巡回修道女マリエル(前編)
理一郎は東門停車場で路面鉄道を降り、バルタ街道ほどではないが整備された道を歩くこと小一時間、学都の食を支えるシトス農地に着いた。
周囲にはよく手入れされた小麦畑が広がっている。この辺りは被害がなかったのか、青々とした麦の葉が、明るい日差しの中で一面に波打っていた。
まずは依頼者に会うため、管理組合の建物に向かった。
二階建ての簡素な木造建築で、入り口には「シトス農地管理組合」と書かれた木の看板が掲げられていた。扉を開けると、中では数人の農夫たちが談笑しており、奥にひげもじゃの中年男性が座って、書類の束を読んでいた。
理一郎は、誰もいない受付カウンターの前に立つと、依頼票をひらひらさせて言った。
「冒険者組合から来た。凍土回復の依頼を請け負った。状況を説明してくれ」
すると、奥のひげもじゃ男が顔を上げ、カウンターに走ってきた。
「おお、来てくれたか! 待っていたんだ! この組合の代表、アグロスだ」
アグロスが手を差し出してくるので応えると、思いのほか力強い握手をされた。
「ありがとう。助かるぜ。本当に困っていたんだ。あのままじゃ、麦がだめになっちまう」
アグロスはため息をついた。
「聞いている。吸熱蛭とやらが耕作地を凍土化したそうだな」
「ああ、そうだ」アグロスはうなずいた。「昨日、突然現れやがった。衛士隊と冒険者の助けを借りて退治はしたが、土地が凍りついたままでな」
「追加情報はあるか?」
「特にない」アグロスは事務机の上に広げられた農地の地図を指し示した。「ここら辺一帯がやられちまったんだ。全部で約五ヘクタール。今日中にどうにかなるか?」
理一郎は地図をじっと見つめる。ざっとサッカーコート七面分。かなり広大だ。だが「とにかくやってみよう」とうなずいた。
その時、奥の部屋の扉が開き、人々の話し声が聞こえてきた。理一郎がつい気を惹かれて目をやると、アグロスが説明した。
「昨日、何人かが凍傷になっちまってね。吸熱蛭に襲われたのさ。それで、ありがたいことに、今日、巡回修道女様が治療に来てくださったんだよ。今、終わったようだ」
巡回修道女と聞いてもしやと思ったが、開いたドアからにこやかに微笑みながら現れたのは、やはりマリエルだった。
今日は顔がベールで隠れていないので、目鼻立ちをはっきり捉えられた。
広いおでこ、大きく丸い目。紫がかった灰色の瞳、つややかな肌に少し赤みを帯びた頬、小さいが整った鼻、そして淡いピンク色のふっくらした唇――。
駅馬車やキルケの宿での印象と違って、穏やかで柔らかく、人なつっこい顔だった。だが、その目からは知性と芯の強さもがうかがえた。
あの時と同じ黒い修道服で丸みを帯びたふくよかな身を包み、大きく膨らんだ胸に太陽神のシンボルが乗っている。立派な腰つきも含めて母性を象徴しているような体形だ。
「もう大丈夫ですよ。軽い凍傷でしたから痕も残りません。なにかあったらまた呼んでください」
そう言いながら、老農夫の手を引いている。
「本当に助かりました、修道女様。何とお礼を申したらよいのやら。それで……、その、ご寄進のほうはいかほどで?」
「ご不要ですよ。すべては女神ソラリア様のご加護のおかげです。女神様への感謝を忘れなければ、それで十分です」
感謝しつつも治療費の心配をしている農夫を、マリエルがそう言って安心させた。老農夫はマリエルの手を両手で握り、頭を何度も下げている。
その時、マリエルが理一郎の白衣に気づいた。わずかに表情が硬くなる。
「あら……」
理一郎が軽く頭を下げると、マリエルが近づいてきた。
「改めまして。きちんとご挨拶するのは初めてでしょうか。統一教団の巡回修道女、マリエル・ファレラです」
柔らかい声だが、どこか警戒している様子が感じられる。
「物部理一郎だ。バルタ街道では助かった。改めて礼を言う」
二人が挨拶を交わすと、理一郎の肩にリリスが姿を現し、マリエルに文句をつけた。
「なんぢゃ、その胸の無駄肉の塊は! 巡回修道女という割には太ましすぎるわ。ほんとに歩き回っておるのか?」
