第10話: 隠した紐の続きを、陸が話しに来た
窓口のガラス越しに、見覚えのある背中が見えた。
作業着ではない、洗いざらしのシャツ姿。陸が、順番待ちの列の一番後ろに並んでいた。
朔也は、伝票を持つ手を止めた。
工務店に来た時とは逆だった。あの日は自分から押しかけた。今日は、陸の方から来ている。何かあったのか、それとも本当にただの手続きなのか、朔也には判断がつかなかった。
列がじりじりと進むあいだ、陸は一度もスマートフォンを見なかった。腕を組んだまま、床の一点をじっと見つめていた。
三日、経っていた。
現場でのあの日から、朔也は連絡を送れずにいた。謝るタイミングを何度も逃し、結局そのまま日が過ぎていった。
その三日の間も、丘には毎日通った。紅葉には陸のことを詳しく話さなかった。「まだ、うまく話せてない」とだけ伝えると、紅葉はそれ以上聞かなかった。
陸の分だと見立てているあの蕾は、相変わらず固く閉じたままだった。触れても、何も起きなかった。
窓口の列がまた進んだ。朔也は伝票を裏返しては、また表に戻す動作を繰り返していた。頭の半分は、まだ現場での沈黙に残ったままだった。
陸の番が来ると、彼は窓口の前で立ち止まったまま、しばらく何も言わなかった。
「……何か、お手続きですか」
朔也は、職業用の声で聞いた。他に選びようがなかった。
「違う」陸は小さく言った。「休憩、いつ取れる」
背後で田中が、怪訝そうな顔をこちらに向けていた。
裏口を出ると、陸は自動販売機の前で待っていた。
缶コーヒーを二本買い、片方を朔也に押しつけるように渡す。少し前、初めて謝られたあの日と同じ、ボタンの半分効かない機械だった。塗装の剥げた側面には、五人で悪戯書きした跡がまだうっすら残っている。
二人は、自販機の脇のガードレールに並んで腰かけた。仕事帰りの車が、時折り砂埃を巻き上げて通り過ぎていく。
「この前は、悪かった」陸は缶を開けずに言った。「怒鳴るみたいな言い方して」
「僕こそ」朔也は言った。「踏み込みすぎた」
陸は首を振った。
「踏み込まれて困ることを、隠してたのは俺の方だ」
缶コーヒーの結露が、陸の指の間を伝って落ちた。しばらく、二人とも黙ったままだった。夕方の風が、道端の雑草を揺らしていた。
「ずっと、考えてた」陸はようやく口を開いた。「あの紐のこと、話すかどうか」
「無理に、話さなくてもいい」
「いや」陸は缶をきつく握った。「話すって、もう決めた」
「あの紐」陸は、ようやくそこに触れた。「紅葉が、作ったやつだ」
朔也は、息を止めた。
「五年前、消える四日前」陸は前を見たまま続けた。「紅葉と、喧嘩した」
「喧嘩?」
「あいつ、進路のこと誰にも相談してなかった。俺だけ、なんとなく気づいてた」陸は缶を両手で包んだ。「お前らには言うな、とだけ言われて。それが、気に食わなくて」
「それで」
「放課後、教室に呼び出した」陸は目を伏せた。「『いつまでも曖昧にしてんな』って、言った」
陸の声が、少しずつ小さくなっていった。
「まとめ役面して、あいつのこと問い詰めた。本人のためだと思ってた」陸は缶コーヒーのプルタブを指先で弾いた。「でも、あれは違う。俺は、あいつが自分から動かないのが苛立たしかっただけだ」
「紅葉、何て言ってた」
「何も」陸は首を振った。「ただ、こっちを見て、ちょっと笑って。それが、余計に怖かった」
朔也の中で、紅葉の言葉がよみがえった。——陸くんに強く当たられた気がする。あれ以上は、まだ。
あの断片は、これだったのだ。
「紅葉、何も言い返さなかった」陸は続けた。「ただ、次の日にこれを寄越した」
陸は、腰道具の紐を初めて自分から取り出した。色褪せた青と白。結び目が、ところどころ不揃いだった。
「『いつも心配してくれてありがとう』って、メモが一枚ついてた」陸は紐を握りしめた。「ちゃんと返事しようと思ってるうちに、四日経って、いなくなった」
沈黙が、二人の間に降りた。自動販売機のモーター音だけが、低く唸り続けていた。
「謝らなきゃって、五年間ずっと思ってた」陸はやっと顔を上げた。「でも謝る相手が、もういなかった」
「だから、僕を責めたのか」
「違う」陸は即座に否定した。「お前を責めたのは、八つ当たりだ。本当に許せなかったのは、自分だ」
「誰よりも心配してたのは、俺なのに」陸の声が、初めて震えた。「一番肝心なとこで、突き放した」
その一言に、朔也は何も返せなかった。
五年間、陸が抱えていたものの重さが、ようやく形になって見えた。朔也が言えなかった言葉と、陸が言い過ぎた言葉。二人はずっと、違う種類の後悔を、同じ夜に置き去りにしていたのだ。
「その紐、今も持ってるんだな」朔也は、やっと言った。
