第16話: 芽依が丘へ登った夜、電話の続きがようやく再生された
「本当に、いるの」
坂の途中で、芽依が足を止めた。声が、いつもの歯切れの良さを失っていた。
「いる」朔也は言った。「五年前と、同じ姿で」
仕事終わり、朔也は芽依を迎えに病院の前まで行った。
連絡を受けた芽依は、勤務を早めに切り上げてくれていた。ナース服から私服に着替えた彼女は、待ち合わせ場所で何度も髪に触れる仕草を繰り返していた。落ち着かない時の癖なのだと、初めて知った。
「陸は?」朔也は聞いた。
「今日は仕事、抜けられないって」芽依は言った。「悔しがってた」
「そうか」
二人は、無言でバスに揺られた。窓の外を流れる景色を、芽依はずっと見ていた。
「怖い?」朔也は聞いた。
「怖くないわけ、ないでしょ」芽依は前を向いたまま言った。「五年間、死んだと思ってたわけじゃないけど、どこかで諦めてた部分もあったから」
「今も、実感ないかもしれない」
「実感なくていい」芽依は言った。「行けば、分かるんでしょ」
バスの揺れに合わせて、芽依の膝の上で拳が固く握られていた。
境界の切れ目を越えると、芽依の足取りがわずかに乱れた。
「今の、なに」
「気にしなくていい」朔也は前を向いたまま言った。「すぐわかる」
坂を上りきると、花畑が視界いっぱいに広がった。芽依は、言葉を失ったまま立ち尽くした。
いつもの場所に、紅葉が立っていた。
「芽依、ちゃん」紅葉の声が、震えていた。
芽依は、しばらく動けなかった。看護師として、どんな急変の現場でも冷静さを失わない彼女が、今は完全に立ち尽くしていた。
風が、二人の間の花びらを揺らした。芽依の目に、みるみる涙が溜まっていく。
「本物、なんだ」芽依は、掠れた声で言った。「本当に、五年前のまま」
「うん」紅葉は頷いた。「わたしも、まだ信じられないけど」
芽依は、一歩、また一歩と紅葉に近づいた。看護師らしい落ち着きは、もうどこにもなかった。ただの、幼なじみの顔がそこにあった。
「五年間」芽依は、ようやく口を開いた。「ずっと、後悔してた」
「何を」
「あの電話」芽依の声が、初めて崩れた。「ちゃんと聞かなかったこと。『今度でいい』って、流しちゃったこと」
紅葉は、驚いたように目を見開いた。
「覚えてない」紅葉は正直に言った。「わたし、何を話そうとしてたんだろう」
「それは」芽依は言いかけて、止めた。「わたしから、言うことじゃない」
その視線が、一瞬だけ朔也に向いた。
「でも」芽依は続けた。「聞けなかったこと自体は、消えない。ごめん、紅葉。あの時、ちゃんと聞いてれば」
「芽依ちゃんのせいじゃない」紅葉は言った。「テスト前で忙しかったこと、知ってたから」
「知ってたから、余計に悪いと思ってる」芽依は言った。「わたし、誰かのSOSを見逃さないように看護師になったのに。一番大事な人のSOSを、一番最初に見逃した」
紅葉は、何も言わずに芽依の手を握った。記憶が曖昧なはずの紅葉の手が、驚くほどしっかりとしていた。
「今、聞いてくれてる」紅葉は言った。「それで、十分だよ」
「十分じゃない」芽依は首を振った。「でも、今度こそちゃんと聞く。何年かかっても」
紅葉は、小さく笑った。記憶の曖昧さからくる頼りない笑い方ではなく、確かな意志のある笑い方だった。
「芽依ちゃんの、そういうとこ」紅葉は言った。「変わってなくて、安心した」
「変わらないよ、そこは」芽依は涙を拭いながら言った。「意地でも変えない」
二人の手が重なった瞬間、蕾が震え始めた。
朔也は、吸い寄せられるように手を伸ばした。指先が花びらに触れた瞬間、視界が大きく揺れた。
景色が、切り替わった。
