ゲレフ未完遺跡
ゲレフ未完遺跡群は学都から南西約四十キロの場所にあった。
上空からは、古代の石造建築群が森の中に点在しているのが見える。苔むした階段状の構造物だ。
「この辺だね」アリアが指さした。「千年前の高度魔法文明が遺した物なんだって」
アリアはしばらく旋回し、下の様子をうかがう。
それから、「あそこが――」と遺跡の一つを指さす。
「アリア、片手で飛ぶな!」
アリアのお腹に回した理一郎の腕に、思わず力が入った。
「理一郎、きついよ」
「ああ、すまん」
「大丈夫なんだから。両手放しでも飛べるよ、ほら」
アリアがバンザイをする。
「理解した! 理解したから、手放しは止めてくれ」
「ごめん、ごめん。でね、あの遺跡。あそこの魔力濃度が一番濃く感じる」
理一郎が、恐る恐る片手で地図を開いて確認する。
「二号遺跡か。降りてみよう」
アリアのホウキは、遺跡周辺の空き地にふわりと着陸した。
ホウキをしまうと、アリアは魔力回復の水薬を一口飲み、深呼吸する。
「近くで見ると、大きいのね」
アリアが息を呑むようにつぶやいた。
「まるでマヤ文明のピラミッド型神殿のようぢゃ」
リリスが姿を現し、辺りを見回す。どうやら理一郎同様、高い所は苦手だったようだ。
巨大なピラミッド型の建造物は苔に覆われていた。形状は完全な対称ではない。右半分は明らかに未完成で、階段状の構造が途中で途切れ、まるで建設の途中で突如として放棄されたかのような印象を与えていた。周辺には大小さまざまなサイズの石材が、無秩序に散らばっている。
「ゲレフ未完遺跡……、完成することのなかった古代の神殿。教科書で見たのより、ずっと神秘的……」
アリアが息を呑む。
神殿の表面には未解読の文字が刻まれ、辺りの魔力によって青白い光を放っている。その神秘的な輝きが幻想的な光景を作り出していた。周囲の石材のいくつかにも同様の文字が刻まれ明るんでいる。
「さあ、黒蝶蘭を探しに行きましょう!」アリアが元気よく言う。
「急がなくてもいいだろう。ずいぶん時間短縮できたからな」
理一郎はもう少し休みたかった。
「大丈夫、大丈夫。しっかり回復したもん」
「いや、ちょっと待ってくれないか、頼む」
「さては主よ、足が立たぬな。情けないのう」リリスが鼻で笑う。
実はホウキから下りた途端、地面がふわふわしているように感じて足元がおぼつかないのだ。
理一郎は高校生の頃、遠泳をしたことがある。二時間ほど泳いで陸に上がった時、同じような感覚に囚われた。今は年頃の男子だから女子の前で格好も付けたいが、それどころではなかった。
「慣れないとそうなる人もいるよ。じゃあ、ちょっと休憩しようか」
アリアがにっこり笑った。
理一郎は古代文字の刻まれていない石材を探し、腰を下ろす。
辺りの森は鬱蒼としていて、日光が木々の間からまだら模様を地面に描いている。教導クエストで行った常闇の森より湿度が低く、樹種も異なり巨木が多い。鳥の鳴き声や昆虫の羽音も聞こえるが、どこか不自然な静けさも感じられた。
「同じ森でも様相が違うのだな」
「この一帯が魔力だまりだからかな。育つ木の種類が限られるんだって。でもね、肉食の植物系魔物が多いの。待ち伏せしたり、罠を仕掛けていたりするから気をつけてね」
「注意しよう」理一郎がうなずいて腰を上げた。「もう大丈夫だ。行こう」
アリアがうなずき、二人は遺跡の回りを探索しはじめた。
「この建造物は、なぜ未完成なのだろう」
「諸説あるけど、いまだに解明されてないの」
足元を確認しながら、散乱した石材の間を縫うように歩いた。石材には苔が生え、光る文字が刻まれた物もある。未完成の神殿。その背後にあるだろう物語が、理一郎の科学者としての好奇心を刺激した。一つの苔むした石材に近づき、青く光る文字に手を伸ばす。
「触らないで!」
アリアの警告に、あわてて手を引っ込めた。
「ここの遺跡は目的も用途もまだわかっていない。その文字も解読されていないし、どんな影響があるかわからないから危険なの」
理一郎は黙ってうなずき、青く光る文字に見入った。
「……どんな意味があるのだろう」