「捨てられるわけ、ないだろ」陸は紐をポケットにしまった。「返事も言えてないのに」
「五年間、毎日それ見てたのか」
「見てたわけじゃねえよ」陸は少し早口になった。「ただ、外さなかっただけだ」
外さなかった、という言い方の中に、見ていた、と同じだけの重さがあるのを、朔也は感じた。陸はきっと、それに気づいていない。
「あの喧嘩のこと、誰かに話したのは」
「初めてだ」陸は言った。「親父にも、言ってない」
「なんで、今日話す気になった」
「お前が、余計なとこ突いてきたからだ」陸は苦笑した。「あの日、鉋止めただろ。あれで、目が覚めた」
「僕、怒らせただけだと思ってた」
「怒った」陸は認めた。「でも、それだけじゃなかった」
缶の底に残った最後の一口を、陸は飲み干した。喉が動く音が、やけにはっきり聞こえた。
「陸」朔也は、意を決した。「紅葉に、会いに行く気はあるか」
陸の目が、大きく見開かれた。
「見つかったのか」
「まだ、ちゃんとは言えない」朔也は言葉を選んだ。「でも、もし本当に会えるとしたら」
陸は、しばらく黙っていた。缶コーヒーを一気に飲み干し、空き缶を握りつぶす。
「行く」陸は言った。「返事、まだ渡せてないんだ」
「簡単には、連れて行けないかもしれない」朔也は慎重に言葉を継いだ。「事情が、色々あって」
「事情って」
「うまく説明できない」朔也はまた同じ言葉を繰り返した。「でも、噓じゃない」
陸は、探るように朔也を見た。五年前なら、そこでもっと問い詰めていたはずだ。けれど今日の陸は、それ以上聞かなかった。
「待つのは、慣れてる」陸は空き缶をゴミ箱に投げ入れた。「五年、待った。もう少し、待てる」
その言い方には、意地でも待つという頑固さと、これ以上朔也を追い詰めまいとする配慮の、両方が滲んでいた。
夕方の光が、商店街のアスファルトを橙色に染め始めていた。
朔也は坂を上りながら、ポケットの中で陸の言葉を何度も反芻した。誰かをこの丘に連れてくるという可能性を、初めて本気で考え始めていた。
境界を越えると、紅葉がいつもの場所で待っていた。
「今日は、何かあった?」
紅葉が、朔也の顔を見て小さく首を傾げた。
「陸に、会った」朔也は言った。「紐の話も、聞いた」
紅葉は、蕾の方へ視線を向けた。陸の分だと見立てているあの花が、今日はほんの少しだけ、色を濃くしているように見えた。
開いてはいない。それでも、確かに何かが変わり始めていた。
「陸くん」紅葉は蕾に手を伸ばしかけ、途中で止めた。「今度こそ、ちゃんと届くといいね」
「うん」
「わたし、なんとなく分かる気がする」紅葉は膝を抱えた。「強く当たられた気がする、だけじゃなくて。笑って誤魔化した記憶も、ある気がするの」
「思い出したのか、今」
「思い出した、とは違う」紅葉は蕾を見つめた。「陸くんの話、聞いてたら、そんな気がしただけ」
花に触れたわけでもないのに、それだけの実感が動いたことに、朔也は小さな戸惑いを覚えた。紅葉自身も、うまく説明できないようだった。
「怖い?」朔也は聞いた。「みんなに、少しずつ会うの」
「怖いよ」紅葉は正直に言った。「でも、待ってるだけより、ずっといい」
その台詞は、いつか朔也自身が口にした言葉と、よく似ていた。誰かの言葉が、こうして別の誰かに受け継がれていくのを、朔也は初めてこの目で見た気がした。
夕陽が、花畑の輪郭をゆっくりと橙色に染めていく。紅葉の指先が、また薄く透けて、すぐに戻った。今度は、朔也もそれを黙って見届けた。
まだ結ばれたままの紐の先に、五年越しの返事が、静かに動き出していた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第10話は、第9話で伏せた組紐の正体を、陸自身の口から明かす回になりました。「お前のせいだ」という五年前の言葉の裏に、実は陸自身が紅葉を傷つけていたという、もう一つの後悔があった構成です。朔也の「言えなかった後悔」と、陸の「言い過ぎた後悔」を対にして描きたいというのが、このエピソードの出発点でした。
紅葉の台詞「陸くんに強く当たられた気がする」は、実は第7話の時点ですでに置いていた伏線です。あの一行がここでつながった瞬間、自分でも「ああ、これのためだったのか」と腑に落ちました。伏線は狙って仕込むこともありますが、今回はどちらかというと、後から意味を発見したタイプの伏線でした。
陸が缶コーヒーを飲み干して握りつぶす場面は、彼にとっての小さな踏ん切りのつもりです。次話以降、陸に関わる花がどう反応していくのか、そして紅葉に本当に会わせていいのかという新しい緊張感も含めて、引き続き書いていきます。どうぞよろしくお願いします。




