第6話: 鳴らなかった電話が、鳴った日
紅葉が、自分の手のひらを陽にかざしていた。
何も透けてなどいない。ただの西日だった。
朔也に気づくと、紅葉は指を握り込み、いつもの笑顔に戻した。
陸にメッセージを送ってから、四日が過ぎていた。
画面には「既読」の二文字だけが、ずっと張りついたままだった。
朔也は仕事の合間にも、無意識にスマートフォンへ手を伸ばす癖がついていた。
「柊、手が止まってるぞ」
先輩の田中に声をかけられ、慌てて伝票へ目を戻す。
「すみません、ちょっと考え事を」
「珍しいな、お前が」
「……すみません」
田中は笑って離れていった。朔也は電卓へ伸びかけていた指を止め、握り込んだ拳をそっと机の下に隠した。頭の中は、まだ違う画面でいっぱいだった。
十九日目も、二十日目も、丘には通い続けた。
紅葉に会えば、いつもと同じ時間が流れた。
変わらないことへの安心と焦りが、同時に胸にあった。
二十二日目の丘は、風がやわらかかった。
坂を上る足元で、乾いた土の匂いが立った。蝉の声は昼より薄く、代わりに草を撫でる風の音が耳に残る。
坂を上ると、紅葉が斜面に座っていた。
手のひらを、西日にかざしている。
指の間を、光がすり抜けていた。横顔は微笑んだままなのに、息だけがやけに浅かった。
「何してるんだ」
紅葉は、はっとしたように手を下ろした。
「別に。手が綺麗に焼けてるかなって」
「日焼け、気にするタイプだったか」
「今日から気にするタイプ」紅葉は笑った。「女の子だもん」
笑い方が、いつもより少し早口だった。
朔也は何か言いかけて、やめた。
問い詰めれば、紅葉はまた別の話にすり替えてしまう。それはもう、何度も見てきた。
「陸くん、まだ返事来ない?」紅葉が話題を変えた。
「まだ」
「既読、いつついたんだっけ」
「四日前」
「そっか」紅葉は膝を抱えた。「気長に待とうよ、こういうのは」
言葉とは裏腹に、紅葉の指先はまた膝の上で小さく動いていた。
「そういえば」紅葉が顔を上げた。「芽依って、今どうしてるんだっけ」
「隣の県の病院で、看護師やってる」
「看護師かあ」紅葉は目を細めた。「芽依、しっかりしてたもんね。……大変そう」
「忙しいらしい。実家にも、あんまり帰ってきてないって聞いた」
「そうなんだ」
その一言に、紅葉は少しだけ寂しそうな間を挟んだ。
「拓斗くんは?」
「花屋、閉めたって前に話したよな」
「うん、聞いた」
「今、何してるかまでは知らない。この前、店の前を通ったらシャッターが下りたままだった」
「そう、なんだ」
紅葉は花畑に目を移した。
「みんな、ちゃんと生きてるんだね。当たり前だけど」
「当たり前だけど、な」
五年という時間は、朔也にとっても他人事ではなかった。
連絡を取っていない気まずさが、陸だけでなく芽依や拓斗にも、同じ重さで積もっている。
閉じたままの蕾に、朔也は目をやった。
陸の分だと思っている花は、まだ固く口を閉ざしている。
「開かないね、それ」紅葉が言った。
「うん」
「わたしも、たまに触ってみるんだけど」紅葉は蕾に指先を近づけ、触れずに引っ込めた。「反応、ない」
紅葉の指が、また陽にかざされる。
今度は光を確かめているというより、指がまだそこにあることを確かめているように見えた。
「紅葉」
「なに?」
「さっきから、何回もそれしてる」
紅葉の手が、ぴたりと止まった。
「……気のせいだよ」
「気のせいには、見えなかった」
「見間違いだって」
「三回も?」
紅葉は答えなかった。
紅葉はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「本当に、大丈夫だから」紅葉は手を膝に戻した。「朔也が心配することじゃないよ」
その笑顔は、いつもと同じ形をしていた。
