第12話: 陸の花が咲ききった夜、紐がひとつ、ほどけた
半分開いた花びらが、風もないのに震えていた。
紅葉の膝は、まだ地面についたままだった。陸が、その肩を支え続けている。
朔也は、二人の間に立ち尽くすことしかできなかった。
花畑の他の蕾は、何事もなかったかのように静かなままだった。半開きの花だけが、異物のように震え続けている。
「紅葉、しっかりしろ」陸の声が、上ずっていた。「おい」
「大丈夫」紅葉は、うっすらと笑った。「ちょっと、休めば」
嘘だということは、三人とも分かっていた。輪郭の透け方が、これまでとは明らかに違う。腕全体が、光を透かすほど薄くなっている。
風が止んでいるのに、花畑全体がざわめいているように見えた。無数の蕾が、一斉に何かを待ち構えているようだった。
「朔也」陸が、初めて怯えた声を出した。「これ、止められるのか」
「わからない」朔也は正直に答えた。「花が、途中で止まってる」
半分開いた花びらの隙間から、淡い光が漏れ続けていた。開ききることも、閉じることもできずに、震え続けている。
「わからないって、どういうことだよ」陸の声が、荒くなった。「お前が一番詳しいんじゃないのか」
「詳しくない」朔也は、拳を握った。「僕だって、初めて見る」
紅葉の呼吸が、浅くなっていた。額に浮いた汗が、夕陽を弾いて光っている。朔也は、自分の無力さに歯を噛みしめた。何年もこの丘に通いながら、こうなった時にどうすればいいのか、結局何も分かっていなかった。
「陸くん」紅葉が、途切れがちな声で言った。「まだ、渡してもらってない」
「なにを」
「返事」紅葉は、震える手を持ち上げた。「言葉で、聞いてない」
陸は、はっとした顔をした。紐を差し出しただけで、まだ肝心な一言を言えていないことに、今気づいたようだった。
朔也は、二人から半歩下がった。ここから先に、自分の言葉は必要ないと分かっていた。ただ、見届ける役目だけが残っていた。
「悪かった」陸は、紅葉の手を両手で包んだ。「あの時、あんな言い方して。ずっと後悔してた」
紅葉は、何も言わずに聞いていた。
「五年間、一日も忘れたことなかった」陸の声が、震えを隠さなくなった。「見つけられなくて、悪かった。ずっと一人にして、悪かった」
その一言一言が、五年分の重みを持って花畑に落ちていった。朔也は、口を挟まずにそれを見届けた。ここから先は、自分の出る幕ではないと分かっていた。
陸の手が、紅葉の手を包んだまま、小さく震えていた。強面を通してきた男が、また一つ、隠しきれない姿を見せていた。工務店の現場で鉋を握る手と、今、紅葉の手を包む手は、同じ手のはずなのに、まるで違う表情をしていた。
「ありがとう」紅葉が、初めて涙をこぼした。「陸くんの、その言葉」
朔也は、震え続ける花びらにもう一度手を添えた。せめて自分にできることを、そうするしかなかった。
その瞬間、半分開いた花びらが、一斉にほどけた。
光が、花畑全体に広がった。朔也は眩しさに顔を歪めながらも、その光から視線を逸らさなかった。陸も紅葉も、同じ光に包まれていた。
光の中に、一つの情景が浮かんだ。
——五年前のあの日、教室で紅葉が笑って誤魔化した後、一人になった帰り道。夕暮れの通学路を、紅葉は俯いたまま歩いていた。
彼女は、何度も振り返っていた。陸が追いかけてきてくれるかもしれないと、心のどこかで期待しながら。
追いかけては、こなかった。校門を出て、河原の土手を上るころには、期待も涙に変わっていた。
それでも紅葉は、その日の帰り道、拾った草の茎を編み始めた。最初はただの手遊びだった。うまく編めずに何度もほどけて、また編み直して。
誰かに何かを返したくて。誰かとまだ、繋がっていたくて。
編み上がった不格好な紐を、彼女は次の日、陸の鞄にそっと結びつけた。何も言わずに。結びつけた後、少し離れた場所から、陸がそれに気づく様子を見届けていた。
気づいた陸が紐を手に取り、周りを見渡す。誰もいないと分かると、彼はそれをそっと腰道具に結び直した。紅葉は、物陰でそれを見て、少しだけ安堵していた。
光が、ゆっくりと収まっていった。
紅葉の輪郭は、まだ薄い。それでも、震えは止まっていた。呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「見えた」朔也は、掠れた声で言った。「紅葉が、紐を編み始めた日のこと」
「俺にも、見えた」陸は呆然とした顔で花畑を見渡した。「今の、あれ、本当に見えたんだよな」
「うん」紅葉が頷いた。「わたしにも」
