第1話: 変わらない町で
蝉の声が、坂の下まで降りてきていた。
柊朔也は自転車を漕ぐ足を緩め、かつて文房具屋だった店先を横目に見た。シャッターの下りた店が、また一軒増えていた。
裏山の方から、季節外れの甘い匂いが、ふっと鼻先をかすめた。朔也は一瞬だけペダルを踏む足を止めかけ、すぐに思い直してそのまま進んだ。
ガラス戸の内側には、色褪せた「閉店のお知らせ」がテープで貼られたままになっている。
花見坂商店街は、朔也が子供の頃と比べて三分の一ほどしか灯りが点いていない。それでも町を出ようと思ったことは一度もなかった。本当の理由を、朔也は誰にも言ったことがない。
信用金庫の裏口に自転車を停め、時計を見る。始業まであと十二分。
「柊くん、おはよう。今日も早いね」
窓口の先輩、田中がそう声をかけてくる。
「おはようございます。近道したら、着くのが早すぎました」
「近道って、どこの」
「文房具屋の前の坂です。もう店、閉まってましたけど」
「ああ、あそこも駄目になったか」田中は少し眉を下げた。「柊くんが子供の頃はあの坂、賑わってたんでしょ」
「そうですね。よくみんなと、駄菓子買いに寄ってました」
「友達って、あの五人組? まだ仲良くしてるの」
軽い質問のはずだった。答えに詰まった時間が、思ったより長くなった。
「……最近はもう、あんまり」
「あら、そうなんだ。仲良さそうだったのに」
「そうですね」
「まあ、大人になったらそんなもんか。うちの支店も、来年縮小するかもって噂だしね」
「え、そうなんですか」
「まだ噂だけどね。びっくりした?」
「……少しだけ」
「この町、何もかも縮んでいくねえ」
「田中さんは、出るつもりないんですか」
「今更ねえ。柊くんは?」
「……考えたこと、ないです」
それ以上は続かず、田中もそれ以上は聞かなかった。朔也はいつもの椅子に座る。伝票の束、電卓の乾いた音、コピー機の唸り。何一つ変わらない一日が、また始まる。
変わらないのは、町の景色と、朔也の毎日だけではなかった。
五年前のあの夜から、時間は朔也の周りだけ止まっているような気さえした。
昼休み、給湯室で缶コーヒーを開けながら、朔也はふと窓の外に目をやった。裏山の稜線が、夏の白い光の中に霞んで見える。あの稜線の向こうに、時渡りの丘がある。
——あれは、小学生の頃のことだ。
五人で丘の斜面に寝転がって、誰が最初に音を上げるかを競っていた。真夏の草いきれの中、真っ先に音を上げたのは拓斗だった。
「もう無理、腹減った」
「お前、さっき駄菓子買ったばっかだろ」陸が呆れたように言う。
「別腹ってあるだろ、別腹」
「男に別腹はないでしょ」芽依が容赦なく突っ込む。「陸、こいつ放っといていいから。朔也、水筒持ってきた?」
「持ってきたけど、拓斗にはやらない」
「ひどっ」
紅葉だけが、少し離れたところで花を一輪摘み、くるくると指先で回していた。
「ねえ、この花この季節に咲くやつじゃないのに。なんでだろ」
「知らねえよ、そういうもんなんじゃね」陸が興味なさそうに言う。
「変な丘だよねえ、ほんと」紅葉はそう言って、花を朔也の方にそっと差し出した。「はい、朔也にあげる」
あの時の花の匂いが、今この給湯室にまで漂ってくるような錯覚があった。
朔也は目を伏せ、缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるくなっていた。
高校を出る直前、あの光景の全部が終わった。
紅葉と些細なことで言い合いになった夜。
「もう、いい」
それだけ言って背を向けた紅葉を、朔也は追いかけなかった。掌には、あの時の妙に湿った空気の重さが、今もかすかに残っている。翌朝、紅葉は家からいなくなっていた。捜索願が出され、警察が動き、けれど何も見つからないまま、いつしか「家出」として処理された。
誰も悪くなかった、はずだった。少なくとも朔也は、今でもそう思おうとしている。
定時になると、朔也はいつもより少しだけ足を速めて信用金庫を出た。理由はないが、今日は妙にあの稜線が気になっていた。
商店街を抜けようとしたところで、「あら」と声がかかった。
角の駄菓子屋の店先で、椅子に座っていたキヨおばさんだった。子供の頃、五人でよく小遣いを持ち寄った店だった。
「朔也くんじゃない。久しぶりだねえ」
「ご無沙汰してます。まだお店、やってたんですね」
「やってるよ、細々とね」キヨおばさんは笑い、それから目を細めた。「一人? 最近あんたたち五人で歩いてるとこ、見ないねえ」
「……みんな、それぞれ忙しくて」
「そう。仲良かったのにねえ、あんたたち」キヨおばさんは店先の駄菓子を並べ直しながら続けた。「あの子は、元気にしてるの? ほら、髪の長い」
「……紅葉ですか」
「そうそう、紅葉ちゃん。しばらく見てないけど」
朔也は答えに詰まった。噂話にすらなっていないということは、五年前のことは町の記憶からもう薄れているということなのだろう。
