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第5話: 咲いた分だけ、透きとおる

 紅葉が、自分から花を選んだのは、これが初めてだった。


 いつもは朔也が茂みをかき分け、花を探し当てる。今日は逆だった。


 紅葉の指先の先に、まだ見たことのない花が一輪、揺れていた。




 あの日以来、紅葉は境界の話をしなくなった。


 朔也も、あえて触れなかった。話せば、また彼女が明るい話題にすり替えてしまう。それがわかっていたから、日々はいつも通りの顔で流れていった。


 駄菓子を分け合い、文庫本のページをめくり、雨の日には木の下で並んで座った。何も変わっていないふりを、二人でずっと続けていた。


 十八日目の丘は、夕暮れの匂いが濃かった。


 蝉の声が、遠くの木立から降ってくる。夏の盛りが、もうすぐそこまで来ていた。


 自転車を停めると、紅葉はいつもの斜面ではなく、木陰になった丘の隅に立っていた。いつもなら真っ先に駆け寄ってくるのに、今日はそこから動かなかった。


「こっち」


 紅葉が手招きした。近づくと、足元に一輪の花があった。


 白っぽい花びらが、真ん中で少し歪んでいる。笑いかけているような、それでいてどこか無理をしたような形をしていた。


「いつからあった?」


「わかんない」紅葉は花から目を逸らさなかった。「でも何日か前から、気づいてた」


「見なかったのか」


「見ないようにしてた」紅葉は膝の前で指を組んだ。「怖かったから」


 紅葉が丘の花を怖がるのを、朔也は初めて聞いた。これまでは、開かない蕾を残念がることはあっても、花そのものを避ける素振りは見せなかった。


「じゃあ、なんで今日は連れてきたんだ」


「朔也になら、見せてもいい気がしたから」


 紅葉は照れたように頬をかいた。


「変な理由だけど」


「変じゃない」


「わかんない」紅葉はもう一度言った。「でも朔也がいると、逃げなくていい気がする」


「今日はいいのか」


「今日は平気な気がする」紅葉は顔を上げた。「朔也がいるし」


 紅葉が自分から促すのは、初めてだった。


「触ってみて」


 朔也は花に指を伸ばした。花びらの縁が、指先の熱に応えるように震えた。


 視界が、白く滲んだ。




 ——それは、高校三年の秋のことだった。


 放課後の教室に、紅葉ひとりが残っていた。机の上には、進路希望調査票。


 窓の外からは、部活動へ向かう生徒たちの声が遠く聞こえていた。誰かの笑い声、ボールの弾む音。教室の中だけが、切り離されたように静かだった。


 陸の欄には「工務店」の三文字。芽依の欄には「看護学校」。拓斗の欄には「実家の花屋」。


 紅葉の欄だけが、白いままだった。


 鉛筆の先が、紙の上で止まっている。書いては消し、また止まる。何度目かの空白に、紅葉は小さくため息をついた。


 みんなは、もう自分の場所を決めている。自分だけが、行き先を持たないまま宙に浮いていた。


 廊下から、足音が近づいてきた。忘れ物を取りに戻ってきた朔也だった。


「まだ残ってたのか」


 紅葉は慌てて調査票を伏せ、いつもの笑顔を作った。


「ちょっと考え事。もう出すよ、これ」


「珍しいな、紅葉が居残りって」


「たまにはね」


 朔也が教室を出ていくと、紅葉はまた鉛筆を握った。


「……わたしだけ、置いていかれる」


 誰もいない教室に、その一言だけが小さく落ちた。


 紅葉は調査票を白紙のまま鞄にしまい、窓の外を見た。夕焼けが、机の木目を赤く染めていた。


 ——花びらの光が、静かに引いていく。




 丘の景色が戻ってきた。


 手のひらの花は、さっきよりも大きく開いていた。花びらの歪みが、わずかに和らいで見える。


「見えた?」紅葉が聞いた。


「調査票。空欄のまま、出してた」


 紅葉は、小さく息を止めた。


「……そう、なんだ」


「置いていかれる気がするって、教室で呟いてた」


 紅葉の唇が、開きかけて止まった。


 そのとき、夕陽が紅葉の輪郭を通り抜けた。


 肩から腕にかけて、景色が透けて見えた。木の幹の色が、袖の向こうに滲んでいる。


 瞬きの間だけの、ほんの一瞬だった。


 次の瞬間には、紅葉はいつもの紅葉に戻っていた。


「紅葉、今」


「え?」


「今、透けて見えた」


 紅葉は自分の手のひらを、光にかざした。何も変わらない。


「気のせいだよ。夕方だから、光の加減で」紅葉は笑おうとした。「よくあるでしょ、そういうの」


 声の高さが、いつもより一段高い。


「よくない」


「大げさだよ、朔也」


「大げさじゃない」


 朔也は紅葉の目を見た。


「僕は、ちゃんと見た」


 紅葉の笑顔が、輪郭だけを残して止まった。




「……ねえ」紅葉の声が、初めて弱く落ちた。「もし本当に透けてたんだとしたら」


「うん」


「それって、消えかけてるってことだよね」


 朔也は答えられなかった。


 紅葉は膝を抱え、しばらく黙っていた。風が花畑を渡り、白い花びらが小さく揺れた。


「大丈夫」やがて紅葉は顔を上げた。「今日はもう戻ったし。ね、平気そうでしょ」


 いつもの、明るさへのすり替えだった。


 けれど朔也は、もう頷かなかった。


「紅葉、隠さなくていい」


「隠してない」


「隠してる。今も」