——五年前のあの夜、紅葉は自分の部屋で一人、電話を握りしめていた。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。机の上には、書きかけの手紙のような紙が一枚、丸められずに置かれていた。
「今度でいい?」の一言で通話が切れた後も、紅葉はしばらくスマートフォンを耳に当てたままだった。ツーツーという機械音だけが、静かな部屋に響いていた。
紅葉は、電話を置き、膝を抱えた。誰にも見せない顔で、声を殺して泣いていた。窓の外では、蝉の声が変わらず鳴り続けていた。
もう一度かけ直そうか、指がスマートフォンの画面に伸びかけて、止まった。迷惑になる。忙しいのに。そんな言葉が、次々と浮かんでは、指を止めた。
結局、紅葉は電話を伏せて置いた。机の上の書きかけの紙と、伏せられたスマートフォン。二つの言えなかったものが、並んでそこにあった。
言えなかった言葉が、行き場を失ったまま、部屋の暗がりに溶けていった。
景色が、元に戻った。
朔也は、震える息を吐いた。目の前で、花びらが一斉にほどけていく。光が、花畑全体に広がった。
「見えた?」芽依が、涙声で聞いた。
「見えた」朔也は頷いた。「一人で、電話を握りしめてた。かけ直すことも、できないまま」
芽依は、両手で顔を覆った。声を殺して泣く姿は、花の共鳴で見た紅葉と、どこか重なって見えた。
「ごめん」芽依は、何度も繰り返した。「ごめん、紅葉」
「もう、いいよ」紅葉は、芽依の背中にそっと手を回した。「今、こうして聞いてくれたから」
光が、ゆっくりと収まっていく。芽依の花だと見立てていた蕾が、他のどの花よりも大きく、静かに開ききっていた。
夕闇が、花畑を包み始めていた。
紅葉の輪郭が、また薄く透けた。今度は、誰も指摘しなかった。ただ、その事実を三人で黙って受け止めた。
「拓斗の分も、これで残り一つだね」紅葉は、開ききった花を見つめながら呟いた。
「拓斗にも、会いに行く」芽依は、涙を拭いながら言った。「今度は、わたしも一緒に」
朔也は、頷いた。
「拓斗くん、元気にしてるかな」紅葉は、開いた花に指先を近づけながら言った。
「花屋、畳んだらしい」芽依は言った。「連絡も、あまり取れてない」
「そう、なんだ」
紅葉の声に、微かな翳りが差した。四人目の名前が出るたび、まだ見えない何かへの不安が、少しずつ濃くなっていくのが、朔也にも感じられた。
芽依は、開いた花にそっと触れた。花びらの表面には、まだ淡い光の名残があった。
「これが、わたしの分」芽依は呟いた。「五年間分の、後悔」
「重かった?」紅葉が聞いた。
「重かった」芽依は正直に言った。「でも、下ろせて良かった」
開いた花の分だけ、紅葉の記憶は満ちていく。けれど同じ分だけ、彼女の時間は確実に削られていた。喜びと不安が、同じ場所に同居していた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第16話は、芽依編の核心である「花が開く」回でした。陸編の時とは違い、今回の花の共鳴で見せた記憶は、紅葉が一人きりで泣いている場面です。誰かに何かをぶつける陸のエピソードとは対照的に、紅葉が一人で抱え込む静かな痛みを描きたくて、このシーンを選びました。
芽依の「一番大事な人のSOSを、一番最初に見逃した」という台詞は、彼女が看護師になった理由と直結させています。職業選択の裏にある後悔を、ここで初めて紅葉本人の前で言葉にさせました。
紅葉が「拓斗の分も、これで残り一つ」と言う場面は、次のアークへの静かな予告です。喜びと不安が同時にある、というラストの一文の通り、記憶が満ちていくことと、彼女の時間が減っていくことは表裏一体です。次話では、この緊張感を朔也の焦りとして描いていきます。どうぞよろしくお願いします。




