裏路地の宵待亭
「黒蝶蘭だけでなく、ステンドアゲハまで持ち帰るなんて、すごい成果ですね」
買い取り窓口に広げられた採取品を見て、エリーゼが感心する。
「でも、よかった。ちゃんと依頼票の注意事項も読んでくださっていたのですね。実は口頭で伝え忘れてしまって」
「注意事項?」
アリアと理一郎が顔を見合わせる。
そういえば、今回はホウキ移動でドタバタしたため、二人ともきちんと目を通していなかった。
アリアが依頼票を読み返す。
「あ……」
「どうした?」と理一郎。
「ステンドアゲハの群れに注意するようにって」
事情を察したエリーゼが補足する。
「最近ゲレフ未完遺跡のあたりでステンドアゲハの群れの目撃情報が寄せられていたんです。出発前にお伝えするべきだったのに、すっかり頭から抜けていて……ご無事でよかったです。申し訳ありませんでした」
エリーゼがカウンター越しに頭を下げる。
「いや、俺たちの落ち度もある。次からは気をつけよう」
「ありがとうございます」
エリーゼがもう一度深く頭を下げる。
「それにしてもこのステンドアゲハ、信じられないほど良い状態です。最上級の査定が出ると思いますよ」
エリーゼの言葉通り、報酬は分配してもかなりの金額になった。アリアは全額をギルドの口座に預け、理一郎は半分を金貨に替えた。
「じゃあ、わたしはここで。リヴィアたちが待ってるから」アリアが元気よく言った。
「ああ、気をつけて」
「魔法少女会ぢゃな」リリスが肩に現れた。「勉強会とか言っておるが、実際はおしゃべり会ぢゃろうて」
「ちがうもん!」アリアが頬を膨らませた。「真面目に勉強するよ。お菓子は食べるけど」
急ごうとするアリアだったが、ドアを開けたところで立ち止まり、振り向いて理一郎に訊いた。
「ごはん、大丈夫? ちゃんと食べてね」
「理解している。心配するな」と返して手を振った。
「アリアさんは優しいですね」エリーゼが笑いながら言う。
優しいというよりはお節介なのではと理一郎は思うが、確かに腹は減っている。
ギルドの食堂で食べようと思ったが、今晩はやけに騒々しい。
「三組の隊がお祝いをしてるんですよ。合同で大物の討伐に成功したんです。さっきまでは広間もにぎやかだったんですよ」
「では街に出るか」
「二番街には美味しくて手頃な値段の店が多いんですけど、裏路地は酒場街だから行っちゃだめですよ」エリーゼが忠告する。
「そうなのか。ありがとう」
カウンターを後にした理一郎は、食堂を少しのぞいてみた。
十数人の冒険者が酒を酌み交わし、大宴会を繰り広げている。〝にぎやか〟どころではなく、控えめに言っても〝大騒ぎ〟だ。
おまけにメリッサおばさんの姿が見当たらず、若い給仕たちだけが走り回っていた。
「おっ、リイチロウ!」
顔を真っ赤にしたジルバウが、ジョッキを片手に千鳥足で近づいてきた。
「聞いたか!? おいらたち、今日すごい魔物を倒したんだぜ! おいらの弓が急所に命中してさ!」
「ちょっとあんた! 未成年が酒なんてどんな了見だい!」
背後からぬっと現れたサマンサが、ジルバウの耳を思い切り引っ張った。
「いっててて! サマンサ、引っ張るなよ!」