 紅葉は口を開きかけ、また閉じた。


「……怖いんだもん」紅葉はようやく、小さな声で言った。「本当のこと言ったら、朔也まで怖がらせる気がして」


「僕はもう、怖がってる」


 紅葉が、驚いたように顔を上げた。


「花が開くたびに、紅葉は思い出す。でも同じだけ、何かが減ってる。今、見た」


「……うん」


「このまま花が全部開いたら、紅葉はどうなる」


 紅葉は、少し考えるような間を置いた。


「わかんない」紅葉は自分の胸のあたりに手を当てた。「でも、全部思い出せたら、それでいい気もしてたんだ。今までは」


「今は?」


「今は、ちょっと違う」紅葉は花畑を見た。「思い出すのと引き換えに、わたし自身がいなくなるなら、それは嫌だ」


 その一言は、いつもの明るいすり替えを挟まずに出てきた。


「もう、丘で待ってるだけじゃだめだ」


 紅葉は何も言わなかった。花畑の向こうへ、視線だけを逃がしていた。


「朔也が謝ることじゃないよ」


「謝ってない」


 朔也は、自分の声が思ったより低いのに驚いた。


「僕がここに通うだけじゃ、紅葉は戻らない。花を待ってるだけじゃ、間に合わない気がする」


「間に合わないって」


「陸に、会いに行かなきゃいけない気がしてる」


 紅葉の目が、大きく見開かれた。


「……急に、どうしたの」


「急にじゃない」朔也は花を見た。「ずっと、逃げてただけだ」


 大事なことほど、ちゃんと言葉にする。


 自分で決めた信条を、五年間、一番守れていなかったのは自分の方だった。


 紅葉は、しばらく朔也の顔を見つめていた。


「怖くない? 陸くんに会うの」


「怖い」朔也は正直に答えた。「でも紅葉が消えかけてるのを見て、怖くないふりをしてる場合じゃないってわかった」


 紅葉の目が、わずかに潤んだ。けれどそれ以上、崩れなかった。


「いつ、行くの」


「……わからない」朔也は自分の言葉に、自分で戸惑った。「気がしてる、だけで、まだ何も決めてない」


 紅葉は、それ以上急かさなかった。


「わたしのために、無理しなくていいよ」


「無理じゃない」


 朔也は花を、そっと紅葉の手のひらに乗せた。


「これは、紅葉のための花だ。僕のためじゃない」


 紅葉は花を受け取り、両手で包んだ。


「……ありがとう」


 小さな声だった。すり替えのない、初めての礼だった。


 夕陽が、丘の端まで落ちきろうとしていた。


「また明日、来る?」紅葉が聞いた。


「来る」


「陸くんに会う日も?」


「その日も、来る」


 紅葉は花を胸に抱いたまま、小さく頷いた。




 自転車を押して坂を下りながら、朔也は木々の切れ目で足を止めた。


 十四日目、紅葉がここで倒れかけた場所だった。あの日は、境界の手前で立ち尽くすことしかできなかった。


 紅葉が越えられない境界。自分なら、いつでも越えられる場所。


 その差を、今日はもう見過ごせなかった。


 花が開くたび、紅葉の輪郭は薄くなっていく。丘で待っているだけでは、時間切れの方が先に来る。


 鞄からスマートフォンを取り出す。連絡先を開き、陸の名前を選んだ。


 電話ではなく、メッセージの画面を開く。


 指が、五年分の距離の上で止まった。


 ——紅葉のことで、話したいことがある。会えないか。


 短い文面を打ち、送信ボタンを押した。


 今度は、途中で止めなかった。


 画面の端に「既読」の文字が浮かんだのは、送ってからわずか数秒後のことだった。


 朔也は、その二文字を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 既読の先に、返信は来なかった。


 それでも、五年間閉じたままだった扉が、ほんの少しだけ開いた。その手応えだけは確かにあった。


 朔也はスマートフォンを鞄にしまい、自転車のペダルに足をかけた。夕焼けの色が、坂の下まで長く伸びていた。


 明日、丘へ行ったら、紅葉に何と伝えよう。


 その言葉を探しながら、朔也は坂を下り続けた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第5話は、承のパートの締めくくりとして「花が開くと記憶が戻るが、同時に何かが減っていく」という代償の仕組みを、初めて目に見える形で書きました。透ける輪郭というアイデアは、プロットの早い段階からずっと温めていたイメージです。


今回、紅葉に初めて「自分から花を選ばせる」構成にしました。これまでは朔也が見つけて触れる展開が続いていたので、彼女の側から一歩踏み出す場面を作りたいと思っていました。進路調査票の記憶は、EP2で見せた放課後の教室とは別の角度から、彼女の「明るさの裏側」を描く狙いです。


透けた瞬間に紅葉が見せる強がりは、これまでで一番痛い「いつもの明るさへのすり替え」だったと思います。それを朔也が初めて拒む場面を、今回いちばん書きたかった箇所です。


ラストは前話と同じ「夜・電話」の絵にならないよう、場所も行動も変えました。既読の二文字だけを残して終える形にしたのは、次話への引きを言葉で説明せず、画面の中の事実だけで見せたかったからです。


次話からは、朔也が実際に仲間たちと向き合っていく展開になります。どうぞよろしくお願いします。

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