第15話: 陸の言葉が、紅葉の背中を押していた
昼休み、鞄の中でスマートフォンが震えた。
画面には「芽依」の文字。朔也は、伝票を置いたまま裏口へ急いだ。
「昨日の続き、もう一個思い出した」
前置きなしの一言だった。
「電話の最初の方」芽依の声は、いつもより早口だった。「紅葉、開口一番にこう言ってた。『陸くんに、はっきりしろって言われたばっかりで』って」
朔也は、裏口の壁にもたれかかった。裏口の外は、まだ昼の陽射しが強く、コンクリートの照り返しが足元から伝わってきた。
「はっきりしろ、って」
「うん。それで、『全部本当のこと言わなきゃいけない気がして』って続いた」芽依は言った。「今思えば、あれが電話をかけてきた理由そのものだった」
「昨日は、なんでそこまで話さなかったんだ」
「昨日話した時点じゃ、まだ思い出せてなかったの」芽依は少しむっとした声で言った。「昨夜、ずっと考えてて、寝る前にようやく繋がった」
「そうか。ありがとう、無理させて」
「無理はしてない」芽依は言った。「これは、わたしがちゃんと向き合うべきことだから」
昨日まで、朔也の中でばらばらだった二つの出来事が、音を立てて繋がった。
陸との喧嘩と、芽依への電話。
別々の事件だと思っていたそれが、実は一本の糸で結ばれていた。陸に進路の曖昧さを問い詰められたことが、紅葉の中で「全部の曖昧さ」に飛び火した。進路のことだけでなく、朔也への気持ちのことも。
「陸は、知らないんだよな」朔也は言った。「自分の一言が、そこまで繋がってたって」
「知らないと思う」芽依は言った。「言うの?」
「わからない」
朔也は、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
もし陸が、自分の何気ない一言が紅葉の失踪の引き金の一つになっていたと知ったら、五年間の自責がまた形を変えて重くのしかかるかもしれない。それでも、隠しておくのは違う気がした。
「言った方がいい、と思う」芽依は続けた。「隠すのは、また同じことの繰り返しになる」
「同じこと?」
「誰かが誰かを気遣うふりして、大事なことを黙る」芽依は言った。「そうやって、紅葉は一人になった。もう、繰り返したくない」
その言葉は、芽依自身に向けられているようにも聞こえた。
「これで、全部見えたと思う?」芽依が聞いた。
「わからない」朔也は正直に答えた。「まだ、何か抜けてる気がする」
「わたしも、そう思う」芽依は言った。「電話が切れた後、紅葉が誰と話したのか、何をしたのか。そこは、誰も知らない」
その空白が、五年間、誰にも埋められないままだった。
「休憩、終わり」芽依は、いつもの事務的な声に戻った。「また、何か思い出したら連絡する」
「ありがとう、芽依」
「礼はいい」芽依は言った。「わたしも、ちゃんと聞きたいだけだから。今度こそ」
電話が切れた。
定時後、朔也は坂道の下で自転車を止め、陸に電話をかけた。
三回目のコールで、陸が出た。
「どうした、急に」
「話したいことがある」朔也は言った。「芽依から、聞いたことなんだけど」
朔也は、順を追って説明した。あの喧嘩の翌日、紅葉が芽依に電話をかけていたこと。その電話の冒頭で、陸の言葉が引き金になっていたこと。
電話の向こうで、陸がしばらく黙った。
「俺の、せいか」陸の声が、掠れていた。
「せいとは、違う」朔也は慌てて言った。「陸は、進路のことだけを言ったんだ。それが、紅葉の中で全部に繋がっただけで」
「同じことだろ」
朔也は、何も言い返せなかった。
電話の向こうで、工具箱を閉める音が響いた。まだ現場にいるらしい。
「悪い」陸は言った。「今、ちょっと言葉が出てこない」
「無理しなくていい」
「無理してんじゃねえ」陸の声が、少し尖った。「本当に、何て言えばいいか分からないだけだ」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。工具箱の金具がかちゃりと鳴る音だけが、電話越しに聞こえていた。