「それに、あんたは一番後ろでとどめを刺しただけだろうが。さあ、おとなしく水でも飲んで酔いをお醒まし!」
「ああっ、リイチロウ、助けてー!」
ズルズルと引きずられていくジルバウを見送りながら、理一郎は小さくため息をついた。 「これでは落ち着かんのう」とリリス。
確かに、この騒がしさの中で食事する気にはなれなかった。輪に加わって乱痴気騒ぎを楽しむことなど、理一郎には思いもつかない。
銭袋はそこそこ重い。
「二番街に行ってみるか」
* * *
外はすっかり日が落ち、風が少し強くなってきた。
魔導ランタンの街灯が幻想的に通りを照らすなか、ギルドから歩くこと十数分。二番街のメインストリートに着いた。飲食店が連なるこの辺りは、夜だというのに人通りが多い。
確かに店はたくさんあるが、なかなか決められない。もともと知らない店に一人で入ることなどなかったので、どうしても気後れしてしまうのだ。
歩いているうちに、ふと一本の路地が気になった。両側に小さな店が色とりどりの看板を掲げて軒を連ねている。酒場街のようだ。
「こっちは行くなと言われていたのではないか」
リリスが肩で忠告する。
「なぜだか足が向いてしまうのだ」
理一郎は、どんどん先へと進む。すると、薄暗い路地の奥に小さな赤提灯が見えた。
「まさかな……」
その店構えは、元の世界で時々通った小さな居酒屋にそっくりだった。
看板は『宵待亭』。店名は違うが、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
「どうした、主よ。脳波が乱れておるぞ」
「この店に決めた」
「ふむ」リリスの表情が曇る。「この店にはなにやら異質な魔力が満ちておる。うかつに入らぬほうが――」
リリスの警告も耳に入らず、理一郎は木の扉に手をかけた。
「後悔しても知らぬぞ」
そう言い捨てて、リリスは姿を消す。
中の様子も、よく似ている。数人が座れるカウンターと、テーブル席が二つあるだけの小さな店だ。
客は一人もいない。強烈な既視感と違和感にとらわれて内装を眺めていると、「いらっしゃい」とカウンターの中から明るい声が聞こえた。
声の主を見た理一郎は、思わず目を見開いた。
「メリッサおばさん?」
ギルド食堂で料理を作る、あのメリッサおばさんがそこにいた。いつもの白い割烹着のようなエプロン姿だ。
「おや、坊やじゃないか。ここは酒を呑む店だよ」
「おばさんの店なのか?」
「組合の仕事だけじゃ退屈でね。時々ここで店を開けてるのさ」
理一郎はカウンターに座り、店内を見回した。
木の温もりが感じられる内装、レトロな照明器具、壁に貼られた酒の品書き……。
不思議なまでに、元の世界の店とそっくりだった。
「こんな不可解なこともあるものだな。多元世界間の共時性とでも言うのだろうか」
メリッサが不思議そうな顔をした。
「なんのことだい?」
「いや、こことそっくりの店があったなと思ってね」
「ふーん、こんな店がほかにもあるのかい?」メリッサの目に好奇心の光が宿る。「少なくとも学都はもちろん王都にだって、こんな変わった店はないはずだよ」
その言い方に、少し違和感を覚える。
――自分の店を〝変わった店〟だと?
