火魔法少女アーシャ
ラランドランドララとの研究議論を終えた理一郎は、昼休みの後半を魔法院の庭で過ごすことにした。
昼休みは二時間と長く、午後の聴講まではまだ時間があったし、天気が良いので散策にはうってつけだった。
理一郎は足の向くままに庭園を歩きはじめる。
魔法院の庭は広大だった。整備された遊歩道の周囲には色とりどりの草花が植えられ、石造りの彫像や小さな噴水が点在している。王国随一の学び舎にふさわしい、優雅な空間だ。そのあちらこちらで、学生たちがベンチでおしゃべりしたり、芝生で昼食をとったり、さまざまに時間を過ごしていた。
陽光に輝く花壇を眺めながら歩いていると、薔薇の甘い香りが鼻をくすぐる。理一郎は歩みを緩め、深呼吸をした。元の世界では味わうことのなかった穏やかな時間だった。
そのまま散策を続けているうちに、いつの間にか庭園の奥深くまで迷い込んでしまった。
遊歩道から外れ、木々に囲まれた人けのない一画にたどり着く。太い幹を持つ古い樹木が天然の屋根となり、適度な木陰が広がっていた。ここまで来ると学生の声も遠くなり、鳥のさえずりと葉擦れの音だけが聞こえてくる。
そこで理一郎は、思いがけない光景を目にした。
木陰の芝生に広げられたシートに、少女が一人、理一郎に背を向けるようにして座っていた。つばの広い魔女帽の下から、鮮やかな紅髪がこぼれている。
アーシャだ。
シートの上には色とりどりの甘いお菓子――マカロン、ケーキ、クッキー、チョコレート、キャンディー、パイ、タルトなど――がところ狭しと並べられている。その数は一人で食べるには明らかに多すぎるように思えた。
――まるで小さな菓子屋だな。
アーシャは周囲を気にする様子もなく、夢中になってお菓子を口に運んでいる。リスのように頬を膨らませ、幸せそうな表情を浮かべていた。
マカロンを一口で食べ、次にチョコレートケーキを大きくほおばり、続いてクッキーを三枚重ねて口に運ぶ。その食べっぷりは、内気そうに見えた彼女からは想像できないほど、実に豪快だった。
つばの広い魔女帽が視界を遮っているのか、斜め後ろから近づく理一郎に、アーシャはまだ気づかない。
と、その時、シートの向こう側に転がったチョコレート菓子を取ろうと、アーシャが四つん這いになって身を乗り出した。制服のスカートの中が見えそうになり、ふくよかな太ももの曲線もあらわになる。
――これは、まずい状況だ。
理一郎は咳払いをして自分の存在を知らせることにした。
「コホン」
「きゃっ!」
アーシャはびっくりして振り返り、理一郎の姿を認めるとあわてて姿勢を正した。顔が真っ赤になっている。口の周りにはチョコレートが少し付いていた。
「も、物部さん……!」
アーシャは急いでお菓子類をかき集めようとしたが、あまりのあわてぶりに手がもつれ、クッキーの缶を倒してしまう。コロコロと中身がシートの上に散らばった。
「あ、あの……これは……」
拾い集めようと身を乗り出したところでバランスを崩し、シートの上へ尻もちをついた。
アーシャは急いで起き上がろうとして、今度はせっかく片付けかけたバスケットをひっくり返してしまった。
そのあわてぶりがあまりにも可愛らしく、理一郎は口元がゆるむのを抑えきれなかった。
「別に咎めるつもりはない。昼食をとっているだけだろう?」
理一郎の落ち着いた声音に、アーシャは少しほっとした表情を見せた。
――やはり物部さんの声はすてきだ。
初めて声を聞いた時から、その知的で穏やかな話し方が気になっていた。
「そ、そうなんです! 昼食なんです!」アーシャは勢いよくうなずいた。「火魔法は燃費がすごく悪いんです。使うとすぐにお腹が空いちゃって……甘い物を食べると、魔力の戻りも早いので……」
言い訳しながらも、アーシャはせっせとお菓子を片付けている。だが、あまりに種類が多く、一向に片付かない。
「手伝おう」
理一郎はアーシャの向かい側に膝をついて、散らばったクッキーを拾いはじめた。
「あ、ありがとうございます……」
アーシャは感謝の気持ちと同時に、理一郎がこんなに近くにいることに心臓が高鳴るのを感じていた。
二人で片付けていると、自然と会話も生まれた。
「アーシャは火魔法が専門だったな」
「は、はい。でも、まだまだ未熟で……」
「いや、あのグラスランナー戦での火焔魔法は見事だった。あの高熱量をあれほど精密に制御できるとは」
アーシャの顔がさらに赤くなった。褒められることに慣れていないのだ。
「あ、あの……物部さんの物理学魔法のほうがすごいです。見たことのない魔法で……」