「古代魔法に関係してるって言われてるけど、詳しくはわかってない。いつかは調べたいと思ってるんだ」
アリアが説明すると、リリスが肩に現れた。
「面白い文字よのう。古代魔法言語の一種ぢゃろうて」
「古代魔法言語?」
「魔法を記述するためにかつて使われていた文字の総称ぢゃ。この文字は表意文字でも表音文字でもない。一つの文字がある現象や状態、あるいはそれらの一部を記述しておる。いわば文字の一つひとつが数式の一部のようなものぢゃ」
「なぜそんなことを知っている」
「お主の部屋の本棚に研究書があったぢゃろ」
「知らん。読んだのか」
「妾は情報の悪魔だからのう。新たな情報がないと、腹が減って仕方がないのぢゃ」
「石の文字が読めるか?」
「何らかの魔法構成の一部ぢゃろうが、何せパーツぢゃからの。こうバラバラでは全体像は見えんわ」
二号遺跡の周囲を一回りしたが、目当ての黒蝶蘭は見つからない。
「エリーゼさんは群生地があるって言ってたのにね」
「探索範囲を広げよう」
二人は遺跡周辺の森に入っていった。なんとなくだが、普通の森とは異なる雰囲気を感じた。木々の間から漏れる光が少なく、周囲は薄暗い。
「この辺りは魔力の流れが不安定ね」
アリアが周囲を警戒しながら言ったその時――。
突然、サーッという音とともに頭上から紫色の蔓が降ってきた。
「ヴェノムバイン!」アリアが叫んだ。「触れないで! 毒があるの!」
理一郎は反射的に身をかわす。だがかわした先にも別の蔓が垂れてきて、腕に絡みつこうとする。見上げると、大木から伸びた枝に無数の紫色の蔓が絡まり、うねうねと蠢いている。
「結界を張るね! できるだけそばに来て」
理一郎が横に並ぶと、アリアは詠唱した。
「わたしは、拒む!」
淡い青色の光球が二人を囲み、蔓を遮った。
「さぁ、急いで向こうへ」
アリアが理一郎の手を引いて、毒蔓が寄生している大木の下から走り出た。よく見ると、地面には無数の白骨が散らばっていた。蔓が一斉に頭上から落ちてくるが、結界はアリアと一緒に移動するので、二人には接触できない。
二人は警戒しながら、さらに森に踏み入っていった。
しばらく進むと、今度は異様に甘い香りが漂ってきた。あまりにも濃密な匂いに頭がクラクラしてくる。
「この臭いは……」アリアが警戒の表情を浮かべた。「ラフレシア・ディアボリカ」
アリアが獣道の先の地面を指さす。そこに巨大な赤黒い花弁が広がっていた。
「口と鼻を押さえて」アリアがハンカチを理一郎に渡す。「悪魔の大花よ」
直径二メートルを超える花の中央には深い穴が口を開け、暗紅色の液体が底に溜まっていた。その液体は規則的なリズムでかすかに揺れながら、甘美な香りを放っている。熟した果実と花蜜を混ぜたような芳香で、風に乗って森の中に広がっていく。
「この香りで幻覚を見せて、生き物の判断力を鈍らせるの」
香りに誘われた森ネズミが、ふらつきながら花へ近づいた。花弁へ足をかけた瞬間、油を塗ったような表面を滑り、中央の消化孔へ落ちる。小さな水音の後、もがく影は、消化液の強力なタンパク質分解酵素によって、小さな泡に包まれながら見る間に溶けてしまった。
「うっかり落ちたら、あっという間に足が溶けちゃうから気をつけて」
二人はラフレシアを大きく迂回し、さらに先へ進む。
* * *
だが、二時間ほど歩き回っても、黒蝶蘭は見つけられなかった。
「さすがに疲れたね」
「いったん遺跡に戻ろう。あそこのほうが開けていて安全そうだ」
二人は二号遺跡の石材に腰かけ、休憩した。日もだいぶ高くなり、昼時を告げていた。
アリアはリュックから包みを取り出した。
「お弁当、つくってきたんだ。食べよう」
彼女が差し出したのは、色とりどりの野菜とチーズを挟んだサンドイッチだった。
「感謝する。朝から大変だったな」
「簡単なものだよ」アリアが照れる。「口に合うといいな」
元の世界では理一郎は小食で、特に食にこだわりもなく、カップラーメンやらレトルトカレーやらが主食だった。人間らしい食べ物と呼べるものは、たまに立ち寄る小さな居酒屋で出されるつまみくらいのものだった。
