第8話: 五年分の沈黙に、最初の釘を打った
十時まで、あと十五分だった。
朔也は同じ十歩の距離を、もう五往復していた。
汗が、こめかみを伝って顎から落ちた。
待ち合わせ場所は、丘へ続く坂道の入口だった。
子供の頃、五台の自転車を並べて置いていた場所だ。錆びたガードレールと、剥がれかけた「不法投棄禁止」の看板は、あの頃のまま残っている。蝉の声が、坂の下から重なって響いていた。
スマートフォンで時刻を確かめる。九時五十二分。
何を話すか、昨夜のうちに何度も考えた。けれどいざこの場所に立つと、順番も言葉も頭から抜け落ちていく。
エンジン音が、坂の下の道から近づいてきた。
白い軽トラックが、ガードレールの脇に停まる。運転席から降りてきたのは、記憶より一回り大きな身体をした男だった。
「……久しぶり」
朔也は、それだけ言うのが精一杯だった。
陸は日に焼けた腕を組んだまま、朔也を見た。五年前より、目つきが少しだけ落ち着いている。作業着ではなく、洗いざらしのTシャツ姿だった。
「ああ」陸は短く答えた。「悪いな、待たせたか」
「いや、今来たとこ」
嘘だった。二十分前から、ここにいた。
陸はそれを見抜いたような顔をしたが、何も言わなかった。
二人の間に、間が挟まった。蝉の声だけが、その隙間を埋めていた。
「歩くか」陸が顎で坂の下を示した。「立ち話も変だろ」
朔也は頷いた。
二人は、坂の下の細い道を並んで歩き出した。
昔、駄菓子屋帰りに競走した道だった。アスファルトはひび割れ、脇の水路には夏草が茂っている。
「工務店、継いだんだってな」朔也は口を開いた。「田中さんから聞いた」
「親父が腰やってから、な」陸は前を向いたまま言った。「継ぐっていうより、なし崩しだよ」
「大変だろ」
「まあな」
脇の水路を、陸が顎で示した。
「よくここで、ザリガニ捕まえてたよな」
「拓斗が毎回落ちてた」朔也は思わず笑った。「靴、片方だけ流されて」
「あったな、そんなことも」
言葉は途切れがちだったが、途切れるたびに、どちらかがまた拾い直した。うまく続かない会話は、それでも五年前より遠くまで届いていた。
古い自動販売機の前で、陸が足を止めた。
塗装の剥げた側面には、五人で悪戯書きした跡がまだうっすら残っている。
「懐かしいな、これ」朔也は指でなぞった。
「壊れたまま放置されてる」陸は缶コーヒーを二つ買い、片方を朔也に差し出した。「ボタン、半分効かねえけど」
受け取った缶は、思ったより冷えていなかった。それでも朔也は、両手で包むように持った。
陸が、缶のプルタブを開ける音が響いた。
しばらく黙って飲んでから、陸が口を開いた。
「五年前のこと」陸は缶を見つめたまま言った。「謝ろうと思って、来た」
朔也は、息を止めた。
「胸ぐら掴んだこと。ずっと引っかかってた」
「僕の方こそ」
朔也は言いかけて、止めた。いつもの癖だった。核心に触れると、言葉が喉の手前で止まる。
「なんだよ」陸が促した。「言いかけたなら、最後まで言え」
その一言が、背中を押した。
けれど今日は、そこで終わらせたくなかった。
「あの時ちゃんと答えられなかった」朔也は缶を握り直した。「陸に何て言われても、仕方ないと思ってた」
「違う」
陸が、初めて朔也の方を見た。
「お前を責めたかったわけじゃない。ただ、他に当たる場所がなかっただけだ」
その一言で、五年前の夜の意味が少しだけ変わった。
缶を持つ陸の指の関節が、白くなっていた。蝉の声が、二人の間を通り過ぎていく。
陸は、それ以上を言わなかった。言葉数が減るのは、本音に近づいた証だと、朔也はなんとなく分かっていた。
「紅葉、何か手がかりでもあったのか」
陸が、缶に視線を落としたまま聞いた。
朔也の胸が、一瞬だけ強張った。丘のことも、そこに立つ紅葉のことも、まだ誰にも話していない。話せば、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
「まだ、はっきりとは言えない」
朔也は、慎重に言葉を選んだ。
「隠してるわけじゃない。ただ、うまく説明できることがまだなくて」
陸は、しばらく黙っていた。
「……そうか」
それ以上、聞いてはこなかった。
昔の陸なら、もっと突っ込んで問い詰めていたはずだ。朔也はそう思いながら、缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるい甘さが、舌の上に残った。
「分かったら、ちゃんと話す」朔也は言った。「今度は、途中で止めない」
「別に急かしてねえよ」
陸はそう言ってから、少しだけ口の端を上げた。
「けど、待ってはいる」
「待たせない」朔也は言った。「今度は」
「今度は、な」
朔也は、その言い方に何かが動くのを感じた。突き放すようで、突き放していない。陸らしい距離の取り方だった。
軽トラックの前まで戻ると、陸はドアに手をかけたまま振り返った。
「現場、月曜からまた立て込む」陸は言った。「でも、来月なら休み取れる」
「そしたら」
「空けとけよ、予定」陸は少し早口になった。「別に、深い意味はねえけど」
「わかった」
「飯でも、行くか。四人で」
四人、という数え方に、朔也は一拍遅れて気づいた。芽依と拓斗の分も、陸の中では最初から数に入っていた。
「行く」朔也は言った。「絶対」
「絶対、なんて簡単に言うなよ」陸は苦笑した。「破ったら、承知しねえからな」