けれど、いつもより少しだけ時間をかけて出来上がったように見えた。
もう一歩踏み込もうとして、喉の奥で言葉が固まった。視線だけが、紅葉の横顔と花畑の間を往復する。
朔也は、それ以上聞かなかった。
聞いたところで、紅葉はきっと答えてくれない。
夕陽が、丘の端に沈みかけていた。
「また明日?」紅葉が聞いた。
「うん。仕事終わったら」
「気をつけて帰ってね」
「紅葉も、あんまり手をかざしすぎるなよ」
紅葉は一瞬固まってから、わざとらしく舌を出した。
「バレてないと思ったのに」
「バレてる」
紅葉が声を上げて笑った。今度は、さっきよりも自然な笑い方だった。
朔也は、その笑顔だけを持って坂を下った。
翌日は、朝から雨だった。
午後、窓口業務が一段落した頃、上着のポケットでスマートフォンが震えた。
画面を見て、朔也は息を止めた。
「陸」
その二文字だけが、光っていた。
周りに人がいる。出るべきかどうか、迷っている暇はなかった。
朔也は席を立ち、廊下の隅で電話を取った。
「もしもし」
しばらく、何も聞こえなかった。窓の外の雨音だけが、廊下の静けさを埋めていた。
息遣いだけが、確かにそこにあった。
「……陸?」
「悪い、今平気か」
五年ぶりに聞く声は、記憶よりも低くて掠れていた。
「大丈夫。今、休憩中だから」
嘘だった。休憩中ではなかった。
電話の向こうで、陸が何か言いかけて止まった気配があった。
「紅葉のこと、なんだけど」
「うん」
「一度、ちゃんと話したい」
朔也は、廊下の壁に背をつけた。
「いつでも」
「……」
沈黙が、思ったより長く続いた。
「陸?」
「今度の——」
言葉が途切れた瞬間、廊下の向こうから朔也を呼ぶ声がした。
「柊くん、お客様がお待ちです」
朔也は電話を耳に押し当てたまま、振り返った。
「陸、ごめん——」
電話の向こうは、もう切れていた。
朔也は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。握った手が、かすかに震えていた。
画面には、通話時間だけが表示されていた。四十七秒。
たった四十七秒の中に、五年分の何かが押し込まれていた。
「今度の」の続きを、朔也は知らないままだった。
「……今度の、なんだよ」
「今度、いつなんだよ」
誰もいない廊下に、その呟きだけが落ちた。
ちゃんと言葉にする、なんて自分で決めておきながら、結局まだ何一つ伝えられていない。
窓の外では、雨がまだ降り続いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第6話は、承から転へ移る合わせ目として、待つ時間の焦れったさを書きたくて組み立てました。紅葉が自分の手を陽にかざす仕草は、前話で見えた「輪郭が透ける」現象そのものではなく、彼女自身が不安に駆られて確かめている行為として描いています。本人が一番怖がっているのに、それを隠そうとする姿を、直接の告白ではなく仕草だけで見せたかった場面です。
芽依と拓斗の名前を出す場面は、二人を実際に登場させるにはまだ早いけれど、朔也と紅葉の中でずっと引っかかっている存在として匂わせておきたくて入れました。特に「みんな、ちゃんと生きてるんだね」という紅葉の一言は、彼女なりの安堵と寂しさが同居した台詞のつもりです。
ラストの電話は、これまでの「夜にスマホを操作する」という締め方から意図的に離しました。仕事中に、しかも会話の途中で切れてしまうという形にしたのは、朔也にとっても読者にとっても「肝心なところで届かない」もどかしさを味わってほしかったからです。四十七秒という短い通話時間だけが、次話への手がかりとして残ります。
次話では、この電話の続きと、五年前の記憶にもう少しだけ近づいていきます。どうぞよろしくお願いします。




