表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/21

第8話: 五年分の沈黙に、最初の釘を打った

 十時まで、あと十五分だった。


 朔也は同じ十歩の距離を、もう五往復していた。


 汗が、こめかみを伝って顎から落ちた。




 待ち合わせ場所は、丘へ続く坂道の入口だった。


 子供の頃、五台の自転車を並べて置いていた場所だ。錆びたガードレールと、剥がれかけた「不法投棄禁止」の看板は、あの頃のまま残っている。蝉の声が、坂の下から重なって響いていた。


 スマートフォンで時刻を確かめる。九時五十二分。


 何を話すか、昨夜のうちに何度も考えた。けれどいざこの場所に立つと、順番も言葉も頭から抜け落ちていく。


 エンジン音が、坂の下の道から近づいてきた。


 白い軽トラックが、ガードレールの脇に停まる。運転席から降りてきたのは、記憶より一回り大きな身体をした男だった。


「……久しぶり」


 朔也は、それだけ言うのが精一杯だった。


 陸は日に焼けた腕を組んだまま、朔也を見た。五年前より、目つきが少しだけ落ち着いている。作業着ではなく、洗いざらしのTシャツ姿だった。


「ああ」陸は短く答えた。「悪いな、待たせたか」


「いや、今来たとこ」


 嘘だった。二十分前から、ここにいた。


 陸はそれを見抜いたような顔をしたが、何も言わなかった。


 二人の間に、間が挟まった。蝉の声だけが、その隙間を埋めていた。


「歩くか」陸が顎で坂の下を示した。「立ち話も変だろ」


 朔也は頷いた。




 二人は、坂の下の細い道を並んで歩き出した。


 昔、駄菓子屋帰りに競走した道だった。アスファルトはひび割れ、脇の水路には夏草が茂っている。


「工務店、継いだんだってな」朔也は口を開いた。「田中さんから聞いた」


「親父が腰やってから、な」陸は前を向いたまま言った。「継ぐっていうより、なし崩しだよ」


「大変だろ」


「まあな」


 脇の水路を、陸が顎で示した。


「よくここで、ザリガニ捕まえてたよな」


「拓斗が毎回落ちてた」朔也は思わず笑った。「靴、片方だけ流されて」


「あったな、そんなことも」


 言葉は途切れがちだったが、途切れるたびに、どちらかがまた拾い直した。うまく続かない会話は、それでも五年前より遠くまで届いていた。


 古い自動販売機の前で、陸が足を止めた。


 塗装の剥げた側面には、五人で悪戯書きした跡がまだうっすら残っている。


「懐かしいな、これ」朔也は指でなぞった。


「壊れたまま放置されてる」陸は缶コーヒーを二つ買い、片方を朔也に差し出した。「ボタン、半分効かねえけど」


 受け取った缶は、思ったより冷えていなかった。それでも朔也は、両手で包むように持った。




 陸が、缶のプルタブを開ける音が響いた。


 しばらく黙って飲んでから、陸が口を開いた。


「五年前のこと」陸は缶を見つめたまま言った。「謝ろうと思って、来た」


 朔也は、息を止めた。


「胸ぐら掴んだこと。ずっと引っかかってた」


「僕の方こそ」


 朔也は言いかけて、止めた。いつもの癖だった。核心に触れると、言葉が喉の手前で止まる。


「なんだよ」陸が促した。「言いかけたなら、最後まで言え」


 その一言が、背中を押した。


 けれど今日は、そこで終わらせたくなかった。


「あの時ちゃんと答えられなかった」朔也は缶を握り直した。「陸に何て言われても、仕方ないと思ってた」


「違う」


 陸が、初めて朔也の方を見た。


「お前を責めたかったわけじゃない。ただ、他に当たる場所がなかっただけだ」


 その一言で、五年前の夜の意味が少しだけ変わった。


 缶を持つ陸の指の関節が、白くなっていた。蝉の声が、二人の間を通り過ぎていく。


 陸は、それ以上を言わなかった。言葉数が減るのは、本音に近づいた証だと、朔也はなんとなく分かっていた。




「紅葉、何か手がかりでもあったのか」


 陸が、缶に視線を落としたまま聞いた。


 朔也の胸が、一瞬だけ強張った。丘のことも、そこに立つ紅葉のことも、まだ誰にも話していない。話せば、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。


「まだ、はっきりとは言えない」


 朔也は、慎重に言葉を選んだ。


「隠してるわけじゃない。ただ、うまく説明できることがまだなくて」


 陸は、しばらく黙っていた。


「……そうか」


 それ以上、聞いてはこなかった。


 昔の陸なら、もっと突っ込んで問い詰めていたはずだ。朔也はそう思いながら、缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるい甘さが、舌の上に残った。


