情報商人メリッサ
宵待亭の二階は、メリッサの住まいになっていた。
ワンルームではあるが、落ち着いた雰囲気の、シックで贅沢な空間だ。床には値の張りそうな絨毯が敷かれている。
「春とは言え、まだ夜は冷えるわ」
メリッサは理一郎を紅い革張りのアンティークなソファに座らせると、暖炉に薪をくべ、それから部屋のあちこちに置かれたキャンドルスタンドにも火をともして回る。
暖炉の炎、そしてキャンドルの灯火、それらの揺らめきによって、部屋が一気にサキュバスの棲家にふさわしい、蠱惑的な雰囲気の密室に変わる。
「ワインはどうする?」
「今は本物をくれないか」
「悪い子ね」
メリッサは二つのグラスにワインを注ぎ、片方を理一郎に渡す。それから理一郎の足元に座り込んだ。
「では、私が知っていることをお話しするわね」
メリッサは理一郎の脚にもたれかかって、グラスを傾けた。
「三週間前、千年に一度の三星蝕の日に、エクリプス神殿で禁忌とされる儀式が秘密裏に執り行われ、あなたが召喚された。首謀者はアストレリア教会のイグナティウス大司教と、王国軍務卿のヴィクター・フォン・モンフォール侯爵」
「それは知っている」
「あなたを呼んだ目的は、擬人族に対抗させるため」
「ああ、〝物理最強〟とやらと勘違いされたらしい」
「そしてあなたは、記憶をなくす呪いと学都に向かえという暗示をかけられ、バルタ街道に放置された」
「危うく死にかけた」
「彼らにしてみたら大失態よね。禁忌に手を出した上に、国家規模の魔力を喪失させたのだから。宮廷に知られれば文字通りの意味で首が飛ぶ。にもかかわらず、あなたは記憶を消されただけ。なぜだかわかる?」メリッサの瞳が鋭くなった。「確実に口を封じることだってできたのに」
「確かにのう。妙なことぢゃ」リリスが現れた。「しかし、まあ、なんとも悪趣味な部屋ぢゃの」
「気に入ってもらえなくて残念だわ、小悪魔さん」
リリスに続いて、老魔と妖猫も姿を現す。二体とも部屋をぐるりと見回すと、暖炉の前に座り込み、さっそく居眠りを始める。
「あら、リリスちゃん以外にも従魔がいたのね」
「ああ、じいさんとネコだ。それで? そいつらが俺を生かしておいた理由はなんだ?」
メリッサが理一郎の脚にもたれかかる。
「大司教があなたの中に、未知の、しかもとてつもなく大きな力があることに気づいた。それに利用価値があると考えたのね。だから生かしておきたくて、軍務卿を説得した。あなたには今でもアストレリア教会の監視がついているのよ」
「陰険な奴ぢゃの」
「そうね、リリスさん。そして今、軍務卿もあなたに興味を持ってしまった」
「なぜだ?」
「あなた、ここに来てから大活躍だもの。王都にまで評判は届いているのよ。イグナティウス大司教が密かに動いていることも察知して、あなたに利用価値があると考えたのね。アストレリア教会に出し抜かれる前にあなたを確保しようとしている」
「俺を確保する?」
「あなたを捕縛するための憲兵団がすでに編成され、出発の合図を待っているという情報があるわ」
「憲兵団?」
「王国軍の組織の一つで、本来は軍紀を取り締まる機関。超法規的な権限も持った精鋭部隊ね。実質的には軍務卿の私兵みたいなものだから、宮廷に目的を悟られずに動かせるの」
「其奴はそんなに偉いのか?」とリリス。
「侯爵家をずっとさかのぼると王族がいるのよ、小悪魔さん。かなり遠い縁戚筋だけど。軍務卿は王族の血を引いていることを名分に、いつか王国の実権を握る野望を抱えているみたい」
「俺を捕まえてどうするつもりか知っているか」
メリッサは理一郎の膝に腕を乗せ、顔を見上げながら言った。
「ごめんなさい。詳しくはわからない。でも、あなたの〝物理学魔法〟に興味津々みたい」
