第19話: 拓斗が、閉じた花屋の鍵を開けた
——今度、二人で話せないか。
拓斗からのメッセージは、いつもの軽い調子とは違っていた。
朔也は、既読をつけたまま、しばらく画面を見つめていた。
指定されたのは、花屋の裏口だった。
「表からだと、近所の目があるから」拓斗は、鍵を取り出しながら言った。「ここなら、誰にも見られない」
鍵が回る音が、静かな路地に響いた。
中に入ると、埃っぽい花の匂いが、かすかに鼻をついた。棚には、枯れた花器がいくつも並んだままになっていた。
「散らかっててごめん」拓斗は、電気をつけながら言った。「片付ける気力も、正直なかった」
「いつから、閉めてるんだ」
「半年くらい、かな」拓斗は、古い椅子を二脚引っ張り出した。「座ってくれ。長くなりそうだから」
朔也は、腰を下ろした。拓斗の顔から、いつもの軽さが少しずつ抜けていくのが分かった。
カウンターの奥には、色褪せた値札のついた花器や、水の抜けた花瓶が、そのままの状態で放置されていた。時間が止まった店内で、拓斗だけが五年分の疲れを背負って立っているように見えた。
「なんか、飲み物出したいとこだけど」拓斗は、力なく笑った。「水道も、止めてるんだ。悪い」
「気にしなくていい」
拓斗は、椅子に座り直した。何度か口を開きかけては、また閉じる。その様子を、朔也は急かさずに待った。
「親父とお袋、五年前くらいから、あんまりうまくいってなくてさ」拓斗は、ぽつりぽつりと話し始めた。「表向きは、普通にやってたけど。家の中は、結構ぎすぎすしてた」
「知らなかった」
「言ってなかったから」拓斗は自嘲気味に笑った。「うちに来る度に、みんな笑って過ごしてただろ。あれ、半分は俺が頑張って作ってた空気だったんだ」
朔也は、何も言えなかった。子供の頃、この店に入り浸っていた時間の記憶が、まるで違う色を帯びて塗り替えられていくようだった。
「花屋の経営も、その頃からずっと苦しくてさ」拓斗は続けた。「親父が体調崩して、店に出られなくなって。俺が学校終わってから手伝う日が、だんだん増えてった」
「みんなには」
「言えるわけないだろ」拓斗は苦笑した。「みんなの前でだけは、明るい俺でいたかった。それが、俺の唯一の役割だと思ってたから」
その言い方に、朔也は胸を突かれた。拓斗にとってのムードメーカーという役割が、もしかしたら重荷にもなっていたのかもしれない。今まで、そんな風に考えたことは一度もなかった。
「紅葉が消えた頃」拓斗は、声のトーンを落とした。「ちょうど、お袋も体調崩したんだ。心労、だと思う。それで、俺が家のことほぼ全部やることになって」
「それで、みんなと距離ができたのか」
「距離を置いたっていうより」拓斗は、視線を落とした。「置かざるを得なかった、が近い。毎日、店と病院と家を往復するだけで、精一杯だった」
その言葉には、五年分の疲労が滲んでいた。
「入院、どのくらいだったんだ」
「三ヶ月くらい」拓斗は言った。「その間、親父も店に出られないから、俺が学校とバイトと病院、全部回してた。誰かに愚痴る余裕なんて、なかったんだよな」
「一人で、抱えてたのか。それ全部」
「一人っていうか」拓斗は、少し考えるように言葉を選んだ。「頼れる人がいなかったわけじゃない。ただ、頼り方が分からなかった」
その言い方が、朔也の胸に重く残った。頼り方が分からない、という感覚には、朔也自身にも覚えがあった。
「連絡、しようとは思ってたんだ」拓斗は言った。「でも、するたびに『大丈夫?』って聞かれるのが、しんどくて」
「大丈夫じゃなかったのか」
「大丈夫じゃなかった」拓斗は、初めてはっきりと言った。「でも、それを言葉にしたら、本当に崩れる気がして。だから、笑ってごまかす方を選んだ」
拓斗は、棚の上の枯れた花器を、指先でそっとなぞった。
「今日、話そうって決めたのは」拓斗は続けた。「お前が連絡くれた時、なんか、潮時な気がしたんだ。ずっと一人で抱えてるの、そろそろ限界だったのかもしれない」
「話してくれて、良かった」
「良かったのか、これ」拓斗は自嘲した。「辛気くさい話しかしてないのに」
「辛気くさくない」朔也は言った。「拓斗の本当の顔、初めて見れた気がする」
拓斗は、少しだけ驚いた顔をした。それから、ゆっくりと頷いた。
「お袋、今は落ち着いてる」拓斗は言った。「でも、店を再開する余裕は、まだない」
「そうだったのか」
「重い話して、悪い」拓斗は、いつもの笑顔を作ろうとして、うまくいかなかった。「らしくないよな、こんな話」
「らしくなくていい」朔也は言った。「聞かせてくれて、ありがとう」
拓斗は、しばらく黙って店内を見渡した。
「紅葉のこと、もっと詳しく聞いてもいいか」拓斗は、ようやく本題に触れた。「手がかり見つかったって、言ってただろ」
朔也は、言葉を選びながら答えた。まだ全部は話せない。それでも、拓斗が今日、自分のことを話してくれた分だけ、誠実に向き合いたかった。
「まだ、詳しくは言えない」朔也は言った。「でも、もう少しで、拓斗にもちゃんと話せる気がする」
「待ってる」拓斗は言った。「今度は、逃げずに」
その一言に、これまでとは違う何かが宿っていた。
窓の外はすでに暗くなっていた。閉じたシャッターの隙間から、街灯の明かりが細い線になって床に伸びていた。
花屋を出た後、朔也はその足で丘へ向かった。
紅葉は、いつもの場所で待っていた。
「今日は、拓斗くんと話せたの?」
「うん」朔也は頷いた。「色々、聞いた」
「どんな話?」
朔也は、順を追って話した。両親の不和、花屋の経営難、母親の入院。話すうちに、紅葉の表情がだんだん曇っていった。
「拓斗くん、そんなに大変だったんだ」紅葉は言った。「全然、知らなかった」
「僕もだ」朔也は言った。「五年間、誰も気づかなかった」
「気づけなかったんじゃなくて」紅葉は、蕾の連なりを見つめながら言った。「気づかせてもらえなかった、が近いのかもね」
その言い回しに、朔也は少し驚いた。記憶の明瞭化とともに、紅葉の言葉選びは、日を追うごとに鋭さを増しているように感じられた。
拓斗の分だと見立てている蕾は、今日もまだ、固く閉じたままだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第19話は、拓斗が初めて家庭の事情を語る回になりました。「笑いで空気を作っていたのは自分自身だった」という告白は、彼のキャラクターシートの核である「空気を読みすぎて、自分の本音を笑いで包んでしまう」を、具体的な背景と結びつけて描きたくて書きました。
紅葉が消えた時期と、拓斗の母親の体調悪化の時期が重なっていたという設定は、単なる偶然ではなく、拓斗自身が「自分がグループを離れたタイミングのせいで、余計に何かが壊れた」と感じてしまう伏線として仕込んでいます。次話では、その自責の核心により踏み込んでいきます。
閉じた花屋の中という舞台は、拓斗が初めて自分の"内側"を見せる場所として選びました。どうぞよろしくお願いします。




