水魔法少女リヴィア
どのくらい眠っていただろうか。理一郎は誰かに肩を揺すられた。
「おーい、起きて! 理一郎さん、起きて!」
明るく元気な声が聞こえる。寝ぼけ眼のぼんやりした視界に水色の髪が映った。
「あ、起きた!」
リヴィアだった。膝を突き、左手で髪を押さえながら、理一郎の顔をのぞき込んでいる。
「まさかと思ったけど、こんな所でよく寝られるわね」
リヴィアの顔は理一郎からほんの数センチの距離にあった。淡い花の香りが鼻をくすぐり、彼女の息遣いまで感じられる。青い瞳の中に自分の顔があると気づいた時、完全に目が覚めた。
「うわっ!」
理一郎は冷静な理一郎にしては珍しく大声を上げた。
リヴィアはその声にびっくりして身を起こそうとするが、あわてていたので体を支えていた右手が滑り、理一郎に覆いかぶさる格好になった。
ぽふん。
理一郎の顔が、リヴィアの豊かな胸に埋もれる。
「きゃっ!」
リヴィアが小さく悲鳴を上げて身を起こそうとする。理一郎もあわててリヴィアの体を押し上げようと両手を伸ばす。だが、とっさのことで手の位置を確認する余裕もなく――。
びっくりするほどやわらかい感触が手のひらに伝わってきた。
「あっ、すまない!」
理一郎は急いで手をどけ、体をずらして膝立ちになった。頬が火照っているので、顔が真っ赤になっているであろうことは、自分でもわかった。
元の世界の理一郎であれば、リヴイアの年齢はストライクゾーンから大きく外れている。だが、今は心身ともに十代男子の反応を素直に示してしまう。精神年齢が肉体年齢に完全に引っ張られているのだ。
「も、もう! びっくりしたじゃない!」
リヴィアも顔を赤くして制服の前を正しながら言った。だが、怒っているというよりは照れているようで、上目遣いに理一郎を見ている。
「本当にすまなかった。断じて故意ではない」
「わ、わかってるわよ、わざとじゃないのは……でも……」
リヴィアは頬を染めたまま、もじもじと指をもてあそんだ。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。私、そんなに……変?」
「いや、そういうことではなくて。ただ、目を開けたら、その……急に女子の顔があったものだから。……慣れていないんだ」
「慣れてないって?」
「女性との……近い距離に」
理一郎の言葉に、リヴィアの表情が少し変わった。からかうような笑みが浮かぶ。
「あら、意外だわ。もっと経験豊富だと思ってたのに」
「そんなことはない。研究一筋だったからな」
「ふーん?」リヴィアは理一郎を座らせると、その隣に横座りに腰を下ろした。「それにしても、こんな所で寝てたなんて。そんなに気持ちよかったの?」
リヴィアは周囲を見回した。確かに木陰は涼しく、芝生も柔らかで、昼寝には絶好の場所のように思えた。
「アーシャと話をした後に、ちょっと横になったら寝てしまった」
「アーシャ? ここにいたんだ」
「ああ、さっきまでな」
約束だから、彼女がお菓子を食べていたことは黙っていた。
リヴィアは興味深そうに理一郎を見つめる。
「そうなの? アーシャ、口下手でしょ。なにを話したの?」
「いろいろだ。彼女の家の話とか……」
「家の話? あー、ヴォホン家のプレッシャーの話ね。あの子、いつも悩んでるのよ。お父さまが厳しくて」
リヴィアの表情が少し曇った。
「アーシャは優しい子なんだけど、自分に自信がなくて。でも、理一郎さんに話したってことは、心を開いたのね」
「そうなのか?」
「ええ。あの子、普段は家の話なんてしないもの。理一郎さんのこと、信頼したんだわ」
リヴィアはそう言うと、芝生に手をつき、ゆっくりと横になった。
「うん、確かに気持ちいいわね、ここ」
彼女は大きく伸びをして、青空を見上げた。理一郎も再び横になる。二人並んで、空を見ている格好だ。
