パニーナのパン屋
――おや?
朝、食堂に降りていくと、アリアの姿も、いつもなら食卓に並んでいる朝食もなかった。
それならたまには何か作ろうとパントリーに向かいかけた時、悲鳴のような大声が近づいてきた。
「たいへん! 寝坊しちゃった! 今日は朝補習があるの!」
バタバタと慌ただしい足音とともに、アリアが入ってきた。かろうじて身じたくはできているようだが、明るい色の栗毛に寝癖が跳ねている。
「定期考査前の朝補習なんだ。予習してたら寝るのが遅くなっちゃって」
アリアは鞄を手に、そのまま玄関に向かう。
「朝食はいいのか?」
「通りのパン屋でなんか買ってく。パニーナちゃんのとこ」
この界隈では人気の店だ。この時間なら八歳ぐらいの小さな看板娘が手伝いをしている。
「理一郎くんは冒険者組合?」
アリアが玄関ホールの姿見で身だしなみを確認し、髪をなでつけながら訊く。
「ああ、依頼を受ける予定だ」
「そうなんだ。頑張ってね」
「そうだ」
「単独?」
「そのつもりだ」
「一人だとなにかあった時に大変だから、絶対に無理しちゃだめだよ」
「理解している」
「依頼は等級にこだわらずに、安全第一で選んでね」
「ああ」
「薬草採取だって場所によっては油断できないからね」
「理解した」
「選ぶときはエリーゼさんとよく相談して――」
「アリア、急がなくていいのか?」
「あっ、そうだった!」
あわてて玄関を出ていきかけるが、アリアはピタッと足を止め、くるりと振り返って理一郎のもとへ戻ってきた。
「どうした?」
「……ちょっと、じっとしてて」
アリアは理一郎の前に立つと、彼の白衣の左袖を両手で軽く握った。そして、親指の腹で袖口の裏側を、小さく複雑な円を描くようになぞる。心なしか前のときよりも念入りにしているように感じる。
「よしっ。依頼、気をつけてね。絶対に無理しちゃだめだよ」
「ああ、理解しているが……今のはなんだ?」
「えへへ、秘密。じゃあ、戸締まりよろしくね!」
アリアは今度こそ弾かれたように玄関を飛び出していった。
理一郎は自分の袖口を見下ろす。一瞬、アリアの指先から微弱な熱変動のようなエネルギーを感じた気がしたが、生地には何の痕跡もない。
――やっと行ってくれた。
時間がないと言っていたが大丈夫なのかと思っていたら、またドアが開いた。
「そうそう、冒険者組合は早めに行かないといい依頼がなくなっちゃうんだ。理一郎くんも急いだほうがいいよ。じゃあね!」
アリアはそう言い残すと走っていった。
何か作ろうと思っていたが、確かに早く行かないと良いクエストは残っていないかもしれない。自分もパン屋で何か買って食べながら行くことにし、急いで白衣に袖を通して屋敷を出た。
白衣の袖口は、何度もエンチャントを重ねて繊維が硬くなりかけていた。グラスランナーの爪を弾き、コケオオガエルの消化液に耐えた。この世界に来て三週間あまり、元の世界で着ていた白衣だが、今ではまったく別物になっていた。
通りに出ると、リリスが肩に現れた。
「どれ、妾も付いていってやろうかの。冒険者なるものがどういう存在か、観察してみたいのぢゃ」
「うるさくするなよ」
「無礼な奴ぢゃの。妾がいつうるさくした」
「今だ、今。今まさにうるさい」
「ふん、口やかましい男ぢゃ」
リリスはそっぽを向くが、なんだか嬉しそうだ。
* * *
アリアは寝坊したと焦っていたが、夜が明けてからまだ一時間もたっていない。
学都の朝は早いのだ。
柔らかい朝日が降り注ぐ中、街角の魔導ランタンはまだ淡く光を残している。石畳の大通りには多くの人々が行き交い、通りの両側に並ぶ店々は朝食を求める客でにぎわっていた。
魔法院の生徒たちは専攻科ごとに色の違うローブを翻し、科学系の生徒たちは専門院ごとに色の違うコートを羽織っている。みんな急ぎ足で通りを渡り、路面鉄道の停車場に急いでいた。
頭上では伝書鳩や小型の使い魔が飛び交い、学都の空をにぎわせている。
気持ちのいい朝だった。
パン屋までは十分程度の距離だ。
大通りに面した小さな店が、この界隈で評判の『パニーナのパン屋』だ。
店内からはふわりと甘い香りが漂ってくる……はずなのだが、なんだか焦げ臭い。
店に入ってみると、奥から悲鳴のような声が聞こえてきた。
「やあぁっ!」
あわてて奥に行くと、パニーナが泣きじゃくっていた。
