巡回修道女マリエル(後編)
「理一郎さん!」
マリエルが叫ぶ中、理一郎はメガネを押し上げてゾーンに入る。
x(t)=x₀+vt
等速直線運動の式だ。明滅している速度vをゼロに書き換え、あぜ道に落ちたサーモリーチに向かって「その理に従え!」と唱えた。
再び跳躍しようとクネクネと動いていたサーモリーチの動きが、凍りついたように止まった。張り付いて吸熱されなければ、体長五十センチの巨大なミミズにすぎない。素早く腰のナイフを抜き、冷気に注意して、先端部から十センチ辺りを切断する。そこにある神経節が弱点だと、ギルドの資料には書いてあった。切断面からは不凍液のようなどろっとした青白い体液が流れ出る。魔法が解けても、サーモリーチは動かなかった。
「大丈夫ですか?」
マリエルは急いで理一郎のそばに駆け寄った。
「少し痛む」
マリエルは理一郎の袖をまくって腕を見る。皮膚が青紫に変色し、水ぶくれになりかけている。
「中程度の凍傷になっています。でも大丈夫ですよ。すぐに治療します」
マリエルは落ち着いた声で優しく説明し、理一郎の腕をそっと取って近くの大きな石に座らせた。
「動かないでください。少し時間がかかりますが、すっかり良くなります」
安心させるように言うと、マリエルは集中し、傷に手をかざした。
「女神様、どうぞご慈悲を。かの者を癒やしたまえ!」
淡い黄金色の光が彼女の手から広がり、傷を包み込んでいく。
「これが回復魔法か。なんとも興味深い現象だ」
理一郎は目を見開いて観察した。
「はい。教会で学びました」
マリエルに治療してもらう間、理一郎は黙ってその過程を見つめていた。金色の光に包まれているうちに、次第に凍傷の痕が消え、皮膚が本来の色を取り戻していく。
「あの状態では組織内の水分が凍結して細胞が破壊されていたはずだ。それを元に戻すということは……」
「体に本来備わっているよみがえる力を強めていると習いました」マリエルは説明した。
その現象は理一郎の持つ物理学の知識では説明できない。生化学あるいは医学の領域での現象だった。
「興味深いな」理一郎の目が輝いた。「実に興味深い。その金色の粒子はどのように細胞に作用しているのだろうか。いつか研究させてもらえないだろうか」
マリエルは少し照れたように笑った。
ふっくらした唇の端がわずかに上がり、年相応の少女の顔になる。
「もちろん、お手伝いできることがあれば――」マリエルは凍傷になっていた部分を軽くなでて状態を確かめる。「これで大丈夫だと思います。……でもしばらく休みませんか」
マリエルが長い修道服の裾を気にしながら隣に腰かけた。
「ありがとう、助かった」
「こちらこそ、かばっていただいて……」
少しの沈黙の後、マリエルが口を開いた。
「あの……」
「ああ」
「サーモリーチは体の表面の吸熱器官を剥ぎ取れば、討伐証明になりますよ」
そう言えば、ギルドで渡された書類に書いてあったことを思い出す。
「この大きさだとあまり数が取れないので、報酬も多くはありませんけど」
「だが、せっかくだからな」
そう言うと、サーモリーチの前にしゃがみ、ナイフで半透明の結晶状組織を剥ぎはじめる。作業は思ったよりも簡単だった。
ナイフを使いながら訊く。
「巡回修道女とは、どんな職業なのだ?」
マリエルは理一郎が自分に興味を持ったことに少し驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「私たちは一つの教会に属さず、宣教や教育、福祉などを通じて皆さまに神々の祝福を与えるため、王国各地を巡っています。私は回復魔法が使えますし、薬草の知識もあるので、主に治療を中心とした奉仕活動をしています」
「君は今はいくつなんだ?」
「十七です」
「若いのに立派なものだ。なぜ巡回修道女になろうと思った?」
マリエルは、その言いように少し違和感を覚える。
