路長。
位置ごとの粒子数密度Nを操作すれば、光の透過率を局所的に変えられる。つまり、霧という白いキャンバスに、影で絵を描けるというわけだ。
だが、広範囲の霧の密度を細かく制御することは、今の理一郎には不可能だった。実行はリリスに任せるしかない。それだけ大規模な現象改変には、さすがに対価が必要だったが、背に腹は代えられない。
「リリス、その理を、操れ!」
理一郎は、影の形が二柱の神に見えるイメージを思い描き、リリスと情報共有する。
リリスは瞳を深紅に輝かせると、その図形パターンに基づいて、位置ごとの粒子密度N(x,y)を操作していく。
この間、メリッサは隠蔽魔法で姿を隠したまま空を飛んで憲兵団に近づき、あらかじめ決めていたセリフを、〝神々の声〟として聞かせる幻覚魔法を発動した。タイミングは、理一郎が念話で知らせた。
こうして理一郎たちは、憲兵団の前に〝知の双神の奇蹟〟を現出させた。
朝日が霧の輪郭を淡い金色に縁取り、神々しさがさらに増した。
神々の顕現を思わせる像と声に、憲兵団は明らかにひるんでいた。
だが、隊長とおぼしき人物は進軍を諦めなかった。果敢に剣を抜き、なお進軍しようとしている。
「そう簡単には退かないか」理一郎はそうつぶやくと、リリスに伝えた。「作戦二を実行する。リリス、影の状態を維持してくれ」
「任せよ」
さらにメリッサには、セリフのタイミングを合わせるよう念話で伝えた。
次に理一郎は、もう一つの式を思い浮かべた。
K_I = Yσ√(πa) >= K_IC
線形破壊力学における、亀裂進展の条件式だ。
どれほど頑丈な鉄製品でも、目に見えないほど小さな傷や亀裂が製造時に生じる。その亀裂の先端に集中する応力が、材料の耐えられる限界を超えたとき、亀裂は一気に広がり、破断に至る。
K_Iは、亀裂先端に集中する応力の強さを表す応力拡大係数。Yは物体や亀裂の形状によって決まる補正係数、σは材料に加わる応力、aは亀裂の大きさ。
点滅しているのは、破壊靱性K_IC。材料が亀裂の進展に耐えられる限界を示すパラメーターだ。
理一郎は、憲兵たちの武具や防具のK_ICを、騎乗による振動や、装備に加わるわずかな曲げや引っ張りだけでも、K_Iが上回る値に書き換える。
「その理に、従え!」
* * *
隊長の掲げた鉄剣から、ピシッと乾いた音が響いた。
「ん? 何事だ!?」
剣身に走った亀裂が一瞬で枝分かれし、互いにつながっていく。次の瞬間、剣身と鍔がいくつもの破片となって崩れ落ちた。
隊長の手に残ったのは、束だけだった。
後続の団員たちの剣も、抜こうと力をかけた途端、次々と折れ砕ける。
鉄製の兜にも亀裂が走り、形を保てず外れ落ちた。さらに、馬の蹄鉄や轡、鐙、鞍を留める金具までもが壊れ、馬から落ちる団員が続出する。
完璧な秩序を保っていた憲兵団は、わずか十数秒で、丸腰の烏合の衆と化していた。
混乱の中、メリッサがふたたび精神干渉を行い、〝双神の声〟がユニゾンで轟く。
〈それこそ我らが意志。なお進まんとする愚者には、さらなる神罰を与えん――〉
彼らの武器や防具は、名工が丹精込めて鍛え上げた一級品だ。それが、誰の手も触れぬまま砕けていく。兵士たちの目には、神が下した罰としか映らなかった。
裸馬にしがみついてかろうじて騎乗している隊長は、装備を失った部下たちを見渡した。彼が感じているのは、心の底から湧き上がってくる恐怖だった。
そんな彼らに、メリッサが追い打ちをかけた。
〈去る者は咎めず。立ち去るがよい――〉
その雷鳴のような神々の声が、決定的な一撃となった。
「撤退!」
隊長はついに命令を下した。
