『理の書』の在りか
理一郎は本に囲まれたこぢんまりした書斎のソファで目を覚ました。
意識を失う前、なにかを思い出しかけていた気がする。
とても大切ななにか――。
だが、今はもう思い出せない。
駅馬車の時と同じように、アリアが横に座って顔をのぞき込んでいた。
「ここは?」
「よかった。目が覚めた。ここは先生のご自宅みたいな所よ」
ラランドランドララには、アカデミアの迎賓館を兼ねた立派な公邸が与えられている。だが、「あんな仰々しい所では落ち着いて本も読めないよ」と、公邸裏庭の隅に建つ小さな家で暮らしていた。もともとは庭の作業小屋だったが、ラランドランドララ好みに大改造されている。
「起きたかい。見学がとんでもないことになって、ごめんね」
反対側のソファで書物を開いていたラランドランドララが、顔を上げて理一郎を見た。今は柔らかそうな布地のゆったりした部屋着に着替えている。靴は履いておらず、はだしだ。見ればアリアも理一郎も靴は履いていない。この家では土足厳禁が流儀なのだ。
「でも、助かったよ。理一郎君がいなかったら、たぶん逃げ出されていた。ありがとうね」
理一郎が体を起こす。まだ少し頭がぼうっとしている。
無性に甘い物が欲しくて、白衣のポケットにしまっておいた氷砂糖を口に入れる。
「リリスは?」
「理一郎くんが気を失ったら消えちゃった」とアリア。
意識を失う前、子供の頃の記憶がよみがえっていたような気がする。だが、今はもう思い出せない。リリスの言葉は覚えている。それが従わせた対価だと言っていた。
――どうせろくな記憶などないからな。
記憶などいくらなくなっても特に問題はない。だが、他人に奪われるのが癪ではあった。リリスに頼るのはできるだけ止めようと思う。
「従魔は一般的にどう呼び出すんだ?」
「従魔にもよるけどね、出てこいと命じればだいたい現れるよ」とラランドランドララ。「呼んでみれば?」
「いや、今はいい」
「なんぢゃ? 妾に用はないのか? なかなか役に立つぢゃろ」
呼んでもいないのに、突然リリスが姿を現した。
「お前は勝手に出てこられるのか?」
「当たり前ぢゃ。妾をそこらの従魔と同じにするな。妾は妾の好きにするのぢゃ」
リリスは理一郎の肩に座り、腕を組んでふんぞり返る。
その時、ドアがノックされた。ラランドランドララが許可すると、「失礼します」とソフィアが入ってきた。
「総長、ご報告があります」
「うん」
ソフィアが理一郎たちを横目で見る。
「いいよ。彼らは、もう関係者だからね」
「はい。では――」ソフィアが報告を始めた。「魔法陣を書き換えたのは、召喚科の研究助手でした」
どさくさに紛れて逃走していたが、ソフィアの打ち込んだ魔法印で追跡され、すぐに衛士隊に捕縛されたという。
「召喚科はギデオン院長の主管だよね」
「警備局で背後関係を調査していますが、擬人族の破壊工作員の可能性が高いようです」
擬人族と聞いて、理一郎は神殿で聞かされた、赤ら顔の軍務卿の演説を思い出した。
――確かヒト族と揉めてる別種族だったか。
「擬人族とはなんだ? なぜ敵対してる?」
「学名はHomo imitans。人類の亜種なんだけど、普通はsimulacrum(模造品)から転じて〝シミュラ〟と呼ばれている。なぜか自分たち以外の人類に対して、ねたみ、そねみ、うらみなどの負の感情を、種としていだいていてね。敵対するよう魂に書き込まれているんだよ。たぶん永遠にわかり合えない。卑劣で残忍で狡猾な生き物だよ」
ラランドランドララが初めてネガティブな言葉を使った。口調も驚くほど冷たい。
「あれらの破壊活動なんだね。学都にも潜伏拠点があるとは聞いていたけど。まさかアカデミアに入り込んでいるとは」
「浸透速度の速さから考えると、学内に協力者がいることも想定されます」
「そうだね。ソフィア君、すぐにでもアカデミア関係者の身辺調査をするよう関係各所に通達しておいて」