――そっちだって少年なのにずいぶん大人びた言い方。
だが、笑みは絶やさず答えた。
「幼い頃に、故郷の村に疫病が流行ったことがあって……」マリエルの目が遠くに移ろう。「私も重い熱で倒れたんです。その時、巡回修道女の方に命を救われました」
マリエルは胸元の太陽神のシンボルに手を当てた。
「その後、村にあった日女神教会に通うようになったのですが、回復魔法の才能があると言われ、七歳から教団の寄宿学校で神学と魔法と一般教養を学びました。そして十五歳になった時に、巡回修道女として献身することを選んだんです。それ以来、たくさんの町や村を歩いて回りました」
「寝泊まりはどうしている?」
「大きな街には教団の支部や、いずれかの宗派の教会がありますので、そこで。小さな町や村では、敬虔な信者さまのお宅でお世話になることもあります」
「若い女の一人旅では危険な目にも遭うことはないのか?」
言ってから理一郎はしまったと思った。ついついマリエルの胸に目をやってしまったかもしれない。
案の定、マリエルは胸を両腕で隠し、うつむいてしまった。
「いや、違うんだ。そういうつもりではなくて――」
珍しくあわてて早口になる。
だが、マリエルが黙り込んだのは別の理由からだった。それは、理一郎の質問に対して正直に答えられない葛藤からくるものだった。
――自分を守る術はある。でも、それを話したら、きっと気味悪がられてしまう……。
マリエルはただ静かに答えた。
「神様がいつも共にいらっしゃってくださいますから。日女神様からのご加護があるんです」それからにこやかな笑みを取り戻して付け加える。「それに、旅先で出会う方々の温かさに救われることも多いんですよ」
「まだ二年しか経験がないのに、一人前に勤めを果たしているんだな」
マリエルの瞳が柔らかく輝いた。
「人々を癒やし、助けることが私の喜びなんです。苦しんでいたほうが笑顔になる瞬間、それこそが私の心の糧となるのです」
「家族とはずいぶん会ってなさそうだが、寂しくはないのか?」
「幼い頃から親元を離れていますが、手紙では連絡を取り合っています。いつも励ましてもらっています。寂しくないとは言えませんが……」
マリエルは話題を変えるように、理一郎に質問した。
「理一郎さんばかり質問されてずるいです。私もいいですか」
「ああ、すまん。かまわない」
「理一郎さんはアカデミアの研究員だと聞きました。なぜ依頼を?」
「暮らしていかなければならないからな」
「アカデミアからはお手当は出ないのでしょうか?」
「そんな話は聞いていない」
「アカデミアでは何を研究されるのですか?」
「俺は俺自身の魔法の仕組みがわかっていない。『どうやって』はわかるのだが、『なぜ』がわからない。その『なぜ』を知りたい」
「君は――」とマリエルのほうを向くと、思いのほか彼女の顔が近かった。理一郎の話を、身を乗り出して聞いていたのだ。急に顔を向けられたマリエルがびっくりして体を引いた。
「君は、なぜ自分の魔法が、あの金色の光が傷を癒やすのか知っているか?」
マリエルは首を振る。
「女神様のご加護だとしか教えられていません」
「ここの人はみんなそうだ。魔法が当たり前すぎて、誰もその仕組みを知ろうとしない。いや、知る必要がないんだな。知らなくとも使えるのだから」
「ここの人? 王国の人という意味ですか?」
理一郎は一瞬言葉に詰まった。うっかり口を滑らせてしまった。
マリエルは教団の人間だ。もっと用心するべきだった。記憶の封印が解けていることが知れたら、追っ手を差し向けてくるかもしれない。
だが、マリエルの純粋な眼差しが、理一郎の警戒心を解かしはじめている。
「君はソラリア神を信仰していると言ったな」
「はい」
「ではアストレリア教会とは関係はないのか?」
「教団は十二の宗派が集まった組織ですので、まったく無関係というわけではありませんが、直接は関係ありません」
