第9話: 急いた声が、鉋の音を止めた
紅葉の右手が、一瞬だけ夕陽を透かした。
花は、今日も一輪も開いていない。それなのに、指先の輪郭が淡くなって、また戻った。
瞬きの間の出来事だった。朔也は、それを見なかったことにできなかった。
「今の、見えた?」
朔也は思わず聞いた。紅葉は自分の手のひらを見下ろし、それから小さく首を振った。
「見えなかった。何が」
「なんでもない」
嘘だった。言えば、紅葉はまた不安になる。それだけは、まだ避けたかった。
大事なことほど、ちゃんと言葉にする。自分でそう決めたはずなのに、今こうして守れずにいる。矛盾していると分かっていても、朔也は口をつぐんだ。
陸と顔を合わせてから、十日が経っていた。来月、四人で飯に行く。その約束は変わっていない。けれど朔也は、坂を下りながらスマートフォンのカレンダーを何度も開いていた。来月まで、あと三週間。
三週間のうちに、紅葉の輪郭がまた透けることが、あと何回あるのか。
誰にも分からなかった。紅葉自身にも。
「わたし、平気だよ」紅葉が先に言った。朔也の考えを見透かしたような、少し早すぎるタイミングだった。「そんな顔、しないで」
「そんな顔って、どんな顔」
「今にも走り出しそうな顔」紅葉は小さく笑った。「昔から、そうだったよね。困ってる子がいると、真っ先に駆け寄る」
図星だった。朔也は苦笑するしかなかった。
画面に、陸の名前を表示させたまま、朔也はしばらく親指を止めていた。
翌日の職場は、いつもより長く感じられた。
窓口の合間、朔也は伝票の数字を何度も読み違えた。田中に二度指摘されて、そのたびに謝った。
「柊、今日も上の空だな」
「すみません」
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、朔也は席を立った。財布だけ持って、裏口から自転車を出す。メッセージは送らなかった。送れば、断られるかもしれない。断られたら、もう一日、待つことになる。それが怖かった。
商店街を抜ける途中、キヨの駄菓子屋の前を通った。店先の日除けの下で、キヨおばさんが団扇を使いながら店番をしていた。
「あら、朔也くん。珍しい時間に」
「ちょっと、人に会いに」
「陸くんとこ?」キヨおばさんは目を細めた。「さっき、うちの前を軽トラで通っていったよ」
どこの誰が誰と会うかまで、この町では隠しようがない。朔也は曖昧に頷いて、ペダルを踏み直した。
現場は、商店街の裏手にある古い民家の改修だった。木材の匂いが、道の途中からもう漂っている。丸鋸の甲高い音と、木くずの粉が、夏の陽に舞っていた。
「柊さんとこの?」
脚立の上から声をかけてきたのは、見覚えのある職人だった。陸の親父の代からの付き合いだと、田中から聞いたことがある。
「陸、いますか」
「休憩中だ。裏で座ってる」
教えられた通り裏へ回ると、陸が古い切り株に腰かけ、水筒を傾けていた。作業着の袖をまくり上げ、汗が首筋を伝っている。
「……なんだよ、急に」
陸の声に、警戒が混じった。
「来月の話じゃなかったのか」
「うん」朔也は言った。「でも、今日話したくて」
陸は水筒の蓋を閉め、それを工具箱の上に置いた。
「座れよ」
朔也は、隣の木材の上に腰を下ろした。木くずの匂いが、鼻の奥にまで届く。鉋をかけたばかりらしい柱が、二人の間に立てかけられていた。
「仕事、順調そうだな」
「まあな」陸は木くずを指先で払った。「この家、築六十年だとよ。梁の組み方が今と全然違う」
「詳しいな」
「毎日見てりゃ、嫌でも詳しくなる」
陸は柱を見上げ、指の腹で節の部分をなぞった。
「昔の職人は、木の癖まで読んで組んでたらしい。今みたいに真っ直ぐな材ばっかり使うわけじゃなかった」
「へえ」
「継ぎ目一個、直すのに三日かかる。効率悪いよな」陸は少し笑った。「でも、そういうのが嫌いじゃない」
そんな話をする陸を見るのは、初めてだった。工務店を継いだと聞いてから、朔也の中では「継がされた」という言葉の方が強く残っていた。今の陸の顔には、それだけではない何かがあった。
短い応酬の後、二人の間に一拍の間ができた。会話の接ぎ穂を探しているのが、その仕草だけで分かった。
「紅葉のことか」陸が先に切り出した。「わざわざ来たのは」
朔也は、頷いた。
「まだ、はっきりとは言えない」朔也は前と同じ言葉を繰り返した。「でも、時間がないかもしれない」
「時間?」
「うまく言えない」朔也は膝の上で拳を握った。「でも、来月まで待てる気がしなくて」
陸は、しばらく黙っていた。工具箱の上で、水筒の水滴が一つ、木の表面に落ちた。
「そんなに、悪いのか」
「分からない」朔也は正直に言った。「悪くなってる、気はする」
陸の眉間に、皺が寄った。何かを言いかけて、止めた顔だった。
いつもの朔也なら、ここで話を変えていた。悪くなってる気はする、とだけ言って、あとは笑ってごまかす。それが一番、波風を立てない終わり方だと知っていた。
けれど今日、紅葉の手はもう夕陽を透かしていた。黙ってやり過ごせば、また同じことが起きる。起きたまま、僕はまた何も言えずに終わる。
喉の奥に、いつもの「……いや、なんでもない」が浮かんだ。朔也はそれを、今日だけは飲み込まなかった。
「陸」朔也は、続けた。「あの夜のこと、もう一つだけ聞いていいか」
「……なんだ」
「五年前、陸は本当は誰よりも紅葉のこと、心配してたんじゃないか」
