燃える東市場
理一郎は夢を見ていた。
中学時代、ある初夏の放課後。
生涯でただ一人、親友と呼べる友人と校舎の屋上にいた。
夕日が山の端に近づき、茜色に染まりはじめた空が印象的だった。
友人はいつものように柵に寄りかかり、その空を眺めている。
「理一郎、宇宙って不思議だよな」
彼は理系科目の成績が良く、特に天文学に強い関心を持っていた。
「観測すればするほど新たなことがわかり、新たな謎が生まれる」
理一郎は黙ってうなずき、大柄な彼の横に並ぶ。屋上から見える街並みが、夕陽に照らされて輝いて見えた。
「でも、すべてを貫く一つの法則が、必ずある」
「そうだな。お前は理論、俺は観測。二人で宇宙の謎に挑もうぜ」
ちょうど視線の高さの辺り、群青から橙へのグラデーションの中に金星が輝きはじめた。
「将来、絶対に一緒に研究しような」
「ああ、絶対だ」
この時、二人は確かに同じ方向を見つめ、同じ未来を信じていた。同じ空を見ていることが、二人の約束を確かなものにした気がした。
だが、約束はかなわなかった。
それから一週間もたたないうちに、友人は交通事故で命を落とした。理一郎に残ったのは、美しい夕陽と、それに照らされた友人の横顔。そして「絶対に」という言葉だけだった。
――そうだ。だから俺は物理学の道を歩み続けた……。
* * *
「理一郎、起きるのぢゃ!」
「理一郎さん、起きてください!」
リリスとマリエルにほぼ同時に叫ばれ、夢から覚めた。
理一郎はマリエルのやわらかい肩に寄りかかっていたことに気づき、あわてて身を起こした。
――あんな夢を見たのは寝心地が良かったからか?
少し気恥ずかしさを覚える。
と同時に、自分にはマリエルの絶対防御が発動しなかったことに気づいた。
――少なくとも毛嫌いはされていないということだろうか。
「すまない」
「お疲れだったのです。お気になさらずに」
マリエルは優しく微笑むが、すぐに真剣な表情になる。
「東市場で火事だそうです」
車内放送が非常事態を告げていた。
「……ご乗車の皆様にお知らせいたします。ただいま、東市場において大規模火災が発生しています。安全確保のため、当軌道車はこの停車場で運行を終了します。乗務員の案内に従って速やかに降車してください……」
理一郎は窓の外を見た。停車場のすぐ向こうに黒煙が上がっている。
「東市場は露店が密集しています。火災が広がれば大変なことになります」
車内の乗客たちは運転手と車掌の誘導で整然と降りはじめていた。
マリエルは、荷物をまとめるのに手間取っている年配の女性に駆け寄る。理一郎も手伝って老女を降ろすと、マリエルが言った。
「では、私は火災現場に向かいます。巡回修道女は災害時の救護活動も義務ですので」
「俺も行こう」
この数日、東市場で売られた不良珠石による火災が増えていると今朝ギルドで聞いた。何か関連があるのかもしれない。
二人は急いで黒煙の上がる方角へと向かった。
東市場地区は学都で最も人通りの多い場所の一つだ。しかも、これからにぎわう時間帯だった。
火災現場に近づくにつれ、焦げた臭いと悲鳴が聞こえてきた。
人々が慌ただしく逃げ出し、大きな荷物や商品を引きずりながら必死に逃げていく。救助を求める声も聞こえる。
市場の入り口に到着すると、すでに多くの露店が炎に包まれ、風にあおられてさらに延焼していく様子が見えた。
何人かの魔法使いや魔女たちが、水魔法での消火を試みていた。
「消防団はまだなの!」
その中に、水魔法少女のリヴィアがいた。今日は制服ではなく、ショートパンツをはいた活動的なスタイルだ。だが、その顔にはいつもの笑顔がなく、かなり疲れているように見えた。
