マクスウェルの小悪魔
ソフィアの案内で、理一郎たちは実験棟へと足を踏み入れた。
実験棟の保安設備は厳重だった。棟の出入り口には三重の扉があり、そのうちの一つには魔術錠がかけられていた。召喚した魔物や獣を万が一にも外に出さないための配慮だ。
「ここが召喚実験室です」
ソフィアに案内されて部屋に入ると、古代の神殿のような荘厳さと、最先端の魔法研究施設としての機能性が融合した、神秘的な空間が広がっていた。
紺碧色の大理石で造られた床と壁には、無数の魔法陣が淡く発光している。中央には大きな円形ステージがあり、床面には複雑な召喚陣が金色の光を放っていた。
ステージの周囲には測定器や操作卓が並び、二階には実験室全体を見下ろせる回廊が設けられている。
理一郎は見学用回廊の手すりから身を乗り出すようにして下の様子を見る。十数人の生徒と数人の指導教官が、実験の準備をしていた。
「わたしの一学年下のクラスね」とアリア。「あの召喚魔法陣は、呼び出す対象に合わせて書き換えられるんだよ」
「今日は初級の精霊を召喚するように設定されているね」ラランドランドララが説明する。「外周に近い陣は拘束や結界のための魔法陣だね。万が一の時はあれで召喚獣を無力化するんだよ」
「危険があるのか?」
「あの魔法陣では、脅威度等級六か七程度の妖精しか呼べないから安全だよ。でも実験には失敗がつきものだからね。ときに未知の生物が現れることもあるんだよ」
「去年は、呼び出した水精霊が言うことを聞かなくて、実験室中水浸しになっちゃったんだ」
アリアが懐かしそうに言う。
「そういえば、魔女のサマンサは黒いカラスを使役していたな。そうした使い魔も、ここで召喚するのか?」
「それは魔女によっていろいろ」
「アリアの使い魔は?」
「わたしはまだ〝魔女〟じゃないから。正式に魔女になった時は、お母さんから譲ってもらうことになってるの。うちのは代々家についてる猫又よ。黒くてもふもふしててかわいいの」
手触りを思い出したのか、アリアの表情が大きくゆるむ。
* * *
生徒たちは思い思いの召喚を試み、従魔契約して自在に操る訓練をしていた。
あるグループが呼び出したのは、風の妖精だった。小さなつむじ風を起こさせ、それを制御しようと生徒たちが苦心している。
別のグループは両手に乗る程度のサイズの火トカゲに、火の輪を作らせていた。
毛玉のような小さな妖精を召喚したものの、従わせられなかったため消えてしまい、肩を落としているグループもあった。
「あそこはなかなか面白いことをしてるね」
ラランドランドララが指さした先では、緑色の小人が種を発芽させていた。種を割って出た芽はすぐに双葉になり、みるみるうちに成長していった。
「あの妖精には植物をあれほど急速に育てる能力はない。妖精に魔力を与え、その魔力が妖精の魔法を強化している。魔力が豊富で操作も上手な子がいるんだね」
理一郎が首をかしげると、ラランドランドララが説明した。
「妖精を魔力の中継器として使う実験をしてるんだよ。たくさんの魔力が必要だから難しいんだけど、いろいろ応用が利く使い方だね」
「従魔を従わせるためには対価が必要なの」とアリアが補足する。「たいていの従魔は従う代わりに魔力を要求するんだ。あの子たちは対価としての魔力を与えた上で、さらに従魔を通じて魔力で植物を成長させているの。けっこうすごいことなんだよ」
正直、どこがすごいのかよくわからなかったが、対価のことは気になった。
「対価が前提か。無償では動かないのだな」
「従魔契約の基本だからね」アリアが答える。
「召喚は班で行っているようだが、対価はどうしてる? 契約者は個人でなくてもいいのか?」
「個人だよ。この授業では班長が契約者になってて、班員がそれぞれの魔力を班長に分けてるの」
「対価は呼び出す従魔によって違うのか?」
「そうだね」とラランドランドララ。「例外もあるけど、簡単に言うと強い従魔ほど大きな魔力が必要になるんだよね。この実験室で召喚できるのは、それほど魔力量を必要としない、つまりあまり危険でない魔物ばかりだよ」
「ならば安心だな」
「ただね、時々は失敗して、意図しない魔物が現れることもあってね。知性が高いと、魔力以外の対価を要求することもあるんだよ」