パニーナは銀灰色の髪を三つ編みにし、水色の質素な服に白いエプロンをつけたパン屋の看板娘だ。いつもならまっすぐな眉と大きな薄紫色の瞳が、八歳と幼いながらもしっかり者の印象を与えている。
だが、この日はただただ顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「どうした?」
理一郎が駆け寄ると、パニーナはパン焼き窯に顔を向ける。
「パンが、パンが……ううっ」
壁際のパン焼き窯からは焦げた臭いがし、黒い煙が上がりはじめた。
「離れていろ」
窯に近づきながら、「なにが起きた?」と訊く。
「お父さんが出かけたから留守番してたら、珠石が急にまぶしくなって……、いつもとちがうの」
珠石は、魔力を溜められる特殊な鉱石だ。ここのパン焼き窯は魔力で熱を発生させる魔導窯で、その魔力源として珠石を利用している。
本来は石自体に組み込まれた魔法陣が魔力の過剰供給を防ぐとともに、魔導窯に刻まれた魔法陣で出力を適切に調整するため、窯の温度が上がり続けることはない。
だが、今は窯の制御魔法陣の中央にはめ込まれた珠石が、明らかに異常な輝き方をしている。
――石が暴走してるのか? あるいは窯の制御系が機能してないのか?
いずれにしても珠石から魔力が無制限に供給され、窯の温度が上がり続けているのだ。放っておいても、珠石が魔力をすべて放出すれば、いずれ暴走は止まる。だが、その前に火事になる可能性のほうが高かった。
珠石は通常、ゆらぎのない均一なすみれ色で発光する。その珠石が不規則に明滅し、時に目をつぶらなければならないほどの閃光を発している。
――待てよ、魔力は発光する? ということは――。
そういえば、魔法使いが魔法を使う時も、かすかな光が見えた。
魔力は、何らかの粒子的な性質を持っている。少なくとも、粒子として扱える振る舞いを示している。
「リリス、お前は魔力を観測できるか?」
「当たり前ぢゃ」
リリスが理一郎の肩から飛び立ち、珠石の近くに浮かんだ。
「なんぢゃ?」
「珠石の光を強く見ると、無数の小さな粒子が見えないか?」
リリスの目が紅く輝く。その目を細めて観察し、小さくうなずいた。
「確かに見えるのう。まるで星々が集まる銀河のようぢゃな」
理一郎は興奮を覚えた。
これは重大な発見かもしれない。魔力は粒子で構成されているのだ。しかも、その動きは何かの法則に従っているようにも見える。
「リリス、この粒子をより細かく観測できるか?」
「無論ぢゃ」リリスはうなずいたが、にやりと笑って耳元でささやいた。「だが対価が必要ぢゃ」
理一郎は少し考えた。
「お前が要求する記憶には、知識も含まれるのか?」
「含まぬ。知識がお主から失われると、妾まで無能になるからのう。妾が喰らうのはお主の想い出ぢゃ。それによって妾はヒトという存在を、より深く理解できるようになる」
「俺の頭に好きにアクセスできるのだから奪う必要はないように思うが」
「これは対価ぢゃ。痛みを伴わぬものに価値などない」
――どうせろくな想い出などない。
だから別に失われても構わないのだが、言いなりになるのもなんだか癪で、一つ提案してみた。
「お前は情報の悪魔だ。ならば新しい体験というのはどうだ? 対価にならないか?」
「どんな体験ぢゃ?」
「新しい味覚だ。ここのパンは実に美味い。それを味わわせてやる」
「お主が食うたパンの味なら共有しておる。目新しくはないのう」
「まだ食べたことのない、とっておきのパンがある」
リリスは少し迷っていたが、「この程度の労力であれば、それで良しとするかのう」と、口の端によだれを垂らしながら承諾した。
「では、妾に任せよ」
リリスが小さな両手を広げると、珠石の内部が微視的スケールで視界に転送されてきた。
無数の青白い光の粒子が、複雑なパターンを形成しながら濃淡を織りなして動いている。
――これは……魔力そのものが粒子的に振る舞っているのか。それとも、魔力を媒介する何らかの粒子が存在するのか。
そういえば、以前アリアが、魔法は重ねかけできると言っていた。同じ空間に複数の魔力が重なっても、ただちに互いを排除しない。だとすれば、その粒子的な存在はフェルミ粒子ではなく、ボース粒子的な性質を持つと考えるべきだ。