「分かったら、ちゃんと話す」朔也は言った。「今度は、途中で止めない」


「別に急かしてねえよ」


 陸はそう言ってから、少しだけ口の端を上げた。


「けど、待ってはいる」


「待たせない」朔也は言った。「今度は」


「今度は、な」


 朔也は、その言い方に何かが動くのを感じた。突き放すようで、突き放していない。陸らしい距離の取り方だった。




 軽トラックの前まで戻ると、陸はドアに手をかけたまま振り返った。


「現場、月曜からまた立て込む」陸は言った。「でも、来月なら休み取れる」


「そしたら」


「空けとけよ、予定」陸は少し早口になった。「別に、深い意味はねえけど」


「わかった」


「飯でも、行くか。四人で」


 四人、という数え方に、朔也は一拍遅れて気づいた。芽依と拓斗の分も、陸の中では最初から数に入っていた。


「行く」朔也は言った。「絶対」


「絶対、なんて簡単に言うなよ」陸は苦笑した。「破ったら、承知しねえからな」


 その口調は、五年前の号令をかけていた頃と、少しだけ重なって聞こえた。


 陸はトラックに乗り込み、窓を半分開けた。


「じゃあな」


「うん。ありがとう、今日」


 軽トラックが走り出す。排気ガスの匂いが、夏の空気に薄く混じった。


 朔也は、見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。


 深く分かり合えたわけではない。謝られただけで、まだ何も終わっていない。それでも、五年間動かなかった何かが、今日一つだけ動いた。


 釘を一本打っただけの、まだ骨組みの見えない家のようなものだった。




 坂を上ると、汗が背中を伝った。


 境界の切れ目を越えると、花の匂いがふわりと変わる。紅葉は、いつもの場所で朔也を待っていた。


「どうだった?」


 紅葉が、駆け寄るように腰を浮かせた。


「話せた」朔也は坂の途中で立ち止まったまま言った。「全部じゃないけど」


「全部じゃない、っていうのは?」


「謝られた。胸ぐら掴んだこと」朔也は缶コーヒーの余韻がまだ舌に残っているのを感じながら続けた。「僕を責めたかったわけじゃなかったって」


 紅葉は、目を丸くした。


「陸くんが、謝った?」


「うん」


「珍しい」紅葉は小さく笑った。「あの陸くんが」


「昔のこと、色々話した」朔也は続けた。「拓斗が水路に靴落とした話とか」


「懐かしい」紅葉は目を細めた。「あれ、わたしも覚えてる。片方裸足で帰ったんだよね」


「よく覚えてるな、それ」


「みんなで笑った記憶だけは、なぜか鮮明なの」


 その笑い方は、少し眩しそうに見えた。陽の下に立つ紅葉の輪郭が、ほんの一瞬だけ薄くなった気がしたが、すぐに元に戻った。


 花は、今日は一輪も開いていない。それなのに、なぜ。


 朔也の中に、小さな違和感が残った。けれど今は、それを言葉にしなかった。




 二人は、蕾の前に並んで座った。


 陸の分だと見立てているあの花は、今日もまだ固く閉じている。


「開かなかったね」紅葉が指先を近づけ、触れずに引っ込めた。


「そうすぐには、無理だよ」朔也は言った。「今日はまだ、名前を呼び合っただけだ」


「それでも」紅葉は膝を抱えた。「一歩は一歩でしょ」


 朔也は、蕾の先端をじっと見つめた。


 閉じたままの花びらの縁が、風にわずかに揺れている。開くまでには、まだ何度も坂を上り下りすることになるだろう。


「来月、四人で飯に行こうって」朔也は言った。「陸が言い出した」


「四人?」紅葉の声が跳ねた。「芽依ちゃんと拓斗くんも?」


「うん。数えてくれてた、ちゃんと」


 紅葉は、両手を胸の前で軽く握った。


「よかった」


 それだけの短い一言に、五年分の安堵が滲んでいた。


「陸くん、缶コーヒーおごってくれたんでしょ」紅葉が急に聞いた。


「なんで知ってるんだよ」


「顔に書いてある」紅葉はにやりとした。「奢られて嬉しそうな顔」


「そんな顔してない」


「してた」




 夕方の光が、花畑一面を橙色に染め始めていた。


 朔也は、まだ固く閉じている蕾の他にも、点々と続く未開の花を見渡した。芽依の分、拓斗の分。どれがどれか、正確には分からない。それでも、確かにそこにある。


 陸に会っただけでは、何一つ終わらない。


 分かっていたことだったが、今日それを身体で知った。


「僕、決めた」


 朔也は、花畑に向かって言った。紅葉が隣で顔を上げる。


「陸だけじゃ足りない」朔也は続けた。「芽依にも、拓斗にも、ちゃんと会いに行く。一人ずつでいい。全員に、五年分を返しに行く」


 紅葉は、しばらく朔也を見つめていた。


「怖くない?」


「怖いよ」朔也は正直に言った。「でも、今日みたいに一言も出せないまま帰るよりは、ずっといい」


「うん」


 紅葉は頷いた。頷いただけなのに、いつもより強く胸に届いた。


「わたし、ここで待ってる」紅葉は花畑を見渡した。「みんなの分の花が、全部開くまで」


「うん」


 朔也は、風に揺れる無数の蕾を眺めた。


 開いた花はまだ数えるほどしかない。それでも、今日一つ、確かに動いた歯車がある。


 五人で、また会う。


 その約束を、朔也は坂を下りながらではなく、この丘の上で、紅葉に向かって口にした。


 言葉を置き去りにする癖は、まだ完全には治っていない。


 それでも今日、初めて最後まで言い切ることができた。


 夕陽に染まった花畑の向こうで、まだ開かない蕾たちが、静かに次の風を待っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第8話で第1アーク「丘の彼女編」が完結しました。ずっと「会いに行かなければ」と思いながら踏み出せなかった朔也が、実際に陸と顔を合わせるところまでを、あえて「深い和解」に至らせずに書きました。五年間止まっていたものは、一度の再会だけで全部溶けたりはしない。そのリアリティを大事にしたつもりです。


陸が缶コーヒーを差し出す場面は、当初はもっと台詞で謝らせる予定でしたが、書いているうちに「言葉数の少なさこそが陸らしい」と気づき、行動に寄せました。「飯でも、行くか。四人で」の一言に、芽依と拓斗の名前をあえて出さなかったのも、彼の不器用な気遣いのつもりです。


タイトルの「釘」は、陸の工務店という設定から浮かんだ比喩です。一本打っただけでは家にならないけれど、打たなければ何も始まらない。そんな気持ちで、第2アーク「散らばった記憶編」に続いていきます。次話からは、陸・芽依・拓斗それぞれの記憶を一つずつ回収していく展開になります。どうぞよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