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第7話: 掠れた声が、あの夜を連れてきた

 「陸」の名前を、朔也は日に何度も画面に呼び出していた。


 既読のまま、続きは来ない。


 雨は、二日目に入っていた。




 窓口業務の合間、朔也はまた無意識にポケットへ手を伸ばした。


 指先が布地に触れた瞬間、我に返る。画面を見ても、通知はない。


 四十七秒の通話から、まる一日が過ぎていた。


 「今度の――」の続きだけが、胸の奥で止まったままだった。


 窓の外では、朝からの雨がガラスを叩き続けている。伝票の数字を追いながら、朔也は何度も同じ行を読み返した。頭の半分が、まだ廊下の電話に残っていた。


 窓口に、番号札を持った老婦人が近づいてきた。


「柊さん、お願いします」


「失礼しました。お待たせしました」


 朔也は慌てて笑顔を作った。


「今日はなんだか、上の空だね」老婦人が目を細めた。


「すみません、少し」


「悩み事なら、早めに片付けちゃいなさいよ」


 朔也は曖昧に頷いた。いつもなら聞き逃さない世間話にも、今日はうまく相槌が打てなかった。老婦人が窓口を離れると、傘の柄から落ちた水滴がカウンターに小さな染みを作った。


 昼休み、キヨの駄菓子屋の前を通ると、店先の傘立てが雨粒を弾いていた。あの夜も、こんな音だったろうか。考えかけて、朔也は首を振った。


 午後の仕事は、いつもより長く感じられた。


 定時になると、朔也は自転車を裏山へ向けた。傘を差さずに済む程度の、小雨だった。


 坂道に入ると、タイヤが水たまりを撥ねる音が響いた。ハンドルを握る手に、雨粒が冷たく当たる。町の明かりが、雨越しに滲んで見えた。


 あの夜と、同じ冷たさだった。




 坂を上ると、紅葉が木の下で待っていた。


 濡れた葉から落ちる雫が、肩のあたりで光っている。あたりには、雨に濡れた土と花の匂いが立ち込めていた。


 風が花畑を渡り、雨に濡れた花びらが揺れた。甘い匂いが、いつもより濃く感じられた。


「今日は、傘いらなかったね」紅葉が言った。


「うん」


「陸くんから、まだ?」


「まだ」


 紅葉はもう驚かなかった。昨日の帰り際、朔也が通話の顚末をそのまま話していたからだ。四十七秒と、途切れた続きのことも。


「掠れてたんでしょ、声」紅葉は膝を抱えた。「五年前より、低くて」


「うん」


「陸くんって、そんな声だったっけ」


 朔也は少し考えた。


「昔はもっと、よく通る声だった。号令かけるみたいな、そんな感じの」


 紅葉が小さく笑った。


「まとめ役だったもんね」紅葉は少し考えるように首を傾げた。「陸くんが怒った顔、あんまり覚えてない」


「よく怒ってた」朔也は苦笑した。「特に、決めたことを誰かが破ると」


「今もそうなのかな」


「わからない」


「今度会ったら、聞いてみようかな」紅葉が言った。


「怒った顔、まだするのか」


「するだろうな、たぶん」紅葉は笑った。「変わってないといいけど、そこは」


 視線の先に、まだ固く閉じたままの蕾があった。陸の分だと二人で見立てている花だ。あれから何日経っても、開く気配はない。


「これも、まだか」朔也は呟いた。


「うん。触っても、何も」紅葉は蕾の方へ手を伸ばし、触れずに引っ込めた。「本人同士が向き合わないと駄目なんだよね、きっと」


 言った瞬間、耳の奥で雨音の質が変わった。




 ――あの夜も、雨だった。


 紅葉が姿を消したと知らされた夜、朔也は陸の家の軒先に立っていた。


 傘を持たずに走ってきたせいで、シャツが肌に張りついている。息が上がって、うまく声が出なかった。膝に手をつき、肩で息をした。


「紅葉、いないんだ」朔也はやっと言った。「どこにも」


 陸は玄関先で、しばらく黙っていた。眉間に力が入り、目の奥だけが揺れていた。


 やがて片手で朔也の襟を掴み、引き寄せた。雨粒が二人の間に落ちて、街灯の光を弾いた。


 卒業式まで、もうすぐだった。夜気はまだ冷たく、二人の吐く息がうっすら白かった。


「お前、紅葉に何て言ったんだよ」


 声は低く、震えていた。


 朔也は答えられなかった。喉が張りついて、言葉が出てこない。


「誰か、他に連絡した奴はいるのかよ」


「まだ、陸にしか」


「言えよ」陸の指に、力がこもった。「まとめ役気取りのくせに、肝心なとこで黙るのかよ」


 朔也は襟を掴まれたまま、雨に打たれ続けた。


 冷たさより先に、喉の渇きだけを覚えていた。心臓が、耳の裏側で鳴っていた。指先の感覚が、だんだん遠くなっていく。


 何か言わなければと思うのに、舌が動かない。陸の肩越しに、玄関の明かりだけが妙に眩しかった。


「――ごめん」


 絞り出せたのは、それだけだった。


 陸はしばらく朔也を睨んだあと、手を離した。振り返らずに、家の中へ消えていった。


 玄関の鍵が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 朔也は、しばらくその場から動けなかった。指先の感覚は、まだ戻ってこなかった。