「そういえば、リヴィアは侯爵令嬢だそうだな」
「あー、アーシャから聞いた?」
「いや、アリアが言ってた」
「意外かしら?」
「ああ。高位貴族の令嬢には見えなかったからな」
「あら。これでもプラッツ侯爵家の長女でしてよ」
リヴィアは芝居がかった調子で言ったが、その声には少し苦い響きが混じっていた。
「アカデミアにいる間はね、ただの生徒でいたいの。うるさい礼儀も、面倒な社交からも解放されて」
「貴族は貴族で悩みがあるのだな?」
「まあね。自由にできるのは今だけだから。だからこそ――」リヴィアは理一郎のほうを向いた。「今を大切にしたいの。今しかできないこと、今しか会えない人たち……」
彼女の視線が理一郎と重なった。言葉にされなかった何かが、その視線にこめられていた。
「あ、そうそう!」
リヴィアが急に話題を変える。
「東市場の火災の時のこと、覚えてる?」
「ああ、君が消火活動を手伝ってくれたな」
「そうそう! あの時も理一郎さんの魔法にはびっくりしたわ。炎が止まったのよね?」
「正確には、燃焼反応の速度を遅くした」
「すごいわ! 化学反応を制御するなんて、聞いたことないもの!」
リヴィアは理一郎のほうに体を向け、興奮気味に話し続けた。白いブラウスの中で、胸が揺れる。
「私の水魔法じゃ全然効かなかったのに、理一郎さんの物理学魔法だと一瞬で……。ほんとに、どんな仕組みなの?」
「物理法則のパラメーターを書き換えている、と考えている。だが、詳しい機序はまだ解明できていない」
「パラメーターを書き換える?」
「例えば、東市場では燃焼反応の温度パラメーターを操作した。温度が下がれば反応速度も遅くなる」
「へえ……そういう魔法なんだ」リヴィアは感心したようにうなずいた。「じゃあ、ひょっとして、私の水魔法も、そのパラメーターとかっていうのを操作してるかもしれないのね?」
「可能性は高い。水分子の状態や挙動を制御しているのだろう」
「なるほどね……」
リヴィアはまた仰向けに戻り、考え込むように空を見上げた。
「理一郎さんって、ほんとに変わった魔法使いよね。少なくとも、私たち学生は、どうすれば発動できるかを覚えるだけで精いっぱいよ。『なぜ効くのか』まで考える人はあまりいないわ」
「そうなのか?」
「ええ。『魔力を込めて呪文を唱えたり、魔法陣を発動させたりすれば魔法が発動する』、普通はそれで十分だもの。でも理一郎さんは違う。『なぜ』を追求しようとする。それって、すごく……魅力的」
最後の言葉は小さく、少し照れくさそうだった。
「そうか? 俺にとっては当然のことなんだが」
「だから理一郎さんは特別なのよ……」
リヴィアはそう言うと、しばらく言葉を呑み込んだ。それから、少し早口で尋ねた。
「そういえば、アリアさんの家に下宿してるのよね?」
「ああ」
「いいな……」
リヴィアの声に、微妙な響きが混じった。
「二人きりで暮らしてるなんて、うらやましいわ」
「それは少し誤謬がある。単に部屋を貸してもらっているだけだ……」
「でも二人暮らしには間違いないでしょ? アリアさんのほかには誰もいない。親も兄弟も、執事もメイドも、うるさいことを言う人は誰もいない……」
リヴィアは空を見上げながら、複雑な表情を浮かべた。
「私なんて実家だと、朝から晩まで『令嬢らしくしなさい』ってお小言ばかり……」
「そうか」
「理一郎さんは自由でいいわよ。好きな時間に起きて、好きな物を食べて……」リヴィアは横目で理一郎を見た。「アリアさんと一緒にお料理したりもするの?」
「たまに手伝うことはあるが……」
「へえ……」
リヴィアの声に、嫉妬のような色が混じる。
「アリアさんって、お料理上手よね。きっと美味しい手料理を作ってもらってるんだわ」
「まあ、そうだな」
「いいなあ……私も誰かのために手料理を作ってみたい」
そう言いながら、リヴィアはちらりと理一郎を見た。だが、理一郎はその視線の意味には気づかない。
