第11話: 陸が丘へ登った日、紅葉の名前を五年ぶりに呼んだ
坂の入口で、陸が足を止めた。
「本当に、この先か」
声が、いつもより低かった。子供の頃、数えきれないほど登った坂のはずなのに、陸の足取りはよそよそしかった。
街灯の届かない坂道の先に、木々の影が濃く重なっている。虫の声だけが、絶え間なく響いていた。
その日の仕事終わり、朔也は陸に一本だけメッセージを送った。
——今夜、時間あるか。話じゃなくて、見せたいものがある。
返信は、五分と経たずに来た。
——行く。
たったそれだけの短い返事に、迷いのなさが滲んでいた。
坂の下で落ち合うと、陸は作業着のままだった。仕事終わりに、着替える余裕もなく来たのだろう。汗の匂いと、木の匂いが、まだ薄く残っていた。
「見せたいものって」
「登れば、わかる」朔也はそれしか言えなかった。「信じてついてきてほしい」
陸は、しばらく朔也の顔を見ていた。値踏みするような視線ではなかった。ただ、覚悟を決めるための間だった。
「分かった」陸は短く言った。「お前がそう言うなら」
それから、何も聞かずに歩き出した。
朔也は、その背中を追いながら、自分の心臓の音を初めて意識した。ここまで誰かを連れてくるのは初めてだった。もし何も起こらなかったら。もし紅葉の姿が、陸の目には映らなかったら。考え始めると、足が重くなった。
境界の切れ目を越える瞬間、朔也は思わず陸の様子を窺った。
何も、起こらなかった。陸は普通に一歩を踏み出し、普通に坂を上り続けた。
「おい、なんか変わったか、今」陸が首を傾げた。「一瞬、耳の奥が変な感じした」
「気にしなくていい」朔也は前を向いたまま言った。「もうすぐだから」
紅葉だけが越えられない境界。朔也以外の誰かがここを越えるのを見るのは、初めてだった。安堵と緊張が、同時に胸を締めつけた。
少なくとも、丘は陸を拒まなかった。それだけで、今日ここまで連れてきた判断が間違っていなかったと思えた。
花の匂いが、ふわりと変わった。
「なんだ、これ」陸が足を止めた。「季節、外れてないか。この匂い」
「もうすぐ、わかる」
最後の数歩を、朔也はあえてゆっくり歩いた。陸の反応を、少しでも長く見ていたかった。
坂を上りきると、視界いっぱいに花畑が広がった。夕陽を吸い込んだ花びらが、一面に橙と紅を散らしている。陸が、息を呑む音が聞こえた。
「なんだよ、ここ」陸は立ち尽くしたまま、花畑を見渡した。「こんな場所、あったのか」
「あった」朔也は言った。「昔から、ずっと」
いつもの場所に、紅葉が立っていた。
夕陽を背に、五年前と寸分違わぬ姿で。
陸の足が、その場に縫いつけられたように止まった。
「……嘘、だろ」
声が、震えていた。
「陸、くん?」
紅葉が、目を見開いた。
二人は、しばらく何も言えずに向かい合っていた。五年の距離と、五年分止まった時間が、花畑の真ん中で不格好に噛み合わないまま並んでいた。
紅葉の高校の制服に似たワンピースと、陸の日に焼けた作業着。同じ十九歳のまま止まった少女と、二十四歳になった男。並んで立つと、その時間差が残酷なほどはっきりと見えた。
陸が、ゆっくりと近づいた。一歩ごとに、その足取りが確かなものに変わっていくのが、朔也にも分かった。
「五年間」陸の声が、掠れていた。「どこにいたんだよ」
「わからない」紅葉は正直に言った。「ずっと、ここにいた気がする」
「馬鹿かよ」陸は苦笑した。目の縁が、赤くなっていた。「そんな顔で、何年待たせるつもりだったんだ」
「ごめん」
「謝るのは、俺の方だ」
陸は、紅葉の顔をまじまじと見た。
「変わってねえな。憎らしいくらい」
「陸くんは、変わったね」紅葉は陸の顔をしげしげと見つめた。「日に焼けて、声も低くなって」
「そっちは全然、時間止まってるみたいで」陸は頭をかいた。「なんか、ずるいだろ、それ」
軽口の応酬の裏で、二人の声はどちらも微かに震えていた。
朔也は、少し離れた場所からその様子を見ていた。割り込む隙間はどこにもなく、また割り込むべきでもないと分かっていた。五年分の言葉が、今ようやく行き場所を見つけようとしていた。
陸は、腰道具から紐を取り出した。色褪せた青と白。結び目の不揃いなあの紐を、両手で紅葉に差し出した。
「返事、五年遅れたけど」陸の声が、初めて崩れた。「ありがとうって言われて、俺、ちゃんと返せなかった。ずっと謝りたかった。悪かった、あの時。追い詰めるみたいなこと言って」
紅葉の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「覚えてる」紅葉は紐を受け取らず、代わりに陸の手をそっと包んだ。「陸くんが、本当は心配してくれてたこと。ちゃんと、覚えてる」