「失敗しても、これだけ安全装置があれば大丈夫」とアリア。
「それにしても、これは興味深い――」
――一体この世界のどんな理が、あんなテレポーテーションまがいの現象を可能にしているのだろう。
「俺には、召喚とは対象を瞬間移動させる現象のように見えるな。例えば二地点にそれぞれ陣を設置して行き来するような魔法もあるのか?」
ラランドランドララは首を横に振った。
「王国軍が秘密裏に研究してるらしいけどね。まだ実用化したとは聞いてないよ。なんだか一定の確率で成功したり失敗したりするんだって。そもそも召喚は種は指定できても、個体は特定できない魔法だからね」
――ガチャみたいなものなのか。
やがて授業の終わりを告げる鐘が鳴り、指導教官や生徒たちは召喚した魔物とともに実験室を出ていった。
がらんとなった実験室を見て、理一郎が訊く。
「近くで魔法陣を観察したいのだが、いいか?」
ラランドランドララがうなずいて歩き出した。
「では、降りてみようか」
* * *
理一郎はステージ上を歩き回りながら魔法陣をまじまじと眺め、時々しゃがみ込んでは指で形をなぞったりしている。
神殿に刻まれていたものと似ている部分もあるが、もっと単純化されているようだ。
観察しているうちに、魔法陣が円と直線、文字と象形で構成された方程式のように見えてきた。
「実に美しい謎だ」
魔法陣を使う場合、魔法とは、陣に記述された理によって現象に干渉する技術なのかもしれない。
――ララの共同研究提案に乗る価値はありそうだ。
夢中になって陣を観察している理一郎を見て、ラランドランドララがふと思いついたように言う。
「ねえねえ、理一郎君のその特殊な力でも召喚陣は作動するのかな。ちょっと試してみたくない?」
ソフィアが少しあわてる。
「先生、それは危険ではありませんか?」
「この陣なら、たいした妖精は現れないよ」
「ですが、彼の力は未知だと先生もおっしゃってました」
「だからこそさ。だってさ、見てみたくないかい? 理一郎君の力で呼べるのだろうか? 呼べたとしたら、どんな妖精が現れるのだろうか? ねえ、やってみようよ、理一郎君」
普段は喜怒哀楽の大きくないラランドランドララが、知的好奇心に駆られて興奮している。その様子にアリアもソフィアも驚いていた。
「やり方がわからない」
「大丈夫、こんなに優秀な先生がついてるんだから」
ラランドランドララが自分を指さす。
「召喚した妖精はどう処遇すればいい? 従魔になどする気はないぞ」
「契約しさえすれば用がないときはしまっておけるんだけどね」
どこにしまっておくんだという疑問は呑み込んで、「契約はしない」と宣言する。
「契約しなければ帰せるよ。元いた場所との経路がつながっている間に限るけどね」
「ならば実験してみよう。だが期待外れでも責めないでもらいたい」
「いいよ、いいよ。さあ、ソフィア君、魔法陣の設定をもう一度確認して」
「……わかりました」
ソフィアは、こんなはしゃいでいるラランドランドララを見るのは久しぶりだった。諦めたような顔でソフィアがダイヤルとボタンを操作する。ステージ上の魔法陣が音もなく書き換わった。
* * *
理一郎は小さな制御用魔法陣の上に立ち、次の指示を待った。
「あとは意識を集中して、召喚したい従魔を思い浮かべるだけだよ」
「そう言われてもな。〝思い浮かべる〟の定義が不明だ。定義できないものは、扱えない。それが数理の理だ」
「名前とか、姿形とか、能力とか、とにかく呼びたい妖精を思い浮かべるんだよ」
――であれば、どうせなら〝研究に役立つやつ〟ぐらいの曖昧なイメージで呼んでみるか。
そんな抽象的な願いを具象化できるかどうかも確かめてみたいと考えた。
理一郎はイメージに集中するため目を閉じた。
ラランドランドララは興味津々といった具合に瞳を輝かせて、アリアは心配そうに胸の前で手を合わせて、ソフィアは万が一の時のために結界発動機構のスイッチに手を置きながら、理一郎を見守る。
突如として魔法陣が激しく輝き出した。
ソフィアが驚いてラランドランドララを見る。そんな劇的な反応が起こるような魔法陣ではなかったからだ。