「君も料理はするのか?」
「いちおうはできるけど……寮だと設備が限られてるし、実家にいた頃は使用人がやってくれてたから、あんまり機会がなくて」
リヴィアは少し寂しそうな表情を見せた。
「理一郎さんとアリアさんがうらやましいわ。そんなふうに自然に一緒に暮らせて……」
「別に特別なことではない。ただのルームシェアだ」
「そうかもしれないけど……」
リヴィアは芝生をいじりながら小さくつぶやいた。
「でも、毎日顔を合わせてるのよね? 朝の『おはよう』から夜の『おやすみ』まで……」
その言葉には、明らかに羨望の気持ちが込められていた。理一郎は少し困惑した。
「君はそういうのに憧れるのか?」
「憧れるっていうか……」リヴィアは頬を染めながら答えた。「普通の生活に憧れるのよ。貴族の娘として生まれると、いろいろ制約があって……結局は家の道具だもの……ほんとは王立アカデミアに通うことすら反対されてたの」
「そうなのか?」
「ええ。『侯爵家の娘には他に身につけるべき教養がある』って。でも私、どうしても自分の力で生きていけるだけの能力と自信を身につけたくて……、かなり無理を通してここに来たの」
リヴィアは苦笑いを浮かべる。
「卒業したら、きっと顔も合わせたことのない人に嫁がされる」
理一郎はリヴィアの表情を見て、彼女が抱えている複雑な想いを理解した。
「自由になりたいのか?」
「そうね……でも……」リヴィアは困ったような表情を浮かべた。「家のことを考えると勝手なことはできない。結局は家の期待に応えるしかないんだわ」
理一郎は少し考えてから言った。
「『未来は予測できない。だが、いくつもの未来を創り出すことはできる』」
「……?」
「デニス・ガボールの言葉だ」
ガボールは、それまで存在しなかったホログラフィー技術を発明し、ノーベル物理学賞を受賞した物理学者だ。
「未来は初めから一つに決まっているわけではなく、人間の選択や行動によって、新しい可能性を作ることができるという意味だ」
「でも、私の将来は、家がもう決めているわ」
「現時点の条件では、そう見えるだけだ。未来の解は、まだ確定していない」
「解……?」
「君は家族の反対を押し切ってアカデミアへ来た。ここで知識を得て、魔法の力を磨き、自分で生きられるだけの能力を身につけようとしている。それだけでも、入学前とは条件が変わっている」
「条件が変われば……未来も変わる?」
「少なくとも、選べる解は増える。君の未来を決める変数は、家の意向だけではない。君自身の選択も、その一つだ」
リヴィアは、確かめるように繰り返した。
「私にも、まだ選べる……」
「ああ。君はそのために、ここへ来たのではないか?」
「ありがとう……。私にも選択肢があるって言ってくれたの、理一郎さんが初めてだわ」
彼女の声は少し震えていた。
――みんな『家のため』『名誉のため』って言うけど、彼は私自身を見てくれてる……。
リヴィアの頬が紅潮した。彼女は理一郎から視線をそらせずにいた。
「私……あなたと話してると、自分が何者なのかを忘れられる。プラッツ家の娘でも、政略結婚の道具でもなく、ただのリヴィアでいられる……」
リヴィアは両手を広げ、大きく伸びをした。
「そんなふうに思わせてくれるのは、理一郎さんだけよ。こうして話してると、なんだか不思議な気分になるわ」
「どういう意味だ?」
「うーん……安心するっていうか、落ち着くっていうか……」
リヴィアの声が次第に小さくなっていく。
「理一郎さんといると、時間がゆっくり流れる感じがする……」
彼女の呼吸が次第に深くなっていく。暖かい午後の陽ざしと、心地よい風、そして理一郎との会話でリラックスし、眠気を誘われたらしい。
「リヴィア?」
理一郎が声をかけたが、返事がない。横を見ると、リヴィアは目を閉じて、規則正しい寝息を立てている。