「元気にしてると、思います」
「そう。それならいいけど」
嘘をついた自覚はあった。けれど、それ以外にどう答えればいいのか、朔也にはわからなかった。
「今度、みんなで顔出しなよ。五人揃ってるとこ、また見たいねえ」
「……考えておきます」
「また顔見せなよ」
背中に投げられた声に、朔也は振り返らずに片手だけ挙げた。
裏山へと続く坂道に差しかかったところで、朔也の足が自然と止まった。
風向きが変わったのだろうか。どこかから、甘い花の匂いが流れてきた気がした。夏の乾いた空気には似合わない、もっと湿った、季節外れの匂い。給湯室で嗅いだのと同じ匂いだった。
立ち止まったまま、朔也は耳を澄ませた。
——笑い声が、聞こえた気がした。
「……誰か、いるのかよ」
遠く、山の上のほうから。子供の頃、あの丘でよく聞いた種類の、屈託のない笑い声。まさか、と思う。もう何年も、あの丘に誰かが登っているという話は聞いたことがなかった。
空耳だ。そう自分に言い聞かせて、朔也は坂道の先へ目を向けた。木々の間から、丘の頂上のあたりだけがわずかに白く光って見える。日差しの加減だろう、と思おうとした。けれど、その白さは、太陽の光にしては妙に静かだった。
「……気のせいだよな」
声に出してみると、余計に落ち着かなくなった。鼓動が、思っていたより速い。
言わなきゃ伝わらないってことを、僕が一番わかってなかったんだ——五年前、そう気づいた時にはもう、紅葉はいなかった。それからずっと、大事なことほどちゃんと言葉にすると自分に言い聞かせてきたはずなのに、今日もまた朔也は誰にも何も言わないまま坂の途中で立ち尽くしている。
風がもう一度吹いて、花の匂いが濃くなった。
「……今日じゃない」
朔也は数秒迷って、結局、丘へは向かわなかった。
踵を返し、いつもの帰り道へ足を向ける。背後で、また笑い声らしき音が響いたけれど、振り返ることはしなかった。
振り返れば、五年前と同じように、何かを取り返しのつかないものにしてしまうように思えたからだ。
アパートの部屋に戻ると、朔也は制服代わりのシャツを脱ぎ捨て、換気扇の下でスマートフォンを見た。同期のグループチャットに、他愛のない話題が並んでいる。既読だけつけて、返信はしなかった。
陸、芽依、拓斗。三人のSNSのアイコンを、朔也は何をするでもなく順番に眺めた。
陸は工務店の現場写真を時々あげている。芽依のアカウントは半年ほど更新が止まっている。拓斗のページには、閉店した実家の花屋の写真が一枚だけ、説明もなく投稿されていた。
「……既読つけるだけかよ、僕は」
自分に向けた呟きが、静かな部屋に落ちて消えた。
まるで最初から存在しなかった場所のように、時渡りの丘は、この町の誰の話題にも上らなくなっていた。
メッセージが一件届いた。母からだった。
「今度の夏祭り、顔出すの? 神社、裏山の下だから」
朔也は既読をつけたまま、しばらく画面を見つめた。
「まだわかんない」
「たまには帰ってきなさいよ。あんたが帰ってきたの、正月以来じゃない」
「わかってるよ」
「陸くんも芽依ちゃんも、最近見かけないけど。みんな元気にしてるの?」
朔也は画面をタップしかけて、指を止めた。
「……さあ。どうだろ」
嘘ではなかった。本当に、わからなかった。既読はついたまま、それ以上の返信は来なかった。
朔也はスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。夕闇の向こうに、裏山の稜線がぼんやりと沈んでいく。
あの白い光は、まだそこにあるだろうか。
「……いつかは、ちゃんと」
言葉は、誰に届くでもなく夜に溶けた。確かめる勇気は、今日もまだ、朔也の中になかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第1話は、あえて「何も起きない」日常回にしました。時渡りの丘や紅葉のことは、朔也の記憶と町の空気、そして周囲の何気ない一言を通してしか描かれません。次話でようやく、五年ぶりの再会が動き出します。
給湯室での回想に、五人の子供時代のやり取りを少しだけ差し込みました。まだ本編に登場していないキャラクターたちですが、口調のイメージだけでも先に感じてもらえたらと思います。陸のぶっきらぼうさも、芽依の遠慮のなさも、拓斗の食い意地も、当時からあまり変わっていません。
キヨおばさんの駄菓子屋は、実は今後もちょこちょこ顔を出す予定の場所です。町の記憶を持っている人物として、地味に重要な役回りになると思います。
「大事なことほど、ちゃんと言葉にする」という朔也の心の中の言葉は、今回の物語全体を貫く一本の芯になる予定です。彼がこの言葉通りに動けるようになるまでを、ゆっくり書いていきます。
次話もどうぞよろしくお願いします。