「陸」朔也は、しばらくの沈黙の後に言った。「これは、誰か一人のせいじゃない」
「わかってる」陸の声が、少し落ち着いた。「頭では、わかってる」
「気持ちは、追いつかない?」
「ああ」陸は短く言った。「ずっと、そうだ」
朔也にも、その感覚はよく分かった。頭で理解したことと、心が納得することの間には、いつも大きな隔たりがあった。
「芽依の花、まだ開いてないんだよな」陸が聞いた。
「まだ」
「俺の花みたいに、いつか開くのか」
「わからない」朔也は正直に言った。「でも、開かせたい」
電話の向こうで、陸が小さく息を吐いた。
「今度は、俺も何かできることあるか」
「まだわからない」朔也は言った。「でも、聞いてくれて助かった」
「礼はいらねえよ」陸は言った。「俺も、知りたかったことだ。知らないままの方が、よっぽど嫌だった」
その一言に、朔也は少し救われた気がした。誰かに事実を伝えることは、時にその人を傷つける。それでも、隠し続けることの方が、結局は深い傷になる。芽依が言っていたことと、同じ結論だった。
「芽依のとこ、また一緒に行くか」朔也は聞いた。
「行く」陸は即答した。「今度は、もっと役に立ちてえ」
「今回も、十分助かった」
「口だけだろ、それ」陸は苦笑した。「まあ、いい。次、決まったら連絡くれ」
通話を切ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
朔也は、坂を上る前に、スマートフォンの画面をもう一度見た。紅葉からの短いメッセージが、そこに残っていた。
——今日も、遅いね。
朔也は、返信を打ちかけて、指を止めた。
「今、行く」とだけ送り、自転車を押し始めた。
境界を越えるまでの間、朔也はずっと考えていた。陸の言葉が紅葉の背中を押し、芽依の忙しさが最後の一押しを止められなかった。そして自分は、五年間、その両方に気づかないまま生きてきた。
もし、あの夜のどこか一箇所でも違っていたら。陸がもう少し優しい言い方をしていたら。芽依がもう五分、電話に付き合っていたら。自分が、もっと早く紅葉の変化に気づいていたら。
考えても、答えは出なかった。過去は変えられない。変えられるのは、これから先のことだけだった。
誰か一人の罪ではない。それでも、誰も無関係ではなかった。
坂を上りきると、花の匂いが変わった。紅葉が、いつもの場所に立っていた。
「今日は、何か分かった?」紅葉が聞いた。
「うん」朔也は、境界の内側に足を踏み入れながら答えた。「まだ全部じゃないけど、少しずつ」
紅葉は、朔也の顔をじっと見つめた。何かを察したような、それでいて深く聞こうとはしない優しさがあった。
「無理に話さなくていいよ」紅葉は言った。「話せる時が来たら、聞くから」
朔也は、頷くことしかできなかった。夕闇の中、蕾たちが静かに次の風を待っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第15話は、陸編と芽依編、二つの後悔を一本の線で繋ぐ回になりました。「陸の一言が、紅葉の中で進路だけでなく全部の曖昧さに飛び火した」という構造は、実は第10話を書いている時点ですでに頭の片隅にあった仕掛けです。ただ、明確な形にするタイミングをずっと図っていました。
陸に電話でこの事実を伝える場面は、彼の贖罪をもう一段深める展開にするか迷いましたが、「同じことだろ」の一言で止めておきました。彼の中の罪悪感はもう十分に描いてきたので、ここで蒸し返すよりも、既に開いた花を土台に前を向かせたいという判断です。
「誰か一人の罪ではない。それでも、誰も無関係ではなかった」というラストの一文は、このシリーズ全体のテーマにも近いものです。次話では、いよいよ芽依自身にこの事実とどう向き合ってもらうかを書いていきます。どうぞよろしくお願いします。