――こんな短時間で眠ってしまうとは。よほど疲れていたのか。
理一郎も再び空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく。平和で穏やかな時間だった。
またうとうとしはじめた時、リヴィアが寝返りを打とうと、もぞもぞと動き出した。
そして――。
「んー……」
リヴィアが理一郎のほうに寝返りを打ち、そのまま彼の腕に抱きついてきた。
理一郎は驚いたが、リヴィアを起こさないよう声を抑えた。だが、リヴィアの温かい体温とやわらかな胸の感触が腕に伝わってくる。彼女の水色の髪が理一郎の頬にかかり、甘い香りが鼻をくすぐった。
「おい……リヴィア……」
小声で呼びかけるが、リヴィアは夢の中にいるようで気づかない。それどころか、さらに理一郎に身を寄せてくる。
「んー……あったかい……」
寝言まで言っている。理一郎は困ってしまった。下手に動けばリヴィアを起こしてしまうし、かといってこのままでは……。
理一郎の顔がどんどん赤くなっていく。元の世界では女性とこんなに密着したことなどほとんどなかった。心臓の鼓動が激しくなり、どうしていいかわからない。
「リヴィア……起きてくれ……」
今度は少し大きめの声で呼びかけた。
「んー?」
リヴィアがようやく目を開けた。最初は寝ぼけていたが、自分が理一郎に抱きついていることに気づくと――。
「きゃーっ!」
今度は本当に大きな悲鳴を上げて、あわてて身を離して正座する。
「ご、ごめんなさい! 寝てる間に……!」
リヴィアの顔は真っ赤になっていた。
「いや、大丈夫だ。君が寝返りを打っただけだから」
「でも……恥ずかしい……」
リヴィアは両手で顔を覆った。指の隙間から理一郎を見ている。
「あの……変なこと、言ってなかった? 私、寝言の癖があるらしく……」
「『あったかい』と言っていたが……」
「うわあああ!」
リヴィアはさらに顔を赤くして、芝生に突っ伏した。
「恥ずかしくて死にそう……」
「気にすることはない。誰にでもあることだ……たぶん」
「でも……」
リヴィアはもじもじと身をよじった。そして、恐る恐る理一郎を見上げる。
「はしたない子だって思った?」
「はしたない、か」
「私が……抱きついちゃったこと……」
確かに驚いたし、動揺もした。だが、彼女をそんなふうに見る気持ちはなかった。
理一郎は首を振る。
その仕草に、リヴィアの表情が明るくなった。
「ほんと?」
「ああ」
「よかった……」
リヴィアは安堵の息を吐いた。そして、少し恥ずかしそうに微笑む。
「あのね、理一郎さん……私……」
彼女が何かを言いかけた時、遠くから鐘の音が聞こえてきた。午後の授業の予鈴だった。
「あ! もうこんな時間!」
リヴィアはあわてて立ち上がった。
「授業に遅れちゃう!」
彼女は制服についた芝生を払いながら、慌ただしく準備を始めた。
「理一郎さんも急いだほうがいいわよ」
「ああ、そうだな」
理一郎も立ち上がり、服を整えた。
「あの……」
リヴィアが振り返る。
「楽しい……時間だった。こんなふうにのんびり話したの、久しぶりだったから」
「そうか」
「今度は私がお茶に誘うわ。断らないでね」
「予定が合えばな」
「それで十分。約束よ」
リヴィアの顔がぱあっと輝いた。
「じゃあ……また今度ね!」
そう言うと、リヴィアは小走りで駆けていく。だが、数歩行ったところで振り返ると、恥ずかしそうに手を振った。
「またね!」
その後ろ姿を見送りながら、理一郎は小さく微笑んだ。
――意外な一面があるんだな。
腕のあたりに、まだ彼女のぬくもりが残っているような気がした。
理一郎は小さく首を振り、午後の聴講のため庭園を後にした。
この〝女難の日〟が、まだ終わっていないことを、もう一人の少女が待っていることを、このときの理一郎は知らない。