「俺の魔法はまだ理論が確立していない。君の火魔法のほうがよほど実践的だろう」
アーシャはもじもじと手をもてあそびながら答えた。
「わ、わたしの魔法なんて……リヴィアや他のみんなのほうがずっと上手で……父上もいつも、もっと頑張らなければいけないって……」
最後のほうで声が小さくなった。理一郎は敏感にその変化を察した。
「お父上は魔法使いなのか?」
「は、はい……」アーシャはうつむいた。「父は宮廷魔導士を務めています。ヴォホンは代々火魔法の家で……」
声の調子が徐々に重くなり、最後は消え入るように沈んだ。
――確か、こういうときは話をちゃんと聞いてやるのが良策だったはずだ。
精神年齢は若返ったが、知識は四十二年分ある。元の世界ではうまくできなかったが、歳の離れた学生を相手にした経験が、少しは役立つかもしれない。
「名家なのか。君への期待も大きいのだろうな」
「はい……」アーシャは膝の上で手を握りしめた。「父上は『ヴォホンの血を引く者として恥ずかしくない魔法使いになれ』といつもおっしゃって……でも、わたしは……」
アーシャの瞳が潤み、涙が今にもこぼれそうだった。
「プレッシャーを感じているのか?」
「はい……」小さくうなずく。「兄上はすでに宮廷魔導士の補佐官として働いていて、とても優秀なんです。わたしも同じように期待されているんですが……でも、人前だと緊張して、魔法もうまくできなくて……」
理一郎は少し考え、慎重に言葉を選んだ。
「『忍耐を持ち、何よりも自分を信じなければならない。自分には何かの才能があると信じなければならない』」
「……?」
アーシャが首をかしげる。
「マリー・キュリーという偉大な科学者の言葉だ。女性が科学を学ぶこと自体が困難だった時代に、自分の才能を信じて研究を続け、世界最高の賞を二度も受けた」
「自分の……才能を信じる……」
「君は、自分には火魔法の才能がないと思っているようだ。だが、それは観測事実に反する」
アーシャが驚いたように理一郎を見上げた。
「人前で緊張することと、火魔法の才能は別の問題だ。あの戦いで、君は高出力の炎を味方へ当てることなく制御した。あれは、誰にでもできることではない」
「でも、兄上やリヴィアに比べたら……」
「他人との比較は、君に才能があるかどうかの判定にはならない。少なくとも、俺が観測した君の魔法は見事だった。それは紛れもない事実だ」
「ほんとに……そう思ってくださるんですか?」
「ああ。だから、まず自分の才能を否定するのをやめるべきだ。改善すべき点があることと、才能がないことは同じではない」
アーシャの頬に一筋の涙が流れた。でも今度は悲しい涙ではなく、安堵の涙だった。
「ありがとうございます……リヴィアたちも励ましてくれるんですけど、そんなふうに言ってくださったの、物部さんが初めてです」
理一郎はハンカチを取り出してアーシャに差し出した。
「あ、すみません」
アーシャは涙を拭きながら、心の中で思った。
――物部さんって、最初は少し怖そうに見えたけれど、ほんとに優しい人なんだ。こんなにわたしの気持ちを理解してくれる……。
片付けを続けながら、理一郎は話題を変えた。
「リヴィアとミラとは長い付き合いなのか?」
「はい。三人とも同じ寮で……」アーシャは少し表情を明るくした。「リヴィアは積極的で、いつもわたしたちを引っ張ってくれるんです。落ち込んだときも励ましてくれて……」
「良い友人だな」
「はい。ミラも……ちょっと変わってるけど、優しいんです。無口だけど、実はとても思いやりがあって……」
「君たちの友情は見ていて微笑ましい」
その言葉にアーシャの頬がほんのり染まった。
「あ、あの……物部さんは、どうして魔法院に? 最初は学生じゃないって聞いたんですが……」
「研究のためだ。この世界の魔法理論を学び、俺の物理学魔法との関連性を調べている」
「研究……すごいです。わたしなんて、毎日の授業についていくのがやっとで……」
「学問に王道なしだ。地道な積み重ねが重要だろう。それに、君はまだ十六歳だ。これから成長する時間はいくらでもある」
アーシャは理一郎の言葉に勇気づけられた。
――こんなに自分を励ましてくれる人がいるなんて……。
「物部さんは……お優しいんですね」
「そんなことはない。ただ、頑張っている人間には報われてほしいだけだ」
その言葉にアーシャの胸がきゅんとした。
――物部さんはわたしを『頑張っている人』だと思ってくれているんだ……。
片付けが一段落すると、アーシャは遠慮がちに理一郎を見上げた。
「あの……も、もしよろしければ……」