メリッサはカウンターに肘をついて身を乗り出し、理一郎を舐め回すように眺める。
「坊やは変わった精気を纏ってるね。この世の人ではないみたい」
理一郎は思わず身構えた。自分が異世界人だということは、ごく限られた人間しか知らないはずだ。
「なぜそう思う?」
「ふふん。当ててごらんよ」
それは理一郎が知るメリッサおばさんらしからぬ言いようだった。
リリスが現れ、メリッサを指さした。
「いつまでも謀るでないわ、淫魔めが! その姿は偽りぢゃろ。妾の目は誤魔化せんぞ。本当の姿を見せい」
メリッサは一瞬驚いたようだったが、すぐに口元に微笑みを浮かべた。
「あら、姿を偽っているのは、お互いさまじゃない?」
そう言うと、メリッサが指を鳴らした。
店内に張り巡らされていた魔法の糸が解けるように、空気がゆらりと揺れた。
次の瞬間、メリッサの姿が一変した。
カウンターの向こうに立っているのは、二十代前半ぐらいに見える若い女性だった。
紫色の長い髪、濃いピンク色の瞳をたたえた切れ長の目、薄紅の唇――。
髪と同色の柔らかなナイトドレスは、ボリュームとメリハリのある肉体を必要最小限しか覆っていない。豊かな胸や腰を惜しみなくあらわにしていた。
一言で言えば、妖艶な妙齢の美女だ。だが、その頭には二本の黒く小さな角が生えていた。
同時に店内も様子を変えた。内装がクラシックなカウンターバーに変わり、照明が薄暗くなり、妖しい雰囲気が醸し出される。
「これがほんとの私」
彼女の声は甘く、遠く離れていても耳元でささやかれたような響きを伴っていた。
「メリッサ・ナイトブルームよ。サキュバスの一族なの」
「サキュバス?」
「知らないなら、いいのよ」メリッサは妖しく微笑んだ。「昼間はおばさん姿で、組合の食堂で働いているの。でも夜は本来の姿で、ここで店を開いているわ」
理一郎は慎重に周囲を観察した。
「この店は……」
「宵待亭。特別な店よ。通りがかった人が入りたくなる場所に見える魔法をかけているの。あなたにとって居心地の良い場所、懐かしい場所に見えたでしょう?」
「商売上手、とでも褒めるべきなのか?」
「そして、私の姿もお客さんが望む姿に見えるの」
メリッサは理一郎のほうに身を乗り出した。胸元の大きく開いたドレスから、豊満な膨らみが今にもこぼれそうだ。
「面白いわね。あなたは私を〝メリッサおばさん〟と認識していた。年上のマダム好きなのかしら?」
「腹が減っていたからな。おばさんの飯は美味い」
「なによ、つまらない答えね。でも――」メリッサのピンクの瞳が理一郎を見つめた。「あなたも、その少年の姿はホントじゃないでしょ? 私にはわかるわ。ホントのあなたを見せてよ」
メリッサが指を鳴らす。指先から紫の光の靄が放たれ、理一郎の体を包み込んだ。
「なにをするのぢゃ!」
リリスが抗議したが、すでに遅かった。
光が消えると、現れたのは頭髪に白髪のまじる、疲れた目をした中年男性。
元の世界での理一郎だ。
「これがほんとのあなたなのね」メリッサが妖しく微笑む。「あなたがほんとの自分だと思っている姿が、投影されているの」
不思議なことに、むしろこの場ではこの姿のほうが自然だと感じた。
メリッサの幻惑は、外から見える姿だけを変えているのではないらしい。身体の重さや手足の感覚、さらには自分自身をどう捉えるかまで、四十二歳だった頃のものに戻っていた。
気持ちや感じ方も、中年男だった頃の自分に近い。異世界に来てから無意識に背負っていた緊張感が解け、久しぶりに素の自分に戻ったような安心感があった。
するとすぐに、しばらく忘れていた衝動が湧き上がってきた。
「煙草はあるか?」
メリッサはにっこりと笑い、カウンターの下から煙草の箱を取り出した。
「どうぞ。あなたの世界のと似てるといいけど」
一本取り出して香りを嗅ぐ。好みだった銘柄によく似ている。