その口調は、五年前の号令をかけていた頃と、少しだけ重なって聞こえた。
陸はトラックに乗り込み、窓を半分開けた。
「じゃあな」
「うん。ありがとう、今日」
軽トラックが走り出す。排気ガスの匂いが、夏の空気に薄く混じった。
朔也は、見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。
深く分かり合えたわけではない。謝られただけで、まだ何も終わっていない。それでも、五年間動かなかった何かが、今日一つだけ動いた。
釘を一本打っただけの、まだ骨組みの見えない家のようなものだった。
坂を上ると、汗が背中を伝った。
境界の切れ目を越えると、花の匂いがふわりと変わる。紅葉は、いつもの場所で朔也を待っていた。
「どうだった?」
紅葉が、駆け寄るように腰を浮かせた。
「話せた」朔也は坂の途中で立ち止まったまま言った。「全部じゃないけど」
「全部じゃない、っていうのは?」
「謝られた。胸ぐら掴んだこと」朔也は缶コーヒーの余韻がまだ舌に残っているのを感じながら続けた。「僕を責めたかったわけじゃなかったって」
紅葉は、目を丸くした。
「陸くんが、謝った?」
「うん」
「珍しい」紅葉は小さく笑った。「あの陸くんが」
「昔のこと、色々話した」朔也は続けた。「拓斗が水路に靴落とした話とか」
「懐かしい」紅葉は目を細めた。「あれ、わたしも覚えてる。片方裸足で帰ったんだよね」
「よく覚えてるな、それ」
「みんなで笑った記憶だけは、なぜか鮮明なの」
その笑い方は、少し眩しそうに見えた。陽の下に立つ紅葉の輪郭が、ほんの一瞬だけ薄くなった気がしたが、すぐに元に戻った。
花は、今日は一輪も開いていない。それなのに、なぜ。
朔也の中に、小さな違和感が残った。けれど今は、それを言葉にしなかった。
二人は、蕾の前に並んで座った。
陸の分だと見立てているあの花は、今日もまだ固く閉じている。
「開かなかったね」紅葉が指先を近づけ、触れずに引っ込めた。
「そうすぐには、無理だよ」朔也は言った。「今日はまだ、名前を呼び合っただけだ」
「それでも」紅葉は膝を抱えた。「一歩は一歩でしょ」
朔也は、蕾の先端をじっと見つめた。
閉じたままの花びらの縁が、風にわずかに揺れている。開くまでには、まだ何度も坂を上り下りすることになるだろう。
「来月、四人で飯に行こうって」朔也は言った。「陸が言い出した」
「四人?」紅葉の声が跳ねた。「芽依ちゃんと拓斗くんも?」
「うん。数えてくれてた、ちゃんと」
紅葉は、両手を胸の前で軽く握った。
「よかった」
それだけの短い一言に、五年分の安堵が滲んでいた。
「陸くん、缶コーヒーおごってくれたんでしょ」紅葉が急に聞いた。
「なんで知ってるんだよ」
「顔に書いてある」紅葉はにやりとした。「奢られて嬉しそうな顔」
「そんな顔してない」
「してた」
夕方の光が、花畑一面を橙色に染め始めていた。
朔也は、まだ固く閉じている蕾の他にも、点々と続く未開の花を見渡した。芽依の分、拓斗の分。どれがどれか、正確には分からない。それでも、確かにそこにある。
陸に会っただけでは、何一つ終わらない。
分かっていたことだったが、今日それを身体で知った。
「僕、決めた」
朔也は、花畑に向かって言った。紅葉が隣で顔を上げる。
「陸だけじゃ足りない」朔也は続けた。「芽依にも、拓斗にも、ちゃんと会いに行く。一人ずつでいい。全員に、五年分を返しに行く」
紅葉は、しばらく朔也を見つめていた。
「怖くない?」
「怖いよ」朔也は正直に言った。「でも、今日みたいに一言も出せないまま帰るよりは、ずっといい」
「うん」
紅葉は頷いた。頷いただけなのに、いつもより強く胸に届いた。
「わたし、ここで待ってる」紅葉は花畑を見渡した。「みんなの分の花が、全部開くまで」
「うん」
朔也は、風に揺れる無数の蕾を眺めた。
開いた花はまだ数えるほどしかない。それでも、今日一つ、確かに動いた歯車がある。
五人で、また会う。
その約束を、朔也は坂を下りながらではなく、この丘の上で、紅葉に向かって口にした。
言葉を置き去りにする癖は、まだ完全には治っていない。
それでも今日、初めて最後まで言い切ることができた。
夕陽に染まった花畑の向こうで、まだ開かない蕾たちが、静かに次の風を待っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第8話で第1アーク「丘の彼女編」が完結しました。ずっと「会いに行かなければ」と思いながら踏み出せなかった朔也が、実際に陸と顔を合わせるところまでを、あえて「深い和解」に至らせずに書きました。五年間止まっていたものは、一度の再会だけで全部溶けたりはしない。そのリアリティを大事にしたつもりです。
陸が缶コーヒーを差し出す場面は、当初はもっと台詞で謝らせる予定でしたが、書いているうちに「言葉数の少なさこそが陸らしい」と気づき、行動に寄せました。「飯でも、行くか。四人で」の一言に、芽依と拓斗の名前をあえて出さなかったのも、彼の不器用な気遣いのつもりです。
タイトルの「釘」は、陸の工務店という設定から浮かんだ比喩です。一本打っただけでは家にならないけれど、打たなければ何も始まらない。そんな気持ちで、第2アーク「散らばった記憶編」に続いていきます。次話からは、陸・芽依・拓斗それぞれの記憶を一つずつ回収していく展開になります。どうぞよろしくお願いします。