――ならば話しても大丈夫だろうか。
自分の素性を明かして教団の人間の反応を見てみたいという気持ちがあった。
「実は……」理一郎は打ち明けることにした。「俺はこの世界の人間ではない」
マリエルの目が大きく見開かれた。
「どういう……」
「俺は別の世界から、ある日突然、この世界に召喚された」
理一郎は簡潔に、神殿での儀式から目覚めるまでの記憶を語った。マリエルは驚きと困惑の表情を浮かべながら聞いていた。
「そんな……」
マリエルは言葉を失った。
――三星蝕の日にエクリプス神殿で、そんな儀式が行われていたなんて……。
マリエルの心の中で混乱が生まれていた。教団が彼女に与えた指示は、「異能異端の危険人物を監視せよ」というものだった。理一郎に近づき、彼がどのような人物か、魔法の秘密は何か、魔人化の恐れはないかを探るはずだった。
「人間の召喚は禁忌、ましてや異世界からなど……。イグナティウス大司教様がそんなことをなさるとは……。アストレリア神様はお許しになったと言うことなのでしょうか」
――この人は異端者ではなく、犠牲者かもしれない。あくまでも、今の言葉を信じればですが……。
マリエルには、理一郎が嘘を言っているようには見えなかった。
「今のお話、宣教庁に報告させていただいてもよろしいでしょうか? 星教派が秘密裏に執り行ったとすれば大問題なのです」
「止めたほうが良い。俺の記憶を消したということは、誰にも知られたくないのだろう。下手に報告すると君の身が危うくなりかねない。信頼できる人間がいるのなら、相談してみてもいいだろうが、俺としてはもうこのまま放っておいてもらえるのが一番いい」
――確かにそうかもしれない。あるいは自分は理一郎に騙されているのかもしれない……。
マリエルはまだ心を決めかねている。もっと情報が必要だった。
「……理一郎さん、あなたは意に反して呼ばれてしまったこの世界で、何をなさろうとしているのですか?」
理一郎は少し考えてから、静かに答えた。
「俺の人生は、ただ一つの方程式を完成させるためにある。それは世界のすべてを記述できる方程式で、ほとんど完成していた。元の世界ではその道は断たれてしまったし、連れてこられたこの世界で続けられるとも思わなかった。だが、あの日――」
理一郎の口が普段より饒舌になっている。まるでマリエルから漂う温和な雰囲気が、彼の内側から言葉を自然と引き出していくようだった。
「君たちに助けられたあの日、駅馬車が魔物に襲われたあの時、俺は魔法という現象を見た。物理的な現象でありながら、俺はそれを説明する理を持っていない。つまり、俺が元の世界でほぼ完成させたと思っていた方程式では、魔法は記述できない。あの方程式は不完全だったのだ。俺は、この世界で、この世の理を解き明かし、究極の方程式を完成させたい」
――この人の瞳には真摯な探究心が宿っている。
それは危険な野心などではなく、純粋な知識への渇望だとマリエルにはわかった。
マリエルが小さな声で言う。
「……私も、今まで疑問に思ったことがありませんでした。回復魔法がどうして効くのか、なぜ金色の光が傷を癒やすのか。女神の御業。それがすべてでした。でも――」マリエルの声が少しずつ大きくなる。「理一郎さんの言葉を聞いて、そのような考え方もあることを知りました。もしよければ……私にも教えてください。魔法の『なぜ』について」
「いいだろう。だが、研究はまだこれからだ。君の魔法も研究材料になる。協力してくれるとありがたい」
「もちろんです」
そう答えるマリエルだったが、理一郎と教宣部幹部、どちらを信じればいいのか心は大きく揺れていた。
* * *
その時、あぜ道の向こうから千鳥足の男がやってきた。
日に焼けた大柄な農夫だった。手にはワインの瓶を持ち、顔は真っ赤に火照っている。畑が凍りついて仕事にならず、朝から飲んでいたのだろう。
