第21話: 拓斗の花が開いた夜、紅葉があやうく消えかけた
「本当に、ここでいいのか」
坂の入口で、拓斗が足を止めた。声の軽さが、少しずつ剥がれ落ちていくのが分かった。
「いいから、来てくれ」朔也は言った。「信じて」
仕事終わり、朔也は拓斗を花屋の前で拾った。
「まさか、こんな展開になるとはな」拓斗は、坂道を見上げながら言った。「陸の時も、芽依の時も、こんな感じだったのか」
「似たようなもんだった」
「二人とも、何も教えてくれなかったし」拓斗は苦笑した。「『行けば分かる』しか言わないんだもん、みんな」
「行けば、分かるから」
拓斗は、それ以上聞かなかった。ただ、緊張を隠すように、何度も服の裾を整えていた。
境界の切れ目を越えると、花の匂いが変わった。
「うわ、なんだこれ」拓斗は、鼻を鳴らした。「季節、完全に狂ってるだろ」
「もうすぐ、わかる」
坂を上りきると、視界いっぱいに花畑が広がった。夕陽を浴びた花びらが、一面に橙と紅の光を散らしている。
「マジか」拓斗は、その場に立ち尽くした。「こんな場所、あったのか。俺ら、五年前によく登ってたのに」
いつもの場所に、紅葉が立っていた。
「紅葉」拓斗の声が、震えた。
「拓斗、くん」紅葉が、目を見開いた。
拓斗は、しばらく動けなかった。いつもなら、すぐに軽口の一つも飛ばすはずだった。今日の拓斗は、何も言えずにただ立っていた。
「相変わらず、可愛いままだな」拓斗は、やっと絞り出すように言った。声は震えていたが、いつもの調子を保とうとしていた。
「拓斗くんは、変わったね」紅葉は、目を潤ませながら笑った。「髪、明るくなった」
「似合うだろ」
「似合ってる」紅葉は頷いた。「昔からずっと」
「花屋は」紅葉は、少し首を傾げた。「今も続けてるの」
拓斗の表情に、一瞬だけ影が差した。それでも、すぐにいつもの調子で返した。
「まあ、色々あってな」拓斗は軽く言った。「今度、ゆっくり話す」
紅葉は、それ以上聞かなかった。記憶が曖昧なはずの彼女にも、拓斗の"色々"の重さは、なんとなく伝わっているようだった。
二人は、しばらく見つめ合っていた。五年分の時間が、花畑の真ん中で不格好に重なっていた。
「ごめん」拓斗が、先に口を開いた。「五年間、一回も会いに来なかった」
「来られるわけ、なかったでしょ」紅葉は首を振った。「わたしがどこにいるかなんて、誰も知らなかったんだから」
「そうだけど」拓斗は、視線を落とした。「もっと早く、みんなで紅葉のこと捜そうって、言い出せばよかった」
「拓斗くんのせいじゃないよ」
「みんな、そう言うんだよな」拓斗は、力なく笑った。「でも、心では納得できてないんだ、まだ」
「紅葉」拓斗は、ようやく本題に触れた。「聞いてほしいことがある」
紅葉は、じっと拓斗を見つめた。
「五年前、俺、みんなに『集まろう』って連絡したんだ。誰にも、うまく伝わらなかったけど」拓斗は続けた。「もし、あの時ちゃんと集まれてたら、紅葉のことも、もっと早く気づけたかもしれない」
「拓斗くん」
「いつも、笑ってごまかしてばっかりで」拓斗の声が、初めて崩れた。「本当は、ずっと怖かったんだ。俺がグループを繋ぎ止められなかったから、紅葉が一人で抱え込んで、消えたんじゃないかって」
紅葉の目に、涙が浮かんだ。
「拓斗くんは」紅葉は、震える声で言った。「いつも、わたしを笑わせてくれた人だよ」
「え」
「思い出した」紅葉は、自分の言葉に驚いたように目を見開いた。「拓斗くんがいてくれるだけで、安心できた。そういう記憶が、たくさんある」
紅葉は、両手で拓斗の手を包んだ。
「だから、自分を責めないで」紅葉は言った。「拓斗くんは、ずっとわたしの支えだった。それだけは、はっきり覚えてる」
拓斗の顔が、くしゃりと歪んだ。
「そんなん言われたら」拓斗は、涙を拭った。「立ち直れないだろ、五年分の意地が」
「立ち直らなくていいよ」紅葉は、微笑んだ。「今日くらいは」
拓斗は、大きく息を吸い、そして吐いた。何かを吹っ切るような、長い呼吸だった。
「じゃあ、今日だけ」拓斗は言った。「盛大に、格好悪いとこ見せてやる」
次の瞬間、拓斗の目から涙が溢れ出した。子供のように、声を上げて泣いていた。五年分の重みを、その場で一気に解き放つように。
二人の手が重なった瞬間、蕾が大きく震え出した。