「水よ、降り注げ!」
リヴィアが魔法を唱えると、空中から雨のように水が降ってきた。だが、炎は収まるどころかますます勢いを増して広がるように見えた。まさに〝焼け石に水〟といった有り様だ。
他の水魔法使いも魔法を放つが、結果は同じだった。降り注いだ水は、炎に触れる端から白い蒸気へ変わってしまう。火勢が一瞬弱まったように見えても、直後には同じ場所から新たな炎が噴き上がる。
理一郎はリヴィアに近づいて訊いた。
「状況は?」
「え?……理一郎さん?」
魔力が枯渇しかけているリヴィアは、息を切らしながら答える。
「買い物をしてたら突然悲鳴が聞こえて……、すごい勢いで火の手が上がって……、あっという間に燃え広がって……」
そう言うと、リヴィアはめまいを起こして石畳に膝から崩れそうになる。
とっさに理一郎は水色髪少女を抱き留めた。リヴィアが一瞬びっくりしたように身を固くしたが、すぐに安心して体を預けた。辺りを見回し、ベンチを見つけて座らせる。
マリエルが駆け寄ってきた。鞄の中から茶色い小瓶を取り出して、リヴィアに渡す。
「飲んでください。魔力回復の水薬です」
マリエルが普段から持ち歩いている薬で、彼女自身が作っていた。
「ありがとう……修道女様」
リヴィアが一息に飲む。
「ああ、助かったわ。後で教会に献金に行くわね」
マリエルが微笑む。
「お気持ちのままに」
マリエルはそう言うと、他の魔法使いや魔女たちにも水薬を配り、付近に座り込んでいるけが人の手当を始めた。
リヴィアが落ち着いたのを見て、理一郎が「消防はまだか」と訊く。
「噂だけど、今あちこちで火事が起きてるらしくて、手が回らないそうよ」
理一郎の頭を〝同時多発テロ〟という言葉がよぎる。
「まいったわよ。水魔法が全然効かないの。水が火に勝てないなんて、納得できない」
「ただの火事ではなさそうぢゃな」
肩に現れたリリスが、耳元でささやいた。
「うわ、かわいい!」リリスを見てリヴィアが思わず叫んだ。「理一郎さんの従魔?」
「妾はリリスぢゃ、水色小娘。今は騒ぐでない」リリスが舌を出す。
理一郎は数十メートル先の炎の勢いを見て、燃焼を促進する薬剤や魔法の類が使用されているかもしれないと考えた。だとすれば、リリスの言うようにただの火事ではない。
「火元は、珠石売りの店か?」
「そうだと聞いたわ」とリヴィア。
「主よ、あれが見えるかの?」
「どこだ?」
「ほれ、あそこぢゃ。魔法陣が仕込まれておるぞ」
リリスが指さしたのは、火元とされる珠石売りの露店だった。
「俺には見えない」
「暴走した珠石から魔力が供給されるよう細工されておる」
「珠石はまだ暴走しているのか?」
「今はしておらん」
「炎系統の仕掛け魔法かもしれないわね」とリヴィア。
火災はすでにかなりの範囲に広がっており、風もやや強い。一刻も早く炎を制圧する必要がある。少なくとも消防団が到着するまでは、これ以上の延焼を食い止めなければならない。
理一郎は中指でメガネを押し上げた。
フレームが鼻筋に沿って上がるのを感じながら、呼吸を整える。周囲の騒がしさが遠のき、意識が澄み渡っていく。〝ゾーン〟と呼ばれる極度の集中状態に入ると、視界がクリアになり、頭の中が整理されていく。
視野の中に、青白い光で方程式が浮かび上がった。
k = A exp(-E_a / RT)
ある温度における化学反応の速度定数kを近似的に表す、アレニウスの式だ。
