7.許された自由の中で
次の日の朝。目を覚ましたとき、体は驚くほど軽かった。
昨日までの空虚感が嘘みたいに消えている。指先まできちんと力が巡っているのがわかった。
満たされている。
あの感覚を思い出す。彼の腕の中で感じた体温。ゆっくりと流れ込んできた、あの熱。無意識に胸元に手を当てる。
ちゃんと回復していた。触れることで満たされるのは、思っていたよりもずっと効率がいいのだと。神殿の中では、回復が当たり前で、減ったという感覚が少なかった。
あとはテオドールに伝えずに、どのように回復するか考えなくてはならない。
テオドールの元で世話になることが決まって、初めて迎えた朝。この後私はどのように過ごしたらいいのか。
寝室の窓からそっと外を覗けば、美しく手入れの行き届いた庭が見える。あそこでの暮らしでは、こういったものを眺めることも許されなかった。今私がいるこの場所も夢なのではないか――と思ってしまう時がある。
目が覚めれば、またあの部屋の中で、訓練が続いているのかもしれないと、思ってしまう。
あそこには、もう戻りたくない。だから、私はやるべきことをやらなければいけない。アウグストに処分されないために。
ノックする音がして、リアが静かに室内へ入ってきた。
「お目覚めですか、聖女様」
「おはよう」
「本日は、城内であれば自由にお過ごしいただいて構いません」
その言葉に、わずかに目を上げる。
「……自由に」
「はい」
リアは穏やかに頷く。
「ただし、安全確保のため、私や、護衛は同行はさせていただきます」
つまりおかしなことをしないか監視しているということ。
それはそうだ。私と目が合っただけで行動がおかしくなるのなら、ちゃんと見張りがいないといけないのは当たり前。
「……承知しました」
それを拒む理由はない。むしろ今の自分には、必要な環境でもある。私自身、騎士や腕っぷしのいい人に迫られたとき、正直なところどう対処するといいのかわからない。
「フェリシティ、おはよう」
「おはようございます、殿下。昨日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
挨拶もせず、そのまま眠ってしまったこと。
彼には迷惑をかけてしまった。いくら対象とはいえ、線引きは必要だ。不用意に近づきすぎるのはよくない。
「疲れていたんだろう。今日は顔色がいいみたいだから安心だよ。今日は俺は付き添えないから、カイルやリア、護衛の側を離れずに過ごしてほしい」
「かしこまりました」
そんな挨拶もそこそこに、私は城内の情報を集めるべく許される限り見て回ることにした。
廊下を歩く。高い天井と、磨かれた床。王城の内部はどこを見ても目新しいものばかり。見慣れないものを見るだけで心がざわざわする。こんなものが、この世界にはたくさんあったのかと。
沢山の書物が収められた部屋や、何用かも分からないくらい広い部屋。見たこともない調度品や絵画が飾られた場所。
その中で、あちこちからの視線を感じる。
遠くから見られている。隠しきれない興味や、警戒の意味もあるのだろう。
誰も近づいてこないのは、そう指示されているからに違いない。それでも、人の興味まで奪うことはできないから、目だけが追ってくる。
「……あまり気にされませんように」
リアが静かに言う。
「距離は保たせております」
「……はい」
小さく頷く。自分は聖女なのだ。人の目に触れて、仕事をする立場だろう。だからこれは仕方のないこと。けれど、私の与えられた加護のせいで厄介ごとが増えたというだけ。目線を合わせずにふわりと微笑むと、はっと息を飲む声がする。
距離を保たせていると言ったのは、実際、その通りだった。一定以上、近づく者はいない。
近づこうとすると。
「――止まれ」
低い声が飛ぶ。前方で、若い騎士が足を止める。
ほんの少し、距離を詰めただけ。そうしてすぐに現れたのは、テオドールの側近――カイルだった。
「それ以上は許可されていない」
冷静に、しかしはっきりと告げる。騎士ははっとして、すぐに下がった。
「……失礼しました」
頭を下げ、離れていく。その背を見送りながら、カイルが一瞬だけこちらを見る。
監視する側の視線。感情の読めない目だが、警戒しても無理はない。テオドールとアウグストはこれまで関係が希薄だったのだという。
視線が合っても、すぐに逸らされる。……徹底して完全に管理されている。
この距離感や配置も全て偶然ではなく、意図されたもの。それならば、逆に隙もあるだろう。
しばらく歩いたあと、中庭に出る。
人の気配はあるが、比較的少ない場所。
窓の外から見えたあの庭が、この場所だと分かった。
視線はあるが、廊下と比べれば植え込みや木や花があることで、ほんのわずかではあるが、死角もある。
リアが他の使用人に声をかけた、その瞬間。足を止める。
振り返る。すぐ近くを通りかかった庭師と目を合わせると、彼が見惚れる様に微笑んでみせた。そしてその手にそっと触れた。
「美しい庭ですわね。あなたが手入れを?」
「……っ」
小さく息を呑む音。熱を帯びたように感じる視線。
でも、そこまで。それ以上は踏み込まない。
すぐに、手を離して視線も逸らす。
ほんの一瞬の接触にすぎない。それだけでもじわり、と。体の奥に、温かさが流れ込む。
……完全ではないが、確実に補えている。
会釈をして、何事もなかったように、歩き出す。リアが戻ってくる。
「お待たせいたしました」
「……いえ」
自然に答える。どうやら気づかれていないみたい。
任務として、問題のない行動。効率的に回復するというのは正しい行動。これまでもそうだった。
でもほんの少しだけ。胸の奥に、違和感が残る。
さっき触れた相手の顔。崩れかけた目と、一瞬だけ、すがるように見えた表情。
テオドールなら、あんな顔はしないのに。なぜか、少しだけ引っかかったが、考えるのをやめる。温存できるうちに、たくさん蓄えておいたほうがいいに決まっている。必要なのは、結果だけ。
私は、聖女なのだから。
そのために生きている、駒なのだからそれでいい。
遠くから、カイルがこちらを見ていた。
ほんの一瞬視線が合い、すぐに逸らされる。
――もしかして、見られていたのだろうか。
その後も、特にそのことを指摘されることはなかった。
誰にも知られないように、うまく立ち回ればいい。そう思いながら私は、また一歩、歩き出す。
ほんの少しだけ残った、言いようのない違和感を抱えたままだった。