口にくわえると、メリッサは魔法で指先に小さな炎をともし、火をつけてくれた。
「便利だな」
深く煙を吸い込んで、肺を有害な物質で充満させた。依存性の高いアルカロイドがすぐさま血流に乗って体中に巡り、全身が心地よく痺れていく。久しぶりの一服ならではの感覚だ。
ゆっくりと煙を吐き出しながら、十代の体になってからは煙草の存在を完全に忘れていたことに気づく。体が若返ると、依存症も消えるということかもしれない。
「そんな物を吸うとは、主はとんだ愚物ぢゃの。気をつけよ、サキュバスは淫魔ぢゃぞ」
リリスは煙草の煙が苦手なのか、引っ込んでしまった。
うるさいのがいなくなったので、これ幸いとメリッサがカウンターから出てくる。
理一郎の横に立つと、スツールの足置きに右足を乗せて肉感的な太ももを見せつけた。艶めかしい姿態から、甘く濃密な香りがふわりと漂ってくる。その香りが、理一郎の心を無性にざわつかせた。
「ずいぶん美味しそうに吸うのね」
「久しぶりだからな。もともとはヘビースモーカーだった」
「あなた、そっちの姿のほうが断然いいわ」メリッサはかがみ込んで理一郎の耳元に近づき、ささやいた。「大人の男の魅力があるもの」
胸の重さとやわらかさが、理一郎の肩に伝わる。
「おだてる必要はない。それで――」理一郎は煙を吐きながら言った。「君は何者だ? なぜ俺のことを知っている」
「あら、なんのことかしら?」
「君はさっき『あなたの世界』と言った。俺が別の世界から来たことを知っている。限られた人間だけにしか明かしていない情報だ。なぜ知っている?」
「私が何者か、気になるのね?」
メリッサがしなだれかかってきた。
「おい、ここはそういう類いの店なのか?」
「今日は看板を変えてもいいわ。あなたは特別だから」
メリッサがとろんとした目で理一郎を見つめ、ほっそりした指で頬をそっとなでた。
「あなた、とてもステキ。異世界の人だからかしら」白い顔が上気し、ほんのり赤みを帯びる。「その精気、たまらないわ。サキュバスの私をこんなにもおかしくするなんて、悪い人。もう我慢できないじゃない」
メリッサがにじり寄ってくる。今にも膝にまたがってきそうな様子だ。
顔も体も非の打ち所のない妙齢の女性が、こんな冴えない中年男の自分に、どうしてここまで入れ込むのか。女性経験に乏しい理一郎には、不可解の一言に尽きた。誘惑の裏にどんな思惑があるのか、つい勘ぐってしまう。
理一郎は肩を掴んで押しとどめて言った。
「腹が減っている。まずは何か食わせてくれ」
「私よりもゴハン? ひどい人ね」
「ぺこぺこなんだ。頼む」
「意地悪だわ」
メリッサは半ば涙目で理一郎を睨んだ。
それでも頼みを拒むことができず、カウンターの向こうに戻り、「ここではたいした物はできないわよ」と言いながら手早く軽食の類いを用意した。
「飲み物は?」
――そういえばこちらに来てから酒もご無沙汰だ。
「とりあえず麦酒だ」
出されたのはクラフトビールで、あまり好みではなかったが、それでも喉が潤う。アルコールは空腹の胃に染み、すぐ全身に行き渡り気持ちが軽くなっていく。
それから燻製肉の盛り合わせ、香草チーズと黒パン、蜂蜜漬けのナッツ、ピクルスの盛り合わせがカウンターに並べられた。
理一郎は煙草を灰皿に押し付けて消し、料理を平らげていく。
軽食ではあるがすべて自家製で、どれも想像以上に本格的な味だ。
「美味い。料理の腕は〝メリッサおばさん〟だな」
「口に合ってよかったわ」メリッサが顔を赤らめる。
「それで、君は――」
「メリッサって呼んで。お願いだから」
「なんなんだ、君は」
「お願い」
「承諾しよう。で、メリッサは何者なんだ。誰かに頼まれて、俺を調べているのか?」
「さっきも言ったように私はサキュバス。男を喰い物にする、悪い女の種族よ」