「おう、あんたらが畑を溶かしてくれてる冒険者かい? ありがてえ、ありがてえ」
農夫は上機嫌で近づいてきた。そこでマリエルに目を留め、にやりと笑った。
「こりゃあ別嬪の修道女さんだ。お礼に一杯どうだい?」
「あ、いえ、お気持ちだけ……」
マリエルが困ったように後ずさる。だが農夫は酔いの勢いで距離を詰め、太い腕をマリエルの肩に回そうとした。
理一郎が立ち上がりかけた、その瞬間――。
パンっと乾いた音が弾け、マリエルの肩の辺りで金色の光がほんの一瞬だけ閃いた。
農夫の手はマリエルに触れる直前、見えない壁にぶつかったように撥ねられた。
「うおっ!?」
農夫はよろめいて尻もちをついた。自分の手を呆然と見つめている。
「な、なんだ、今の……?」
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
マリエルが農夫に駆け寄った。乱暴にされそうになった側が謝っているのが妙だった。
農夫はマリエルが差し出した手を取ろうとして恐る恐る手を伸ばし――今度は触れた。不思議そうな顔で立ち上がり、首をひねっている。
理一郎が農夫に諭す。
「畑は全部元に戻した。早く酔いを覚まして、作業に取りかかったほうがいいのではないか」
「なに、もう終わっただと? まずいな。母ちゃんに怒られる」
農夫はあわてて立ち去っていった。
「今のがソラリア神の加護なのか」
「見られてしまいましたね」マリエルが気まずそうにうつむいた。「私が望まない接触は、ああして弾かれてしまうんです」
「だが、彼の手は握れた」
「はい……。私の心が拒んでいるかどうかで、発動したりしなかったりするんです」
理一郎はメガネの位置を直した。
術者の心理状態が発動条件になる選択的防御場か。物理的には力場の生成と消滅が意識に連動している。興味深い原理だ。
「つまり、君が望まなければ触れられることはないのだな。……ということは、さっきのサーモリーチも?」
「はい……たぶん」
「そうか。それなら安心だ」
「はい」マリエルが申し訳なさそうに微笑んだ。「でも、理一郎さんがとっさにかばってくださったこと、とてもうれしかったんですよ」
その声は小さかったが、彼女の感謝の気持ちが感じられた。
* * *
農地にはところどころに管理組合につながる屋外遠話器が設置されている。
その一つを使って理一郎がクエスト完了を告げると、アグロスが飛んできた。
農地に青々とした小麦が戻ったのを見て、アグロスは大喜びで理一郎の手を両手で握りしめた。
「ありがとう! こんなに早く溶かしてくれるなんてな! これで安心だ。学都は美味しいパンに困らなくなるよ。本当に助かった!」
アグロスは依頼票にクエスト完了のサインをすると、素早く解決してくれたことのお礼だと、二人を学都東門まで馬車で送った。
東門からは路面鉄道に乗る。今頃疲れが出たのか、ゴトゴトという心地よい揺れに眠気を誘われる。走りはじめてすぐに、理一郎はマリエルの肩にもたれて居眠りをしてしまった。マリエルの絶対防御は理一郎に対しては発動しなかった。
マリエルは、そんな理一郎の頭の重みを肩で感じながら時折寝顔に目をやり、心の中で葛藤していた。
――この人は本当に悪い人なのかしら?
たった数時間行動を共にしただけだが、彼を弾き飛ばさなかった自分自身の『加護』が、理屈抜きで彼を信頼していい人物だと証している。教団が警戒するような危険人物とは、とても思えなかった。
教団の指示に対して初めて芽生えた疑問は、彼女の中で次第に大きくなっていく。
どこの町にもフリーパスで入れる巡回修道女には、時々、密偵のような使命を与えられることがある。マリエルはもともとその類いの任務はあまり好きではなかったが、宣教庁の指示であれば従わざるを得ない。
――嘘つきは私のほうだ。
マリエルは大きな瞳を曇らせ、小さくため息をついた。