「わかりました。報告がもう一つ。カイラが今回の功績で一級冒険者への昇格と〝竜殺し〟の称号が与えられることになりました。ただ……」ソフィアが理一郎を見る。「物部さんは貢献の証拠がないとのことで、冒険者組合からの表彰はありません」
「残念だね」とラランドランドララ。「でも私は高く評価しているよ。ご褒美に『理の書』の在りかを教えてあげよう」
「本当か?」
理一郎は目の色を変え、身を乗り出す。
「私は嘘はつかないよ。『理の書』はね、オスタネス大迷宮にあるんだ」
「オスタネス大迷宮? それはどこだ?」
「問題はそこなんだよ。残念ながら、どこにあるか、まだわかってないんだよね」
理一郎の顔があからさまに不機嫌になる。
「それは在りかを教えたことになるのか?」
「でも手がかりはあるんだ。これまでは放っておいたけど、これからはアカデミアの総力を挙げて調査してみる。で、わかり次第、教えてあげるよ。その代わり、形だけでも私の所の研究員になってほしいんだよね」
ソフィアが後を続ける。
「召喚実験場での物部さんの活躍は、すごい速さで広まっています。目撃者は多いし、カイラが学内でも冒険者組合でも触れ回ってますからね。これからは君の力を利用としようする者がたくさん出てくるでしょう。君をアカデミアの名の下に保護するためにも、アカデミアに所属しているという名目が必要なのです」
「そうしようよ。そのほうが安心だよ」とアリアも薦める。
このエルダーエルフを信用していいものかどうかはまだわからない。だが、彼女とのコネは、たぶんこの学都で最も強力なものなのだろう。そして、『理の書』へのアクセスも手に入る。
――合理的に考えれば、研究員になることが最適解、ということか。
「理解した。よろしく頼む」
「うん、よろしくね」
ラランドランドララが差し出した手をそっと握る。思った以上に華奢な手だった。だが、かすかな温もりとともに、千年の時を超えた確かな力が、その小さな手から伝わってくるような気がした。
窓の外では、学都の穏やかな夕暮れが広がりはじめていた。
理一郎の胸には、未知の理論への好奇心が静かに燃えている。
リリスとの連携で開かれた物理学魔法の可能性、アカデミアでの研究環境、そしてオスタネス大迷宮に眠る『理の書』――。
それらは、元の世界で断ち切られた研究の、新たな出発点となるのかもしれない。
「さあ、これからが楽しみだね」
ラランドランドララの言葉に、理一郎は無意識のうちにうなずいていた。
この世界の理を解き明かすための日々が、今まさに始まろうとしていた。
* * *
暴竜騒ぎから数日が過ぎた夕刻。
王都の北部にそびえるアストレリア大聖堂が西日に輝いていた。
統一教団星教派の総本山とも言うべきこの壮麗な建物の最上階に、イグナティウス大司教の教座室が設けられている。
高い天井には星神アストレリアの神威をたたえる天井画が広がり、ステンドグラスから差し込む光が室内を朱く染めていた。部屋の中央には豪奢な執務机と、大司教の地位を象徴する黄金の星座が刻まれた、重厚な椅子が置かれている。
イグナティウス大司教は教座室の窓際に立ち、王都の街並みを見下ろしていた。漆黒の髪が夕陽に照らされ、鋭い目つきには野心的な光が宿っている。
その大司教に、一人の従者がその日一日の報告をしていた。星教派の中でも特に大司教に忠実な部下の一人だった。王国各地域への星教布教活動の進捗、南方地域での異端審問の状況、そして軍務卿との定期連絡……。
「最後に――」従者の表情が少し引き締まる。「特別監視対象に関する報告です」
「ほう」大司教は従者のほうを振り返った。「なにかあるのか?」
あの謎のステータスを持つ異世界人の動向は、彼にとって最重要事項の一つだった。だからこそ、放逐するに当たって首輪を付けたのだ。
「追放翌日に差し向けた巡回修道女による監視は継続中です。彼女によりますと、物部理一郎は学都での生活に順応し、冒険者資格を取得したり、王立アカデミアを訪問したりするなど、積極的にこの世界に順応しようとしているとのことです。しかも――」