 雨音だけが、あとに残った。




 雨音が、耳元に戻ってきた。


 口の中に、微かな渇きが残っていた。息が浅く、喉の奥だけがまだ痛かった。


 丘の雨は、さっきより少し強くなっていた。


「朔也?」


 紅葉が顔を覗き込んでいる。


 自分の手が、いつのまにか強く握りしめられていた。指の跡が、掌に赤く残っている。


「大丈夫」朔也は手を開いた。「ちょっと、昔のこと思い出してた」


「あの夜の?」


 朔也は頷いた。


「陸に、胸ぐら掴まれた。何も言えなかった。ただ『ごめん』とだけ言った」


 紅葉は何も言わずに、朔也の隣に座り直した。しばらく、雨粒が葉を打つ音だけが続いた。


「痛かった?」


「胸のとこは。でも、それより」


 朔也は自分の喉に触れた。あの夜の渇きが、今もどこかに残っている気がした。


「それだけで、グループ壊れたわけじゃないと思うけど」


「わかんない」朔也は膝の上で拳を握った。「でも僕がちゃんと言葉にしてれば、何か違ったかもしれない」


 言いかけて、止めた。


 その先を続ける勇気が、まだ出なかった。


「大事なことほど、ちゃんと言葉にする。そう決めたのは僕なのに」


 あの夜も、今も、結局は同じことを繰り返している。守れなかった信条を、また守れずにいる自分に、朔也は気づいていた。


「今からでも、いいんじゃないかな」


 紅葉の声は、いつもよりまっすぐだった。


「陸くんも、五年間ずっと抱えてたわけでしょ。だったら朔也だけの宿題じゃないよ」


 朔也は紅葉を見た。


 記憶が曖昧なはずの彼女の言葉が、今日はやけにはっきりしていた。


「紅葉は、覚えてるのか。あの夜のこと」


「うっすらとだけ」紅葉は目を伏せた。「陸くんに強く当たられた気がするって、前に言ったよね」


「うん」


「あれ以上は、まだ」


 紅葉の声が、少しだけ小さくなった。朔也はそれ以上、聞かなかった。


「でも」紅葉が顔を上げた。「それでも五年間、陸くんが朔也のこと嫌いになれなかったんじゃないかな」


「なんで、そう思う」


「だって、話したいって言ってきたんでしょ。嫌いなら、放っておけばいいのに」


「そうだといいけど」


「そうだよ、きっと」紅葉は膝を抱え直した。「わたしの勘、意外と当たるんだから」


 朔也は、その言葉を胸の中で繰り返した。




 鞄の中で、スマートフォンが震えた。


 朔也は身体を強張らせたまま、画面を見た。


 「陸」


 開いたメッセージは、短かった。


 ――悪い、この前は途中で切れた。今度の土曜、十時に丘の下で。


 「今度の――」の続きが、ようやく届いた。


「どうしたの?」紅葉が覗き込む。


「土曜、丘の下で会うことになった」


 紅葉の目が、大きく見開かれた。


「本当に、行くんだ」


「行く」


 朔也は画面を見つめたまま、もう一度言った。指先が、まだ少しだけ震えていた。


「今度こそ、ちゃんと言葉にする」


 声に出すと、思ったより輪郭のはっきりした言葉になった。


 紅葉は花畑の向こうへ視線をやった。雨がやみかけて、雲の切れ間から夕陽の色が滲み始めていた。


「土曜、待ってる」紅葉は小さく笑った。「わたしも、ここで」


「大丈夫? 無理して行かなくても」紅葉が聞いた。


「無理じゃない」朔也は花畑を見た。「今度こそ、途中で終わらせたくないだけだ」


「うん」


 紅葉は頷いた。それだけの相槌なのに、いつもより強く伝わってくるものがあった。


「気をつけて帰ってね」紅葉が言った。


「うん、また」


「土曜、忘れないでね」


「忘れない」


 朔也は自転車を押しながら、坂を下り始めた。


 途中、まだ固く閉じたままの蕾の脇を通った。


 次に来る時には、少しでも開いていてほしい。そう思いながら、朔也はペダルに足をかけた。


 坂の下に続く道の先に、境界の切れ目が見えた。紅葉が越えられない、あの場所だ。


 あそこを、今度は陸のために越える。


 五年前は、雨に打たれながら何も言えなかった。今度は違う。


 朔也は、その一点をしばらく見つめていた。


 自転車を漕ぎ出すと、頬に当たる風が心地よかった。


 雨は、いつのまにかやんでいた。


 どこかで、蝉が鳴き始めていた。二日ぶりの、澄んだ音だった。


 五年前のあの夜より、今の方がずっと近かった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第7話は、転のパートの中核として、五年前の夜の記憶にようやく一歩踏み込みました。これまで「衝突した」「言えなかった」とだけ触れてきた夜に、初めて陸との具体的な場面を書いています。ただし紅葉と朔也の間で実際に何があったのかは、まだ伏せたままです。そこはアーク3の役割として、大事に取っておくつもりです。


陸に胸ぐらを掴まれる場面は、彼の不器用な優しさの裏返しとして書きました。怒りの形でしか心配を表現できない陸と、謝ることしかできなかった朔也。どちらも本当に伝えたい言葉には、まだたどり着けていません。玄関の鍵が閉まる音を最後に置いたのは、あの夜に朔也が感じた「拒絶された」という感覚を、音だけで残したかったからです。


ラストのメッセージは、前話で途切れた「今度の――」の続きを、あえて会話ではなく文字で届ける形にしました。声で聞くよりも、画面に残る文字の方が、約束としての重みが出ると思ったからです。土曜という具体的な日付が決まったことで、次話でいよいよアーク1が締めくくられます。


次話では、朔也がその約束にどう向き合うのかを書く予定です。どうぞよろしくお願いします。

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