「主よ、悪目立ちが過ぎたようぢゃの。やはり口を封じたくなったか。あるいは私欲のために働かせたくなったか。いずれにしても、連れていかれればろくな目には遭わんぢゃろな」
「これは私の臆測だけど――」メリッサが真顔になった。「後者でしょうね。軍務卿は、擬人族に対抗する新たな力として、あなたの物理学魔法を利用したい。それを手柄に、宮廷での権勢を広げるつもりよ」
「もともと俺が召喚されたのも、その擬人族とやらに対抗するためだったらしいからな。だが、協力を拒否したらどうなる?」
メリッサは理一郎の太ももに手を置いた。
「従わなければ殺す。そう言われたら、あなたはあらがえるかしら? 禁じられてはいるけど、隷属させる魔法や呪具も存在しているわ」
理一郎は黙って考え込んだ。
勝手な都合で呼ばれ、いらないと放り出され、今また野心のために駒にされようとしているとは――。
「権力を握っている人間は、魔物よりも手ごわい。あなたの魔法でも、手に負えない。あなたに会うまでは情報の一つにすぎなかったけど、こうしてあなたを知ってしまった今は、あなたが捕まるなんて耐えられない……」
弱々しいつぶやきに、初めてメリッサの素顔を見たと思った。無意識のうちに、膝の上の紫色の髪をなでていた。
「擬人族とやらはさておき、当面の問題は憲兵団ぢゃな。アカデミアのエルフばあさん、あるいはギルドの素浪人にでも話してみたらどうぢゃ?」
権力には権力。そういう手もある。だが――。
「これは俺の問題だからな」
「このままではそういうわけにはいかぬぢゃろうよ。学都にも面子はあろう。事前通達もないのぢゃろ? 自治権を冒されては黙っておるまい。学都衛士団が動くやもしれんぞ。冒険者組合も」
「メリッサ、派遣される憲兵団の規模はわかるか?」
「ごめんなさい。まだそこまでは」
「たとえ小規模でも入ろうとすれば、一悶着は避けられんぞ」
「ならば途中で追い返すか。いずれにしても、もっと正確な情報が欲しいな」
「じいさんに予測させてみてはどうぢゃ?」
リリスが暖炉の前でうとうとしている老魔を指さす。
「その従魔にはそんなことができるの?」
理一郎が講義口調になる。
「ああ。あれは古典物理学の決定論を具現化した、因果律の悪魔だ。この世界のあらゆる粒子の位置と運動量を把握し、そこから過去と未来を計算する。あいつの予測は、単なる可能性ではなく〝確実な未来〟になる。さらに、物質を原因となった過去の状態へ戻し、結果を変えることもできる」
「まあ、すごい従魔なのね。私の仕事にも役立ちそうだわ」
「だが、こいつへの対価は俺の未来だ。例えば俺が死ぬ未来をこいつが視てしまえば、憲兵団を撃退したとしても俺が死ぬことは変えられない」
「まあ、大変。そうなると役に立つんだか立たないんだか、わからないわね」
「はっきり言って使えないじいさんだ」
「だったら――」理一郎の足元にうずくまっていたメリッサが立ち上がって、理一郎の膝に横向きに腰を下ろした。「私がお手伝いするわ」
理一郎の下半身が、メリッサの温かくやわらかな肉に刺激される。メリッサは理一郎の顔を手で挟み、上気した顔を近づけながらささやいた。
「軍務卿と憲兵団の動きを探ってくる。これからずっとあなたの情報係になる。だからお願い、その代わりにあなたの――」
理一郎の目をメリッサが間近でのぞきこむ。そのピンクの瞳が潤んでいた。
理一郎は乱れかける思考を、無理やり論理の上に引き戻す。
メリッサの要求は推論できる。メリッサが信用できる人物かどうかはまだわからない。だが、この状況では必要な協力者になる可能性に賭けたほうが合理的だ。
「いいだろう。協力関係を結ぼう」
メリッサの目がうれしそうに輝いた。