朔也は、吸い寄せられるように花びらに触れた。視界が、これまでにない強さで揺れた。
景色が、幾つも重なって流れ込んできた。
——五年前、失踪の三日前。夕暮れの花屋に、紅葉がふらりと立ち寄っていた。
陸との喧嘩の直後だった。紅葉の足取りは重く、俯いたまま、何も買わずに店先の花をぼんやり眺めていた。カウンターの奥から、拓斗がその様子に気づいた。
拓斗は、何も聞かなかった。ただ、店先に並んだ花の中から一輪を選び、紅葉に差し出した。理由なんてなかった。「今日、なんか元気なさそうだったから」それだけだった。
紅葉は、驚いたように笑った。それから、久しぶりに心の底から笑ったような顔をした。花を受け取った手が、少しだけ震えていた。
「ありがとう」と言った紅葉の声は、拓斗の記憶には残らないほど、何気ない一言だった。それでも紅葉は、その花を大事に抱えて、坂道を上っていった。
拓斗は、そのことを覚えていなかった。ただの、いつもの気まぐれだと思っていた。けれど紅葉にとっては、あの一輪が、崩れかけていた自分をぎりぎりで繋ぎ止めた最後の光だった。
景色が、元に戻った。
朔也は、震える息を吐いた。花びらが、光を放ちながら一斉にほどけていく。
「見えた」朔也は、掠れた声で言った。「拓斗が、花をくれた日のこと」
「覚えてない」拓斗は、呆然と言った。「そんなこと、あったか」
「拓斗くんにとっては、なんでもない日だったんだと思う」紅葉は、涙のまま笑った。「でも、わたしにとっては、最後の光だった」
光が、花畑全体に満ちていく。拓斗の分だと見立てていた蕾が、大きく花開いていく。
その瞬間だった。
紅葉の輪郭が、これまでのどの瞬間よりも激しく揺らいだ。花畑全体が、水面のように歪んで見えた。
「紅葉っ?」
紅葉の体が、崩れ落ちるように地面に沈んだ。拓斗が、慌てて抱き止める。
「紅葉! おい、しっかりしろ!」
紅葉の輪郭は、もう半分近くまで透けていた。夕陽の色が、彼女の体を素通りしていく。
「大丈夫」紅葉は、消え入りそうな声で言った。「ちょっと、疲れただけ」
嘘だった。朔也にも、拓斗にも、それが分かった。
「これ、本当にやばいやつだろ」拓斗が、青ざめた顔で朔也を見た。「なあ、どうすればいいんだよ」
朔也は、答えられなかった。三つの花が全て開いた今、これまでで最大の代償が、紅葉から一気に削り取られていた。
「紅葉」朔也は、膝をついて紅葉の顔を覗き込んだ。「聞こえるか」
「聞こえる」紅葉は、薄く目を開けた。「大丈夫。すぐ、戻る、から」
その声は、今にも掻き消えそうなほど弱々しかった。拓斗は、紅葉を抱えたまま、身動きが取れずにいた。
「なんで、こんな」拓斗の声が震えた。「陸の時も、芽依の時も、こんなにひどくなかっただろ」
「わからない」朔也は正直に言った。「でも、確実に何かが変わってる」
しばらくして、紅葉の輪郭は少しずつ戻り始めた。それでも、いつもの薄さには程遠かった。
「ごめん」紅葉は、荒い息のまま言った。「今日は、もう、あんまり動けそうにない」
「謝らなくていい」拓斗は、紅葉を優しく地面に横たえた。「俺こそ、無理させて悪かった」
「拓斗くんの、せいじゃないよ」紅葉は、弱々しく笑おうとした。
残るは、拓斗の心配と、朔也の焦りだけが、暮れゆく花畑に取り残されていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第21話で、第2アーク転パート、拓斗編が完結しました。花の共鳴で見せた「拓斗が何気なく渡した一輪の花」という記憶は、このエピソードで一番書きたかった場面です。拓斗自身は何も覚えていない、けれど紅葉にとっては人生の分岐点だった——という非対称な記憶の重みを、拓斗編全体の着地点にしたいと思っていました。
タイトルの「あやうく消えかけた」の通り、今回は陸編・芽依編よりも明確に大きな代償を紅葉に払わせています。三つの花が同時期に開いたことの反動、というのが表向きの理由ですが、本当の理由は次のアークで明らかになっていきます。
第2アーク「散らばった記憶編」は、次話でいよいよ結パートに入ります。陸・芽依・拓斗、三人の記憶がほぼ出揃った今、まだ見えていないのは紅葉自身の最大の秘密だけです。どうぞよろしくお願いします。




