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第4話: 丘から出られない君に

「ねえ朔也、写真の話、覚えてる?」


 紅葉の声に合わせて、少し離れた茂みの蕾がひとつ揺れた。


 風のせいだと、朔也は思うことにした。




 十四日目の丘は、夏の匂いが濃くなっていた。


 会社を出ると、足は迷いなく裏山への坂を選ぶ。寄り道はいつのまにか、一日の中心に変わっていた。


 途中、駄菓子屋に寄った。


「今日も紅葉ちゃんに?」キヨおばさんが、飴の袋を差し出しながら聞いてきた。


「……そんなんじゃ、ないです」


「毎日その台詞、聞き飽きたよ」


 キヨおばさんは、それ以上突っ込まなかった。朔也は曖昧に頭を下げ、袋を鞄にしまった。


 坂を上りきると、いつもの丘が広がっていた。


 紅葉は斜面に座り込み、朔也の顔を覗き込んでいた。


「拓斗くんのスマホに、写真あるって言ってたよね」


「まだ、聞けてない」


「そっか」紅葉は膝を抱えた。「急がなくていいよ」


 急がなくていい、が本音かどうか、朔也にはわからなかった。


「見たいんだろ、写真」


「見たい。でも」紅葉は花畑に目を移した。「見たら、思い出したくないことまで思い出すかもしれない」


「怖いのか」


「ちょっとだけ」紅葉は笑おうとして、うまく笑えていない顔をした。「五人で撮った写真なんでしょ? それなら大丈夫な気がする」


 根拠のない「気がする」に、紅葉はいつも頼っていた。


「わたし、みんなと一緒にいるとき、どんな顔してたんだろう」


「今と、そんなに変わらないと思う」


「そうかな」


「うるさくて、よく笑ってた」


「今もうるさい?」


「今は静かだよ」


 紅葉は、少しだけ拗ねたような顔をした。


「朔也は、今日も仕事忙しかったの」


「まあまあ。支店縮小の話、まだ噂のままだけど」


「消えちゃったりしないよね、朔也の会社」


「たぶん。……たぶん、な」


「たぶんって、朔也の口癖だね」


「そう、かもな」


 紅葉が、くすりと笑った。その笑い方に、朔也は少しだけ安心した。


 そのとき、二人のすぐそばで小さな光が揺れた。


 朔也は振り返った。


 今まで気づかなかった花が、そこに咲いていた。五枚の花びらが、輪になって重なっている。


「この花、初めて見た」


「わたしも」紅葉が身を乗り出した。「いつからあったんだろう」


 花びらの中心が、淡く光っていた。呼ばれるのを待っているような光だった。


 二人の視線が、同時にそこへ吸い寄せられた。


 朔也が手を伸ばすと、紅葉も同じように指を伸ばした。二つの指先が、同時に花びらへ触れた。


 視界が、白く滲んだ。




 ——それは、五人で丘に集まった、最後の夏休みのことだ。


 拓斗が、借りてきたデジタルカメラを掲げていた。


「せーの、で撮るから寄って」


「面倒くさい」陸はそう言いながら、輪の中に入ってきた。


「陸くん、口だけだよね」芽依が笑った。


 芽依が手際よく、五人の並び順を決めていく。背の順ではなく、なぜか毎回この並びだった。


 紅葉が朔也の隣に立ち、袖を軽く引いた。


「近いよ、紅葉」


「いいじゃん、たまには」


 シャッター音が鳴る直前、紅葉が小さく呟いた。


「ずっとここにいたら、みんなに会えるもんね」


 誰も、その一言の意味を深く考えなかった。


 ——花びらの光が、静かに引いていく。




 丘の景色が戻ってきた。


 朔也の手のひらに、五枚の花びらの花が乗っていた。さっきよりも、色がわずかに深い。


「今の……」


「見えた」紅葉の声が震えていた。「みんなで写真、撮ってた」


「覚えてるのか」


「うっすら、だけど」紅葉は花を見つめた。「わたし、あのときそんなこと言ってたんだ」


 ずっとここにいたら、みんなに会える。


 その一言が、今になって別の意味を帯びて聞こえた。


「紅葉」


「なに?」


「今日、下まで一緒に歩いてみないか」


 紅葉の表情が、一瞬止まった。


「下って、坂の下?」


「うん。少しだけでいい」


「……なんで、急に」


「今の記憶を見てたら、紅葉が外に出られるところを見てみたくなった」


 紅葉は、しばらく黙っていた。


「いいよ」


 頷いた声は、いつもより小さかった。




 二人並んで、丘の斜面を下り始めた。


 最初の数歩は、いつもと何も変わらなかった。


 夕方の風が、二人の間を通り抜けていく。花畑の色が、少しずつ後ろへ流れていった。


 木々が近づくにつれ、花の匂いが薄くなっていく。


 いつも坂の下から見上げていた木々の切れ目が、今日は逆側から近づいてくる。それだけで、朔也の胸は妙に高鳴った。


 紅葉の足取りが、少しずつ遅くなった。


「紅葉?」


「平気。ちょっと涼しくなってきただけ」


 声は明るかったが、頬の色が引いていくのが見えた。


 木々の切れ目まで、あと数歩というところで、紅葉の足が止まった。


「もう少しだから」


 朔也は手を伸ばした。紅葉の指先が、冷たかった。


 紅葉が一歩踏み出そうとした瞬間、体が大きく傾いだ。


「紅葉!」


 朔也は咄嗟に体を支えた。紅葉の顔から、血の気が引いている。