「じゃあ、向こうに」
メリッサが部屋の奥のカーテンに目をやる。その向こうには大きなベッドがあった。
だが、久しぶりに飲んだせいか、だいぶ酔ってしまった気がする。メリッサのせいで体は臨戦態勢だが、これでは持続しないだろうと、四十二歳の知識が告げている。
「いや、残念だが、もう酔っ払ってしまった」
「ふふ。これはなにかしら」メリッサが理一郎の下半身に手を伸ばす。
「今だけだ」
「そんなはずないわ。私が相手なのに」
メリッサがパチンと指を鳴らすと、途端に酔いが醒めた。
「まさか、あのワインは」
「いくら私でも子供にお酒は飲ませられないわ。成長に悪影響があるからね」
「子供の精気を絞るのはいいのか?」
「いいのよ。体には害がないもの。それに今のあなたは〝大人〟でしょ」
「言っていることに矛盾があるな」
「難しいことはもういいわ」
メリッサは理一郎の腕を取って寝室に引っ張っていく。
腕を引かれながら、理一郎の脳裏に、ふとアリアの顔がよぎった。後ろめたさが胸を突く。
「主よ、正気か?」
肩の上にリリスが現れ、呆れたような声を上げた。
「相手は淫魔ぢゃぞ。いくら命までは取られぬといっても、なにをされるかわかったものではない。それに、あのアルタイルのお嬢ちゃんには、なんと説明するつもりぢゃ」
「説明は、しない」
理一郎は努めて冷静な、冷たい声を出した。
「俺には軍務卿の憲兵団を退けるための情報と協力者が必要だ。これは生存するための合理的な取引だ」
「ふん。ご立派な理屈をこねておるが、要するに下半身の論理に負けただけぢゃろうが」
「リリス、引っ込め。いいと言うまで出てくるな。じいさんとネコもだ」
そう言い捨てて、理一郎はリリスを睨んだ。
「観察したいのぢゃがのう」
「だめだ、命令だ」
普段は好きにさせているが、基本的には従魔なので命令だと言われれば従わざるを得ない。 不満そうに舌を突き出して、リリスが消えた。老魔と妖猫もいなくなる。
理一郎自身にはまだ迷いがある。突き飛ばして出ていくべきか……。
「そんなに緊張しないで……私じゃ、不満?」
耳元でささやかれる甘い吐息。上目遣いの潤んだ瞳が、理一郎の理性を絡め取っていく。
突き飛ばして出ていくことはできた。だが、理一郎はそうしなかった。彼女の放つ熱気――あるいは夜の街を生きる女の底知れぬ引力に、理一郎の論理も倫理も押し流されていく。
理一郎は息を呑み、反論の言葉を見失った。
それが合図だったかのように、理一郎はベッドに突き倒される。
メリッサはドレスをするっと床に落とすと、理一郎に覆いかぶさった。
* * *
それから数日間、メリッサはギルド食堂のおばさんを休業し、王都で諜報活動を行った。
これまでに培ってきた幅広い人脈を活用するとともに、自らも能力を惜しみなく使った。サキュバスの幻惑で口の重い相手の舌をなめらかにし、吸血鬼譲りの変身で、立ち入れぬはずの場所へ忍び込む。
一方、理一郎は普段通りアカデミアでの研究とギルドのクエストをこなしていた。本来であれば、魔法の研究、特に魔法陣と方程式の対称性についての研究を進めたかったが、王都の動きが気になってなかなか集中できなかった。アリアにも誰にも告げていない。心配させたくなかったのだ。
この間、アリアがアカデミアの行事である大魔法祭の準備とかで夜も家を空けたり、アカデミアに泊まり込んだりしていたのは、理一郎にとっては好都合だった。
五日後、アリアがアカデミアに行っている間に、再び宵待亭を訪れた。
昼間だというのに店内は別世界だった。
妖しく隠微な雰囲気に満ち満ちている。
足を踏み入れた瞬間、四十二歳の容姿に変わった。
「いらっしゃい」
メリッサが艶やかに微笑んで理一郎を迎えた。