燃焼反応とは一種の化学反応だ。ここで燃えている物質は木材、布、油など多岐にわたり、反応ごとに活性化エネルギーE_aは異なる。だが、絶対温度Tは、すべての燃焼反応に共通して作用するマクロパラメーターだ。この値が小さくなれば、指数関数で表されている温度依存項e^(-Ea/RT)の値が小さくなり、結果として反応速度kが低下する。つまり、燃焼反応が遅くなるのだ。
だが、今はTも含め、どのパラメーターも明滅していない。
問題は式ではない。対象の切り分けだった。炎だけを冷やそうとしても、燃焼領域は風に揺られ、刻一刻と形を変えている。Tを下げすぎれば街や人々に低温障害を与えかねない。人や建物を巻き込まず、その領域だけを追跡して温度を書き換える演算を、理一郎一人では処理しきれない。
「妾の出番かの」リリスが肩に現れた。「だがこれだけの大仕事、対価が必要ぢゃ」
誰もいない場所なら、Tを百K以下まで一気に冷やしてしまえば、燃焼反応はほぼ確実に止まる収まる。だが、周囲も凍りついてしまう。広大な火災領域の温度だけを下げるには、リリスの力が不可欠だった。
「どれが欲しい?」
「先ほどお主の夢の中の記憶。お主と友との想い出。あれが良さそうぢゃの」
リリスは情報の悪魔であり、使役する対価として記憶を要求することがある。そして、差し出した記憶は理一郎から永遠に失われる。
理一郎は一瞬ためらった。
忘れてしまいたい記憶は多いが、友とのあの放課後は忘れがたい。それは、物理学者への道を歩み続けるモチベーションにもなった、かけがえのない想い出だ。
あの横顔も、声も、約束も、金星の輝きも、すべて思い出せなくなる――。
それでも、目の前で失われようとしている命を見捨てる理由にはならなかった。
――それに。
あの時の決意は、もうすでに自分の中で形になっている。
理一郎は静かに言った。
「承諾する。周囲の空間はそのままに、この広大な火災領域の『場』だけを切り取れ。俺がTを書き換えて燃焼反応を止める!」
「よいのぢゃな」
理一郎がうなずく。
「では任せるがよい」
方程式の中で温度Tが明滅しはじめた。
それを見て、理一郎が唱える。
「リリス、その理を、操れ!」
リリスの瞳が紅く光る。
炎上区画の中から、燃焼反応が進行している領域だけが抽出され、その座標と境界が理一郎の意識へ流れ込んでくる。
風に揺らぐ炎。赤熱した燃料。宙を舞う火の粉――刻一刻と形を変える燃焼領域を、リリスの演算が追跡し、対象として定義し続ける。
理一郎は、その演算結果に従って、燃焼に関与する領域の絶対温度Tだけを選択的に書き換えた。
広大な火災領域の温度を周囲に影響を与えずに制御し続けるには、絶え間ない数理演算が必要だ。世界の理を書き換えるためのエネルギー――すなわち『理力』を生み出すべく、脳の代謝活動が急激に高まり、血流を通じて供給されるグルコースが猛烈な勢いで消費されていく。糖分が尽きて理力が枯渇すれば、魔法は維持できなくなる。
炎を覆うように青白い光のベールが広がっていった。
次の瞬間、ベールがふわりと炎を包み込む。
火の粉の舞いがやみ、炎の色が変わりはじめた。橙色だった炎が次第に赤く、そして暗い朱色へと変化していく。
街の空気や建物全体を冷却することなく、燃焼に関与する分子群の熱運動が急速に衰え、反応速度が劇的に低下していく。炎はまるでスローモーションのように、ゆっくりと揺らめくようになった。
マリエルとリヴィアは理一郎から少し離れて、好奇心と驚きの表情で見守っていた。
「すごい……」リヴィアがつぶやいた。「こんな魔法、見たことないわよ」
マリエルは無言でうなずいた。彼女の目には、理一郎への新たな敬意が宿っていた。