三人が同時に同じ景色を見たのは、初めてのことだった。花の共鳴とは違う何かが、あの瞬間だけ働いたのかもしれないと、朔也はぼんやり思った。
「あんな不器用な紐、よく作ろうと思ったよな」陸は洟をすすった。「今更だけど」
「うるさい」紅葉は、涙のまま笑った。「初めて編んだんだから、仕方ないでしょ。ちゃんと五人分、練習したんだから」
「五人分?」
紅葉の顔から、笑みがすっと引いた。誰かにまだ渡せていない紐が、あと何本あるのか。それを口にすることは、まだ渡していない相手の分だけ、約束を作ることだと分かっているようだった。
「言わない」紅葉は口をつぐんだ。「それは、また今度。ちゃんと会えた時に」
三人の間に、ようやく笑い声が戻った。小さく、頼りない笑い声だったが、確かにそこにあった。
「これで、終わりか」陸が、花畑を見渡した。「俺の分は」
「まだ」朔也は、蕾の連なりを見渡した。「芽依と、拓斗の分が残ってる」
陸の表情が、引き締まった。
「次は、俺も手伝う」陸は言った。「芽依のとこ、一緒に行く」
「いいのか」朔也は聞き返した。「仕事、忙しいんじゃ」
「調整する」陸は即座に言った。「これ以上、誰かを待たせるのは、もうごめんだ」
その口調には、迷いがなかった。五年間待つ側に回っていた男が、ようやく動く側に戻ってきたのだと、朔也は感じた。
「芽依、今どんな感じなんだ」陸が聞いた。
「隣県の病院で、看護師してる」朔也は言った。「実家には、あまり帰ってきてないらしい」
「相変わらず、忙しくしてそうだな、あいつ」陸は苦笑した。「昔から、一人で抱え込むタイプだったし」
陸は、腰道具から紐を外し、手のひらにのせた。「これ、紅葉に返す。持っててくれ」
「返さなくていいのに」紅葉は、紐を受け取りながら言った。「陸くんが、持っててくれたから」
「もう、罪滅ぼしの紐じゃないだろ」陸は言った。「今度は、ちゃんとした形で、渡し直したい」
夕陽が沈みきり、花畑に薄闇が下り始めていた。
陸は、境界の手前で一度足を止めた。
「また来る」陸は、坂の下を見下ろしながら言った。「今度は、ちゃんと約束の日に」
「待ってる」紅葉は、座り込んだまま手を振った。「今度こそ、ゆっくり話そうね」
「ゆっくり、な」陸は小さく笑った。「積もる話、山ほどあるからな」
陸は、境界を越える瞬間だけ、少し息を止めるような仕草を見せた。それから、何事もなく坂を下り始めた。振り返ることはしなかったが、その足取りは来た時よりもずっと軽かった。
朔也は、坂を下りる陸の背中を見送りながら、紅葉の輪郭を確かめた。まだ元通りではない。腕の一部は、まだ薄く光を透かしている。それでも、震えは完全に止まっていた。今日という日は、確かに何かを取り戻した日だった。
「疲れただろう」朔也は、紅葉の隣にしゃがみ込んだ。「少し、休んだ方がいい」
「うん」紅葉は素直に頷いた。「でも、今日は、いい疲れ」
その声には、これまでにない落ち着きがあった。記憶が明瞭になっていくにつれて、言葉の輪郭も少しずつはっきりしていくのだと、朔也は改めて実感した。
思えば、この十日あまり、紅葉の手が夕陽を透かすところを何度も見てきた。今日も同じように透けていたが、そこにあった意味は、あの日とは違って見えた。消えていくだけの透明さではなく、一つの想いをやり遂げた後の、静かな透明さだった。
紅葉の手のひらの中で、ほどけた紐の結び目が、静かに緩んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第12話で、第2アーク陸編が完結しました。半分開いたまま震える花という展開は、書きながら「ここで止まったままだったらどうしよう」という不安を朔也たちと一緒に味わいながら書きました。言葉にすることの一歩手前で止まっていたものが、最後の一言でようやく動く——というのが、このシリーズを通しての一番書きたい瞬間です。
紅葉が紐を編み始めた記憶を、陸を「責める記憶」ではなく「まだ繋がっていたいと願った記憶」として見せたのは、今回のこだわりでした。五年前のあの喧嘩は、陸にとっても紅葉にとっても、関係を断つための出来事ではなく、不器用に繋がろうとした結果だったのだと思います。
陸が紐を紅葉に返す場面は、当初は彼が持ち続ける結末も考えていましたが、「罪滅ぼしの紐じゃなく、ちゃんとした形で渡し直したい」という台詞が出てきた瞬間、こちらの方が正しいと確信しました。次話からは芽依編に入ります。陸も同行を申し出てくれたので、また違った空気で書いていけそうです。どうぞよろしくお願いします。