今日はカウンターのこちら側のスツールに、脚を見せつけるようにして座っている。
「待ち遠しかったわ」
理一郎が隣に座ると、ソーダ水の入ったコップと、黒い封筒をカウンターに置く。
「憲兵団の詳細な行程がわかったの。彼らは明後日には学都西門に到着し、アカデミアを訪問する予定よ。そこであなたを正式に呼び出して、拘束するつもりだわ」
理一郎は書類にじっくりと目を通した。捕縛計画の工程表や人員配置まで書かれている。
「軍務卿は本気ということだな」
「そうね」
「教会とは?」
「連携してはいなかったわ」
「確かな情報なのだな」
「もちろんよ」
「王都までの移動だけでも、駅馬車で往復六日はかかる。この短期間に、よくここまで調べ上げたものだ」
「あなたのためだもの」メリッサが甘い声でささやいた。「それに言ったでしょ? 私、飛べるのよ。父譲りの翼でね。王都までなら、ひと晩」
「飛んでいったのか」
「ええ。本当は、王都への飛行は違法なんだけどね」メリッサは悪戯っぽく笑った。「私は見つからないから」
「そうか。ご苦労だった。さて――」
理一郎はカウンターに置かれた煙草をくわえる。すかさずメリッサが火を付けた。煙を深く吸い、ゆっくりと吐き出しながら考え込んだ。
「どうしたものか――」
逃げ出すことはしないと決めていた。解決にはならないし、学都での生活、アカデミアでの研究、アリアとの日々。それらを捨てたくはなかった。
「殲滅してしまえばよかろう」リリスが現れる。
「それは悪手だわ、小悪魔さん。一生追われ続けることになるわよ。穏便に帰ってもらう必要があるの」
「メリッサ、知恵を貸してほしい。後腐れなく追い払う策はあるだろうか」
メリッサはにっこりとうなずいた。
「もちろんよ、ちゃんと考えてあるわ」
彼女は地図を広げ、バルタ街道上の一点を指して説明しはじめた。
それは非常に緻密に練り上げられた計画だった。
「ただのボヨヨン女ではなかったようぢゃの」リリスが地図の上に現れ、メリッサを見上げた。「ぢゃが、こんなに首尾よく事が運ぶぢゃろか?」
「すでに仕込みは済んでいるのよ、小悪魔さん」
メリッサがリリスから理一郎に視線を移して言う。
「軍務卿も、憲兵団長も、間違いなくこの計画通りに動く。そして軍務卿は必ずあなたの捕縛を諦める」
「自信満々ぢゃな」
「私が本気を出したのだもの。当然だわ」
「この策では、俺たちは三叉の丘で別行動することになる。連絡手段はどうする?」
「それなら心配ないわ」
メリッサが理一郎に顔を寄せた。
〈聞こえる?〉
言葉は耳からではなく、直接頭の中に響いた。
「これは――?」理一郎が驚いて、メリッサを見つめる。
「聞こえたのね。思った通りあなたとは肌が合うんだわ」
メリッサが説明した。
「私、波長の合う人とは念話できるの」
「離れていても心で会話できるということか?」
「うん。あなたもやってみて」
理一郎は頭の中で言葉を紡いだ。
〈……聞こえているか〉
「聞こえるわ。やっぱりあなたは特別なのね」
メリッサは理一郎の手を握りながら、感極まったように言う。
「まさか俺の頭の中がわかるのか?」
「そうじゃない。あなたが伝えようとしないと、私には届かないの」
「そうか。理解した」
「これで連絡の問題は解決ね」
――ほかに妙案もない。
理一郎は、メリッサを信じ、この策に賭けることにした。
「この案で行く。引き続き手伝ってくれるとありがたい」
「もちろんよ。これは私とあなたの作戦よ」
「それにしても、こんな下準備はとても俺にはできなかった。礼を言う」
「お礼なら言葉じゃなくて。ね?」
メリッサは理一郎の腕を取って、二階へと誘う。理一郎は素直に立ち上がった。




