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第2話: 名前をなくした君に

 「朔也」


 名前を呼ばれたように思え、坂の途中で足を止めた。


 風に溶けて、すぐに消えていく声だった。それでも、知っている響きがした。


 昨日と同じ坂道だった。裏山へ続く道の先から、甘い花の匂いが流れてくる。朔也は自転車を降り、ハンドルを押しながらゆっくりと上り始めた。


 行くつもりはなかった。仕事帰りに寄り道するだけのはずだった。それなのに気づけば、いつもの帰り道を外れてこの坂を選んでいた。


 「今日じゃない」


 昨日、確かにそう自分へ言い聞かせた。その言葉は、一晩でどこかへ流れていってしまったらしい。


 蝉の声が、坂を上るごとに遠くなる。かわりに、耳の奥で笑い声が近づいてくるような気配があった。


 自転車のチェーンが軋む音だけが、やけにはっきり耳に届く。


 もし本当に誰かがいたとして、それが誰なのか、朔也にはもうわかっていた。認めるのが怖くて、口には出さなかっただけだ。


 坂の傾斜がきつくなる。ふくらはぎに疲れが溜まり始めても、足は止まらなかった。


 五年間、ずっとこの坂の下で立ち止まってきた。今日だけは、それをしたくなかった。




 木々が途切れると、視界が急に開けた。


 時渡りの丘は、記憶にあるより眩しかった。季節外れの花が、斜面いっぱいに白く咲き広がっている。夏の夕方だというのに、あたりの空気だけがひんやりと澄んでいた。


 白い花、薄紅の花、名前を知らない小さな花。どれも、今の季節に咲くはずのないものばかりだった。


 花のあいだを、虫の羽音がゆるやかに飛び交っている。土と蜜の匂いが混じり合い、鼻の奥をくすぐった。


 子供の頃、ここは秘密基地のような場所だった。誰の許可もいらない、五人だけの世界。


 その世界が、まだ丘の上にだけ残っていたらしい。


 その真ん中に、人影があった。


 高校の制服ではない、素朴なワンピースにカーディガンを羽織った後ろ姿。長い黒髪が、風に軽く揺れていた。


 自転車を降りたことも、丘を上りきったことも忘れて、朔也はただその背中を見つめた。


 夢なら覚めてほしくない、と思った。夢であってほしくない、とも思った。


 朔也の喉が、勝手に鳴った。


 「……紅葉?」


 振り返った顔は、記憶の中の彼女と寸分違わなかった。五年前のまま、時間だけが止まっている。


 「あ」


 少女は朔也を見て、小さく声を上げた。「えっと……」


 「紅葉、だよな。僕だよ、朔也」


 「さくや」


 彼女はその名前を、確かめるように繰り返した。「うん、知ってる気がする。知ってる……よね?」


 語尾が、宙に浮いたまま落ちてこなかった。


 「紅葉、僕のこと覚えてないのか」


 「ちがう、忘れてない、と思う」紅葉は慌てたように首を振った。「ただ、えっと……うまく言葉にならなくて」


 「じゃあ、自分の名前は」


 紅葉の視線が、揺れた。


 「わたしの、名前」


 「うん」


 「……紅葉、だよね?」


 確認するような、頼りない響きだった。


 「たぶん、そう。前にも誰かがそう呼んでた気がするから」


 それより、と紅葉は急に明るい声を出した。「朔也、この花見て。すごくない? 一年中咲いてるんだよ」


 「知ってる。子供の頃、みんなでよくここに来てた」


 「そう、なんだ」


 覚えていないのか、それとも確かめているだけなのか、判断がつかなかった。不安な話を、彼女はいつも明るい方へ逃がす。そんな気がした。


 「朔也は今、何してるの?」


 「信用金庫で働いてる。この町の」


 「かたい仕事だね」紅葉は、少しだけ笑った。「似合ってる、気がする」


 「そう、かな」


 「うん。昔から、几帳面だったし」


 昔から、という言葉の重みを、彼女自身はどこまでわかって言っているのだろう。朔也にはわからなかった。


 「紅葉は、ここでずっと何してたんだ」


 「花、見てた。あとは、なんだろう……あんまり、覚えてない」


 「退屈じゃなかったか」


 「うーん」紅葉は首をかしげた。「退屈っていう感じは、しなかった、かな。誰か来る気がしてたから」


 「誰か、って」


 「わかんない。でも、朔也な気がしてた」


 紅葉が屈んで、花を一輪摘んだ。指先でくるくると回す仕草に、既視感があった。


 「はい」


 差し出された花に、朔也は手を伸ばした。


 受け取ろうとした指先が、花びらに触れた瞬間だった。


 視界が、白く滲んだ。


 ——まだ小学生だった、あの日のことだ。


 夏草の匂いが濃く立ちこめる斜面で、五人ではしゃいでいた。


 丘の斜面を駆け下りていた紅葉が、石につまずいて転びかけた。とっさに朔也が腕を伸ばし、体を支えた拍子に、自分の手首を岩の角に擦りむいた。


 「ごめん、朔也、血、出てる」


 「平気。これくらい」


 「痛くない?」


 「痛くない」


 嘘だった。けれど紅葉が半泣きの顔をしていたから、それ以上は言えなかった。


 傷はやがて、小さな痕になって左手首に残った。


 ——花びらの白い光が引いていく。


 気づけば、朔也の手のひらに花が乗っていた。左手首の古い傷が、今また擦りむいたようにじんと疼いた。


 「朔也? 顔色、悪いよ」


 「……ちょっと、昔のことを思い出した」


