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第3話: 外の世界を知りたがる君に

 五日目の坂道は、もう迷わずに上れた。


 自転車を漕ぐ足取りに、迷いの重さがない。仕事帰りの寄り道は、いつのまにか毎日の予定に変わっていた。


 鞄の中で、小さな包みが揺れている。


「今日はこれ、持ってきた」


 丘に着くなり差し出すと、紅葉は目を丸くした。


「なにこれ。見たことない」


「駄菓子。キヨおばさんの店で買った」


「……そう、なんだ」紅葉は包みを両手で受け取り、しげしげと眺めた。「懐かしいはずなのに、全然思い出せない」


「食べたら、思い出すかもしれない」


 紅葉は飴を一つ口に含み、目を細めた。


「甘い」


「だろ」


「これ、好きだった気がする」


 断定できない言い方に、朔也はもう慣れ始めていた。彼女の言葉の端には、いつも小さな迷いがぶら下がっている。


 その日から、朔也はほとんど毎日、坂を上った。


 ある日は文庫本を、ある日は缶ジュースを鞄に入れた。紅葉は毎回、子供のように中身を覗き込んだ。花に触れなくても、彼女は少しずつ何かを取り戻しているように見えた。


 駄菓子屋に寄る回数も増えた。


「また買うの、朔也くん」キヨおばさんは、レジ代わりの菓子箱の前で笑った。「彼女さんにでも持っていくの?」


「……そんなんじゃないです」


「ふうん」キヨおばさんは、それ以上追及しなかった。「まあ、誰にあげるにしろ喜んでもらえるといいね」


 嘘はついていない。けれど本当のことも、何ひとつ言えていない。


 坂道を上りながら、朔也はいつもそのことを考えた。


 雨の日、丘はいつもより静かだった。紅葉は軒下代わりの大きな木の下で膝を抱え、雨音を聞いていた。


「今日は来ないと思った」


「約束しただろ」


「約束、覚えてたんだ」


「当たり前だろ」


 紅葉は嬉しそうに、けれどどこか意外そうにそう呟いた。約束が守られることに、まだ慣れていないような口ぶりだった。


 傘を差した朔也の肩から、雨粒が花びらの上に落ちて弾けた。丘の花は雨に打たれても萎れず、むしろ濡れた分だけ色が濃く見えた。


「濡れて帰るなよ、風邪ひくぞ」


「わたし、風邪とかひくのかな」紅葉は自分の手のひらを見つめた。「そういうの、よくわかんない」


「ひくよ、たぶん」


「たぶんばっかりだね、わたしたち」


 紅葉が小さく笑ったので、朔也もつられて笑った。




 十日目の夕方、丘の風はいくらか涼しくなっていた。


 紅葉は斜面に腰を下ろし、朔也の持ってきた文庫本のページを、意味もなくめくっていた。


「朔也、これ何の話?」


「恋愛小説。姉貴の忘れ物」


「ふうん」紅葉はぱたんと本を閉じた。「朔也は、恋愛したことある?」


 不意打ちの質問に、朔也の喉が詰まった。


「……さあ、どうだろ」


「はぐらかした」


「はぐらかしてない」


「はぐらかした顔してる」


 紅葉は、くすくすと笑った。屈託のない、あの子供の頃と同じ笑い方だった。


 笑いが収まると、紅葉はふと視線を落とした。


「ねえ、朔也」


「なに」


「陸くんたちって、今どんな人になってるの」


 軽い調子だったが、指先が服の裾を握っているのに朔也は気づいた。


「陸は工務店で働いてる。相変わらず、ぶっきらぼうだと思う」


「相変わらずって、変わってないの? それとも変わってるの?」


「……口調とか、たぶん変わってない。中身は、わからない」


「芽依は」


「看護師。隣の県の病院にいる」


「拓斗くんは」


「実家の花屋、継ぐとかって話してた気がする。……閉店したって、SNSで見たけど」


 紅葉は、ひとつひとつ確かめるように頷いた。


「みんな、ちゃんと生きてるんだ」


 その言い方に、朔也は少し引っかかった。まるで、生きていないかもしれないと疑っていたような響きがあった。


「当たり前だろ。もう五年も経ってるんだから」


「五年」紅葉は、その数字を口の中で転がすように呟いた。「わたしだけ、その五年がないんだね」


 言葉に詰まったのは、朔也の方だった。


「わたし、みんなに会ったら何て言えばいいんだろう」紅葉は膝を抱えた。「久しぶり、って言っていいのかな。それとも初めまして、なのかな」


「久しぶり、でいいよ」


「でも、わたしだけ十九歳のままだよ。変じゃない?」


 変じゃない、とは言えなかった。


「陸くんたち、わたしのこと覚えてる?」


「覚えてる。忘れるわけない」


「じゃあ、嫌われてない?」


 紅葉の声が、初めてわずかに震えた。


 朔也は答えようとして、口を開きかけた。けれど確信を持って言える言葉が、どこにも見つからなかった。


「……嫌ってなんか、いないと思う」


「思う、なんだ」


「本当に、思うだけなんだ。ごめん」


 紅葉は首を振った。


「謝らないで。朔也が知らないのは、当たり前だから」


 そう言って、また明るい声を作った。


「それより、拓斗くんの花屋、元気にしてるといいね」


 話がすり替わったことに、朔也は気づいていた。気づかないふりをするのが、今の彼にできる精一杯だった。


「昔さ」紅葉が唐突に言った。「わたしたち、五人で揃って写真とか撮ってた?」