ふと、さっきのリリスの言葉がよみがえった。
――サキュバスは淫魔。
「そうぢゃよ」リリスがまた現れた。「サキュバスは、妖艶な美女に化けて男を誘惑し、男が屈するとヒトの限界を超えた快楽を与えて絶命させる。実に性悪で危険な女悪魔ぢゃ」
それから理一郎に向かって弁解するように言う。
「リリスという名は主の世界では最初のサキュバスだとされておるが、妾はそんなふしだらでも性悪ではないのでな。勘違いせぬようにの」
「あら、かわいい小悪魔さん、あなたのお名前にはそんな秘密があったのね。でもね、今時のサキュバスは、命を奪うようなことはしないのよ。男の精気だって必須栄養素ってわけではないし、いわば食後の甘味ね。なければないで生きていけるし――」メリッサが理一郎を見つめて言う。「美味しい物しか食べたくないし」
「ふん。淫魔には変わりないぢゃろ」
「誰の精気でも良いってわけではないのよ」メリッサが眉をひそめる。「でもね、サキュバスは自然と男を引き寄せちゃうの。奴隷狩りなんかされて人口も減って、今では希少種族なのよ。だから、幻を見せて姿を偽ったり、感覚を惑わせて相手をあしらったり、心に働きかけて言うことを聞かせたり、そんな魔法に長けてるの。けっこう苦労してきたのよ」
「五感や精神に干渉するということかのう」
「そうね。そして、私はその特技を活かして、情報を売り買いしているの」
「面白い。情報屋にはうってつけの能力ぢゃな。さぞかし興味深い情報を持っておるのぢゃろ。少し読ませてもらおうかのう」
リリスがメリッサの記憶に〝手〟を伸ばす。だが、届きそうになった瞬間、見えない壁に弾かれた。
「ほう? 精神障壁かのう」とリリスが驚く。
「ごめんなさいね、小さな悪魔さん。私の頭の中は簡単にのぞけないのよ」メリッサは優しく微笑んだ。「情報商人として生き残るためには、自分の情報を守る術もないとね」
「ふむ。少し見直したぞ。なかなかやるではないか」リリスが感心する。「なるほど、ただの淫乱娘ではないということぢゃの」
「失礼な小悪魔さんね」メリッサは唇を尖らせたが、すぐにくすりと笑った。「まあ、純血のサキュバスとも、少し違うのよ、私は」
「ほう?」リリスが片眉を上げた。
「母がサキュバス、父が吸血鬼。私は混じり者なの」メリッサは肩をすくめた。
「この世界には、吸血鬼もいるのか?」
理一郎が少し固いパンをビールで喉に流し込んでから言う。
「いるわ。だいぶ数は減っちゃったけど」
「お前の目当ては俺の血なのか?」
「違うわよ。私は血を吸いたいなんて思わない。欲しいのは精気。そこは母親譲りなの。でもね、父からもらったものも、いくつかあるのよ」
「ふむ。たとえば?」とリリス。
「夜目が利くとか、ホウキなしに空を飛ぶとか――それに、姿を変えるのもね」
「俺がこの店へ入った時に見た、おばさん姿か?」
「いいえ。あれはサキュバスの幻惑。あなたが見たいものを見せたの。でも組合食堂での姿は吸血鬼の変身能力よ。幻惑は人によって見え方が違ったりするから、大勢がいる時は不向きだし。ずっと幻惑し続けるより、変身し続けるほうがぜんぜん楽だから」
メリッサは、ぱちんと指を鳴らした。その手が〝メリッサおばさん〟のものになる。
「触ってみて」
メリッサは、その手で理一郎の手に触れた。
感触は、まさしく初老の女性だった。
「これが幻惑か変身かわかる?」
理一郎は首を振った。
「幻を見せる。本当に変わる。私は、どちらもできるの」
メリッサがもう一度指を鳴らすと、手が元に戻る。
「欲張りな娘ぢゃのう」とリリス。
「希少種が二つも混じってるんだもの。それくらいの特技があってもいいでしょ」
「それで、情報商人としてのメリッサは、組織に属しているのか?」