「なにかあるのか?」大司教がゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「はい。先日の学都北郊での暴竜退治においても、物部理一郎は重要な役割を果たしたようです。詳細は不明ですが、彼の『物理学魔法』なるものが、暴竜の討伐に貢献したという情報が入っております」
大司教の唇に薄い笑みが浮かんだ。
「やはりな。あの者は我らが予想した以上に有用な存在かもしれん」
「はい。理一郎の名声が学都で次第に高まりつつあることを、教会の情報網も確認しています」
「さて、どうするか……」大司教は指先で机を軽く叩きながら思案する。「あの日女神派の巡回修道女はまだ利用できそうか?」
従者はうなずく。
「はい。非常に敬虔な娘です。教団の意向とあらば必ず従うでしょう」
巡回修道女を統括するのは教団宣教庁であり、アストレリア教会ではない。だが、宣教庁の上層部には彼らの勢力が十分に浸透しており、その巡回修道女は〝教団の密命〟として特別な指示を与えられていた。
「物部理一郎は教団の法に反する、魂の歪んだ存在であり、〝魔人〟化のおそれがある。その兆候を見逃さぬよう継続監視するとともに、接触を試みて様子を探るように、だったな」
「はい、その通りです。順良な彼女は、教団から与えられた使命を疑うなど、思いもつかないことでしょう。ただ……」従者が少しためらいがちに続ける。「教会監視網からの報告では、彼女は物部理一郎に危険性を感じず、むしろ善良な人物だという印象を持ちはじめているようで……」
「問題ない」大司教は手を振り、人差し指で頭をとんとんと叩く。「いざとなれば、信仰心をさらに高めてやる方法はある」
大司教は立ち上がり、再び窓のほうへと向かった。夕日が沈みかけ、街には明かりがともりはじめている。
「あの異世界人の能力は間違いなく有用だ。暴竜退治での活躍がその証左だ。今こそ、彼を我らの陣営に取り込む時だろう」
「どのような方法をお考えでしょうか? 彼の信仰心も高めてやるのですか? 彼はそもそも信仰心を持ち合わせていないようですが」
大司教はゆっくりと振り返ると、野心的な微笑を浮かべた。
「特別な神の祝福を授けてやろう」
従者の目が見開かれる。
「それは……暗示? それとも二度と解けない〝洗脳〟……?」
「言葉に気をつけよ」大司教の声に鋭さが宿る。「暗示や洗脳はこの教団でも王国でも公には禁忌。物部理一郎に与えるのは、星神アストレリアの慈愛に満ちた導きだ。彼の心を迷いから解放し、真の平安を与える。そのための精神的地ならしにすぎん」
従者はうやうやしく頭を下げる。
「仰せの通りです。しかし、その儀式を執り行うには……」
「ああ、本格的な舞台装置が必要だ」大司教はうなずく。「ミスマリアム礼拝所がいいだろう。あそこならば、星神の加護も強く、余人に邪魔されることもない」
ミスマリアム礼拝所は、学都北西の聖なる山に建つ古い礼拝所だ。星教派にとって特に神聖な場所とされ、重要な儀式はしばしばそこで執り行われる。
「では物部理一郎を呼び寄せる策を講じましょう」
大司教は少し考え込む。
「あの巡回修道女を使うのが良いかもしれぬ。なにかうまい手だてを考えよ」
「御心のままに」
「準備を進めよ。かの異世界人を我らの忠実な僕とし、その能力を星神アストレリアの栄光のために捧げさせるのだ」
従者は深く一礼する。
「畏まりました。すぐに手配いたします」
従者が退室すると、大司教は再び窓辺に立った。夜の帳が降りはじめた学都を見下ろしながら、彼の唇に満足げな笑みが浮かんだ。
──物部理一郎という貴重な才は、やがて我が手の内で光り輝くことになるだろう。我がアストレリア教会のために。
大司教座聖堂の最上階から、野心に満ちた視線が学都の夜を見据えていた。
彼の策謀は、静かに、しかし確実に動きはじめていた。