ラランドランドララは安心させるようにうなずく。なにかあれば自分が対処すると目で告げている。
青白い光は渦を巻き、空中の一点に収束すると、一瞬爆発的に輝いた。
まぶしさに思わず目をつぶった一同が再び目を開くと、魔法陣の中心に人型の妖精のような、小さな生き物が浮かんでいた。
人形のように整った可愛らしい顔立ちと銀色の長い髪。背中には透き通った蝶のような羽があり、黒と紅を基調とした優美なミニドレスを着ている。可憐な妖精のようにも見えるが、頭には鋭く尖った二本の角が生え、どこか禍々しい。
「へえ、ヒト型とは珍しい。それに――」
ラランドランドララが身を乗り出す。
「初めて見るタイプだ。ソフィア君、文書庫に記録はあるかい?」
ソフィアが操作卓で文書庫を呼び出し、検索する。アリアが横で表示板をのぞき込む。
「いいえ、記録はありません。未確認種です。続けて鑑定します」とソフィア。
だが、表示板にはただ「鑑定不能」の文字が現れた。
いつも冷静なソフィアが、少しあわてて早口で言う。
「鑑定できません。種属すらわかりません。妖精ではない可能性もあります」
「そんなことってあるの?」とアリアも驚く。
現れた魔物は、宙に浮いたまま、紅い瞳で理一郎をじっと見つめている。
――意思疎通はできそうだな。
理一郎が魔物に話し掛ける。
「お前はなんだ? 妖精というよりは小悪魔といった風情だが」
魔物はにやりと嗤い、宙に浮いたまま優雅に一礼した。
それから顔立ちに似合わない高慢な口調で答えた。
「無知な奴め。妾は悪魔ぢゃ。微小な粒子の速度や位置などの情報を収集・観測し、分析・制御するために生み出された存在ぢゃ。対象から詳細な情報を読み出すことのできる〝情報の悪魔〟ぢゃ。お主の研究には役立つ存在であろう」
理一郎は目を見開くだけで、声が出ない。
――まさか!?
「わかるのかい?」
ラランドランドララが近寄ってきた。
「〝マクスウェルの悪魔〟……なのか!? だが、あれは熱力学第二法則の限界を問うためにマクスウェルが考案した想像上の存在だ」
「〝熱力学の第二法則〟?」
「外部からエネルギーを与えない限り、熱は高温から低温へ流れ、エントロピーは一方向に増大する。これが熱力学の第二法則だ」
「うーん、理解できない単語だらけだね。難しい話になりそうなのかな」
ラランドランドララは警戒のそぶりを見せるが、理一郎はお構いなしに興奮して早口でまくし立てた。
「例えば瓶に間仕切りがあって、片側にお湯、片側に水を入れる。時間がたてばお湯は冷め、水は温くなり、やがて両側の温度は同じになる。その逆、つまり温度差が広がるということはない」
「それならわかるかな」
「それが熱力学第二法則だ。絶対の法則と言われている。だがマクスウェルは、運動粒子を識別・選別できる存在を仮定することにより、その絶対性を揺さぶる思考実験を示した」
「やっぱり難しい話なんだね」
「想像してみてくれ。もし、瓶の仕切りに微細な穴があり、そこに知的存在がいて、分子一つひとつの速度を観測し、速い分子だけを右側へ、遅い分子を左側へ通すことができたとしたら――。瓶という閉じた系であっても温度差を意図的に作り出すことが可能になる。その知的存在が〝マクスウェルの悪魔〟だ」
「悪魔というのは、私たちの世界では空想上の種族だよ。君の世界では実在したのかい?」
「実在を信じている者もいるし、悪魔のような人間もいる。だが、少なくとも俺が観測可能な範囲には実体として存在ししてはいなかった」
「では、概念が具象化した存在ということになるのかな」
ラランドランドララは、小悪魔を瑠璃色の瞳を輝かせてしげしげと見つめている。
「長く生きてきてたいていのことは知ってると思っていたけど、まだ驚かされることもあるんだね」
「おい。妾を無視していつまでごちゃごちゃ話しておるのぢゃ」
さっきからイライラした様子で二人の会話を聞いていた小悪魔が、しびれを切らした。
「妾を顕現させたのはお主ぢゃろ? さっさと契約せんか」
「いや、待て――」
――こんな得体の知れない物にまとわりつかれてはかなわない。
「俺には従魔など不要だ。元の世界に帰れ。まだ経路は開いているのだろう」
「なにを言っておる。妾は、お主の願望によって、たった今、まさにこの場所で、形を得たのぢゃ。帰る場所などないわ」