マリエルは驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「ちゃんとお勤めは果たしております。それに、私、そんなに太ってはおりませんよ。ただ、施しをくださる方も多いので、ついつい食べ過ぎにはなりがちですけど」
リリスはマリエルを上から下まで観察した。
「ふん、教会の者か。例のアストレリア教会とやらではなさそうぢゃが」
「巡回修道女は教団本部の宣教庁所属で、どの教会にも属しておりません。私の主神は太陽神ソラリア様、副神は地母神ガイアナ様です」
「統一教団とはなんなのぢゃ? 教会とは違うのか?」
「この大陸にはナトューラ神話が伝わっています。多くの神々が織りなす神話大系で、中でも空島パラディーザに住まうとされる主要神十二柱に対する信仰があつく、それぞれの教会が建てられました。しかし、かつてそれぞれの教会が対立し、宗派戦争に発展したことがありました。その不幸な時代を経て、十二宗派を一つの宗教組織体として統合することになりました。それが統一教団です」
リリスは、マリエルが統一教団の巡回修道女であることまでは、理一郎の記憶から知っていた。だが、その命令系統や役割までは知らない。問いかけは、マリエルの反応を探るためのものだった。
「ほお。では巡回の命令も、教会ではなく教団から受けておるのか?」
マリエルの表情がわずかに陰り、柔和な微笑みが一瞬だけ硬直した。
「リリス、やめろ。勝手に人の領域へ踏み込むな」
理一郎がたしなめると、リリスはふんと顔を背けた。
「いいえ、気にしておりません。あなたがリリスさん……」
マリエルの瞳に、再び警戒の色が浮かんだ。
――この従魔は〝情報の悪魔〟。人の記憶すら読み取る力があると、報告書にはありました。どこまで見抜かれているのでしょう。
アグロスから地図を受け取った理一郎が、「では、行ってくる」と出口に向かう。
――ここでお会いしたのは偶然ではなく、ソラリア様の御計らいでしょう。だとすれば――。
理一郎の背中に、マリエルがおずおずと声をかけた。
「あの……もしよろしければ、私も同行させていただけませんか? 回復魔法が使えますので、お役に立てるかもしれません。もちろん報酬はいただきません」
理一郎は少し考えた。
――この依頼に危険は少ないだろう。それに、少し話をしてみたくもある。
「万が一のこともある。十分注意してくれ」
「ありがとうございます。気をつけます」
「ふん。その目でしかと見定めるとよい」
リリスが理一郎の肩で、マリエルを振り返った。
* * *
被害を受けた農地は、一面白く輝いている。空の青さとのコントラストは、美しいとも言えた。だが地面は固く凍りつき、若い麦は霜で白く覆われている。一帯に足を踏み入れると、靴底から冷気が伝わってきた。
「これは……大変な被害ですね」
マリエルが息を呑む。
「相当数の吸熱蛭がいたと報告書にはあった」
理一郎は地面に膝をつき、凍土に手を当てた。痛いほど冷たく、触り続けていられない。
「リリス、温度は分かるか?」
「氷点下十度ほどぢゃ。思ったより深くまで凍っておるぞ」
日差しで地表は温まりつつあるが、地中の氷を溶かすには大量の熱が必要になる。だから、この陽気でも融解が進まないのだ。
マリエルが周囲を見回しながら尋ねた。
「どのようにして解凍するおつもりですか?」
理一郎は立ち上がり、リリスに目を向けた。
「リリス、お前ならどうする?」
リリスは得意げに胸を張った。
「妾なら、大気を局所的に温暖化させようぞ。凍土上空の大気圧と体積を保ちながら気体分子数を減らせば、温度が上がるぢゃろ。ただし、膨大な分子を操ることになる。それなりの対価が必要ぢゃ」
理一郎はしばらく考え込んだ後、首を横に振った。
「それよりも良い考えがある」
メガネを触ってゾーンに入る。アイデア通りの数式が浮かんだ。
Q = m·Lf
相変化のエネルギー式、明滅しているのは融解潜熱Lfだ。
氷を水に変えるのに必要な熱エネルギーQmeltは、氷の質量mと融解の潜熱Lfとの掛け算になる。氷の場合、Lfは約三三四kJ/kgだ。このLfを小さくすれば、少ない熱エネルギーで氷を溶かすことができるはずだ。