そもそも力とは、場の励起や粒子の交換として記述できる。ならば、この世界で魔力と呼ばれているものにも、それを運ぶ何らかの媒介体が存在している可能性がある。
――いかん。
理一郎は頭を振った。今は目の前の事故に対処するほうが先だ。
「妾なら、より緻密な観測と量子スケールでの操作で暴走を止められるのぢゃがのう。けっこうな働きになるので、今度は味覚というわけにはいかぬな」
リリスが顔の前にやってきて、目をのぞき込みながら訊いた。
理一郎は一瞬考え、首を横に振った。
「勝手にヒトの思考を読むな。お前の手は借りない。もっと簡単な方法がある」
メガネに手をかけて、ゾーンに入る。
単純に考えれば、魔力粒子のブラウン運動を不活発にし、珠石内部の魔力粒子の有効温度を下げてやれば、暴走は止まる。そのためのエネルギーは――。
「外から与える必要はない。珠石は溜め込んだ力を吐き出しながら、自ら冷えていく――か。ふむ、まあまあよくできた仕組みぢゃの」
「だから人の頭をのぞくな」
「ぢゃが、極低温に窯が耐えられるかのう」
「そうならないよう魔力供給と冷却のバランスをとればいい」
――であれば。
D = (k_B T) / (6πηr)
アインシュタイン=スモルコフスキーの関係式だ。粒子の拡散係数Dが、絶対温度Tと粘性、粒径によって決まることを示している。
粒子の拡散はブラウン運動に由来する。通常なら、温度Tが下がることで拡散係数Dも下がる。だが、物理学魔法は方程式の一つの変数から現象全体を拘束できる。Dを下げれば、対応する有効温度Tも下がるはずだ。
関係式をTについて解く。
T = (6πηrD) / k_B
すると、拡散係数Dが明滅しはじめた。
理一郎は、珠石内部の魔力粒子の有効温度Tが二〇〇K付近になるように、Dの数値を調整した。その辺りの温度であれば、窯の耐火レンガも変成せず、周囲の空気が液化したり固体化したりする恐れもない。
「その理に、従え!」
珠石内部では、書き換えられた拡散係数に従って魔力粒子のブラウン運動が徐々にゆっくりになる。
窯の温度計が急速に下降しはじめた。同時に、珠石の輝きも弱まっていく。魔力が急速に消費されている証しだ。
「うまくいっている」理一郎の顔に汗が浮かぶ。
やがて珠石が光を失った。魔力を放出しきったのだ。表面には白く霜が付いている。
理一郎は安堵の息を吐いた。
「すごい!」
パニーナは目を丸くして理一郎を見つめた。
「鍋つかみをくれ」
パニーナから渡された鍋つかみを手にはめると、魔法陣から珠石を取り外した。よくある量産品の中型珠石だ。霜を払って注意深く観察すると、組み込まれた魔法陣の一部が不完全のように思えた。
このところ、アリアの屋敷では魔法陣についての書物を片っ端から読んでいたので、ある程度は理解できるようになっている。
そこに、パニーナの父親があわてて戻ってきた。誰かからボヤ騒ぎを知らされたようだ。
「パニーナ! 大丈夫か?」
「お父さん! この人が助けてくれたの!」
パン屋の主人は、深々と頭を下げた。
「あなたは、確かアルタイルさんの所に下宿してる――」
「物部理一郎という。珠石の保護魔法陣に問題があるようだ。窯には問題ないと思うが、念のため調べてみるといい」
「ありがとうございます」
主人は頭を下げると、窯の制御系を点検する。
「確かに特に問題ないですね」
次に珠石をあらためようとしたので、「素手で触るな。凍傷になる」と、理一郎が鍋つかみを渡した。
「この珠石、先週、買ったばかりなんですよ……、おや? 確かに安全系の魔法陣の一部が消えていますな」
「不良品か」
「買った時はまともに見えたんですけどね。やっぱり安物はだめだな。東市場の露店で、処分品だって言って格安で売ってたんですよ」
それから主人は袋いっぱいにパンを詰め込んで理一郎に渡した。
「とにかく助かりました。娘と店を救ってくれてありがとうございました。お礼といってはささやかですが、今はこれを持っていってください」
「ほんとにありがとう! また来てね!」
パニーナもうれしそうに笑顔を見せた。
その笑顔に手を振り返しながら、理一郎の頭の隅には、主人の言葉が小さく引っかかっていた。
――東市場の、処分品の珠石。
不良品があの一つだけであれば良いのだが――。




