第17話: 焦りだけが、坂道を早足にさせた
紅葉の輪郭が、また透けた。
今日はもう、三度目だった。花に触れたわけでも、誰かと向き合ったわけでもない。ただ立っているだけで、その現象は起き始めていた。
朔也は、笑顔を作るのに苦労した。
紅葉の手のひらの向こうに、夕陽の色がうっすらと透けて見える。それが元に戻るまでの数秒間、朔也は息をするのも忘れていた。
芽依の花が開いてから、五日が経っていた。
その間、朔也は毎日丘に通い続けた。紅葉の輪郭は、日を追うごとに薄くなる頻度が増していた。花の開閉と関係なく起きるその現象は、もう見過ごせない段階に入っていた。
一日目は、一度だけだった。二日目も、一度。三日目には二度に増え、今日はもう三度目を数えていた。数字にすれば、それだけのことだった。それでも、その数字の並びが、朔也の中で日に日に重さを増していた。
仕事中も、頭の片隅で数字が点滅していた。窓口業務の合間、朔也は何度も心の中で今日の回数を数え直していた。田中に二度、伝票の記入ミスを指摘された。
「大丈夫」紅葉は、朔也の顔を見て言った。「そんな顔、しないで」
「してない」
「してる」紅葉は小さく笑った。「わたしより先に、朔也の方が倒れそう」
冗談めかした言い方だったが、笑えなかった。
仕事から丘まで、自転車を漕ぐ速度が、この数日で明らかに速くなっていた。少しでも早く紅葉の顔を確かめたい。その一心で、朔也は坂道を上り続けていた。
仕事帰り、朔也はキヨの駄菓子屋に立ち寄った。
店先で座っていたキヨおばさんは、朔也の顔を見るなり目を細めた。
「珍しいね、こんな時間に」
「キヨさん」朔也は、思い切って切り出した。「時渡りの丘の言い伝えって、詳しく知ってますか」
キヨおばさんの手が、一瞬止まった。
「懐かしい名前、出すね」キヨおばさんは言った。「消えない想いが花になる、って話だろ。うちの祖母から聞いたきりだけど」
「その先は」
「知らないよ」キヨおばさんは首を振った。「ただの昔話だと思ってたし。……最近、何かあったのかい」
朔也は、答えられなかった。
「昔は、丘に近づくもんじゃないって、よく言われたもんだよ」キヨおばさんは、店先の縁台に座り直した。「想いが強すぎると、戻ってこられなくなる、とかね。でも、あんたたち子供らは、しょっちゅう登ってたけど」
「戻ってこられなくなる、って」
「言い伝えだよ、あくまで」キヨおばさんは笑った。「本気にするようなことじゃない」
朔也には、それが単なる昔話には聞こえなかった。
「あの丘、子供の頃はよく五人で行ってたね」キヨおばさんは、遠い目をして言った。「紅葉ちゃんが、いなくなってから、誰も行かなくなったけど」
「今も、覚えてます」朔也は言った。「あの頃のこと」
「あんたたち五人、本当に仲が良かったから」キヨおばさんは懐かしそうに笑った。「拓斗くんも、花屋畳んじゃって、寂しいねえ」
「拓斗の、様子は」
「ここ最近、見てないね」キヨおばさんは言った。「シャッター、下りたままだし。お母さんが体調崩したとかで、色々あったみたいだけど、詳しいことは……」
「体調」
「詳しくは知らないよ」キヨおばさんは、少し言葉を濁した。「あの子も、あの子なりに大変だったんだろうさ」
朔也は、拓斗の実家の花屋を思い浮かべた。子供の頃、五人でよく立ち寄っていた店。色とりどりの花が並んでいたあの店先を、最後にいつ見たのか、もう思い出せなかった。
朔也の中で、焦りが形を持ち始めた。
坂を上る足が、いつもより速かった。
紅葉に会うたび、輪郭の薄さが増している気がした。気のせいだと思いたかったが、もう無視できない段階だった。
境界を越えると、紅葉が心配そうな顔で待っていた。
「そんなに急いで、どうしたの」
「拓斗に、会いに行こうと思う」朔也は、息を切らしながら言った。「もう、待てない」
紅葉の目が、大きく見開かれた。
「急に、どうしたの」
「時間が、思ったより残ってない気がする」朔也は正直に言った。「今日、何度も透けてただろ」
紅葉は、何も言い返さなかった。それが、答えだった。
自分の手のひらを、紅葉はしばらく見つめていた。
「気づいてないふりしてたのに」紅葉は、小さく苦笑した。「バレてたか」
「バレないわけ、ないだろ」
「そうだよね」紅葉は膝を抱えた。「毎日、一緒にいるんだから」
「怖い?」紅葉が、静かに聞いた。
「怖いよ」朔也は認めた。「でも、待ってる方が、もっと怖い」
その言葉は、いつか紅葉自身が口にした言葉と同じだった。
「陸くんも、芽依ちゃんも」紅葉は、蕾の連なりを見渡した。「みんな、待つのをやめてくれた」
「拓斗にも、待たせたくない」
「うん」紅葉は頷いた。「行ってきて」
紅葉は、そう言ってから、少しだけ表情を曇らせた。
「わたしのために、無理してない?」
「無理じゃない」朔也は即座に否定した。「僕が、そうしたいんだ」
「うん」紅葉は、それ以上聞かなかった。
二人の間に、しばらく穏やかな沈黙が流れた。花畑を渡る風の音だけが、その静けさを埋めていた。
「拓斗くん、覚えてるかな。わたしのこと」紅葉が、ふと呟いた。
「覚えてないわけ、ないだろ」
「そうだよね」紅葉は小さく笑った。「みんなで、笑った記憶だけは鮮明なんだから」
朔也は、スマートフォンを取り出した。拓斗の連絡先を表示させたまま、指を止める。五年間、一度も開いたことのなかったトーク画面だった。
次の一歩を踏み出す前に、朔也はもう一度、紅葉の輪郭を確かめた。今はまだ、そこに立っている。それでも、その時間が無限でないことを、朔也は誰よりも思い知っていた。
紅葉の輪郭を確かめるたび、あの日芽依から聞いた「本当の気持ち」という言葉が、まだ胸の奥で片付かないまま残っていた。伝えるべきなのか、黙っているべきなのか。答えの出ないまま、時間だけが減っていく。
「行く」朔也は、自分に言い聞かせるように呟いた。
メッセージアプリを開き、五年間触れていなかった拓斗の名前をタップした。画面の向こうに、まだ見ぬ返信が待っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第17話は、芽依編の締めくくりとして、朔也の焦りにフォーカスした短めの話になりました。陸編・芽依編と積み重ねてきた「花の開閉と無関係な輪郭消耗」が、いよいよ無視できない頻度になってきた——という緊張感を、派手な事件ではなく日常の中の小さな異変の積み重ねで描きたかった回です。
キヨおばさんに丘の言い伝えを尋ねる場面は、実はシリーズを通して初めて「外部の人間の視点」を挟んだ場面でもあります。彼女自身も詳細を知らないという設定にしたのは、この物語の謎を安易に説明してしまわないための工夫です。
拓斗の名前を五年ぶりにタップする最後の場面で、第2アークは折り返し地点を過ぎ、いよいよ拓斗編に入ります。次話からは、また新しい空気で書いていきます。どうぞよろしくお願いします。