理一郎がビールを飲み干すと、メリッサは注文も訊かずにワイングラスをカウンターに置いた。そこに血のように紅いワインを注ぎながら、ささやくように言う。
「いいえ。私は自由業者よ。誰にも縛られていないわ。あなたの情報は星教派から流れてきたの」
「なぜ俺の情報を手に入れた?」
「安心して。あなたのことを知ろうとしたわけではないの。ただ、酔っ払った修道士が三星蝕の日のことをペラペラしゃべってくれたのよ。聞いたことのないような話だったから、ついついあれこれ聞き出しちゃった」
「修道士などというても俗物ぢゃの。神様よりも〝たわわ〟が好きか」とリリス。
「あなたは少年の体に甦った異世界の魂なのよね。今、王都ではあなたを取り戻そうとするたくらみが進んでいるわよ」
理一郎はグラスを傾け、ワインを一口含む。豊潤な味わいが口の中に広がった。
「首謀者は貴族か? それとも聖職者か? なにをたくらんでいる?」
「ここからは取引よ」メリッサは指先で理一郎の手に触れた。「情報には対価が必要――」
メリッサの指が理一郎の指をなでる。それだけで、理一郎の全身に甘美な感覚が走った。
メリッサの顔がまた上気し、ピンクの瞳が潤む。
肌の微熱を帯びた甘い香水の匂いが、理一郎の鼻腔をくすぐった。
――危険だ。
頭の奥で、警鐘が激しく鳴り響いた。
――――落ち着け。感覚を刺激されて、脳の報酬系が反応しているだけだ。生理的な反応にすぎない……。
理一郎は懸命に頭を働かせた。複雑な流体力学の数式を思い浮かべ、意識を目の前の艶やかな肢体からそらそうとする。
だが、メリッサの指先が理一郎の胸元をそっとなぞった瞬間、構築しかけた数式はあっけなく崩壊した。
「あなたの精気は、ホントに特別なの。これまでに感じたことのない波動なの。それを与えてくれるなら、なんでもしてあげる。どんな情報も、協力も惜しまない。あなたの奴隷になってもいいわ」
本気が伝わってくる。その情念が、理一郎には怖くすらあった。
「すべて吸い取られてミイラになるなどということはないのだよな」
「当たり前じゃない。使い捨てなんてもったいなさすぎる」
メリッサは情報屋としては一流のようだ。彼女のつながりは、この先もいろいろと役に立つだろう。精気をどうやって与えるのかうすうすわかってはいるが、四十二歳の理一郎にはメリッサが相手であれば拒む理由もない。
「悪い取引ではなさそうだ」
――ん?
ふと、あることが気になった。
「メリッサ、今の姿は本当の君なのか?」
「どう思う?」メリッサが怪しく微笑む。
「駆け引きはなしだ。事実を教えてくれ」
「もう。つまんない……でも、そういうところもたまらないわ」
「どうなんだ?」
「これはホントの私。もちろん、お化粧はしてるけど」
「それにしては若すぎる。食堂では四十年以上切り盛りしてると言ってなかったか?」
「エルフほどではないけど、サキュバスは長命種なの。でも、この容姿が気に入らないなら、お好みに合わせるわ」
「いや、いい。ただ、一つ約束してくれ」
「なに?」
「今後、俺の許可なく幻惑も幻覚も使うな。ただし、この店で二人だけの時は、今の姿にしてほしい」
中年男の姿に戻った今、少年の自分はやはり不自然のように思える。たまにはこうして本来の姿に還りたい。
「あなたがお望みなら。……でも困ったわ」
「なにがだ」
「ややこしい話だけど、この世界でのあなたは十七歳の少年でしょ。さすがに煙草とかお酒とかはね。だから幻覚魔法を使ったの」
「あれが幻覚?」
にわかには信じられなかった。
「どうする? それも止める?」
「いや。酒と煙草は幻覚でいい。あれだけリアルに味わえるのであれば幻でも問題ない」
「なら取引は?」
「成立だ。まずは知ってることを教えてくれ」
メリッサの瞳がうれしそうに輝いた。
「じゃあ、今日はもう閉店。看板をしまってくるわ。二階に行きましょう」