「神意には逆らえない。王都に戻る!」
彼の命令は、憲兵団の誰もが望んでいたものだった。全員が急いで方向転換し、来た道を引き返しはじめる。隊列はバラバラで、半数以上が馬を失っていた。
霧の中の影は、憲兵団が完全に視界から消えるまで、その姿を保ち続けた。
* * *
丘の上では、理一郎と戻ってきたメリッサが、その様子を見下ろしていた。
「成功かしら?」メリッサが笑みを浮かべた。
「大成功と言っていいぢゃろ」リリスも嬉しそうだ。
「ここまでは計画通りだ。よくやってくれた」
「後は王都での事前工作の首尾次第ぢゃな」
「心配ないわ。完璧よ」
「もちろん信じている。この結果を見れば、そう思わざるを得ない」
理一郎は素直に感嘆している。
「ふふん。だったらちゃんとお礼をして。私、今日は自分でもよく働いたと思うわ。とても疲れちゃった」
メリッサは理一郎の首に手を回して抱きついた。
「まだ一日は始まったばかり。早く宵待亭に戻って、ほんとのあなたを見せて。少年姿のあなたより、大人のあなたのほうが美味しいの」
「待て待て、その前に対価ぢゃ」
「悪魔さん、ホントに想い出を消すの? 容赦ないのね」メリッサが非難がましく言う。
「妾は従魔ぢゃからな、当然の対価ぢゃ」
「リリスちゃんは彼の記憶のすべてを読み取れるんでしょ。だったら奪わなくてもいいじゃない?」
「妾は妾だけの記憶にしたいのぢゃ」
リリスは理一郎の中から、二十年近く寄り添ってくれた愛犬の記憶を引き出した。
「ああ、彼か――」
理一郎は八歳の時に父親が拾ってきた雑種の子犬を思い出した。
母が家を出ていった後、父と二人きりになった家に、突然やってきた小さな命。
父はその日も酔っていて、「拾っちまった」とだけ言って寝てしまった。
以来、犬の世話はすべて理一郎がした。散歩も、餌も、病院も。
子供の頃からずっと、つらいとき、嬉しいとき、悲しいとき、悔しいとき、いつもその温かく柔らかな毛並みに顔を埋めた。
人にはうまく甘えられない理一郎が、唯一素直になれた相手だった。
彼を失ってから毎日の散歩で歩いた距離を計算したことがある。地球を一周以上する距離だった……。
「今回は大仕事ぢゃったからのう、犬の記憶をそっくりいただこうかの」
リリスの瞳が紅く輝く。
理一郎の額から薄い光の糸が引き出され、リリスの中へと吸い込まれていく。
彼との想い出が、理一郎の中から永遠に失われた。
光の糸が消えると、理一郎はぼんやりとした表情で目を開ける。
反対にリリスは恍惚に浸り、目を閉じた。
――この従魔は理一郎に懐いているわけじゃない。
サキュバスの血を引くメリッサには、感情と欲望の区別がつく。リリスから感じるのは、愛情ではなく食欲だ。
――リリスは主人を慕う飼い犬ではない。羊を見つめる狼だ。
賢い狼は群れを一度に喰い尽くしたりはしない。リリスにとっても理一郎は大切な〝食料庫〟なのだろう……。
――この人は、遅効性の毒を飲み続けているようなものだわ。
理一郎は四十二歳の知性はあるが十七歳の情緒しか持たない。失った記憶の価値を理解できていない。
「ねえ、理一郎」メリッサが理一郎の顔をのぞき込んだ。「あなた、自分が少しずつ変わっていることに気づいてる?」
「変わる?」
価値の重さに気づいた時にはもう手遅れかもしれない。だが、それを今言ったところで、理一郎には伝わらない。
「……ううん、なんでもないわ」
「なんか大事なものを失ったような気がするが、致命的ではない」
そのつぶやきがとても淋しげに聞こえた。
メリッサは、思わず理一郎の頭を自分の胸に抱きしめた。