「撮ってたと思う。拓斗のスマホに、たぶん残ってる」


「見てみたいな」


 その一言が、思いのほか重く胸に落ちた。


「今度、聞いてみる」


「うん」紅葉は花畑の向こうを見た。「でも、聞かなくてもいいよ。無理しないで」


「無理じゃない」


 そう答えたものの、拓斗に連絡する自分の姿が、朔也にはまだうまく想像できなかった。


 それからしばらく、紅葉は空を見上げたまま黙っていた。


「ねえ、今って何年なんだっけ」


「え」


「ううん、変なこと聞いた。ごめん」


 朔也は指を折って数え、答えた。


「僕らが十九だった年から、五年経ってる」


「五年」紅葉はまた同じ数字を繰り返した。「町、変わった?」


「文房具屋が潰れた。商店街もだいぶシャッター増えた」


「そっか」


「信用金庫も、来年支店が縮小するかもしれないって噂がある」


「朔也の会社?」


「うん」


「大丈夫なの、それ」


「わからない。考えないようにしてる」


 紅葉は少し呆れたように笑った。


「朔也って、考えないようにすること多くない?」


 図星を突かれ、朔也は返す言葉が見つからなかった。


「……そう、かもしれない」


「わたしも人のこと言えないけどね」紅葉は膝の上で指を組んだ。「思い出すの、ちょっと怖いから」


 紅葉は少し目を伏せ、また続けた。


「考えないようにしてること、たくさんある気がする」


 その一言だけは、いつもの明るい声のすり替えが間に合わなかった。




 紅葉が眠たげに欠伸をした頃、朔也は少し離れた茂みの中に、まだ固く閉じた蕾をひとつ見つけた。


 他の花はどれも満開なのに、そのつぼみだけが白く小さく萎縮していた。


「それ、ずっとそのままなんだ」紅葉が言った。「わたしも触ってみたことあるけど、何も起きなかった」


「僕も、試していい?」


 紅葉は頷いた。


 朔也は蕾に指先を伸ばした。陸のことを考えながら触れれば、何かが見えるかもしれない。そんな根拠のない期待があった。


 けれど、視界は白く滲まなかった。花はただの花のまま、指先の下で冷たく硬いだけだった。


「開かないね」紅葉が小さく笑った。「わたしに触られても朔也に触られても、開かないんだ」


「……そうみたいだ」


「なんでだろう」


「さあ」


 わからない、というより、うっすらとわかっている気配があった。触れるだけでは足りない何かが、このつぼみの奥にはあるらしい。


 自転車を漕いで帰る道すがら、朔也はスマートフォンを取り出し、連絡先の一覧を開いた。


 陸、芽依、拓斗。三つの名前が並んでいる。最後に連絡を取ったのがいつだったか、もう思い出せなかった。


 紅葉に何ができるだろう、と朔也は考え続けていた。花に触れるだけでは、記憶は少しずつしか戻らない。だったら、外の世界の何かを、もっと直接彼女に届けられないだろうか。


 写真なら、見せられるかもしれない。声なら、聞かせられるかもしれない。


 指がメッセージ画面まで進んで、そこで止まった。五年間、開くことのなかった扉に、まだ触れる勇気が出なかった。


 結局、その夜も朔也は誰にも連絡を送らなかった。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。写真が見たい、陸くんたちに嫌われてない、五年、その五年がないんだね。紅葉の言葉が、順番もばらばらに頭の中を巡っていた。


 自分にできることは何だろう。花に触れて記憶を覗くだけでは、彼女はきっと満たされない。外の世界そのものを、少しずつでも運んでやる必要があるように思えた。


 写真、声、名前。届けられるものは、まだいくつも残っている気がした。問題は、それを届ける勇気が朔也の側にあるかどうかだった。


 部屋の隅に置いた文庫本の上に、紅葉からもらった飴の包み紙が一枚だけ、そのままになっていた。


 次に丘へ行ったら、あの蕾がどうなっているか、確かめてみようと思った。


 開かない花が一つあるということは、まだ誰も、何も言えていないということだ。それが誰の分の花なのか、朔也にはまだわからなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第3話は、あえて大きな事件を起こさずに「通う日々」を書きました。花が開くのは第5話まで持ち越しですが、その間に何もないわけではなく、紅葉の中で少しずつ「外の世界への興味」が育っていく過程を描きたいと思っていました。


紅葉が「嫌われてない?」と聞く場面は、プロットの早い段階から決めていた台詞でした。記憶がなくても、人に嫌われることへの恐れだけは本能的に残っている――そういう不安定さを出したくて、あの短い震えを台詞に込めました。


閉じたままの蕾は、今回初めて登場した小道具です。花の共鳴が万能ではないこと、触れるだけでは開かない花があることを、説明ではなく朔也の指先の感触で示せたらと思って書きました。この蕾が誰の「言えなかった想い」なのかは、もう少し先で明かされます。


朔也がスマートフォンの連絡先で指を止める場面は、彼の弱さがいちばん率直に出た場面だと思います。次話では、この足踏みが少しだけ動き出す気配を書けたらと考えています。


次話もどうぞよろしくお願いします。

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