やがて火の勢いは弱まり、新たに燃え広がることもなくなった。
理一郎が集中を維持したまま、リヴィアに問う。
「水魔法は撃てるか?」
水薬で魔力を取り戻したリヴィアは、「任せて!」とうなずく。
「みんな! 今よ!」
リヴィアは他の水魔法の使い手たちにも声をかけた。残り火に向けて一斉に水が降り注ぐ。
燃焼速度が極端に遅くなった火災は、消防団が駆けつける前に完全に鎮火した。
それを見て、理一郎は深く息を吐きながら〝ゾーン〟から抜けた。額に汗が浮かんでいる。集中している時間が長かったため、ひどく疲れ、思わず片膝をついてしまった。
マリエルが駆け寄り、「女神よ――」と手をかざそうとする。
理一郎はそれを止め、白衣のポケットから氷砂糖を取り出して口に入れた。
「大丈夫なのですか?」と心配するマリエルに、「脳が疲れているだけだ」と理一郎は答えた。
理一郎の肩を支えるリヴィアが訊いた。
「甘い物好きなの?」
「ブドウ糖は脳の主要な燃料だ。今は脳が必要としている」
「あなたの魔法は脳を使うの? 初めて聞いたわ」
「俺には魔力がない。物理学魔法を動かしているのは、脳の代謝活動と演算だ。だから消耗するのは魔力ではなく、主にグルコース――つまり糖だ」
リヴィアは目を丸くした。
「魔力なしの魔法使いなんて、聞いたことないわ」
「今回は集中時間が長かったからな。消耗した」
「ふん。ほとんど妾がやったようなものぢゃろ。情けないのう」
リリスが理一郎の肩でふんぞり返った。
「へえ、あなたもお手伝いしたの? 偉いわね」
「おい、水色小娘、妾を小さい子扱いするでないわ! 妾は情報の大悪魔ぢゃ。記憶さえ差し出せば、どれほど複雑な現象改変であろうと、かなえてやろうぞ」
「あら、ごめんなさいね、情報の大悪魔さん」
「リリスさんの従魔としての対価は、記憶なんですか?」とマリエル。
「この小悪魔を従わせるには、俺の記憶を与える必要がある。与えた記憶は失われる」
理一郎はこともなげに答えたが、マリエルは目を丸くする。
――記憶が対価ですって?
マリエルにとって、記憶とは神が与えた魂の一部だ。それを従魔に差し出す行為は、自己の冒涜であり、修道女として神学的な恐怖を感じる。
しかし理一郎がそうせざるを得ない状況に追い込まれるのは、仲間を守るためだとも知っている。
――大事な想い出だってあるでしょうに、この人はそれと引き換えに街を守ろうとした?
「なぜ、ご自身の大切な記憶まで差し出して、見ず知らずの人々を救おうとなさったのですか?」
理一郎は少し考える。
確かにそんな義理などないだろう。だが、昔の自分はあまりにも世間から遠ざかりすぎていた。それが良い結果を招かなかったのも事実として認めざるを得ない。
「今の俺には対処する能力がある。見過ごすことはできなかった」
そうつぶやく理一郎の横顔を見ながら、マリエルは自分の無力を責めた。もっと自分が助けになれれば、理一郎がリリスに頼る必要はなかったのに、と。
理一郎さん、と呼びかけようとして、マリエルは言葉をのみ込んだ。
自分が何を言いたいのか、自分でもわからなかった。ただ、この人にこれ以上何かを失ってほしくない、この人を守れる者がそばにいればいいのに――そんな思いが胸の奥にふと生じて戸惑う。
教団は、彼を監視しろと命じた。
けれど、目の前にいる理一郎は、見ず知らずの人々のために自らをすり減らしている。
――この人のどこが危険だというのだろう。
マリエルは唇を引き結び、まっすぐ前を見つめた。その問いの答えは、まだ出せそうになかった。