工具箱の陰で丸鋸の音が止まった。誰かが休憩に入ったらしい。現場全体が、急に静かになった。
陸の顔から、表情が消えた。
「なんで、そう思う」
「なんとなく」朔也は言葉を選びながら続けた。「あの夜、僕を責めたのも、本当は自分に向けてた言葉だったんじゃないかって」
「やめろ」
陸の声は、低く短かった。
「知った風なこと言うな」
朔也は、それ以上続けられなかった。踏み込みすぎたと、遅れて気づいた。
言葉にすることと、言葉で人を切ることは、似ているようで別物だった。今の一言は、後者だった。分かっていたはずのことを、また間違えた。
沈黙が、切り株の間に降りた。
現場のどこかで、誰かが木材を運ぶ音が遠く響いている。それ以外は、何も聞こえなかった。
陸は工具箱の蓋を開け、鉋を取り出した。柱に刃を当て、一往復だけ滑らせる。薄い木肌が一枚、足元にひらりと落ちた。
鉋の音は、それきり止まった。
「悪い」朔也は言った。「今のは、余計だった」
「別に」
陸は柱に手をかけたまま、朔也を見なかった。
「休憩、終わりだ」
それだけ言って、陸は工具箱を担ぎ直した。会話は、そこで打ち切られた。
立ち上がった陸の腰道具に、小さな組紐の切れ端がぶら下がっているのに、朔也は気づいた。
色褪せた青と白の紐。子供の頃、五人で神社の祭りの屋台で作った、お守りの紐に似ている。あの日、紅葉が一番不器用で、結び目をいくつも失敗していたことを、朔也は覚えていた。
「それ」朔也は思わず言った。「もしかして」
陸の手が、一瞬止まった。
紐に触れかけて、止め、そのまま工具箱の陰に隠すように腰道具を回した。
「なんでもねえよ」
陸は背を向けたまま歩き出した。
「じゃあな」
振り返らずに、現場の奥へ消えていった。丸鋸の音が、また甲高く鳴り始めた。
現場を出た後も、昼休みはまだ半分残っていた。朔也は自転車に乗らず、しばらく商店街の日陰を歩いた。
「知った風なこと言うな」という声が、耳の奥でまだ響いていた。間違ったことを言ったつもりはない。それでも、言い方はきっと間違っていた。急いた分だけ、言葉が刃物になっていたことに、後になって気づいた。
午後の仕事は、ほとんど記憶に残らなかった。定時を待って、朔也は自転車を裏山へ向けた。
自転車を押しながら坂を上る間、朔也はずっと、あの紐のことを考えていた。
五年間、腰道具から外さずにいた。それは、偶然だとは思えなかった。
境界の切れ目を越えると、花の匂いが変わった。紅葉が、いつもの場所で待っていた。
「どうだった?」
「話せなかった」朔也は正直に言った。「途中で、怒らせた」
「わたしのこと、聞いたの」
「うん」
紅葉は、蕾の方へ視線を移した。陸の分だと見立てているあの花は、今日も固く閉じたままだった。
「陸くんの腰に、紐がついてた」朔也は続けた。「昔、みんなで作ったやつに似てる」
紅葉の目が、大きく見開かれた。
「本当に?」
「うん。触ろうとしたら、隠された」
「わたしの、結び目失敗した奴?」紅葉は自分の手を見た。「覚えてる、なぜか。不器用すぎて陸くんに笑われたの」
「よく覚えてるな、それも」
「みんなで笑った記憶だけは、鮮明なんだって。前にも言ったでしょ」
紅葉はそう言ってから、ふと表情を曇らせた。
「わたしのせいで、陸くんまで怒らせちゃったね」
「紅葉のせいじゃない」朔也は即座に否定した。「僕が、急ぎすぎただけだ」
「急がなきゃいけないのは、本当なんでしょ」
その通りだった。だから何も言い返せなかった。
夕陽が、花畑をまた橙色に染め始めていた。陸の分の蕾は、風に揺れながら、今日も何も語らなかった。
急いた声が、鉋の音を止めた。止めた音の分だけ、二人の間には何かが残った。焦りだった。後悔だった。そして、まだ確かめきれない予感だった。
それでも朔也は、確信していた。
あの紐の下に、まだ言えていない何かが結ばれたままになっている。
透けかけた紅葉の指先と、色褪せても解けない陸の紐。同じ夕陽の下で、消えていくものと、まだ結ばれたままのものが、静かに並んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第9話から第2アーク「散らばった記憶編」が始まりました。第1アークの終わりで陸との距離が少しだけ縮まったぶん、今回はあえて逆方向に振ってみました。歩み寄れたと思った直後にもう一歩踏み込むと、相手はまだ心の準備ができていない。その痛さを書きたかった話です。
鉋の音を「止める」という演出は、陸という職人キャラクターだからこそ使える装置だと思っています。感情を言葉で説明する代わりに、彼の手が止まる、道具の音が止まる、それだけで十分だと信じて、あえて内心描写を削りました。
腰道具の組紐は、実は今回初めて出した新しい手がかりです。五年間、陸がそれを手放さずにいたという事実だけで、彼が本当は何を抱え続けてきたのか、読者の方にも薄々伝わっていれば嬉しいです。この紐の正体は、次話以降でもう少し掘り下げていきます。
紅葉の輪郭が花の開閉と無関係に薄くなる現象も、今回さらに一歩進めました。タイムリミットの正体は、まだ朔也にも紅葉にも見えていません。第2アークは、陸・芽依・拓斗、それぞれの記憶を一つずつ回収しながら、その正体にも少しずつ近づいていく予定です。どうぞよろしくお願いします。