だが、異世界に召喚されてからは、体が若返ったせいもあり、とにかく腹が減る。しかもアリアのごはんも、ギルドの食堂のごはんも、とても美味しい。もりもり食べる感覚を取り戻していた。
「美味い」一口ほおばって思わず口に出る。「飯が美味いのは本当にありがたい。美味いものを食べると幸せな気分になることを、こっちに来て久しぶりに思い出した」
「大げさだな、理一郎くんは」アリアは平静を装うが、内心のうれしさが口元の緩みに現れていた。
食事を終えて紅茶を飲みながら、二人は午後をどうするか話し合った。
「別の遺跡に行ってみるか? 一番近いのは五号遺跡で、二キロぐらいの距離だな」
理一郎が地図を広げながら言う。
「黒蝶蘭は魔力を栄養にするんだよね。魔力は、この遺跡の回りが一番濃いんだけどな」
「遺跡の中に溜まっているということはないだろうか?」
その言葉にアリアが目を輝かせた。
「そうかも! 中を探してみよう」
* * *
二人は外壁のない場所から二号遺跡内部に入り、奥へと向かう。
辺りの闇が濃くなった頃、アリアが突然立ち止まった。
「あそこ!」
遺跡の壁に沿って、紫色の微光が幻想的に仄かに明るんでいた。
理一郎が小型のランタンをともすと、漆黒の蘭の群生が浮かび上がった。
「見つけた!」アリアが喜びの声を上げた。「黒蝶蘭だよ! こんなにたくさん!」
光さえ呑み込むような漆黒の花弁。その縁だけがかすかに紫を帯び、闇の中に妖しい美しさを浮かび上がらせていた。花弁が黒すぎるのと縁取りの明るさがわずかすぎたので、遺跡の周囲を回った時には気がつかなかったのだ。
「やったね」アリアが満面の笑みで言った。
「崩れかけとは言え、こんな石の床によく根が張れるものだな」
もう少し手元を明るくしようと、アリアが指先に青白い光球を灯した。だが、魔法の光はすぐに弱々しくゆらぎ、消えてしまう。
「あれ?」
もう一度試みても、光球は花の手前で吸いこまれるように消えた。
「魔法が効かないのか」
「うん」とアリアが手のひらを開いて閉じる。「文献では知ってたんだけどね。一輪二輪なら気にならない程度の吸収量なのに、群生地だと……」
「予想と違ったか」
「やっぱり本で読むのと実体験とは違うんだね」
アリアが感心したように花を見渡す。
理一郎は石床にしゃがみこみ、ランタンを花の根元に近づけた。
「魔力を持たない俺なら、影響を受けないだろう」
「あ、そうか。じゃあ採取は理一郎くんに任せる。わたしはランタンで手元を照らしながら、周りを警戒するね」
二人は慎重に近づき、採取作業を始めた。
「茎を手で折らないように、根を傷めないように、だったな」
「そうそう、傷つけると価値が下がるから丁寧にね。それと採りきらないように、三本に一本は残すこと」
「理解した」
理一郎は手袋を外し、素手で茎を支える。小さな鎌で根元を切り、花を傷めないよう特殊な保存瓶へ移していく。漆黒の花弁は触れるとわずかにひんやりとしていて、指先の熱まで吸われているような錯覚を覚えた。
遺跡内の通路は意外と曲がりくねっており、奥へ行くほど魔力濃度が高いらしく、花弁の縁の明るさも増していった。
その一方でアリアには、空気中の魔力が黒蝶蘭へ吸い取られていくのが感じられるようだった。時折手のひらを開いて感覚を確かめ、軽く首を振っている。
だが、作業は順調に進み、保存瓶には数十本の黒蝶蘭が集まった。
「これだけあれば目標数は十分に達成だな」
「そうね。……あれ?」
通路の壁際に咲く黒蝶蘭を採取しながら、二人はいつの間にか遺跡の最奥部に来ていた。広間のようなやや開けた空間で、外の光が届いていない。ランタンを消せば真っ暗だ。ここにも黒蝶蘭が咲いていたが、そのうちの一輪に一匹の蝶がとまっていた。
その蝶はまるで宝石細工を思わせる翅を持っていた。
緑と青を基調に、赤やオレンジ、紫といった色彩が複雑に織り込まれ、細かな模様を描いている。ランタンの光に透かすと、まるでステンドグラスのようだった。胴体は細長く、構造色の深い金緑色に輝き、触角はまるで糸のように繊細だ。
「これは見事だ――」理一郎はもっとよく観察しようと、無意識に手を伸ばした。
「あ! ダメ!」アリアが大声で止める。