「なんだと!? おい、話が違うじゃないか」
理一郎は助けを求めてラランドランドララを見る。
ラランドランドララが目をそらす。
「さっきも言ったけどね、私も初めてなんだよ、こんな従魔は。ただ帰る場所がないなら、帰すことはできないだろうね……」
それから、さもいいことを思いついたというふうに声を弾ませる。
「でもさ、概念が具象した悪魔なんて、かなり面白くないかい? この世に二つといないよね。理一郎君が契約しないなら、私がしてもいいかな? 久しぶりに研究意欲が湧いてきたんだよ。ねえ、いいよね?」
「先生!」とソフィアがたしなめる。
「妾は、此奴としか契約せんよ」と小悪魔が理一郎を指す。
ラランドランドララが大きく肩を落とした。
「正確には、此奴としか契約できんのぢゃ。妾と此奴とは不可分でのう。さっき経路などと言っておったが、妾は此奴とつながっておるのぢゃ。此奴が妾と契約せんと言うなら、妾はただ消えるだけ。それがこの世界の理のようぢゃからな」
消えると聞いて、ラランドランドララがあわてる。
「そんな、もったいないよ。ならば是非もない、理一郎君、すぐに契約したまえ。この悪魔の能力は、君の研究にも役立つのだろう?」
――確かに。
もしも、この小悪魔が自己紹介通りの能力を持つなら、観測や情報処理には重宝するだろう。
――それに、消えてしまうと言われては……
考え込んだ理一郎を見て小悪魔が要求する。
「妾に名を与えよ。それで契約成立ぢゃ」
――いいだろう。研究材料も手段は多いにこしたことはない。
「了解だ。契約しよう。名は〝マクスウェルの小悪魔〟でいいだろ」
「それは名ではないぢゃろ!」
小悪魔は不機嫌そうにそっぽを向いて眉をひそめた。
「なら〝リ●ちゃん〟はどうだ」
「馬鹿にしておるのか、それは女児向けの人形の名ぢゃろ。しかもお主、妾の頭が大きくて等身がその人形に似ているから選んだな。まったく無礼な奴ぢゃ。お主の考えなど丸見えなのぢゃぞ。どれ――」
小悪魔が理一郎の瞳をじっとのぞき込む。
「ふむ。お主の世界にはリリスという強い女悪魔がいるではないか」
「なぜ知っている?」
「お主の頭の中にあるからぢゃ。妾が微粒子を分別できるのは、その速度や位置などの情報を知れるからぢゃ。つまり妾はそもそも情報を司る悪魔なのぢゃ。お主の記憶を読み出すことなどたやすいわ」
「勝手に人の頭を探るな」
「仕方ないぢゃろ。それが妾の在り方だ」
「従魔になるのなら、俺の許可を得てからにしろ」
「それは無理ぢゃ。妾が顕現している間は、自動的にお主の思考や記憶を共有してしまうのぢゃ」
ならばさっさと契約して、〝しまっておく〟に限る。
「〝リリス〟は少し大げさのようだが……、まあいいだろう、お前はリリスだ」
「これで契約は成立ぢゃ。最初のパートナーの名としてもぴったりぢゃろ」
「あの……」アリアが心配そうに言う。「契約条件は詰めなくて大丈夫なのかな? 対価とか……」
「うるさい小娘ぢゃな。細かいことは、後でいいぢゃろ」
理一郎はうっとうしそうにリリスに言う。
「さあ、〝しまわれて〟くれ」
「どこにしまわれろと言うのぢゃ?」
「俺が知るものか」
「ふん。お主が知らないものを妾が知っているわけないぢゃろ」
「なんだと!?」
リリスが宙を舞いながら催促した。
「早くこの世界を見せよ。妾は情報に飢えておるのぢゃ」
ラランドランドララは、リリスの要求に応えて言う。
「じゃあ、次は大規模召喚場に行ってみようよ。大型の魔物が見られるよ」とラランドランドララ。「ソフィア君、今日はなにを召喚してるかな?」
「今日の召喚獣は走竜です。竜騎兵の騎竜を補充したいと、学都騎士団から要請がありましたので」
ソフィアが黒革表紙の魔法の手帳を見て答えた。
「いいね、小さいけど竜種だよ」
――竜、だと?
リリスの存在は面倒だが、ドラゴンと聞いてがぜん観察意欲が湧いた。子供の頃から恐竜は好きだったのだ。
「行こう」
目指す屋外召喚場は学都の北の外れにあるため、一行は総長専用馬車に向かった。
理一郎は自分がワクワクしていることを自覚した。馬車乗り場への歩調がおのずと早まる。リリスはその肩にちゃっかり乗っていた。