「ごめん……なんか、急に」


 紅葉の声が、掠れていた。


 朔也は紅葉を抱えたまま、丘の中へ数歩戻った。


 境界を越えた瞬間、紅葉の体から力が抜けた。


「……戻った、みたい」


 顔色も、すぐに元へ戻った。まるで、最初から何もなかったかのように。




「大丈夫か」


「うん、平気。びっくりしただけ」紅葉はいつもの笑顔を作ろうとした。「立ちくらみ、かな」


「立ちくらみで、あんな顔にはならない」


 紅葉の笑顔が、固まった。


「……前にも、あった?」


 紅葉は答えなかった。


「紅葉」


「……一回だけ」紅葉は膝を抱えた。「一人のとき、試したことある。木の近くまで行ってみようとして」


「それで?」


「同じだった。動けなくなって、怖くて、それきりやめた」


 朔也は言葉を探した。見つからなかった。


「なんで、言わなかったんだ」


「言ったら、朔也が困る気がして」紅葉は俯いた。「それに、言葉にしたら本当のことになる気がして」


 大事なことほど、ちゃんと言葉にする。


 その信条を、紅葉も同じ形で恐れているのかもしれなかった。


「わたし、ここから出られないのかもしれない」


 紅葉の声は、いつものように明るくすり替わらなかった。


 朔也は、かける言葉を持たなかった。


「みんなに会いたい。会いたいのに」紅葉は膝に顔を埋めた。「会いに行けないんだったら、わたし、なんでここにいるんだろう」


「紅葉のせいじゃない」


「そうかな」


「そうだよ」


 言い切った声が、自分でも意外なほど強く出た。


 紅葉は、少しだけ顔を上げた。


「朔也がそう言うなら、そうなのかもね」


 いつもの、明るさへのすり替えだった。けれど今日はその奥に、隠しきれない不安が滲んでいた。


「あの蕾も、まだ開かないままだよね」紅葉がぽつりと言った。「陸くんの分、なんだよね、たぶん」


「わからない。でも、そんな気はしてる」


「わたしが出られないことと、関係あるのかな」


「……わからない」


 わからない、としか言えない自分が、朔也はもどかしかった。


「陸くんに会えたら、あの蕾、開くのかな」


「開くかもしれない」


「そしたら、わたしも出られるようになる?」


 朔也は答えられなかった。根拠なく頷くことも、根拠なく否定することも、今はできなかった。


 沈黙が、いつもより長く感じられた。


「ごめん、変なこと聞いた」紅葉は無理に口角を上げた。「考えても、しょうがないのにね」


 その笑い方が、いつもよりずっと弱かった。


 朔也は、紅葉の頭にそっと手を置いた。何か言おうとして、結局何も言えなかった。


 それでも紅葉は、その手を振り払わなかった。




 夕暮れの丘に、蝉の声が遠く響いていた。


 朔也は、紅葉の手をまだ握ったままだった。


 離せば、また境界の向こうへ消えてしまいそうな気配があった。


「紅葉、明日も来る」


「うん」


「絶対、来るから」


「……うん」


 自転車を押して坂を下りながら、朔也は木々の切れ目を振り返った。


 あの一歩の先で、何が紅葉を押し返したのか、まだわからない。


 わからないことが、また一つ増えた。




 その夜、机に向かっても、昼間の光景ばかりが目の奥で繰り返された。


 崩れ落ちる寸前の紅葉。冷たかった指先。境界を越えた瞬間に戻った顔色。


 どれも、うまく整理できなかった。


 ずっとここにいたら、みんなに会える。


 子供の紅葉が口にした一言が、今の紅葉を縛っているのだとしたら。


 朔也はスマートフォンを手に取り、迷う前に陸の番号を呼び出した。


 発信音が、一度、二度と鳴る。


 三度目の途中で、指が勝手に赤いボタンを押していた。


 彼女は望んでも越えられない。自分は、越えようと思えばいつでも越えられる。


 それなのに、越えていない。


 その差が、今夜はやけに重たく感じられた。


 朔也はスマートフォンを机に伏せ、両手で顔を覆った。


 今度こそ、次は最後まで鳴らす。


 そう自分に言い聞かせながら、朔也は目を閉じた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第4話では、初めて「五人揃った記憶」を書きました。この記憶だけは、朔也が一人で花に触れても開かなかったはずのものです。紅葉自身が本音で「見たい」と口にした瞬間に呼応した、という形にしたくて、二人で同時に花へ触れる場面を作りました。


「ずっとここにいたら、みんなに会えるもんね」という子供の頃の一言は、プロット段階からずっと温めていた仕込みです。無邪気な約束が、五年後にはまったく違う意味を持って返ってくる。そのねじれを書きたくて、今回のエピソードを組み立てました。


紅葉が境界の手前で崩れ落ちる場面は、彼女の「たどたどしさ」とは別の質の怖さを出したいと思って書きました。いつもの明るいすり替えが間に合わない瞬間を、初めてはっきり描けたと思います。


次話では、この「出られない」という制約の正体に、二人がもう少しだけ近づいていきます。どうぞよろしくお願いします。

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