気配を察した蝶は、極彩色の翅をひらひらさせて飛び立った。
その去り際、刃物のように薄く鋭い翅が、理一郎の人差し指の腹を一文字に切った。
切られた箇所に赤い線が延びる。すぐに血液があふれ出し、表面張力で丸くなった。
すると、さっきの蝶が指に戻り、血だまりに口吻を伸ばし、血を吸い始めた。
「ステンドアゲハ! 吸血種よ!」アリアがまた大声を上げた。
理一郎は驚いて手を振り、蝶を払い落とした。
しかし、今度は手のひらが翅で切られる。
素手で払うと危ない。理一郎は手袋をはめながら、落ちた蝶をブーツで踏み潰す。
それが合図だったかのように、突然、暗闇の中からステンドアゲハの大群が現れた。
ランタンの明かりで翅をきらきらさせながら、二人に向かって飛来してくる。
「結界を頼む!」理一郎が叫んだ。
「わたしは、拒む!」アリアが即座に唱える。
青い光の壁が二人を囲み、蝶の大群が結界にぶつかっては跳ね返る。
その様子は幻想的で美しくすらあるが、見かけとは裏腹に厄介な昆虫型魔物だ。
「こいつら血を吸うのか?」
「うん。それに群れで襲ってくるから、獲物はミイラにされちゃう」
答えるアリアの声が張り詰めている。光の壁を維持する手のひらが、小さくふるえていた。
「結界はどれぐらい持ちそうだ?」
「ごめん……ここ、黒蝶蘭の群生地だから。普段の半分ももたない」
「黒蝶蘭に魔力を吸われているのか」
「そう。結界に流したそばから持っていかれる感じ。回復も追いつかない」
「帰りのホウキ分は残せそうか」
「今のままじゃ、たぶん無理」
理一郎は思案した。
小さい魔物に群がられるのは、今回が初めてだ。どう倒せばよいのかわからない。
「火焔魔法のような範囲攻撃があればいいのだが――」
「お主は、昆虫の翅にも共振特性があることを知らんのか?」
リリスが肩に現れて言った。
その一言で、策が浮かんだ。
「ああ、そうか。倒す必要はない。飛べなくすればいい」
中指でメガネを押し上げてゾーンに入る。
ẍ + γẋ + ω₀²x = (F₀/m)cos(ωt)
強制振動の方程式だ。
ω_0は蝶の翅がもともと持つ固有角振動数、mは翅の振動に関与する有効質量、γは空気抵抗や内部摩擦による減衰、F_0は外から加える力の大きさ。
点滅しているのは、右辺のF_0とω。
F_0は理力によって翅へ加える周期的外力の大きさだ。ここには、飛行制御を崩すために必要な最小限の値を与える。
ωは、その力を加える角振動数だ。これを翅が本来持つ固有角振動数ω_0へ近づければ、弱い力でも揺れを効率的に増幅できる。
それが共振現象だ。
目的は、最小限の外力で、正常な羽ばたきができなくなるまで振幅を増大させること。
問題は、ステンドアゲハの翅がそれぞれ微妙に異なる固有角振動数ω_0を持ち、理一郎一人で観測するのは不可能なことだった。
「リリス、あいつらの固有角振動数を、一匹ずつ観測できるか?」
「もちろんぢゃ」
リリスは場の情報を読み取るだけの作業には、もとから対価を要求しない。
リリスが目を紅く光らせ、蝶の翅の固有角振動数を次々と読み取っていく。
「観測は終わった。だが、これで終わりではないぢゃろ」
「観測した固有角振動数ω_0に応じて、外力の角振動数ωを一匹ごとに切り替えてくれ。外力の大きさF_0自体は必要最小限でいい。飛べなくなったら次だ」
「能動的な現象改変ぢゃの。ならば、それなりの対価をいただこうかの――」
リリスは舌なめずりをする。
「いいのか? 俺がここでミイラになったら、もう俺から情報を得られなくなるが?」
一瞬の間があったが、リリスが折れた。
「……ふん。仕方ないのう。今回は貸しぢゃ。骨が折れるのう」
「手は抜くなよ」
リリスに釘を刺し、「あと少しだ」とアリアを励ます。
「うん。がんばる」
アリアの額に汗が浮いていた。結界の青い光が、わずかに揺らぐ。
「リリス、その理を、操れ!」
結界を中心に、空気が細かく震えた。
その震えが、目まぐるしく調子を変えていく。リリスが、一匹ごとの翅に最も効く振動を順番に与えているのだ。
蝶たちの翅が、自らの羽ばたきでは抑えられないほど激しく震えはじめた。