 「昔の、わたしたちの?」


 「うん。紅葉が転んで、僕が怪我した日のこと」


 紅葉の目が、大きく見開かれた。


 「それ、知ってる気がする……ごめん、やっぱりよくわからない」


 彼女は困ったように笑い、また明るい声を作った。「でも、朔也が庇ってくれたなら、いい思い出だよね?」


 言い換えるように、そう締めくくった。


 朔也は、もう一つ隣に咲いていた花に、ためらいながら手を伸ばした。尋ねてはいけない、という予感があった。それでも、指は止まらなかった。


 花弁に触れた瞬間、また視界が白く滲んだ。


 ——あれは、高校二年の冬のことだ。


 放課後の教室で、紅葉が制服の裾を引っ張って呼び止めてきた。


 「朔也、あのね、話したいことが」


 「ごめん、今日バイトで急いでて」


 「……そっか。じゃあ、また今度」


 紅葉は、笑って手を離した。けれどその笑顔の下に、何かを諦めたような色が一瞬よぎった。


 結局、「また今度」は来なかった。


 ——白い光が引いて、丘の景色が戻ってくる。


 朔也の手の中の花は、さっきよりわずかに色が濃くなっていた。


 「朔也?」


 紅葉の声で、我に返った。


 「……ごめん、なんでもない」




 日が傾き、丘の花々が夕焼けに染まり始めた。


 「そろそろ、帰らないと」


 朔也がそう言うと、紅葉の表情が、ほんの少し曇った。


 「そう、なんだ」


 「明日も、来ていい?」


 紅葉は、こくりと頷いた。


 「陸くんとか、芽依とか、拓斗くんは……」紅葉がふと、指折り数えるように名前を挙げた。「みんな、元気にしてる?」


 「……たぶん。最近はあんまり、連絡取ってなくて」


 「そっか。仲良かったのにね、わたしたち」


 その一言に、朔也は答えられなかった。


 仲良かった、ではなく仲良い、と紅葉は言わなかった。過去形だと、彼女自身は気づいていないようだった。


 捜索願は出され、警察も町中を捜した。それでも、誰もこの丘までは探しに来なかった。朔也自身も、今日この瞬間まで坂の下で足踏みしていた一人だった。


 その事実が、今さらのように重たく胸に沈んだ。


 紅葉は、それから、ためらうように口を開いた。


 「ねえ、朔也」


 「なに?」


 「わたしの名前……本当に、紅葉で合ってる?」


 「合ってるよ。紅葉だ」


 「じゃあ、わたしが紅葉だって朔也が知ってるってことは」


 紅葉は、言葉を探すように間を置いた。「わたしのこと、ちゃんと覚えててくれたってことだよね?」


 「もちろん」


 「なのに、なんでわたし、自分の名前も覚えてないんだろう」


 その声は、笑おうとして、笑いきれていなかった。


 大事なことほど、ちゃんと言葉にする。子供の頃からずっと、心の中で繰り返してきた文句なのに、今は喉に張りついて出てこない。


 「僕は——」


 言いかけて、言葉が止まった。


 紅葉は、それ以上聞いてこなかった。ただ静かに、丘に咲く花へと視線を戻した。


 「いいよ、無理に言わなくて」


 その優しさが、今はいちばん、朔也の胸に刺さった。


 空を見上げると、いつのまにか夕焼けは失せ、藍色に沈んでいた。


 ほんの数分のつもりだった。なのに、腕時計の針は一時間以上進んでいる。


 「……紅葉、今何時かわかる?」


 紅葉は、きょとんとした顔をした。


 「時間? さあ……ここにいると、あんまりわからなくなるの」


 その言い方が、笑い話にしては軽すぎた。


 「紅葉、いつからここにいるんだ」


 「いつから、かな……」紅葉は、丘を見渡した。「気づいたら、ずっとここにいた気がする。それより前のことは、うまく思い出せない」


 「怖くないのか、それ」


 「怖い、けど」紅葉は、少し笑った。「朔也が来てくれたから、今日はあんまり怖くなかったよ」


 朔也の背筋を、季節外れの冷たさが撫でた。


 「気をつけて帰ってね、朔也」


 紅葉は、そう言って小さく手を振った。声だけはいつもと変わらず、屈託がなかった。


 振り返らずに丘を下りながら、朔也は手の中の花をそっと握り直した。


 花びらの奥が、ほんのわずかに冷たい気がした。気のせいだと、自分に言い聞かせた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第2話で、ようやく紅葉が本編に登場しました。書いていて一番悩んだのは、彼女の台詞のたどたどしさをどこまで崩すかでした。崩しすぎると読みにくくなるし、整えすぎると記憶の曖昧さが伝わらない。「……紅葉、だよね?」と自分の名前を確認する一言は、何度も書き直した末に残った台詞です。


朔也の左手首の傷は、実は第1話の時点で人物設定にだけ存在していた裏設定でした。あの傷がどうしてできたのか、彼自身も詳しくは覚えていなかった、という体で書いています。花の共鳴で初めて答え合わせができた、という構図です。


もう一つの記憶――放課後の教室のシーン――は、当初はもっと重い内容にする予定でした。ただ、五年前の衝突そのものより先に、こういう小さなすれ違いを積み重ねる方が、朔也の「言葉を飲み込む癖」の根の深さが出ると思い、今の形に落ち着きました。


次話では、紅葉の戸惑いと違和感にもう少し焦点を当てていきます。どうぞよろしくお願いします。

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