理一郎は、Lfをゼロに書き換えて唱えた。
「その理に、従え!」
凍土に含まれる氷の融解潜熱を一時的にゼロにすることで、潜熱を供給することなく、氷から水への相変化を促した。
氷や凍土が、周囲から熱を奪うことなく瞬時に溶け出す。
「ふん、その手は妾も考えておったわい」リリスはそう言い残して姿を消した。
凍土だった畑に最初は小さな水たまりができ、それが広がっていく。まるで冬から春への移ろいのタイムラプス映像のように、凍土が次々と解けて緑の幼穂が現れていく。
マリエルは目を見開いて見つめていた。
「すごい……。普通の火や熱の魔法とは全然違います」
彼女は心の中で思った。
――これが教団から監視するよう指示された人物の力……、確かに普通ではない。
マリエルは教団から密命を受けている。あの日、あの馬車で乗り合わせたのも、偶然ではない。理一郎は尋常でない力を持ち、魔人化して神の意に背く恐れがある要注意人物であり、だから監視する必要があるのだと、密命を下した宣教庁幹部からは聞かされていた。
「これは……」マリエルが目を丸くする。「どういう魔法なのでしょうか?」
「俺の魔法は物理の法則を利用していることは知っているか?」
「はい」
「今は相変化のエネルギー式を利用した」
「はい?」
マリエルは理一郎の言葉に首をかしげた。
「固体が液体に変わるとき、つまり相変化するときに必要な熱量を融解潜熱という。その値は物質ごとに決まっている」いつの間にか学生に向かって講義するような口調になっている。「俺は氷の融解潜熱をゼロにし、相変化に必要な熱のやり取りをなくした」
マリエルは驚きの表情で見つめていた。
「つまり、熱を加えなくても氷を水に変えられるということですか?」
「そうだ。正確には、氷が水へ変わる際に必要な潜熱を、一時的にゼロにした。いったん凍土が溶ければ、後はこの天気がなんとかしてくれるだろう。今日が晴れていてよかった」
そう聞いたマリエルは、両手を合わせて軽く片膝を曲げ、「ソラリア様、ご加護を感謝いたします」とつぶやいた。
理一郎にとって、なぜかマリエルは話しやすい相手だった。彼女が聞き上手だからだろうか、言葉もいつもより自然に流れ出た。
そんな自分の感じ方に少し驚きながら、理一郎は「移動する」と言って、次のポイントに向かって歩きはじめた。
マリエルはその横顔を見つめながら考えていた。
――確かにこの人は常識を外れた力を持っている。でも、それが神に背く力だとも思えない。教団はなぜ監視を命じたのでしょう。
少年は視界に収まる範囲を解凍すると、次の地点まで移動し、また魔法をかける。その繰り返しで、午後の早い時間にはすべての凍土を溶かし終わった。
「完了だ」理一郎は大きく息をつき、膝に手をついた。額には汗がにじんでいる。
「お疲れさまです」マリエルは感心した様子で言った。「こんな広い範囲をお一人で……、普通の魔法使いには不可能です」
「物理法則を理解し、それを操作すれば可能になる」
そう言って背を起こす姿が、マリエルにはとても尊いものに見えた。
* * *
二人が管理組合に戻る道を歩いていると、突然、地面から何かが飛び出してきた。全長五十センチほどの青白いミミズのような生物が、土の中から現れたのだ。
「サーモリーチです!」
マリエルが叫んだ。討伐漏れがあったようだ。
サーモリーチは二人の体温を感知し、蛇のように体をくねらせ、意外なほどの速さで突進してきた。体表から周囲の熱を取り込んでいるため、体が靄に包まれているように見える。周囲の空気が冷やされ、水蒸気が凝結して細かい水滴になっているのだ。
魔物は数メートルまで近づくと、勢いよく飛びかかってきた。獲物に取りついて体温を吸熱しようというのだ。
「危ない!」
理一郎はとっさにマリエルの前に飛び出し、サーモリーチを腕で払った。跳ね飛ばすことはできたものの、白衣越しだったにもかかわらず、触れた腕には瞬時に冷気が浸透した。袖の一部が凍りつき、その下の皮膚に鋭い痛みが走る。