小さな外力であっても、共振によって振幅は正常な羽ばたきの範囲を超える。
やがて飛行を制御できなくなった蝶たちは、地面へぱらぱらと落ちていった。
「もう大丈夫だ」
理一郎の言葉に、アリアは結界を解除し、息を整えた。
「君が結界を維持してくれたおかげだ。助かった」
「わたしは、理一郎くんが何とかしてくれるって信じてただけ。でも、どうやったの?」
「翅が一往復するたび、その動きを後押しする向きに、次の振動を加えた。小さな揺れでも、同じタイミングで重ね続ければ、どんどん大きくなる。共振という現象だ」
「それを、一匹ずつ?」
「ああ。翅が最も揺れやすい速さは、一匹ずつ微妙に違う。だからリリスに、外から加える振動を、それぞれの翅へ合わせてもらった」
「さっぱりわからないわ」アリアが笑顔を見せた。「でも、さすが理一郎くん」
「飛べなくはしたが、死んだわけではない。だから、今のうちに外へ出よう」
「う、うん……」
アリアは、地面に落ちている蝶に目をやっている。
「どうした?」
「翅はきれいなままなんだね」
「翅を破断させたわけではないからな」
「あのね、ステンドアゲハって、翅も胴体もけっこう貴重なの」
「高く売れるということか」
「うん。それに、研究に使えるといいなぁ、なんて――」
「生きたままでもいいのか?」
「それだと学都に持ち込めない。でも傷つけちゃうといろいろもったいない」
「難問だな――」
時間がたてば、また飛んで襲ってくる。今のうちになんとかしなければならない。
理一郎が考えていると、シュレディンガーの妖猫が現れ、落ちた蝶を観察しはじめた。
「ネコ、お前の力を借りられないか? こいつらが死ぬ結果を選べるだろう」
「ニャア〈それはとっても大きな変化だニャ。対価も大きいニャ。かなりの確率でキミの死が確定するニャ。それでもいいニャ?〉」
「この子の力を使うと、命の危険があるんでしょ?」アリアが心配そうに言った。
──こいつは本当に使えないやつだ。
理一郎は考えを巡らし、交渉してみることにした。
「そもそもお前は本当に〝シュレディンガーの猫〟なのか? 今のところ、お前が自称しているだけだ。実証してもらう必要がある」
猫はしばらく黙り込み、やがて尾を振った。
「ニャア〈今回だけニャ〉」
猫の体が青く光り、光の波紋が広がる。
一瞬にして、すべての蝶の死が確定し、一斉に動きを止める。
「すごい……」アリアが息を呑んだ。
「ニャア〈どうニャ? 信じたかニャ〉」
「ああ、確かにな。お前はシュレディンガーの猫だ」
共振で落とした蝶の翅はどれも傷一つなく、ランタンの光に照らされて宝石のように輝いている。
「いっぱいあるね。少し先生にも分けてあげたいな。いい?」
「かまわない。だが、まず花からだ」
二人は保存瓶いっぱいに黒蝶蘭を採取すると、次に落ちているステンドアゲハも慎重に収集した。
* * *
太陽が大きく傾いた頃、アリアの魔力も回復し、二人はホウキで遺跡群を後にした。
「ちょっと危なかったね」
「ああ。まったく、こっちの世界は命に関わる危険だらけだ」
「理一郎くん……」アリアが心配そうに振り向いた。「依頼、また一緒に行くよね?」
「もちろん行く。何度でも行く」理一郎が真剣にうなずく。「だからアリア、頼むから前を見て飛んでくれ」
「よかった」
アリアが安心したように前を向いた。
やがて学都が遠くに見えてきた。夕日に照らされた街のところどころに明かりがともりはじめている。
「もう日が暮れちゃう。ちょっと急ぐね。今夜はリヴィアたちと勉強会なの」
「あの三人とか?」
「うん。あれから仲良くなったの」
ホウキが加速したので、理一郎はあわててアリアの腰に回した腕に力を入れた。自然とアリアの背後に密着する形になる。
「アリア、ゆっくり行こう。落ちそうだ」
「大丈夫、大丈夫」アリアは平然と言う。「しっかりつかまってて」
背中ごしに伝わる体温と、夕日に染まる髪。アリアとの距離が、一日を経て、また少し近くなった気がした。
――まあ、こういう一日も、悪くない。
二人を乗せたホウキは、明かりのともりはじめた学都へと、まっすぐ降りていった。