彼女は残ったお菓子を小さな袋に分けて、理一郎に差し出した。
「お、お礼です。片付けを手伝ってくださったから……それに、お話を聞いてくださったから……」
「ありがたく受け取ろう」
理一郎が袋を受け取ると、アーシャはほっとした表情を見せた。
「あ、あの……このこと、内緒にしてくださいね」
彼女は恥ずかしそうに小声で付け加えた。「こんなにたくさんお菓子を食べているなんて……みんなに知られたら……」
「もちろんだ。誰にも言わない」
「ありがとうございます」
アーシャは深々と頭を下げた。それから、少し勇気を出して言った。
「あの……もし、また機会があったら……お話していただけませんか? 物部さんとお話していると、とても……安心するんです」
その言葉に理一郎は少し驚いた。彼女が自分からそんなことを言うとは思わなかった。
「ああ、機会があれば」
アーシャの顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとうございます!」それから少しもじもじして続けた。「今度は理一郎さんと呼んでよいですか?」
「かまわない」
「ありがとうございます! わたしのことはアーシャと呼んでくれたらうれしいです」
彼女は残りのお菓子と荷物を抱えて立ち上がった。
「それでは、理一郎さん、教室に戻ります。午後の授業もありますし……」
「ああ、気をつけて、アーシャ」
アーシャは三歩ほど歩いてから振り返ると、もう一度小さく頭を下げて去っていった。その足取りは弾むように軽やかだった。
その後ろ姿を見送りながら、理一郎は微笑んだ。
――素直で可愛らしい子だ。家の重圧に押し潰されず、自分の才能を見失わないでほしい
一方、教室へ向かうアーシャの足取りは、いつになく軽かった。
理一郎が断言してくれた言葉が、何度も胸の中によみがえる。
――君が優れた魔法を使ったという観測事実は変わらない。
家族から求められるばかりだった自分の力を、初めてきちんと見てもらえた気がした。
頬が自然と熱くなる。
まだ恋愛感情というほどではない。だが「ちょっと気になる人」から、「かなり気になる人」に昇格したのは確かだった。
――また、お話ししたいな……。
アーシャの後ろ姿を見送っていると、背後から声がした。
「あいつ、またドジ踏んでた?」
振り返ると、ギルドの書類袋を抱えたジルバウが立っていた。お使いでアカデミアに来ていたという。
「アーシャとは今でも親しいのか?」
「じいちゃんが別荘の管理もしていてね、アーシャが村に来ている間は遊んでやってたんだ。昔からどんくさくてさ。魔法はすごかったけど、時々森を燃やしかけてたよ」
ジルバウがケラケラと笑う。
「そうか。彼女の火魔法の出力なら焼け野原になりかねないな」
理一郎が真顔で返すと、ジルバウは少し驚いたように目を丸くした。
「リイチロウって、頭いいのにそういうところ真面目だよなー。冗談通じないっていうかさ」
「冗談だったのか?」
「まあ、そういうとこ、嫌いじゃないけどさ。じゃ、おいらはお使いの途中だから!」
またね、とジルバウが駆けていく。
一人取り残された理一郎は、アーシャからもらったお菓子の袋を開けてみた。中には色とりどりの甘い菓子が入っている。物理学魔法を使った後は脳が糖分を要求するが、普段から甘い物好きというわけではない。だが、マカロンを一つ口に含むと、上品な甘さが口の中に広がった。
――なるほど、これは確かに美味い。
高級品のようだった。名家ともなれば、菓子にも相応の質を求めるということか。
理一郎は芝生に腰を下ろし、木陰でゆっくりと菓子を味わう。陽光が葉の隙間から差し込み、静かで穏やかな時間が流れている。
甘い物を食べているうちに、だんだんと眠気が襲ってきた。菓子で空腹が和らいだせいか、それとも長い研究議論の疲れと木陰の心地よさが重なったのか、しだいに瞼が重くなってきた。
――少しだけ休もう……。
理一郎は芝生に寝転んで空を見上げた。葉の隙間から見える青空に、白い雲がゆっくりと流れていく。鳥のさえずりが遠くから聞こえ、風が頬をなでていく。
こうして昼間に静かに横になっているのは、久しぶりのことだった。元の世界では研究に追われ、こちらの世界に来てからも慌ただしい日々が続いていた。だが今は、ほんのつかの間の平穏を感じることができた。
そのまま理一郎は、午後の暖かな陽だまりの中で、穏やかな眠りに落ちていった。
遠くから聞こえる学生たちの笑い声と、そよ風に揺れる葉音が、心地よい子守唄となって彼を包み込んだ。
だから、誰かが近づいてくる足音にも、気づかなかった。