陸の肩が、小さく揺れた。朔也の前でだけ見せていたはずの弱さが、紅葉の前でも表に出た瞬間だった。
「情けねえよな、俺」陸は声を絞り出した。「一番近くにいたくせに、一番肝心な時に、何もできなかった」
「そんなことない」紅葉は首を振った。「探しに来てくれた気がする。ちゃんと、覚えてないけど……そんな気がしてた」
陸の表情が、大きく揺らいだ。
二人の手が重なった瞬間、蕾がひとりでに震え出した。花びらが、ゆっくりとほどけていく。
朔也は、吸い寄せられるように手を伸ばした。指先が花びらに触れた瞬間、視界が大きく揺れた。
景色が、切り替わった。
——あの夜も、雨だった。
陸は、傘も差さずに町を走り回っていた。紅葉の家、駄菓子屋、河川敷、高校の裏門。可能性のある場所を、片端から潰していく。
雨粒が、陸のシャツに黒い染みを広げていく。靴の中まで水が染みても、足を止めなかった。
「紅葉っ」
声が嗄れるまで、何度も呼んだ。町の明かりが、雨越しに滲んで見えた。
朝方近く、力尽きて座り込んだ河川敷で、陸は誰にも見せない顔で泣いていた。膝を抱え、嗚咽を噛み殺しながら、「見つからなかったら、俺のせいだ」と、誰に言うでもなく呟いていた。
空が白み始めても、陸はそこを動かなかった。誰かに助けを求めることも、朔也に電話をかけることさえもしなかった。ただ一人で、自分の失敗を数え続けていた。
それは、朔也の知らない陸だった。強く当たった相手を責める陸ではなく、ただ一人、雨の中で自分を責め続けていた陸だった。
景色が、元に戻った。
朔也は、震える息を吐いた。
「陸」朔也は言った。「あの夜、僕の知らないところで、朝まで探してたんだな」
陸は、答えなかった。答える代わりに、紅葉の手を、もう一度強く握り返した。
その時だった。
紅葉の輪郭が、今までで一番大きく揺らいだ。花畑全体が、一瞬にじんで見えるほどに。
「紅葉っ?」
紅葉の膝が、がくりと折れた。陸が、慌てて身体を支える。
「大丈夫」紅葉は小さく笑おうとしたが、声にほとんど力がなかった。「ちょっと、目眩がしただけ」
嘘だった。朔也にはもう、分かってしまっていた。
「紅葉、手」陸が、紅葉の手を取った。「これ、これ見ろよ」
紅葉の指先を通して、夕陽の輪郭がうっすらと透けて見えていた。これまでのどの瞬間よりも、はっきりと。
「陸くんには、見えるんだ」紅葉は自分の手を見て、力なく笑った。「隠しても、無駄だったか」
「隠してたのか、今まで」陸の声が、尖った。「朔也、これ知ってたのか」
「知ってた」朔也は認めた。「花が開くたびに、少しずつ」
陸は何も言わず、ただ紅葉の手を強く握った。壊れ物を抱くような、それでいて絶対に離さないという握り方だった。
「教えろよ」陸が、朔也を振り返った。「全部だ。俺にできることがあるなら、なんでもする」
朔也は、頷いた。ここまで来たら、隠す理由はもうなかった。
「丘に宿った想いが、花になってる。紅葉自身が、その想いの——」
言葉にすると、ひどく現実味のない話に聞こえた。それでも陸は、遮らずに最後まで聞いていた。
「信じろって言われても」陸は紅葉の手を見たまま言った。「でも、目の前にいるしな。信じるしかねえだろ」
「疑わないのか」
「疑って、何が変わる」陸は短く言った。「今更、逃げねえよ」
いくつもの想いが一度に動いた分だけ、紅葉から何かが大きく削り取られていた。
風が、花畑を大きく揺らした。陸の分だと見立てていたあの蕾は、今、半分ほど花びらを開いたまま、震えるように止まっていた。
開ききらないまま止まった花びらの隙間から、まだ何かが漏れ出ようとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第11話は、五年ぶりの陸と紅葉の再会回です。書く前から「ここは絶対に泣かせにいく」と決めていた場面で、実際に紐を差し出す陸の台詞を書いている時、自分でも手が止まりました。「返事、五年遅れたけど」の一言に、この話数のすべてを込めたつもりです。
花の共鳴で見せた回想は、朔也にとっても初めて知る陸の姿です。強く当たった加害者としての陸ではなく、雨の中を一人で探し続けていた陸。同じ夜の出来事でも、立っている場所によって見える景色がまるで違う——というのは、このシリーズを通して書きたかったテーマの一つでもあります。
ラストで紅葉の輪郭が大きく揺らいだのは、当然ですが嬉しい出来事ではありません。二人分の想いが一度に動いたことの代償です。第12話では、この揺らぎの正体と、陸の花がどうなるのかを書いていきます。どうぞよろしくお願いします。




